イーユン・リーのレビュー一覧
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「理由のない場所」で十分に衝撃を受けたので、次男のジェームズの自死のニュースには言葉もなかった。
そしてこのエッセイが世に出たと聞いてもすぐには読む気にはなれず。しんどすぎる、そう思った。
ピューリッツァ賞受賞と聞き、ようやく読んでみようかと手に取る。
搾り出した、全ての言葉が真実。
真実の言葉のものすごさに圧倒される。
全ての言葉に嘘がない。嘘や安易な言葉はジェームズの死への冒涜となるから。
今年ベスト、いや10年間でもベストの本かもしれない。
ピューリッツァ賞受賞も、イーユン・リーにとっては何の感慨も(もちろん喜びも)ないだろう。苦悩にはまだその底にも果てしない穴があり、そこで生きていくしかないということが、これでもか、というありのままの言葉で綴られる。
「破滅的なことが起こると、言葉は軟弱に見えたり、陳腐に見えたりしがちだが、 子どもを2人失うと言う極限状態に生きねばならない人間にとっては、言語の力が足りないことなど些細な不運に過ぎない。」
「そのとき、『リア王』のエドガーの台詞がよみがえってきた。「もっと最悪になるかもしれない。“これが最悪だ”と言えるうちは最悪ではないのだ」
本当の悲しみの底からの言葉の迫力。
リーには側を離れることのないよき友人たちがいる。(悪い友人、去っていく友人、知恵を授けようとする人もたくさんいるようだが)ブリジットとエリザベス。この二人の存在が一介の読者である自分にとっても救いだ。
「私は自己憐憫に浸って、ついこんなことを口走った。ー「私は世界一だめな母親じゃない?」ーそれに対して、ブリジットはこう答えた。私たちはその質問の答えを知っているし、それが真の質問ではなく、質問の姿をした。小石に過ぎないことも知っている。小石には邪魔をさせないで、蹴飛ばしたほうがいい、と彼女は言った。」
ある精神科医の言葉が引用されている。
「助言させてもらうなら、その問いかけは二度としないことです。人生とは生きられるものなのか。考え抜かれた完璧な答えを見つける時間は、私たちにはあまりないのです」
「私は悲しむ母親ではない。ビンセントとジェームズを失った苦しみと2人を育てた思い出とともに、これから来る日も来る日も死ぬまで生きるか母親だ」
これほどまでの苦悩があろうか。 -
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間違いなく今年一番の本になると思う
あまりにも絶望する場面に直面した時人はどうなるなか、どう希望を見出して(または見出せず)これからの自分の人生を生きていくのか
何冊か読んでもしっくりくるものがなかったが、この本はちがう
受け入れる、いま、いま、足踏み、何もせず抗わず、けれども自分の意思で奈落の底に棲む
頭が良すぎると、それはそれで本当にしんどいんだなぁと陳腐なことしか思い浮かべない自分の脳みそのスペックを恨みつつ、ただ一方でそれはそれでしんどい人生を生き抜くための仕様なのかもしれないと思ったり
自然のものはただ育つ
素晴らしい視点です -
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『ヴィンセントが死んだ後、私は『グリーフ・レッスンズ』というアン・カーソン翻訳によるエウリピデスの戯曲集、それからシェイクスピアの『ジョン王』で玉座に続き人生も奪われた年若い息子アーサーを失ったコンスタンスの独白をくりかえし読んだ。古代ギリシャの人々は悲しみをこれ以上ないほど高らかにうたい上げる。カーソンが指摘するように、それは激しい怒りである。大きな悲しみや怒りの翻訳は不可能に近い。まるで極みに至った感情は肉体的な感覚でしかありえないかのように――その言葉はやけっぱちの手荒な勢いで読者に襲いかかる』―『2 事実関係』
イーユン・リーの手記「自然のものはただ育つ」を読む。この手記には息子を二人とも自死(しかも同じ方法)で失くした母親の深い悲しみが詰まっている。ただしその「悲しみ」を作家は「悲しさ」という言葉で表現することを避ける。避けるというよりも、むしろその言葉が適切ではないと作家は言う。それを「奈落の底」に居着くことだと表現する。それは誰に向けて良いか解らないままの「怒り」であると言う。その言葉を聞いて、原爆で中学生であった息子を失くした母親の詠んだ歌をふと思い出す。「烈し日の真上にありて八月は 腹の底より泣き叫びたき」。確かにこの歌の感情を表す言葉として「怒り」というのが最も適切なのかも知れないと遅まきながら理解する。
「水曜生まれの子」を読んで、次男の死を予感していたのではないかという印象を持ったと書いたが、本書では自身の自殺未遂、二人の息子たちに備わっていた天分、長男と次男との関係性などが少しずつ語られる中で、それが「予感」などという生易しい言葉ではなかったことを知る。それを知ることが読書の目的ではないけれど、やはりこの作家の業とも言える物事や人々に対する眼差しと思考を垣間見た思いがする。そして再び「もう行かなくては」の読後に綴った「この作家の抱えている絶望感はとても深い。しかし、その絶望の水底を見通すために水面を揺らす小波[さざなみ]を息をこらえて鎮め覗き込もうとする強さも同時に持っている」という感想を新たにする。ただし、それを「強さ」と単純には呼べないことも意識しながら。それは「意を強くして」為す行為であることには間違いはないが、この作家にはそういう風に「見たくないものすら見てしまう」という方法しか人生と対峙する方法がないのだとも理解する。ひょっとするとそれは、奈落の底に引き摺り込まれることに抵抗しないという「弱さ」の表れでもあるのかも知れない。もちろん、そこに居続けることには強い意志が必要とされるだろうけれど。それを「徹底的な受容(ラディカル・アクセプタンス)」という心理学上の概念として理解し積極的に受け入れる作家イーユン・リー。
『私の庭は希望や再生の比喩にはならない。花に明るさや楽観の使者となる務めなどない。自然のものはただ育つだけだ。自死願望のあるバラも怒るバラもいないし、抑鬱状態のユリも反抗的なユリもいない。植物が目指すところは一つだけだ。生きること。生きるために、可能なときは育つし、必要があれば休眠に入る。死ぬまでは生きやがて自然が定めるままに死ぬか、ほかの自然の要素に切られるかだ。庭はいっときだけ場をとっておくもの。花はプレースホルダー』―『12 自然のものはただ育つ』
訳者あとがきにもあるように、イーユン・リーの考え方、物事の受容の仕方の重要な基礎をなしている概念に「プレースホルダ―」というものがあるということは本書を読み進めるにつれ徐々に解ってくる。もちろん、作家が理解しているようにその考え方を理解している訳ではないが、日本的な考え方の特徴の一つにある「諦観」とも通じる概念なのかと理解しておく。荒ぶる自然の中で生かされている場所をそのままに受け入れる、その場所があくまで一時的なものであるということに抗わない、という考えなのか、と。自然災害に見舞われることの多い国土に居着く人々が自然のもたらすものを畏怖を持って受け入れた考え、と言い換えてもよい。そう考えると「徹底的な受容」、「プレースホルダー」、そして「自然のものはただ育つ」という言葉の繋がりが自然と見えて来るような気がする。
『私は考える。次はもっとしっかり水をかくにはどうすればいいか考える。泳いだ後に書くことにしている小説の章について考える。複雑で弾けないショパンのノクターンについて考える。少女の頃に好きだったオリエンタル・ポピーについて考える。私はこの花をうちの庭に植える気になれない。その花の中国名は虞美人といい、愛する人のために自ら命を絶った有名な愛妾に敬意を表してつけられた。その愛人は将軍で、翌日に漢の初代皇帝と最後の宿命の戦いで相まみえることになっていた〔楚漢戦争の項羽と劉邦〕(来年はオリエンタル・ポピーを少し植えようか。スイート・ジュリエットというバラと一緒に)』―『23 子どもは死ぬ。そして親は生きていく』
確かにこれは「手記」ではあるのだけれど、まるでこの作家の小説を読んでいるようだとも思ってしまうのは変だろうか。もちろん、ここに書かれていることはフィクションではないだろうけれど、イーユン・リーの小説の一人称の言葉との違いは随分と小さいように錯覚してしまう。彼女の小説に出て来る主人公たちもまた作家同様幾つもの考えに「捉われ」ていることが多いのだと本書を読んで知る。それは自分にも馴染みのある状態と言ったら言い過ぎだろうと思うし、他人が言葉を発しない時、他人が何を考えているのかあるいは考えていないのかを知ることはできないので他の人がどうなのかは解らないけれど、この人もまた頭の中がうるさい、いや五月蠅くて仕方がない、時に苦しい人なのだろうなと思う。それは彼女の天分と母親との関係性も大いに影響してのことなのだろうけれど。そんな内面の考えの渦や、それを少し外側から見ている存在のことを意識すると、「独りでいるより優しくて」に登場する二人の中国からの留学生が、この作家の分断された内面とそれを外側からみている思考の両方を表しているのだろうなと見えて来る。
考え抜いた末に死を選んでしまうことに共鳴する自分を外側から見つめることが出来ること。それは果たして「性」と呼ぶべきものなのか、あるいは「業」と呼ぶべきなのか。この作家のまだ読むべき作品が残っていることを意識する。 -
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『何年も前、友達になった年上の作家が執筆中の本のことを手紙で尋ねてきた。「小説はいかがでしょうか。人は病人のことを訊くようにそう訊きますが、まだ書き終えていない小説とはそんなものです。終わったら、それは死んでいるか、ずっと具合がよくなっているかのどちらか。死者をわずらわせてはいけません」』―『水曜生まれの子』
久しぶりに読む、イーユン・リー。もう、この作家を「千年の祈り」を読んだ時のようには読めないことを改めて意識してしまう。其処彼処に散らばる孤独、そして他者の死によってもたらされる喪失感。そこに作家の私生活における影を見ずにはいられない。
「理由のない場所」を読んだ時に、そこに長男の自死の影響を見たこと。それが「もう行かなくては」で喪失感を常に抱えながらも、やや昇華した形に変化した兆しを見たのが三年以上前のこと。その時に自分は「この作家の抱えている絶望感はとても深い。しかし、その絶望の水底を見通すために水面を揺らす小波[さざなみ]を息をこらえて鎮め覗き込もうとする強さも同時に持っている」と綴っている。そしてこの「水曜生まれの子」でのやや冷笑的に登場人物の愛らしさを描くまでの復活。よもやこの後に二人目の息子を失う出来事が起きようとは想像していなかっただろう。
『母親業というのは、よくある自動更新の契約みたいなものだ。何もせずにいるとクレジットカードに請求が来る。でも、自動装置に人生を乗っとらせてなぜいけない』―『非の打ちどころのない沈黙』
だが果たしてそうだろうか。この短篇集の中に既に来るべき喪失への警戒心が溢れているような気がするのは、作家の身に起きてしまったことを知っての先入観が為せる偏見か、あるいは作家の心情が率直に表れていたと見るべきか。この作家の抱える闇の深さを考えれば、そんなことをどうしても考えてしまっての読書となる。そしてその問いへの答えの一部はその出来事の後に発表された回想録「自然のものはただ育つ」の中で明かされているに違いない。
多くを語れない読書がある一方で、多くを語りたくない読書というものもある。イーユン・リーを読むということは、ただ黙して作家の一人語りに寄り添うように聞くことなのだと、改めて思う。 -
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様々な年代の、様々な仕事を持つ人々の人生を、こんなにも物語れるなんてー。すべてのエピソードが本当にあったことのように息づいていて、なぜだか泣きそうになる。「列車の前に歩み出てきた」と言う鉄道職員。三十六個の植木鉢から流れ出る水。母親になるなんて、なんて向こうみずだったのだろう。こんにちは靴さん。さようなら靴さん。「くたばれ」。
イーユン・リーの作品を読むと、目の前が淡い寒色系のマーブル模様に染まっていくような気持ちになる。うっすらほのあかるい諦観。
登場する子どもの多くが、賢く繊細で生きづらそうにしているところに、筆者の長男の影を色濃く感じ、どうしようもなく悲しくなる。
あとがきで紹介されているインタビューで、「世界でひどいことが起きている中で、意味がないと感じてしまう時こそ、生活を回し続ける小さな物事(ケーキを焼いたり庭仕事をしたりすること)に喜びを見出す意思の力が必要である」という趣旨の発言をしているイーユン・リー。その哲学が大好きだし、どうか長生きしてほしい。
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僕のささやかな人生を投影して、共感したと言いたいわけじゃない。 イーユン・リー自身の人生と重なる箇所を探して、分かった気になれるわけでもない。
ここにあるのは、汎用性や互換性があるような、消化吸収しやすい感情ではない。
それなのに、どうしようもなく心が震える。短い物語たちに心が取り込まれてゆく。
外側から眺めるように読むことなどできず、登場人物たちの中から彼らの目を通して世界を見る。
そんな読書になる。
こんなに不完全な世界で、子供を産み育てると決めたとき、生まれてきた子に何がいえるだろう。
苦しみや悲しみにも不条理からも、目を背けなさい。喜びや明るい面だけを見て生きなさいと?
子供たちから鈍感だ、いんちきだと馬鹿にされたとしても、生きているのは楽しいよと言い続ける以外に親に何ができるというのだろう。
イー・ユンリーの以前に読んだ本にあったセリフが忘れられず、ここでもまた思い浮かべてしまう。
“「人生は完璧じゃない。でも何らかの意味がある。違う?」 「うん。それは残念賞だな。でも、僕は残念賞のために生きることはしないんだよ。」”
結婚はどうだろう。愛情という曖昧で不確実なものよりも、礼儀正しさと思いやりで維持していく契約だと捉えた方が、いっそ楽に息ができるのではないか。
必要以上に相手を深く覗き込まなければ、相手の中に自分を刻み込む危険を避けることができる。
そうすれば、誰かを傷つけることも、傷つけられることもない。
家族と共にあっても、孤独は自らを守るための鎧であり、潤滑油だと思う。
養女、乳母、メール・オーダー・ブライド、金持ちに囲われるように暮らすこと、愚鈍な善人を選んで結婚すること、さまざまな女性たちが、自分たちなりの生き延びる術を身につけて、息を凝らすようにして生きている。
そして、死を選んだ子どもたちの多くは、生き延びる術を身につけることを望まなかった。
なにがよいことなのかと論じることはできないだろう。
ーー
イーユン・リーがインタビューで語った言葉が、後書きで紹介されている。
“私は不幸だとは感じていません。悲しいのです。とても悲しいとは言えます。悲しい過去があるのです。でも不幸ではありません。なぜなら、悲しみと喜びは両立しうるからです。”
この言葉は、もちろん前向きな希望を抱かせてくれる。だが一方で、僕は深く静かな諦念を感じてしまうのだ。
悲しみと喜びは両立する。それはとりもなおさず、喜びでは悲しみを拭い去ることはできないということだ。
喜びを糧としながら、癒されることのない悲しみを手離すことなく生きていくと、自分自身に告げるひっそりした覚悟の言葉に思えるのだ。
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大人に可愛いげのない子どもと思われていた人に強烈におすすめしたい。
『悪童日記』シリーズとか、『夜が明けるまで』とか可愛げのない思春期の少年少女を主人公にした小説が好きな人なら、あるいはシャーリー・ジャクソンとかフラナリー・オコナーとかミュリエル・スパークとかのような人間性をクールに(皮肉に)描き出す作家が好きな人なら絶対好きだと思う。(よく考えたら女性作家ばっかり)
イーユン・リーは『千年の祈り』から3作までは欠かさず読んでいて、「中国のチェーホフ」と言われるのも納得だなあと思っていたのだが、久しく読んでいなかった。
今回読んでチェーホフとは違うかもなと感じた。じゃあ誰かと訊かれれば、イーユン・リーでしかない。ということは彼女は彼女の世界を確立したのだと思う。
これは、誰からも必要とされず理解もされなかった少女たちの思いを描いた名作である。あたたかくはないが、作品の底には彼女たちへの深い共感と思いやりが感じられる。
フランスの田舎で戦中の混乱期に生まれ、戦後の貧しい時期に育った少女アニエスとファビエンヌ。どこの家も貧しいが、ファビエンヌは周りよりさらに貧しく悲惨な生活を送っている。母は死に、父は飲んだくれて子どもはどうでもよく、姉はアメリカ黒人兵の子どもを産んだ後死んだ。だれも同情しない。むしろあんな家とは関わりたくないと思っている。頭と勘のいいファビエンヌが、手のつけられない嫌われ者になるのは仕方なかったと思う。
彼女には物語る才能があったが、自分は大人や世間に相手にされないことがよくわかっていたので、アニエスを作者に仕立てて作家デビューさせる。それは二人の「ゲーム」でもあった。村のやもめ男で孤独なインテリのムッシュ・ドゥヴォーを利用することも計算の上である。
アニエスの家庭はファビエンヌよりはましだったが、兄がドイツの強制労働収容所から戻って以来、体と心を壊していることに両親の心が支配されていて、彼女へはほとんど関心が向かない。
そんな中でファビエンヌがどれほど彼女にとって大きな、かけがえのない存在であったかは想像に難くない。
10代でデビューした作家が生涯作家として暮らし、高い評価を得続けることは稀である。それは彼らの才能が偽物だったからではないのではないか。アニエスとファビエンヌのように翻弄されてしまった。あるいはその才能を飼い慣らすことができなかった。大人のようには。
この作品の持つ苦味と、その奥にある憐れみに近い優しさが深く胸を打つ。
イーユン・リーが中国出身の作家であることはもうどうでも良くなった。カズオ・イシグロが日本出身の作家であることがどうでもいいように。
他の読んでいない作品も読みたいと思う。
篠森さんの翻訳もとても良かった。イーユン・リーの作品をずっと訳しているから、作品や作者の理解がとても深い。だからこそ読者も安心して作品世界に身を委ねることができる。 -
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“ときには一人の人間の死が、別の人間を釈放する許可証になることがある。私は完全に解放されたわけではないかもしれないけれど、じゅうぶんに解放された。”
かつての友への手向けの言葉としては、なんと哀しいのだろう。
ただの子供時代の友というだけではない。
私と彼女 ーアニエスとファビエンヌという名の二人の少女ー は、アニエスの言葉を借りれば、一心同体のひとつのオレンジ。
“南を向いているオレンジの半分がもう片方の半分に、日差しがポカポカすると口にする必要はないだろう”
ファビエンヌに言わせれば、昼と夜。
“昼と夜でもない時間なんてある?あんたとあたしが一緒にいれば、時間を全部占拠できる。あたしらの間にすべてがあるの”
対照的なな言い回しとはいえど、確かに完璧な組み合わせだった二人が離れていったのはなぜか?
切ったオレンジをくっつけても、一つには戻れない。
本書は、アニエスの成長物語のように読める。
華々しく文壇に登場したものの“偽りの神童”であったアニエスが、甘やかな少女期を超えて自我と自らの言葉を獲得し、本当に一冊の本を書き上げたのだから。
しかし、その読みはあまりににも表層的すぎるだろう。
アニエスが書き留めたかったこと- 取りも直さずイーユン・リーが書きたかったことでもあるわけだが -、それはファビエンヌが、何に復讐しようとし、敗れ去ったかだ。
ファビエンヌが挑んだ、勝ち目がなかった孤独な戦いの記録なのだ。
ファビエンヌは幼くして母と姉を亡くしてから、家事と農場の動物の世話に追われて学校に行くことをやめている。サン=レミは、女ならば家族の世話をして、成長したら結婚して労働力となる子供を産むことしか期待されないような、貧しく閉鎖的な田舎の農村だ。
誰からも価値を認められない彼女の強烈な個性は、アニエスというすべてを受け止めてくれる器以外には向かう先がない。
ファビエンヌの“ゲーム”は、退屈な現実を超越する手段だ。彼女こそがルールであり、現実が自分を無視するのなら、自分にふさわしい“現実”を作り出す。死さえも、彼女を捕らえることはできない。
ファビエンヌが、自身が女であること、男女の愛をどう思っていたかはわからない。でも、本を書くというゲームに深く関わることになった郵便配達夫のドゥーヴォーや、アニエスに与えた空想のボーイフレンドへの突き放すかのような仕打ちをみると、遠からず訪れる性的な成熟を前にした自らの女性性への怒りが感じられるのだ。
ファビエンヌは何と戦い、敗れたのか。
超えたと思っても上書きしてくる“現実”、抜け出せない世間、女性として求められる生き方。
いや彼女を本当に打ち負かしたのは、大人になってゆくこと、成長してしまうこと、そのものだろう。
蛹から羽化するように、硬い種子が割れるように子供時代に別れを告げる人もいる。
一方で、内から発する光が薄れてゆくように、湧き出していた泉が涸れてゆくように子供時代を終える人がいる。
残酷なまでに互いの未来が見えたとき、アニエスとファビエンヌは、離れてゆくしかなかった。
“互いを殺したいと望みながらできず、互いを救いたいと望みながらもできなかった”、あの日を境として。
もう一度、この言葉を引用したい。
“ときには一人の人間の死が、別の人間を釈放する許可証になることがある。私は完全に解放されたわけではないかもしれないけれど、じゅうぶんに解放された。”
この言葉を誤解してはいけない。ファビエンヌの影響からの解放を意味するのではない。
死は、ファビエンヌと私の真実について沈黙する生き方を破り本書を書き始めるための、許可証となったのだ。
私たちが何ものだったかを、どう生きたかを今度こそ伝えるために。
“生きることはじゃんけんみたいだとよく思う。運命が希望を打ち負かし、希望が無知を打ち負かし、無知が運命を打ち負かす。”
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老いた主人公がかつて愛した人の日記に書き込みを入れながら過去を語る。夫のこと家族のこと、そして自死を選んだ娘のこと。
気丈な主人公はどの出来事に対してもきっぱりしているけど、歩んできた人生への深い諦念も伺える。強い人でも持つどうしようない諦念。
自らも同じようにして息子を亡くしたリーがどんな気持ちでこの小説を書き上げたのだろうと思わずにはいられない
主人公はリーではないけれど、言葉のひとつひとつに彼女の本心がどこかにないのだろうかとつい探ってしまう 彼女が小説を書き続けていること自体が奇跡だとそんなことは思いたくないけど
タイトル”Must I go”が家に来たお客を見送る時の”Must you go?”(もう行ってしまうのですか?)の主語を置き換えたものだと読んで、主人公はきっぱりと「もう行かなくては」と言っているけれど、そこにはどこか名残惜しさもあるのだろうなと思うと彼女の深い寂しさにも触れたような気がして少し悲しい -
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『とはいえ、ここではささいな罪をとやかく言う者はいない。死に近づけば見えるものは減り、聞こえるものも減り、気になるものも減ることになる。気になるものが減っていき、ついに何も気にならなくなったあかつきには隣の建物へ送り出される。認知症対応施設だ』―『第一部 愛の後の日々』
献辞を読んで、はっとする。これは「理由のない場所」に続く物語なのか、と。その直感は第二部を読み終える頃にはほぼ確信となるのだが、そんな単純な続編をこの作家が書く筈もなく、もちろん主人公となるのは17歳の息子を失った中華系移民の女性ではない。本書の主人公は、どこかしらルシア・ベルリンの「掃除婦のための手引き書」の主人公を彷彿とさせるような、厳しい人生を冷笑的な視線で見つめながらもたくましく生き抜くカリフォルニア育ちの老女。イーユン・リーは好きな作家の一人で、何冊も手に取ってきたが、それ故にまずこの設定に意外な感じを覚える。
イーユン・リーのこれまでの小説の主人公たちにはどこか作家自身の出自を投影したようなところがあったけれど、この「もう行かなくては」に登場する人物たちは実に西洋的な人ばかり。しかもその老女に自由に語らせる文体は、これまでのどちらかと言えば静謐な語り口の多かった作家にしては珍しいとの印象を受ける。ただし老女の冷ややかな毒舌には、本書の大部分を占める第三部における設定(故人の日記に、注釈を入れながら伏してきた秘密を限られた親族に書き残すという設定)からも察せられるように、正直であろうする意思は明らかなものの自分の思い描く自画像を崩さぬよう腐心する様も見え隠れする。その崩れてしまいそうなものを確固たるものとしようとする意思の強さは、これまでイーユン・リーが描いてきた主人公たちと変わらない。
それはつまり、登場人物の設定や故人の日記の中に問わず語りの物語を細切れに紛れ込ませるという複雑な構図を施していたとしても、これまで作品同様に作家自身の人生譚や素直に認めたくはない悔恨のような物にこの小説も根付いた作品であるということなのだろうと思ってしまうのだ。だからこそ、主人公リリア・リスカは「理由のない場所」の主人公であるニコライのママでもあり、「独りでいるより優しくて」の主人公の独りである如玉(ルーユイ)でもあり、「千年の祈り」に登場する容易に心を開かない主人公たちでもあると、つい感じてしまう。
訳者あとがきによれば、イーユン・リーは常に異なる作風の小説を描こうとしていると言うし、作品の登場人物たちの語ることは必ずしも作家自身の考えていることではないとインタビューでも答えているが、何故だろう、自分には彼女の作品が常に同じ人生観を描いているように思えてならない。それは本作品の中で主人公の老女に語らせる、他人が自分の人生にくれようとするものはその人にとっていらないものばかり、だから自分に必要なものは自分で掴み取るしかない、という言葉に集約されているようにも思えてしまうのだ。
この作家の抱えている絶望感はとても深い。しかし、その絶望の水底を見通すために水面を揺らす小波[さざなみ]を息をこらえて鎮め覗き込もうとする強さも同時に持っている。それが『プライドを持って生きる』ということなのかも知れない、改めてそう感じる一冊。 -
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20年前に毒を飲んだ女が死に、残された3人の人生が語られ始める。
もう戻らない故郷、誰の人生にも自分が居ないようにと祈り選び取った孤独の淵、空白を他者で埋めようとすること。
共有した時間が落とした影は消えない。真実よりもはっきり見えるのは最高密度の孤独の形。
誰も心に立ち入らせなかった少女、常に他者を気にしていた少女、聡明ながらも恋に沈んだ少年、死んだ彼女。
人は本質的には孤独で、何を以ってしても埋められない空白を持っていて、だけどそれはそこに在るものとしてそれでいいのだと3人の人生を通してリーが語りかけてくる。優しさをも差し出して。
読んできたリーの小説の中でいちばんjust for meな作品だった。小説で語られる物語は幸せなものではないけれど、読むことによって自分の何かが許されていくような気がした。
孤独の全肯定、けれど孤独を踏み越えたところに見える優しさ。人生にあるかどうかもわからない優しさ。
リーの小説で一番好き。 -
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自らの少女時代、自らを育てた国を「想っている」物語たち。
リーの声には何も求めない静かな寂しさの弦が鳴っていて、ふとよぎる、全てを受け容れる優しさ、一瞬一瞬のその視線。物語たちはリーの声に語られるのを静かに待っている。彼女の声が聞こえるまで、静かに。
表題作と「獄」が好き。どの作品にも中国に深く根付いた家父長制や女性の結婚に対する伝統的な考えや、それから国外へ移住していく多くの中国人の思いがある。代理出産をテーマにした「獄」は、その重い選択ゆえに払う代償をそれでも淡々と描いている。リーがそっと包んだ悲しみから、誰も出られない。
リーの小説は比喩と、中国の古い言葉をリーの感覚で英語に訳し、そして日本語に変わってくる過程が本当に美しい。表題作も中国語で「金童・玉女」(理想的なカップル)というそうだけど、それが『黄金の少年、エメラルドの少女』に変わってここにやってくるその美しさに、ため息をついてしまうのだった。 -
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『その年配の男がお茶を飲み干してから、二人で少艾(シャオアイ)の火葬の書類を丹念に調べた。死亡証明書。死因は急性肺炎の後に起きた肺不全だ。それから、抹消の公印が押された黄ばんだ戸籍簿。身分証。受付係は泊陽(ボーヤン)の身分証も含め、書類を念入りに点検した。泊陽が記入した数字や日付の下に、鉛筆の小さな点がついていく』
火葬場の押し殺したような雰囲気の中で交わされる言葉の射程の短さ。何を言っても接ぎ穂が思い浮かばないような遣り取りの情景が、孤独、という状態の本当の意味を教えてくれる。それは身を守るための鎧であると同時に、他者に自己の内面に蠢くどろどろとした感情を吐きかけないための方法でもあるのだ、と。
原題である「Kinder than solitude」には、邦題よりも孤独な状態を維持する意思についての強い言明があるように響いている。元々は三人の主人公の内の一人、黙然(モーラン)の物語に対する題名であったとあとがきにはあり、エピローグの一つが直接その意味を説明するようにも語られてもいる。だが、より強く印象づけられるのは、もう一人の主人公、如玉(ルーユイ)が最終盤で表明する言葉に象徴される『皆、安らかな状態でいるにふさわしいのに、残念ながら私は誰も安らかにしておけない人間なの』という文脈の中の孤独さであり、それよりも「優しい」とされるのは、安らぎを得ることを望まないもう一人の主人公(泊陽)との関係性における身の置き方であることは明かなように思う。
もちろん、黙然と別れた元夫との関係も、如玉と泊陽との関係も(二人の関係については、再会からの時間の経過と第三者の目を通した印象から間接的に伺えるだけだが)、一人の状態ではなくなるという意味で「than」と表現するに相応しい状態と言えなくはない。しかし、一緒の時を過ごしながらも自分を全てさらけ出すことができないという状況は、「孤独さ」という視点から見て、比較級に値する変化は加えられていないようにも思える。大勢の中に居る方が「孤独」を覚えるとはよく語られることだが、それを逆に言えば、一人でいることにはある種の慰め(自分自身何もかも確信しているわけではないと言い聞かせることが出来る許し)が残っているということでもある。結局、自分の内に渦巻くものを理解させることはできないと知っている他者と居ることによって加わる「思いやり(kind)」は、自分のためと相手のために黙するという二重の孤立を生み、その言葉にもう一つの意味を付け加える。その意味の二重奏が、この題名にはどこかしら逆説的な意味合いが含まれていると告げているように思う。そのどちらの意味も内包したまま、イーユン・リーは物語を閉じる。
それはまるで映画「卒業」の最後のシーンのように。教会から逃げた二人が笑いながら乗り込んだバスの後部座席でふさぎ込むように。その時流れてくるサイモン&ガーファンクルの歌が語るように。「Hello, darkness, my old friend」。