本作の1行目は、まるで「流星シネマ」の1行目に続く文章のように始まる。
「そして、冬はある日、何の予告もなしに終わってしまう。」
「屋根裏のチェリー」は「流星シネマ」と響き合う作品だ。
なので、「流星シネマ」から読むことをお薦めしたい。
この物語はガケ上の街に暮らすサユリが主人公で、「流星シネマ
...続きを読む」と同じ時間軸を別角度から描いている。
その為、2作品を読むことで、双方の物語の厚みが増す。
とあるシーンに登場していなかった人物が、その間に誰と何をしていたか?が明かされたりする。
それから現実にも起こりうる事だが、対面で会話をしていても、言葉を発した者と言葉を受け取った者とで、印象が違ったり、心に残る言葉が違ったりする。
そうやって、2つの物語に重なるシーンには奥行きが増し、そうでないシーンは裏側を知ることが出きるという仕掛けだ。
2つの物語は並走しているけれど、途中から「屋根裏のチェリー」の時間軸は「流星シネマ」を追い抜き、ラストを迎える。
所属していたオーケストラが解散してしまい、只今拗らせ中のサユリ。
世の中の人達には役割分担があって、みんなで手分けをしながら世界を回している。
サユリは鯨オーケストラのオーボエ奏者。
それが役割であり、担当だった。
それなのに、無くなってしまった鯨オーケストラ。
そこへ「流星シネマ」の登場人物たちが絡み、
サユリの世界が再び回り出す。
今まで引きこもっていた人間が突然活発に動き出すなんてことは滅多に無いわけで、
だから吉田さんはその辺りの過程を、物語の殆どを費やし、丁寧に描いていた。
サユリにとってそれはとてもデリケートな作業であるから、おずおずと少しずつ、ガケ下の人達との交流が広まってゆく。
そして地中に眠る鯨の骨が掘り起こされ、元の形に組み立てられようとする時、
もう1つの鯨(鯨オーケストラ)もよみがえらせようとする動きが…。
「あの鯨はよみがえるべきです。伝説のつづきを熟成させるんです。」とはチェリストの長谷川さんの台詞だ。
よみがえらんとする鯨たちが、周囲の人々の生活に影響を及ぼしているかのようだった。
他の人には見えないチェリーと、サユリはいつも会話をしている。
自問自答のようでもあり、相反する二人は悪友のようでもあり、連れ立って行動する。
チェリーは、サユリの一番の理解者であり、鼓舞し、時に鋭い突っ込みも入れる。
チェリーはサユリの作り出した存在であり、代弁者なのだ。
サユリが自信を無くしてから、道を見失ってから、心細さを募らせてから、彼女の傍に現れたのだろうから。
その証拠に、チェリーはオーボエを見たことがない。
ラスト間際、そのシーンが描かれている。
「こんなにきれいなものだと思わなかった」
それはチェリーの言葉でもあり、サユリがオーボエの美しさを再確認するシーンでもあるのだろう。
さて。
この作品にも、物語の味付けとして食べ物が巧みに使われている。
レモン・ソーダ、ササミカツ定食、無垢チョコレート、ハンバーグ…。
(ゴー君のステーキも再び登場する)
物語の中のエピソードと、私達読者それぞれが持つ美味しいイメージが絡み合い、ストーリーが味付けられる。
音階に因んだ言葉の共鳴も仕掛けられている。
「シ」は「詩」であり「死」でもある。
文中には書かれていないけれど、消えてしまった団長さんと娘マリさんのエピソードには「師」も見えたような気がした。
「ラ」は「シ」に向かう音だと、物語で語られる。
音階はドレミファソラシドと「ド」で始まり「ド」に戻る。
「ドで終わる」のではなく「ドに戻る」のだ。
そして、オーケストラのチューニングにはオーボエがリードして「ラ」の音が使われる。
動き出そうとしている皆の、始まりの「ラ」を奏でるのは、サユリの役目だ。
「もう一度、みんなでー。一緒に。」
マリさんが動画で奏でている「無伴奏チェロ組曲第一番」を是非聴いてみて欲しい。
きっと皆さん、どこかで耳にしたことがあるであろう有名曲だ。
我が家にはヨーヨー・マの奏でるその曲があるので、聴きながら読んだ。
物語は、サユリの伯母である睦子さんや、叶わなかったミクちゃんとのハンバーグ屋まで綺麗に回収される。
そしてチェリーは…。
様々な「し」、ここに居る者、居ない者、会えなくなった者、みんなどこか深いところで繋がっている。
毎回そうだけど、吉田さんの「あとがき」が素敵。