イーユン・リーのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
登場人物の孤独に長い時間取り囲まれて孤独感にひたった後に、最後少しそれがほどける兆しで緊張感が緩んで、読んだ後涙とまらない。
とても好き。孤独というテーマが響くのもあるけれど、登場人物や世界観が好きなのか、同じ作者の他の作品も読んでみよう。
存在の耐えられない軽さを好きなのと、独りでいるより優しくてを好きなのと、似ているかも。
誰かとの深い繋がり、心動かされる人間関係があることが幸せと分かりつつ、敢えて避けて孤独でいることで自分を守っている。後書きに、登場人物にとって孤独でいることは抗議と作者が発言したと書いてある。それはそれですごく良くわかる。うまくやれない、自分の幸せをかけて抗議したり、登場人物達の不器用なところ、身に覚えがあって、共感し過ぎた。
青春は残酷。長年蓋をしても、ぶつからなかったら問題は解決せず塩漬けになる。でも時がやわらげてくれることもある。というのもしんみり。これは年をとったから分かるのかも。 -
Posted by ブクログ
物語は小艾(シャオアイ)の葬儀のシーンからはじまる。この章の視点人物は三十七歳の泊陽(ボーヤン)で、彼は小艾の母の代わりに火葬場に来ている。小艾は伯陽より六歳上だったが、誤って或は故意に毒物を飲んだせいで、二十一年間というもの病いの床にあった。その毒物は、泊陽の母が勤務する大学の薬品室から盗み出されたものだった。その日、彼と共に大学を訪問していた同級生の黙然(モーラン)と如玉(ルーユイ)の関与が疑われたが、はっきりした証拠といえるものがなく、解毒剤の投与で命はとりとめたこともあり、事件は有耶無耶のままに終わった。
年齢の近い四人の若者とその家族は、中庭を囲んで四棟が方形を描く北京の昔ながらの住宅、四合院に住む隣人同士だった。小艾が、掲示板に天安門広場についての政府批判を書いたことで大学を追われかけていたそんな折、如玉が大学進学のため北京に出ることになり、育ての親である大叔母の遠縁に当たる小艾の母親の家を下宿先に決めたのだ。一つの寝床を共有することになった二人だが、根は優しいが自負心の強い小艾と、養い親から厳格な宗教教育を受け、容易に他者に心を開かない如玉とは相容れなかった。
泊陽と黙然は大人になったら結婚するものと周りは勝手に決めていた。大学教授の母を持ち富裕層に属す泊陽は何故か祖父母の家から通学していた。根っからの善人だが特にこれといって目立つところのない黙然は、ひそかに泊陽に恋していた。そこへ突然舞い込んできたのが、怜悧で頑ななまでに自分の世界を守ろうとする如玉だった。何をするにも一緒の三人組だったが、泊陽は次第に如玉に惹かれていき、三人の関係は微妙なものとなる。この関係が崩壊するきっかけが小艾の薬物中毒事件だった。
章が変わるたびに、時間も場所も視点人物も交替する。事件の後、それぞれがたどった人生が三者三様に描き出される。如玉は米兵と結婚してアメリカに渡り、離婚。今は知人の紹介でいくつかの仕事を掛け持ちする毎日だ。黙然は中国の大学を出た後、やはり渡米し、中西部で出会った年の離れたジョゼフと結婚したが、離婚。化学薬品の研究所に勤めながら独り暮らしの日々。泊陽も結婚したが妻の不倫で離婚。気軽な独身暮らしを謳歌しながら若い女の子を誘惑することに楽しみを見出している。三人はその後一度も会っていない。
泊陽も黙然も誰から見ても明るく快活な若者だった。如玉もエキセントリックではあったが賢く有能で前途は明るかった。事件後、北京を去った二人に代わり、泊陽は小艾を看取ることを自分に強いた。黙然は、他者から自分を隔離するように孤独な生活を送り続けた。如玉もまた能力に見合わぬ賃仕事で自分を放擲していた。小艾の死を契機に、三人のその後の人生が動き始める。二十一年の長きにわたって人生から彼らを疎外していたものは何だったのか。小艾の中毒事件の真相が今明らかにされる。
主題は贖罪、或は自罰。黙然が薬品を持ち出したのは如玉であると証言したのを、嫉妬のためだろうと決めつけた泊陽は、小艾の緩慢な死に関しても、黙然の心を傷つけたことについても自分を許せなかっただろう。小艾が毒を飲んだ真相を知ることなしに、その罪の意識から免れることはまずあるまい。
如玉が薬品を持ち出したことを誰にも教えなかった黙然もまた、如玉がとめるのも聞かず薬品のことを当局に知らせることで、解毒剤を与える結果になり、即時の死ではなく生殺しという残酷な生を小艾に与えた、という負い目から逃れられなかった。せっかくジョゼフという伴侶を得ながら、五年でそのもとを去らねばならなかったのは、自分にはその資格がないと思ったからだろう。
幼い頃から、大叔母に神の存在を教えられ、自分を選ばれた一人と思い込み、他者との関係を顧みることのなかった如玉はそれを認めることはないだろうが、神などいないことを知った後でも、他者との関わりを持つことを自分に禁じていた如玉もまた自身を罰していた。如玉のアメリカ生活は流謫の生そのものである。
ウィリアム・トレヴァーに「ふたりの秘密」という短篇がある。少年の日に犯した秘密の罪が大人になっても自分を縛って放さない、自らを裁くのは自分しかいないという主題がよく似ている。訳者あとがきを読んで、この作家がウィリアム・トレヴァーの物語に語りかけることがよくある、と語っていることを知り、なるほどと思った。この作品自体は、エリザベス・ボウエンの未邦訳の一篇を念頭に置いたというが、どこかでトレヴァーの短篇が影を落としているのかもしれない。
強大な国家権力を相手に息を殺して生きる年長者に対し、正面から批判し弾圧された天安門事件の世代である小艾。それより六歳下の世代は、アメリカ人と結婚することで永住権を手に入れたり、不動産やIT関係の仕事で能力を発揮したり、と一見したたかな生き方をしているように見えるが、泊陽たちの生き方にも中国という国家の歴史は陰に陽に影響を与えている。中国現代史を背景に、運命に操られるようにして生きざるを得なかった三人の人生とその心理を鋭い視線で抉ってみせるイーユン・リーの人間観察力に舌を巻いた。
最後に、英語で書いているはずの小説の人名に何故、小艾、泊陽、黙然、如玉、という「名は体を現す」という言葉そのままの漢字名がついているのかと疑問に思ったが、訳者によれば作者の指定によるものという。表意文字である漢字を人名に使う民族の持つ強みといえるのではないか。キラキラネームで育った子どもたちが主人公になる時代、日本の作家は頭をかかえることにならねばよいが。 -
Posted by ブクログ
YouTube「出版区」に町屋良平さんが出演されていて。
著者の別作品をお勧めしていらっしゃったのですが、
それが在庫切れで購入できず。
いくつか見ていく中で、本書が気になり手に取りました。
自殺した16歳の息子と母親の対話形式で進む本書。
著者の実体験をもとに描かれているとのこと。
母親の頭の中で繰り広げられる会話で、
カッコもないため、とても曖昧ななか。
エヴァンゲリオンのシンジと綾波が
LCLのなかで溶け合って会話してるみたいです。
そして私の読解力のせいか、
とりとめもなく何を言いたいのかもわからず、
言葉が散らばっている印象を受けました。
仕事で疲れていて、何が書いてあるかわからない本を読みたいと思ってたのですが、(それがとても難しい学術書とかじゃなくて)私が求めてたものにぴったりでした。
梅雨の曇天のなか、
静かで誰もいない圧倒的な喪失と
全てを覆う悲しみの中で
生まれているであろう言葉たちが
とても心地よかったです。 -
Posted by ブクログ
長男に続き次男をも自死で失ったリーの、母親として、そして作家として、起きたことといかに向き合うかという一つの答えとしての作品。読み手が共感や人生の学びなどを得るためのものではなく、書き手が自身のこれからの人生のため、そこが「奈落」であっても生きてゆかねばならない自らのために、書かずにはいられなかった作品なのだと思う。
子の選択を受け入れてやりたいという気持ち、子を喪失したことの耐え難い空虚。自らの内の親としての葛藤を客観的に見つめ、感情的ではなく論理的に綴られた文章は知的で静か。でもその分、夫以外の誰とも分かち合えないその痛みを、決して読み手に軽々に「共感」や「同情」として消費することを許さない厳しさをヒリヒリと感じさせる文章でもある。
それでも、分かち合えない痛みを、分かち合えはしないものとして文字にしていくリーの営為には、作家の本能と言えばそれまでかもしれないが、書くために生きるのではなく生きるために書く、書いても満たされない空虚・癒されない傷をただそのまま自分のものとして受け入れるために書かずにはいられない、そんな動機が静かな文章の背後から感じられる。
私だったら耐えられない、と言うのは簡単で、そしてとても無責任なことだ。耐えられない、と、安全圏から他人事として哀れむセンチメンタリズムも、どんなにか辛いだろう、と、正義の理解者でありたいという自己弁護的な同情も、リーの文章は初手から拒んでいる。
誰とも分かち合えない痛みと、子を失った親しか持ち得ない喪失感。共感も同情も拒みながらただそこに現実としてある傷ついた人の姿に、そしてその人が、意味を求めて生きるがゆえに命を絶つ選択にたどり着く者もいるという人間の複雑さを見据えたその目で周囲の草花を眼差し、ただ一言「自然のものはただ育つ」と語るときに現前する自然の世界の眩いほどのシンプルさに、読み手はただ、胸を押さえ言葉もなく頭を垂れるだけである。 -
Posted by ブクログ
「反革命分子が処刑される」という物語を軸にそこに直接、間接的に関係する登場人物たちの人生で起こることが、著者の独自の感性をもって書き上げられています。
物語が大きく動く、ドラスティックな展開にはならないけれどそこで生活する者の生活感、人生観を見事に書き表せています。
文化大革命後の中国が舞台で、中国人の彼女が時には共産党を批判的に書く場面などは中国人からするとラディカルな描写に映るかもしれません。
それが出来るのも筆者がアメリカに居住していることで、少し俯瞰的に母国を観れている証拠ではないでしょうか。
ただ、本人はやはり共産党及び母国への愛情は有るように感じることも所々で感じさせてくれること場面もあり、中々凄いなと感じながら読み進めました。
一つ言えることは彼女が織りなす文章は哀愁や優しさ、悲しみに溢れているということであり、それが本書の魅力でもあると感じました。
また良い本に出会えたことが嬉しい。 -
Posted by ブクログ
次男ジェームズの死を悼みながら、またイーユン・リーの類稀なるパーソナリティに驚かされながら読んだ。どうして二人の息子の死を「因果応報」と切り捨てるような母親から、このような女性が育ったのか。
言語から詩的で音楽的で感覚的な喜びを見出していた長男ヴィンセントの死の際は、対話というフィクションの形を取った『理由のない場所』。哲学的な喜びを見出していたジェームズの死を扱った本作はノンフィクションとなった。
「子どもたちの母親でいた長い歳月、ずっと油断なく気を配っていた」という意識の重さ。それでも結局リー家はどこまでも自由意志を信じ尊重する一家である。「彼は命を絶つ決断を私たちが尊重するのを知っていた」という言葉の重さ。死は別種の新生児、死によって四人家族であることが変わることはない。
編集者や友だちの聡明さや誠実さには舌を巻く。「彼は去りたかったのですから、受け入れなければなりませんね」
「苦しみをわかってて、苦しみについてそんなに上手に書くのに、どうしてぼくたちを生んだの」というヴィンセントの言葉。常人にはこのような子どもを持つこともこのような言葉を受け止めることも難しすぎるだろう。
「ただできることをする」というイーユン・リーの慰めが、ピアノや製菓やガーデニングというところが興味深かった。奈落の底で心安らかに生き続けてほしい。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ小説の答え合わせのために著書の人生を覗きたいタイプではないが、『理由のない場所』(イーユン・リーは、それをヴィンセントの本と呼ぶ)に込められた思い、希望のない場所で生きることの意味を知りたくて本書を手に取った(悲しいことに、彼女はこの本をジェームズの本と呼ぶのだ)。
イーユン・リーの言葉を引く。
“子供たちがーそれぞれの自己に成長する場をできるだけ持てるようにーその感性や特性を尊ぶことは、母親として私にできる最善のことのように思われた。私が子供たちを愛していたのは確かだし、今でも愛しているけれど、愛より大事なのは子供たちを理解し尊重することだ。そこには何より、命を絶つという選択を理解し、尊重することも含まれる。”
そしてリーの友人が書き送った言葉。
“知らせを目にして、あなたに何と言うべきか悩み苦しんでいます。ジェームズが自分の居場所を見つける手助けをするために、あなたはできるだけのことをしました。でも、彼は去りたかったのですから、受け入れなければなりませんね ー”
おそらく、多くの拒絶や戸惑い、もしかしたら反感を引き起こす考え方かもしれないと思う。
だがこれは、宗教的な救いだとか、悲しみをくぐり抜けるとか、自分を何とか納得させるとか、そんな陳腐な自己本位な考えから出た言葉ではない。
奈落の底でも、論理と事実を投げ捨てずに、我が子について考えて、絞り出した言葉だ。
だから僕は、生半可な共感も理解も及ばない本書の言葉の数々を、静かに黙って、敬意を持って受け取りたいと思う。
ーー
“人生に生きる価値はあるのか。もしヴィンセントに訊いたら、あると言っただろうと信じている。それでも、彼なりの言葉で、こんな質問に答えるよう迫ってきただろう。この人生は生きる価値があるかもしれないが、苦しむ価値はあるのか。苦しむ価値があるなら、苦しみに限度をもうけるべきなのか。それとも生きるという名のもとに、疑問を持たず何でも苦しまなければいけないのか。”
“ジェームズは真剣に考えた。深く哲学的に、ひそやかに。そして思考で死んだ。生きられる人生には、苦労するほどの価値はなかったのかもしれない。きっと、生きられる人生など求めてないという結論に至ったのだろう。”
-
Posted by ブクログ
愛を遠ざけて生きると決めたとき、人に残されるものは何なのか。
結婚、子供、仕事、財産といったステータスは、結局は他人との距離を測るための物差しに過ぎない。自らを飾るものを剥がしていったとき、手離せずに残る本質は、孤独だけなのかもしれない。
誰にも傷つけられないために、あるいは自らを罰っするかの如くに 、人は孤独を選び取り、身につけてゆく。
心の奥を突き刺すような数々の警句と、ひんやりとした無情さを湛えた筆致によって、イーユン・リーは僕を荒涼とした地平へと導いてゆく。
だが、人の本当の姿が孤独であるならば、『Kinder than solitude(独りでいるより優しくて)』というタイトルが示すものが何なのか。それが知りたくて繰り返し読む。
“他の人にないものを持っているからというだけで自分の方が上とか、ましてや違うなどと考えるのは愚かだ。
家庭生活のにぎやかさも、独身の暮らしの手堅さもーどちらも勇気ある決断か、あるいは臆病な決断だがー 結局のところ、人の心が棲む不可解な深い孤独にはほとんど影響しない。”
“もし何か情熱に近いものを感じたことがあるとすれば、それは偶然であれ意図的であれ、他の人間に作られたつながりを消し去る類いの情熱だった。周囲に張り巡らせている空白は、唯一大事な財産だった。”
“誰かにひどい扱いをしておいて、そのひどい扱いを見ようとしないなんてー最終的な姿に近づきだした頃の自分の姿を見ているのだろうか。
その姿とは、自己中心的なのにそのせいで与えた痛みに平気でいられるほどではなく、苦しむことを断固として拒みながらも他人の苦しみが見えないほどではない自分だ。”
二度読み返し、三度目に感想を書きながらページをめくっていると、登場人物三人のそれぞれの強張った心、自縄自縛な姿が少し緩んでゆく様を、素直に受け止めていくことができた。
彼らが、如玉が、置いてきた過去と向かうことを選択するのは、自然な心の動きだと感じられる。
しかし、それを赦しや救い、孤独を分け合うといった言葉にしたくない。
孤独を抱えたままなのが変わらずとも、消し去ることができない他者が自分の中に存在する、ということを自ら認めること。
それは、他者に手を差し出すことは、安全圏から踏み出して自らを相手に刻みつける覚悟に他ならない。
たとえ、その有り様がぎこちなくても、世間からどう捉えられようとも。
それは孤独以上の何か、なのだと思いたい。
-
Posted by ブクログ
フランスの田舎町に住む13歳の少女アニエスとファビエンヌ。ストーリーを作るというゲームを2人きりで楽しんでいた。やがて、アニエスのほうが字がきれいということでストーリーを文字に起こし、町の郵便局長でやもめ暮らしのムッシュ・ドゥヴォーに見せると、ドゥヴォーは興味を示し本として出版することに力を貸すことになる。二人で作ったストーリーだが、ファビエンヌの提案でアニエスの名前で世に出ることになる。
アニエスは、天才少女とマスコミに取り上げられパリへ呼ばれる。やがて、将来のためにとイギリスのフィニィシングスクールで教養とマナーを教えられる事になり、家族やファビエンヌと離れ一人ロンドンへ。
フランソワーズ・サガンが十代でデビューし話題になった頃、十代の作家の登場が流行になったという。その中に、フランスの14歳の少女がいたが、実は偽物だったという事実に著者が興味をひかれ、この作品を書いたという。
もちろんアニエスは偽物ではなく、二人それぞれに才能があったのだが、二人がいてこその作品だった。ストーリー全体は、アニエス目線で描かれているが、二人の少女の哀しい友情の物語である。少女独特のとまどいとともにある残酷さ、二度と戻れない子ども時代の友情。心に残るストーリーだった。 -
Posted by ブクログ
文化大革命後の中国で、紅衛兵だった29歳の女性が処刑されるところから物語は始まる。
市井に生きる人たちの感情や生活が、仔細に淡々と描かれていて、時代を知る、時代の犠牲者になった人たちを知る、っていうペシミスティックな目線に立っているんじゃないところが、この小説の特長だと思う。
自分が知らない時代の、土地の話になると、歴史ものだと思ってその中に出てくる人たちを遠くに感じがちなんだけど、それが本望でないっていう著者の思いがこもった筆致でした。
ああ、みんな、自分とおんなじ人間だって思う。
こういう小説を読んで、出てくる人たちを自分の身近に感じて初めて、歴史に起こった事実とかを本当にきちんと学べるようになる気がします。
面白かった!
462P
2016.9