加藤徹のレビュー一覧
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一般的な歴史で文書化されているのは表向きの政治の場の外廷(げいてい/内廷の対義語)の話であり、プライベートな後宮は正史ではなく野史として、誇張、噂話として広間ているケースが多い。この本でもそのようなものを取り上げている。しかし、その噂話自体がそれぞれの国や皇帝の能力の反映だったりする。明は農民出の高祖が外戚の威力を抑えるべく厳格な申し渡しをしているが、愚帝暗帝が後半多くなり、後宮は彼らがひきこもる場所として機能していたようだ(確かなことは不明確な部分も大きい)。清は侵略王朝として各民族の八旗制をとり、そこで有力氏族を管理していた。康熙帝、雍正帝、乾隆帝、時代以降の清末は西太后がにらみを利かせ政治が停滞してしまった。
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西太后の人生に触れるだけでなく、清の国の統治のあり方、何故、日本と比べ、近代化が遅れたのか等、筆者の個人的見解も含めて踏み込んだ考察もあり、学ぶこと多し。
以下引用~
・「選秀女」は、清朝独特の后妃選定制度である。
秀女とは、皇帝の妃や側室の夫人の候補のことである。清朝では、適齢期の旗人の少女たちの集団面接を皇帝自らが行い、秀女を選んだ。
・臣下どうしを対抗させ、臣下の勢力を分散すること。これは中国の政治の常道であった。毛沢東が鄧小平を失脚させたのち復権させたのも、みな同じ理由である。
・西太后にとっての権勢とは、ずばり崇慶太后の再来になることに尽きた。彼女の夢は、息子の同治帝が無事に成人し、生母である自分を大事にしてくれることであった。つまり、至高の生活文化を満喫することこそが、西太后の野望であった。男の権力者のように強力な軍隊を保有することにも、戦争に勝利することにも、西太后は興味を持たなかったのである。
・和魂洋才と中体西用は、一見すると似ているが、決定的な差がある。「魂」は無形だが、「体」は目に見えねばならない。(日本はソフトな開発独裁国、中国はハードな開発独裁国)
・中国の歴代王朝には、清流と呼ばれる良心的知識人の一派がいた。清流とは、国政の実権は把握していないが、その代わり財界との癒着や腐敗とは無縁で、純粋に天下国家を憂え、堂々と正論を述べる気骨の士たちのことをいう。
・清仏戦争では、清軍の第一線の将兵は勇戦し、フランス軍を破った。しかし、もし戦争がこのまま継続すれば、李鴻章は自分の虎の子である北洋軍閥の兵力を割いて、ベトナムに送らねばならなくなる。
そうすれば、清国の勝利は揺るぎないものになるだろうが、李鴻章の軍閥も多少の損害を免れない。
・西太后が海軍の予算に目をつけ、これを横取りした理由。(頤和園への流用)
①李鴻章の政治的発言を抑制
②銀の海外流出抑制
③国内の主戦論を抑える(60の大寿に向けて) -
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小飼弾氏の「新書がベスト」でおススメされていなかったら手に取る事も無かったですあろうが、非常に良かった。
中国の歴史を俯瞰し、中国人の精神構造、政治、日本との関係等についてとても分かりやすく書かれてある。またここに書かれてある内容は、私個人の中国・中国人との交流における経験とも一致する。
何だかんだ言っても日本と中国は歴史的に1番長い関係にある。近代化の流れの中で必ずしも同じ価値観を共有出来なくなってしまった。今でもそのギクシャクした関係は残っているが、相手の事を理解して大人同士の交流をスタートさせるための手引書として非常に優れていると思う。
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加藤徹『貝と羊の中国人』(新潮新書)は、新しい観点が豊富につまった中国人論。
民族とは2つの異質な集団がぶつかりあって生まれる例が多いとしたあとで、中国もまた平原の農耕民である「殷」と、西域の遊牧民族である「周」の衝突によって「漢民族」ができたと指摘。そのうえで「貝」=多神教的な「殷」の文化=実利を重んじるホンネ主義 「羊」=一神教的な「周」の文化=義を重んじる建前主義 と整理。金儲けと共産主義の共存する中国の複雑さを、この「貝」と「羊」を使い分けに求める。まさに「一筋縄ではいかない」中国人のしたたかさを、すこーんと腑に落ちるように説明してくれているなぁ。なんか、すっげぇ使えそう。
他にも、中国語には「泊まる」と「住む」の区別がないとか。「餃子を食べる(我喫餃子)」も「食堂で食べる」(我喫食堂)も文法的には変わらない大まか言語(食堂を食べたりしないのは、文脈判断)だとか。言語と国民性はもちろん密接につながっていることを考えると、中国的な合理主義というのも、なるほどなーと思えてくる。
著者は本来、「京劇」の専門家とか。歴史うんちくもたーっぷりでたのしい。 -
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『貝と羊の中国人』(新潮新書)がよかったので続けて読んだが、これが全編あますところなくおもしろかった。「日本」とか「日本文化」が成立するうえでの「漢文」の役割を、漢字伝承の昔からさかのぼって検証していくというスタイルだが、トリビアのカタマリとも読める。
そもそもヤマト民族は、漢字文化を吸収するで「日本人」になった。「日本」という呼称自体が和語ではなく、日本人の価値観そのものが漢文から多大な影響を受けている。
考えてみれば今自分たちが使っている現代日本語の語彙のうち、「和語」の割合は「漢語」に及ぶべくもない。日頃あまり意識しない「日本」の輪郭、日常なにげなく使っている「日本語」の別の顔が、「漢文」の目を持つことでくっきりと見えてくる。
たんに「漢文の歴史」を扱っているわけではなく、漢文を通じて日本とは、日本人とは、ということを理解しようという構成になっていて、著者のひろーい教養が惜しみなく繰り広げられている。使える「教養」の本として、中学生から老人まで強くおすすめ。 -
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『中国人とはなんぞや』
を語るには、自分たちの生活体験からかたっても・・・
なかなか、中国は見えない。
というか・・・中国は語れない。
ニンゲンであることは、変わりない
と最近はよく思う・・・。
この『貝と羊の中国人』は、
歴史をさかのぼり・・・
中国の深奥にまで踏み込み(私もだいぶ踏み込んできているが)
中国の国の本質をまるごと大きくとらえる。
ことをしている・・・本である。
それが・・・簡単に言うと『貝と羊』だという・・・
この大胆さ・・・シンプルさに
アッと驚く・・切り口が新鮮だ・・・
あつかましい中国人、騒々しい中国人、不思議な中国人
というより・・・
中国人は、『貝と羊』だ。といったほうが、
よっぽどわからなくておもしろい。
中国人は、昔々・・・いまから3000年前。
『殷』と『周』という二つの民族があった。
『殷』は、東方系の農耕民族で、高度な文明を持っていた。
交易の貨幣は・・子安貝だった。
『殷』の文化は、貝の文化で・・・
寶(宝の旧字体)、財、費、貢、貨、貧、販、貪、貴、貯、買・・・
など、貝にまつわる漢字が 殷の気質の名残という
『殷』人は、自分たちの王朝を『商』とよび・・・
『殷』が、『周』に滅ぼされて・・・亡国の民となり・・・
商人となった・・・。
彼らは、有形の物財を重んじた・・。
それは道教的でもあった
『周』は、遊牧民族と縁が深く、血も気質も・・・遊牧民だった。
そして、羊に縁が多く・・・・。
羊を大切にした・・・
羊は・・・義、美、善、祥、養、儀、犠、議、羨、洋、様、痒・・
など、羊にまつわる漢字が 周の気質の名残という
うつくしい、善い、義理、議論、教養・・・
など、イデオロギー的なモノをこのみ・・・
彼らは、無形の『主義』を重んじた。
それは、儒教的でもあった・・・
中国人は、この二つの流れが入り交じり・・・・
タテマエとしての羊の文化と・・・
ホンネとしての貝の文化を・・・使い分けるようになった。
ふーむ。
なんという見事な・・・ストーリー。
この本をよみおわって、
貝の中国人と羊の中国人・・・・が、いりみだれていた。
声が大きくなっているのは・・・貝の中国人でした。
ハイ。
しかし、
美しいとは・・・羊が大きいと書く。
羊が大きいのが・・美しかったんですね。 -
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読みやすくて、おもしろかった!
気になったことをメモメモ。
・中国の美意識・・・一極集中だという。なるほど。
・海外に流出する中国人。リスク分散のハシュ(←携帯で漢字が出なかった)本能で、どこかがやばくなったら、そうではない親族のもとに逃げるという考え。
・「自分たちは先祖と同じ民族」
・日本は江戸基準 中国は清朝基準
・歴史的な経緯で染み付く、身体感覚・・・トラウマみたいなものか。過去こういうことがあったから、それを避けようとする。今読んでいる『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子)にもそういうことが書いてあったなぁ。感情と感覚。・・・あれ?感覚と感情?
・日本化する=日本化できないものは入ってこない・・・なるほど。カタカナ英語とか、いろいろな概念はやはり「日本の身体」を通して得られるのか。その枠組みを広くできたらいいけれど、いずれにせよ、その長所と短所があるんだろう。
・鶏鳴狗盗・・・日本は均質性の押し付け合いであるが、中国は異質のものもそのまま受け容れる、というのは目からウロコだった。違って当たり前であるから、多種な民族を抱える大国なのだという。なるほどなー。日本だったら、同じか違うかでグループが変わるもんな。そこで階層も生まれる場合がある(身体的な優劣、クラスのイケてるヤツ、イケてないヤツなど)。それは自分にもがっちり当てはまっていて、弱いものに対して守らなきゃとか可哀想とか思うのは、けっこう日本的なところなのだと思った。道徳ではないとは言わないけれど(言えない)、それは平等に扱っていないという意も含んでいる。
・デフォルトは漢民族
・オープンエンド=終わりが分からない・・・西洋はオープンエンドであるがゆえに、自分たちのパラダイムを変えて、未知のものを求める。
・中国文化の美意識・・・陰陽五行的な、初めに枠組みありき
・ブリコラージュ=「手持ちの道具で何とか対応してしまう生命固有の能力をいいます。」 こんなところにレヴィ=ストロース!
・痩せ我慢の美学(日本)・・・騙されてもいい、踏まれても蹴っ飛ばされても、美しい嘘を信じたい。←これに笑った。ははは、でもわかる。
・「西洋では、社会のそのときの「常識」に反する個人の行為が「天才」と讃えられる。一方、東洋では何よりも「調和」が求められる。」
・対人関係にものすごく依存している思考形態
・摩擦抵抗が大きい東洋、小さい西洋・・・結果、そこにエネルギーを費やしてしまう。なるほど。
・今の脳科学では、個人というのは社会的に構築されるものだ、ということが普遍的
・自分の中に異質なものが混ざり合うような動きがない人は、結局リヴァイアサンとしてのエネルギーも出てこない←これは大事な気がする。せめぎ合いの造るエネルギーは、それが負だろうと正だろうと大きい。ちなみに文学の意義のひとつは、このせめぎ合いをいかに、どう、みせるかなんじゃないかな。
・直接本書とは関係ないが、違う本を読んでいたのに重なる部分があると気付くと楽しい。今回(というか今のところ)、先述した歴史的トラウマと、もうひとつ、『ガリヴァー旅行記』。これ、『シンデレラの時計』(角山栄)でも紹介されていたな。よし読もう。 -
本当は危ない『論語』
- カート
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試し読み
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「西太后」は「せいたいこう」と濁らずに読むのが正式な読み方だそうだ。まず最初にそこを確認しておきたいところだ。
筆者は前書きにおいて、本書の目的として「従前の誤った俗説や偏見を排し、彼女の生涯の真実を浮き彫りにすることにある」と宣言しているとおり、「稀代の悪女」というイメージを払拭する内容となっている。私はこの本のよって、西太后のイメージはいかに作り上げられた話や俗説などによって歪曲され、現実とかけ離れたものになっていることに気付かされ驚いた。確かに彼女は独裁者ではあったが、政治的に全く無能だったわけではない。結果的にかもしれないが、西太后こそが近代中国への扉を開いたといえるという。特に清朝末期と重なる西太后最後の十年は日清関係に大きな影響を与えている。
それまでの中国は、いろいろな西欧列強から「いじめ」を受けていたが、中国人の外国人に対する態度は、いわゆる「反日」だけが突出している。「反日愛国」という言葉が存在するくらいだ。日清戦争開戦のおり、清朝の主戦派が「反日愛国」を錦の御旗として政権を批判するの図がこの戦争で発明されたのだという。
反日の激烈さは反英や反仏、反露などとは次元が違うという。「反日愛国」という「正論」には主戦派さえ表だって反対できなかった。このような中国の反日愛国運動の特徴は、清末も今日もあまり変わっていないのだそうだ。
最近の中国は海洋において、国際法上においても明らかに独善的な示威行動を見せたりしているが、いったい彼らがどういう精神構造で「反日」を叫ぶのか、この西太后のいた清朝末期の歴史を学ぶことで見えてくることがあるという。