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Posted by ブクログ
地方ラジオ「サイレント・ラジオ」を受け持っている曽我。ある時、彼自身とよく似ている肖像画を見たというメールが届く。自身が17歳の時に、一人の女性に描かれた記憶がふとよみがえった。一つのパーツからスルスルと人のつながりが広がっていく。派手さはない。けれど一人の夜に求めていたのは、こういう物語だったのかもしれない。
<感電>
17歳の曽我を書いた女性、多々さんが恐れた「感電」にすごく共感を覚えた。彼女は「感動」を「感電」と表現する。「感動することに戸惑いを覚える」「うっかり、感電してしまいそうになると慌てて席を立って続きを見ないこともある」「むやみに心を動かされたくないでしょう?」このフレーズを読んだとき、腑に落ちてしまった。感電の衝撃を恐れることに付随して、私の場合その衝撃に体を慣らしたくない、という気持ちがある。一度衝撃を受けてしまったら、再び動けるまでに時間がかかる。その時間をずっと味わっていたいと、願う時がある。感電に慣れてしまったら、実はすごく感動できるモノを、消費するように、酷い時は捨てていってしまうかも。多々さんの「感電」はいい表現だなあと。気に入ってしまった。
<個人的な天国と詩>
曽我はラジオのほかに声の仕事をしている。ある映画シリーズの吹き替えを担当していたが、その担当俳優が亡くなったと知る。それをきっかけにシリーズを見返すことにした。その俳優が演じた主人公が、天国に行くシーン(ちゃんと生き返る)で、ある事情から六角レンチが必要になる。しかし見つからない。天国の案内人に聞いてみると、それを認識していても、現世で触れたことの無い物を天国で扱うことはできないと言う。再び現世に戻って来た時、その天国での経験から主人公は手に触れられるものなら手あたり次第触っていくようになった。小説終盤で出てくる「詩を書きなさい」と言った女性のように、やろうと思えばすぐにできることを、大抵の人はやらない。というものにつながってくる気がした。詩だって考えるだけなら頭の中で事足りるし、出力するのだって紙と鉛筆があれば十分。まだまだ人生は長いと思っていたら、怠けてしまう。一方でせかせかして焦っているのはもっとダメ。いい塩梅を見つけるのはすごく難しいけれど、後悔のないように生きれたらいいな。
思わず鼻歌を歌ってスキップしたくなってしまう。そんな感じの作品だった。
Posted by ブクログ
死んだ飼い犬ベニーが体の中にいる、クラリネット奏者のテツオが鯨オーケストラと出会い、新たな音楽を奏でていくまでの物語。
けれど、それに関わるいろいろな人の物語がそこに織り重なって、重奏的なハーモニーを聴いているかのような繊細な物語になっていく。
別の目的で行った美術館で、たまたま開催されていたポール.モカシンの深海魚展。
モカシンといえば、あの、モコモコとした靴のことでは? と疑問を抱きながら入った展示室で荘厳なハーモニーのような真っ白の鯨に出会ってしまったり。
人ちがいをされて訪ねた食堂で、たまたま出会った土曜日のハンバーガーの完璧な美味しさに舌鼓を打ちながら、たまたま楽団員募集の貼り紙を見つけたり。
静かにゆっくり、未来に旅をするような物語。
ゆるやかに流れる時間のなか、本を閉じて、ふと上を見上げると、そこには真っ白な鯨がゆったりと泳いで漂っているような気持ちになります。
Posted by ブクログ
「くつろいでお聞きください。静かな声でお届けします。」と始まり、ラジオで曽我哲生が語ってくれているような感じがした。うまく言い表せないけれど、吉田篤弘さんの小説を読むと心が落ち着く。
17歳のときにモデルになった絵から、新しい人との繋がりができ、いくつかの奇跡を感じさせてくれた。「時間は消えるものではなく、すべての時間は自分の中で積み重なっていく」という言葉や、「人と別れるのは自分で決められるけれど、誰かと出会うのは自分で決められない。だから、人生は面白い。」など、なるほどと思う言葉にもたくさん出会えた。
そして、キッチンあおいの土曜日のハンバーガーとロールキャベツは、とても美味しそうだし、美術館の白い鯨の絵とチョコレート工場の鯨の模型も、迫力ありそう。今の私はこの物語の中に入り込みたいくらいの心境。
Posted by ブクログ
角川のオンライン小説で読んだもの。
ダウンロードしたファイルはPDFで、kujira.01~kujira.18まであった。
もともと美術館と、音楽を聴くことが大好きなので、この作品にはとても沢山の想いが溢れた。
「やはり、美術館から遠ざかってはいけない。」
「こうした時間を過ごすことは繰り返される日常の中に組み込まれているからこそ意味がある。」
「こうした時間を求める思いにもっと潤いを与えるべきなのだ。」
ここ数年のコロナ禍で、先日久しぶりに美術館を訪れた際に思った事が代弁されているようで、ひどく共感した。
「僕」の父が憧れていたベニー・グッドマンはKing of Swingと称されていた程の人。
ジャズを聴かれない方でも名前くらいはご存知かもしれない。
「Sing,Sing,Sing」を聴けば、ああこの曲!と、お分かりになるかもしれない。
彼は他にもご機嫌なSwing Jazzを沢山残しているので、ご興味がありましたら是非!
そして「僕」が所属するモノクローム・オーケストラのステージで演奏する「Bye Bye Blackbird」。
私が所持しているCDはマイルスのものと、キース・ジャレットが演奏するもの。
ペギー・リーが歌う「Bye Bye Blackbird」もいいし、ジョー・コッカーが歌うそれはソウルフルで格好いい。
こちらも興味のある方は是非聞いて頂けたらと思う。
私事だが、うちの父も音楽を好み、特にJazzが好きでよく聴いていた。
だから私や弟が物心ついた時にはもう、家にはClassicやJazzがレコードから流れていた。
幼い頃は魅力が分からなかったけれど、今では姉弟共にJazzが好きだ。
集まればJazzに限らず音楽談義に花が咲く。
ある日実家に帰ったら、演奏家のスタジオか!ってくらいに巨大なスピーカーが設置されていて絶句した事もあったっけ。
真空管アンプで鳴らす為、30分くらい温めてからでないとレコードを鳴らせないという… 笑
懐かしい思い出だ。
今はもう、プレイリストをシェアすれば離れていても大切な人と同じ音が楽しめる時代。
でもレコードにはレコードの、特別な良さがある。
アンプをしっかり温めてから鳴らすのも然り。
そっと針を落とし、パチパチというノイズの先に始まる1音目…。
レコードからは、触れられそうなほど温かな生の音がする。
そしてA面が幕を閉じ、うやうやしく盤を裏返すと始まるB面。
(話が逸れたので戻します)
さて。
「僕」がラジオのオープニング曲として選んだトッド・ラングレンの「Be Nice to Me」。
曲中の僕は周りの全てにとても疲れきっていて、
"横になって見ているだけで幸せだよ
本なんて放り投げてしまおう
もうこれで大丈夫
だから優しくしてくれないか?"
と歌う。
この曲が収められたアルバムジャケットは衝撃的だけれど、とても良いアルバムだ。
「Be Nice to Me」はハッピーな曲ではないのだけど、聴けばきっと、弱った貴方に静かに寄り添ってくれると思う。
真夜中、この曲で幕を開ける「僕」のラジオ番組も、そのような番組なのだろうな。
聞いてみたいものだ。
「僕」は川が海へと繋がる河口の町に暮らしている。
そして飼っていた犬のベニーが死んでしまった日、その日は川が増水していて、少年が流されるという事件が起きた。
そう、これは『流星シネマ』の太郎君たちに起きた事件。
けれど「僕」はその事件について詳しくは知らず、少年が助け出された丁度その頃にベニーが息絶えた事こそが、「僕」の目の前に起きた事実だった。
命が終わりを迎える時、ベニーは大きなため息をついて、口から魂が抜け出たように思えたという。
ため息と魂は『つむじ風食堂の夜』『天使も怪物も眠る夜』でも触れられていた。
「僕」の内側から話しかけてくる「ベニー」は、『屋根裏のチェリー』のチェリーのようでもある。
また、「自分はいま人生の旅のどのあたりを通過しているのか」というのも、
吉田作品で語られる共通テーマの1つだ。
そして毎回物語に匂いと味をもたらす、多くの読者が共通のイメージを持つであろう食べ物たち。
今回の美味しいは、ハンバーガー。
そしてロールキャベツ、ササミカツ定食、土曜日のハンバーガーも再び登場する。
前2作品を読んでいる方は、自分自身の思い出の中のロールキャベツやササミカツやハンバーガーと、前2作品の中で味わったそれらの思い出とを、二重構造で懐かしむことになる。
面白い仕掛けだ。
食べ物だけでなく、暗渠や映画館などで二重のセンチメンタルを味わっている方もいらっしゃるだろう。
漠然と吉田さんの作品に惹かれ続けて、複数の作品を読むと、その中で何度も目にする共通のキーワード。
川、暗渠、オーケストラ、鯨、怪物、似ている二人、ため息と魂、風、映画館、人生という旅における現在地…。
全て挙げられないほど沢山のそれらの意味を、私はしっかり受け取れているだろうか。
特に、いつも衝撃的に現れる鯨。
もっとしっかり受け止めたくて、また吉田さんの作品が読みたくなってしまう。
本作中で、『「あるもの」は「あるもの」自身を見られない』という表現をしているが、
その文章を読んだ時、クラフトエヴィング商會の『ないもの、あります』が浮かんで、
裏返しとも思えるそれらの表現に、私はまたう~ん…と考え込んでしまう。
掴めそうで、未だ掴みきれない吉田さんからのメッセージ。
それでも『鯨オーケストラ』には、これまで私が読んだ吉田さんの作品の中で(本作も含めてたった7つだけど)、
掴みたい何かが一番ハッキリと書かれていた。
それを最初に感じたのは、「僕」と「太郎君」が初めて出会う編集室のシーンだった。
『鯨オーケストラ』のストーリーは不思議なえにしを結びつけながら展開してゆく。
17歳の「僕」を描いてくれた多々さんは行方知れずとなってしまったけれど、
その絵に惚れ込んで詳細を知りたいと願う女性が居た。
その女性は絵に惚れ込んだあまり、暫く美術館で働いていたと聞かされる。
読者としてはここで『流星シネマ』『屋根裏のチェリー』のミユキさんに違いないと確信する。
因みに『流星シネマ』の太郎君が暮らすがけ下の町名も、ここで判明する。
あの人のアレ、この人のコレ、それら一つ一つが繋がってゆく。
失われた人や物事が、また別の場所、別の形となって甦る。
そしてサユリさんはハッキリと言う。
"ここで「ラ」の音を鳴らしたい"と。
「ラ」は、始まりの「ラ」だ。
始まりの「ラ」はメタファーのようで、アキヤマくんにそっくりの僕(=曽我くん)が現れたことはミユキさんにとっても何かが動き出す始まりの「ラ」であったし、
受け手である僕にとっても、物事が動き出す。
ファイルkujira.07のラストに『それはまるで、なかなか解けなかったクロスワードパズルの答えであるかのように快く響いた。』とあり、
この感覚は、『屋根裏のチェリー』『流星シネマ』を読んでいる読者であれば追体験できるように思う。
読者たちにとっても『鯨オーケストラ』という作品が、クロスワードパズルの答えのように響くからだ。
「多々さん」の語る積み重なったカードの話は素敵。
「多々さん」や『流星シネマ』の「カナさん」の言葉は、何かの啓示のように、私達読者にも響いてくる。
さて。
"鯨オーケストラ"はサユリさんが始めるのだとばかり思って読み進めていたが、
思わぬところに繋がってゆく。
そして川の上流、崖の上の話は『屋根裏のチェリー』で明かされる。
皆、繋がっている。
始まったものには終わりがあるが、終わりは終演ではなく、次の始まりへと続いてゆくものだ。
蛇足。
「もしかして、君が"過去"なのかーーー」
その言葉を読んだとき、物語の内容とは関係ないけれど、東京事変の『今』という曲を思い出した。
この曲は"過去目線"で歌われていて、白々と眩しく広がっている"未来"を恥ずかしそうに見つめている。
その"過去"が"未来"と劇的に出会う瞬間。
そう、それが"今"だ。
私たちは二人で1つ、全てが揃ったわ、あぁなんて儚いの、そんな歌だ。
Posted by ブクログ
『レコード屋の店主に試聴をお願いすると、店主は黙って頷いて、B面の三曲目――それが「Be Nice To Me」だった――に針をおろした。これまた、どうしてなのか分からない。普通はA面の一曲目に針をおろすように思うが、店内に流れ出したのは、にぎやかな曲調のA面の一曲目ではなく、おだやかなゆったりとしたテンポのB面の三曲目だった』―『サイレント・ラジオ』
「Be Nice To Me」と聞いて頭の中で音楽が鳴る。♪You'd be so nice to come home to。おっとこの曲じゃないんだな。検索すると、トッド・ラングレンがピアノの前に背を向けて座っているジャケットが見つかる。その首には絞首刑用の縄が。柔らかな旋律とは裏腹の不吉なイメージ。♪And would it bring you down if I hang around(そして、私がぶらぶらしていたらあなたを落ち込ませるでしょうか/Google翻訳)。bring you down、hang aroundのダブルミーニングが聞こえてしまう。この物語にそんな不吉なところはないのだけれど。あるいはあるのか? 頭の中では青江三奈の歌う声がしつこく鳴り続ける。この物語には私の歌の方が似合うわよ、と。
久しぶりにクラフト・エヴィング商會の本を読む。吉田篤弘の語り口は相変わらずで、いつものように主人公が静かに語り掛けてくる。それがあまりに穏やかな口調なので、語られていることが虚構なのだということをつい忘れそうになる。そして何故か子供の頃に過ごした場所の風景が浮かんでくる。そう、吉田篤弘の文章は既視感に満ちているのだ。
子供の頃、既視感という言葉もまだ知らなかった時分、UFOやこっくりさんなどのオカルトが大流行だった。中でも子供心に皆が半信半疑ながらも気になって仕方が無かったのがノストラダムスの大予言だった。既に予言された時、一九九九年の七の月もとうに過ぎた今となっては笑い話のような話だが、未来を予測できる人が世の中には居るのかも知れないと多くの子供は無邪気に半ば信じていたような気がする。そんな時代の雰囲気もあり、見知らぬ街の風景や出来事に見覚えがあるような気にしばしばなっていた自分は「これってひょっとして予知能力なの?」と思ったものだった。その話を何気なく父親にしたら「それはデジャヴというのだ」と真面目な顔で言われたのだが、納得できず何とか予知夢を記録しようとしたりした。
吉田篤弘の文章を読んでいると、そんな現実と幻想の狭間を漂っていた子供の頃のことを思い出すように、記憶が揺さぶられる。特にこの一冊は、そんなあやふやな思いが丁度良い塩梅で物語られている、と言ってもいいのかも知れない。それは伏線のようであって伏線ではなく(現実はそんなに都合の良く回収できる話ばかりではない)、偶然のような必然のようなどっち着かずな状況に、自らが下したのか周囲に促されて下したのかも判らない判断が積み重ねられていく物語なのだが、それが世の中全てが自分の思い通りになる筈がないという考えと、共振する。ひょっとすると、それが吉田篤弘の心地よさの根源なのかな、と思い至る。
子供の頃、夏休みに父親の田舎で過ごした時、花火を買いに行こうということになり、歩いて三十分ほどの雑貨店に買いに行ったことがあった。お店の初老のご主人が父親の選んだ花火を茶色の紙袋に入れているのをぼんやり眺めていた自分は、勘定台の上に置かれたその包みを何の疑いもなく手に取ってお店を後にした。泊めて貰っていた伯父さんの家に着くと父は自分の持っていた紙袋を見て、それは何か、と訊いてきた。その父の手には別の同じ茶色の紙袋が握られていたのだ。ああ、間違えて持って来てしまったのだな、と思ったものの、また三十分の道程を返しに行くのも面倒臭いな、とも思った。伯母さんがそのお店に電話して事情を説明する。と、何とそれは伯父さんがお店に頼んでおいた花火なのだった。ご主人は、自分が紙袋を持って行くのも見ていたらしいのだが、父の顔を見て、ああ親戚の親子が買い足しに来たのだなと思い引き止めなかったのだという。世の中、そんな不思議な、けれどよく考えると不思議という程でもない(その田舎の雑貨店は近所で唯一の花火を売る雑貨店だった)出来事に満ちている。そんなことを改めて思い返させてくれる吉田篤弘の一冊。
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