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長男を16歳で、次男を19歳で相次ぎ自死により失った作家が、息子たちについて語る思索に富むエッセイ。「この本は悲しみや哀悼の本ではない。私の悲しみに終わりはない」
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Posted by ブクログ
『ヴィンセントが死んだ後、私は『グリーフ・レッスンズ』というアン・カーソン翻訳によるエウリピデスの戯曲集、それからシェイクスピアの『ジョン王』で玉座に続き人生も奪われた年若い息子アーサーを失ったコンスタンスの独白をくりかえし読んだ。古代ギリシャの人々は悲しみをこれ以上ないほど高らかにうたい上げる。カ...続きを読むーソンが指摘するように、それは激しい怒りである。大きな悲しみや怒りの翻訳は不可能に近い。まるで極みに至った感情は肉体的な感覚でしかありえないかのように――その言葉はやけっぱちの手荒な勢いで読者に襲いかかる』―『2 事実関係』 イーユン・リーの手記「自然のものはただ育つ」を読む。この手記には息子を二人とも自死(しかも同じ方法)で失くした母親の深い悲しみが詰まっている。ただしその「悲しみ」を作家は「悲しさ」という言葉で表現することを避ける。避けるというよりも、むしろその言葉が適切ではないと作家は言う。それを「奈落の底」に居着くことだと表現する。それは誰に向けて良いか解らないままの「怒り」であると言う。その言葉を聞いて、原爆で中学生であった息子を失くした母親の詠んだ歌をふと思い出す。「烈し日の真上にありて八月は 腹の底より泣き叫びたき」。確かにこの歌の感情を表す言葉として「怒り」というのが最も適切なのかも知れないと遅まきながら理解する。 「水曜生まれの子」を読んで、次男の死を予感していたのではないかという印象を持ったと書いたが、本書では自身の自殺未遂、二人の息子たちに備わっていた天分、長男と次男との関係性などが少しずつ語られる中で、それが「予感」などという生易しい言葉ではなかったことを知る。それを知ることが読書の目的ではないけれど、やはりこの作家の業とも言える物事や人々に対する眼差しと思考を垣間見た思いがする。そして再び「もう行かなくては」の読後に綴った「この作家の抱えている絶望感はとても深い。しかし、その絶望の水底を見通すために水面を揺らす小波[さざなみ]を息をこらえて鎮め覗き込もうとする強さも同時に持っている」という感想を新たにする。ただし、それを「強さ」と単純には呼べないことも意識しながら。それは「意を強くして」為す行為であることには間違いはないが、この作家にはそういう風に「見たくないものすら見てしまう」という方法しか人生と対峙する方法がないのだとも理解する。ひょっとするとそれは、奈落の底に引き摺り込まれることに抵抗しないという「弱さ」の表れでもあるのかも知れない。もちろん、そこに居続けることには強い意志が必要とされるだろうけれど。それを「徹底的な受容(ラディカル・アクセプタンス)」という心理学上の概念として理解し積極的に受け入れる作家イーユン・リー。 『私の庭は希望や再生の比喩にはならない。花に明るさや楽観の使者となる務めなどない。自然のものはただ育つだけだ。自死願望のあるバラも怒るバラもいないし、抑鬱状態のユリも反抗的なユリもいない。植物が目指すところは一つだけだ。生きること。生きるために、可能なときは育つし、必要があれば休眠に入る。死ぬまでは生きやがて自然が定めるままに死ぬか、ほかの自然の要素に切られるかだ。庭はいっときだけ場をとっておくもの。花はプレースホルダー』―『12 自然のものはただ育つ』 訳者あとがきにもあるように、イーユン・リーの考え方、物事の受容の仕方の重要な基礎をなしている概念に「プレースホルダ―」というものがあるということは本書を読み進めるにつれ徐々に解ってくる。もちろん、作家が理解しているようにその考え方を理解している訳ではないが、日本的な考え方の特徴の一つにある「諦観」とも通じる概念なのかと理解しておく。荒ぶる自然の中で生かされている場所をそのままに受け入れる、その場所があくまで一時的なものであるということに抗わない、という考えなのか、と。自然災害に見舞われることの多い国土に居着く人々が自然のもたらすものを畏怖を持って受け入れた考え、と言い換えてもよい。そう考えると「徹底的な受容」、「プレースホルダー」、そして「自然のものはただ育つ」という言葉の繋がりが自然と見えて来るような気がする。 『私は考える。次はもっとしっかり水をかくにはどうすればいいか考える。泳いだ後に書くことにしている小説の章について考える。複雑で弾けないショパンのノクターンについて考える。少女の頃に好きだったオリエンタル・ポピーについて考える。私はこの花をうちの庭に植える気になれない。その花の中国名は虞美人といい、愛する人のために自ら命を絶った有名な愛妾に敬意を表してつけられた。その愛人は将軍で、翌日に漢の初代皇帝と最後の宿命の戦いで相まみえることになっていた〔楚漢戦争の項羽と劉邦〕(来年はオリエンタル・ポピーを少し植えようか。スイート・ジュリエットというバラと一緒に)』―『23 子どもは死ぬ。そして親は生きていく』 確かにこれは「手記」ではあるのだけれど、まるでこの作家の小説を読んでいるようだとも思ってしまうのは変だろうか。もちろん、ここに書かれていることはフィクションではないだろうけれど、イーユン・リーの小説の一人称の言葉との違いは随分と小さいように錯覚してしまう。彼女の小説に出て来る主人公たちもまた作家同様幾つもの考えに「捉われ」ていることが多いのだと本書を読んで知る。それは自分にも馴染みのある状態と言ったら言い過ぎだろうと思うし、他人が言葉を発しない時、他人が何を考えているのかあるいは考えていないのかを知ることはできないので他の人がどうなのかは解らないけれど、この人もまた頭の中がうるさい、いや五月蠅くて仕方がない、時に苦しい人なのだろうなと思う。それは彼女の天分と母親との関係性も大いに影響してのことなのだろうけれど。そんな内面の考えの渦や、それを少し外側から見ている存在のことを意識すると、「独りでいるより優しくて」に登場する二人の中国からの留学生が、この作家の分断された内面とそれを外側からみている思考の両方を表しているのだろうなと見えて来る。 考え抜いた末に死を選んでしまうことに共鳴する自分を外側から見つめることが出来ること。それは果たして「性」と呼ぶべきものなのか、あるいは「業」と呼ぶべきなのか。この作家のまだ読むべき作品が残っていることを意識する。
次男ジェームズの死を悼みながら、またイーユン・リーの類稀なるパーソナリティに驚かされながら読んだ。どうして二人の息子の死を「因果応報」と切り捨てるような母親から、このような女性が育ったのか。 言語から詩的で音楽的で感覚的な喜びを見出していた長男ヴィンセントの死の際は、対話というフィクションの形を取...続きを読むった『理由のない場所』。哲学的な喜びを見出していたジェームズの死を扱った本作はノンフィクションとなった。 「子どもたちの母親でいた長い歳月、ずっと油断なく気を配っていた」という意識の重さ。それでも結局リー家はどこまでも自由意志を信じ尊重する一家である。「彼は命を絶つ決断を私たちが尊重するのを知っていた」という言葉の重さ。死は別種の新生児、死によって四人家族であることが変わることはない。 編集者や友だちの聡明さや誠実さには舌を巻く。「彼は去りたかったのですから、受け入れなければなりませんね」 「苦しみをわかってて、苦しみについてそんなに上手に書くのに、どうしてぼくたちを生んだの」というヴィンセントの言葉。常人にはこのような子どもを持つこともこのような言葉を受け止めることも難しすぎるだろう。 「ただできることをする」というイーユン・リーの慰めが、ピアノや製菓やガーデニングというところが興味深かった。奈落の底で心安らかに生き続けてほしい。
既読の「理由のない場所」は長男が自死した後の本だったが、なんと2024年に次男も自死してしまったとのことでこの本が書かれたそう。次男のジェームズ君は内向的で無口な性格だったらしく、この本は対話形式ではない。二人の死を受けて母である著者が考えたこと、思い出などが混ざりあってつづられている。 自分の経験...続きを読むを書いていながら文章はどこか客観的で、感情と対応を論理で解析するような内容になっている。それは解離というよりは性格に由来するのだろう。奈落の底で、言葉にならない思いが、周辺をぐるぐる回るように叙述されていくのに胸がギュッとなる。 この人の本はいつもそうだが、中国人の著者が英語で書いたものを日本語訳で読むというまどろっこしさのせいか、なんだか頭に入ってきにくい感じがしてもどかしかった。いっそ英語の方が読みやすいのかもしれない。
2人の息子を自死により亡くした女性のエッセイ。著者自身も自殺未遂をしたことがあるようだ。「私たち(著者とその夫)はジェームズ(著者の息子)が何を考えていたかよくわかっていないけれど、このことだけは確信が持てる。彼は命を絶つ決断を私たちが尊重するのを知っていたこと。」(p.41)という一節が非常に苦し...続きを読むく、けれども親と子供の間にある信頼関係は美しいと思った。子供が自殺する決断を尊重する親だと子供が理解している…究極の信頼関係…。
小説の答え合わせのために著書の人生を覗きたいタイプではないが、『理由のない場所』(イーユン・リーは、それをヴィンセントの本と呼ぶ)に込められた思い、希望のない場所で生きることの意味を知りたくて本書を手に取った(悲しいことに、彼女はこの本をジェームズの本と呼ぶのだ)。 イーユン・リーの言葉を引く。 ...続きを読む “子供たちがーそれぞれの自己に成長する場をできるだけ持てるようにーその感性や特性を尊ぶことは、母親として私にできる最善のことのように思われた。私が子供たちを愛していたのは確かだし、今でも愛しているけれど、愛より大事なのは子供たちを理解し尊重することだ。そこには何より、命を絶つという選択を理解し、尊重することも含まれる。” そしてリーの友人が書き送った言葉。 “知らせを目にして、あなたに何と言うべきか悩み苦しんでいます。ジェームズが自分の居場所を見つける手助けをするために、あなたはできるだけのことをしました。でも、彼は去りたかったのですから、受け入れなければなりませんね ー” おそらく、多くの拒絶や戸惑い、もしかしたら反感を引き起こす考え方かもしれないと思う。 だがこれは、宗教的な救いだとか、悲しみをくぐり抜けるとか、自分を何とか納得させるとか、そんな陳腐な自己本位な考えから出た言葉ではない。 奈落の底でも、論理と事実を投げ捨てずに、我が子について考えて、絞り出した言葉だ。 だから僕は、生半可な共感も理解も及ばない本書の言葉の数々を、静かに黙って、敬意を持って受け取りたいと思う。 ーー “人生に生きる価値はあるのか。もしヴィンセントに訊いたら、あると言っただろうと信じている。それでも、彼なりの言葉で、こんな質問に答えるよう迫ってきただろう。この人生は生きる価値があるかもしれないが、苦しむ価値はあるのか。苦しむ価値があるなら、苦しみに限度をもうけるべきなのか。それとも生きるという名のもとに、疑問を持たず何でも苦しまなければいけないのか。” “ジェームズは真剣に考えた。深く哲学的に、ひそやかに。そして思考で死んだ。生きられる人生には、苦労するほどの価値はなかったのかもしれない。きっと、生きられる人生など求めてないという結論に至ったのだろう。”
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