河島英昭のレビュー一覧
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中世ヨーロッパにおける政治生体や様々なリーダーの栄枯盛衰を俯瞰的に分析し、リーダー(君主)とはかくあるべき
というものを記している。特に、憎悪と軽蔑は避けるよう努めるべきであるが恐れられことは必要である、助言は必要なときに自ら得れば良く、それ以外に進言される助言は不要であるといった内容が心に残った。リーダーの多くの資質について述べられているが、とどのつまり社会情勢や自分や他社の能力や性格をつぶさに分析し、臨機応変に対応する必要があるということだと理解した。今から500年前に記された書物ではあるが、現在の組織にも十二分に適用できる内容となっている。 -
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君主としていかに臣下や人民を抑え統治するか、歴史上の君主の事例から言及されている。その方法には、人を恐れさせる、反逆されないための残忍な方法も説かれているため、現在を生きる自分からは賛同しにくいと感じられるような方法も多い。とはいえ、必ずしも否定できるようなものでなく、当時の時代背景からそのような方法が取られてきたこととその合理性に対する理解はできる。
また、考え方として、相手に恐れられるような存在であること、且つ、相手に憎まれたりしないことが大事であることと、それを維持するためにどのように振る舞うか、どのような施策を打つことが重要であるか、自分の影響力の与え方を考える上での新たな視点としての学びがある。 -
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ネタバレ私生児の「ぼく」が成長し、知恵をつけて独立し、アメリカで資産を得て故郷に戻ってくる話だが、時が行ったり来たりするのと登場人物が多くて整理しきれなかった。
解説を読んで、たくさんの象徴が用いられているのがわかった。
月は死と復活の象徴であり、篝火も夏至の夜、聖ジョヴァンニの祭りに焚かれて再生と豊穣を祈るものである。
最後に、ファシストと通じていた美しいサンティーナが銃殺されて葡萄の枝と燃やされ、その痕が篝火の痕のように残っていた、という描写があるが、それは祭りの供物であり、戦争の供物であったという解説になるほどなと思った。かつての「ぼく」の主人の3人の娘たちは、サンティーナをはじめ、それぞれ男に振り回されて悲惨な死に方をした。一方、孤児院からの月一の入金を目当てに養父に引き取られたようなぼくは、私生児と揶揄され、入金がなくなってからは養家に置いていかれながらも強く生き抜き、戦争と搾取でボロボロになったガミネッラの丘に資産家として帰ってくる。アングィッラ(うなぎ)と呼ばれたそのあだ名が彼の生き方を象徴していると思う。彼の親友で賢いヌートが共産主義的な考え方をするように、戦争やファシズムだけではなくて、金持ちが貧乏人を搾取するあり方への批判も感じられた。
が、難しい。ちゃんと読めてない気がする。 -
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職務に任じられた官吏が財を着服しても知られることはない。水中で泳ぐ魚が水を飲んでも知られることがないように▼射手に放たれた矢はせいぜい一人を殺すか、殺さないかである。しかし、知者により放たれた智謀は、胎内にいる者をも殺すことができる。 カウティリヤChanakya『実利論』BC4世紀 ※マウリヤ朝チャンドラグプタの宰相
民衆を指導する者は正義(社会維持の徳)・知恵・勇気(精神の高邁さ)・節度をもつべき。キケロCicero『義務について』BC44
倫理・道徳と政治は別。善き主君、善き政体を考えるよりも、現実の欲望渦巻く混沌の世界にどうすれば秩序を与えられるか、を考えるべき。「人間はいかに生きるべきか」だけに囚われて、政治の現実の姿を見逃すべきでない。政治は醜く、権謀術数が渦巻く世界。君主は人として善い人であっても、有能であるとは限らない。時として冷酷な判断もしないといけない。君主が善良、敬虔、慈悲深くあろうと理想を追求すれば、いずれ没落してしまう。君主は愛されるよりも恐れられる方がよい。人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷付ける。君主は獰猛なライオン・狡猾なキツネでなければならない。ニコロ・マキアヴェッリMachiavelli『君主論』1516
市民が活発に政治参加し、公共の問題に自ら取り組み、実践することで市民は人格を発展させられる。公共の善によって、個人の利益追求を制約できる。共和政が理想だ▼傭兵は自分の利益のために国を裏切るが、自国愛に支えられた市民軍は国を裏切らない。古代ローマでは市民軍があったから強かった。市民には共和国のために戦う意識を持ってもらい、軍事力を高めるべき。それにより対外的に拡張政策を取る。古代ローマが模範。ニコロ・マキアヴェッリMachiavelli『ディスコルシ』1531 -
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共和制の国を占領するのは難しが、もともと君主制の国を征服して支配することは容易。住民が自由を知らず、支配されることに慣れているから。
加害行為はまとめて短く、恩恵は少しずつ長く。
君主には、良き土台が必要=傭兵と援軍は約立たず。自己の軍が必要。君主は、みずから陣頭に立って指揮官にならなければならない。
ギリシャは援軍をトルコに求めたため、異教徒に隷従する始まりとなった。ローマ帝国の滅亡の始まりは、ゴート人を傭兵にし始めた時。
君主は、戦争と軍制と軍事訓練のほかに業務はない。
君主は高い地位にあるため、誹謗中傷の的になりやすい。
君主はけちん坊と呼ばれることを気にしてはいけない。気前の良さを示すことは滅亡につながる。他人の所有物を分配するときは気前の良さが大事。
冷酷という悪評を意に介してはならない。口先だけの言葉を信頼してはならない。恐れられることと憎まれないこと、は両立する。
信義を守らなくても、勝ることがある。統治には法と力とがある。両方の性質を使いこなすことが必要である。
誠実を身につけて実践することは有害だが、そのようなふりをすることは有益である。
君主は訴えられる、または裁かれる場がないので、結果だけが注目される。ひたすら勝つことが必要。
征服したときは、された側の武装を解除する必要がある。徐々に一体化するよう整える必要がある。
尊敬され名声を得るためには、偉大な事業を起こすこと。力量の愛好者であることを示す。
側近の選定が大事。自分よりも君主のことを考える側近。
追従者から逃れる。自分のききたいことだけを訊ね、決断は必ず自分がする。余計なことは言わせない。
運命には半分くらいが委ねられている。半分は運命が自分に任せている。運命は時代を変転させるのに、自分の態度にこだわり続けると、合致しなくて不運になってしまう。運命は女性だから、慎重であるよりも果敢に組み伏せようとしたほうがよい。 -
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先日読んだスーザン・ソンタグが取り上げていた、パヴェーゼの最後の長編小説。
40歳になった主人公が、生まれ育った故郷の村を訪れる。その村でかつて起きたさまざまなこと、現在のさまざまな様子、あるいは別の土地(アメリカ)で体験したさまざまなことが綴られる。
これもまた、「場所」に関する小説である。時系列が少々入れ替わっており、通時的な「歴史」というよりも、すべての事象が共時態的に「止まった時」のなかに漂うような、そんな場所=時間が描出されている。
この場所に登場する人物が多く、どの名前がどんな人物を指しているのか、ちょっと混乱させられた。
背景として、両大戦にまたがって、ファシスト党のムッソリーニが権力をふるい、それに対抗するパルチザンが活躍し、やがてファシストが滅びる、という暗く陰惨な、激動の時代がある。この小さな村も、そうした歴史性に完全に巻き込まれており、決して独立したユートピアを形成しているのではない。
この小説を読みながら、小説的な言語ということを考えていた。イデオロギーの言語は、人びとを絶えず争闘のなかにたたき込むということを、日頃目にしている。イデオロギー的な言語とは、否定し、排斥し、攻撃するパワーそのものであり、人びとはむしろ、そんな争闘のパワーに操られているだけのようにも見える。(ただし哲学の言語はまた別だ。)
小説の言語とは、それとは全く異なるものだ。それは誰をも攻撃しない。否定するよりもひたすらに肯定し続ける。そうして、構築された言語は象徴的なイメージを結実し、そこにポエジーを生成する。このポエジーは「語り得ぬもの」であるがゆえに、小説の言語を別の言語に交換することは出来ない。
かけがえのないポエジーが、確かにこの小説にも宿っている。