あらすじ
イタリアの寒村に生まれ育った私生児の〈ぼく〉は,下男から身を起こし,アメリカを彷徨ったすえ,故郷の丘へ帰ってきた――.戦争の惨禍,ファシズムとレジスタンス,死んでいった人々,生き残った貧しい者たち……そこに繰り広げられる惨劇や痛ましい現実を描きながらも美しい,パヴェーゼ(1908-50)最後の長篇小説にして最高傑作.
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Posted by ブクログ
あるとき書店で見かけて以来、中身をほとんど読みもせず、これを読むまでは死ぬまい、と心に決めた本である。それを読んでしまったのだが、やっぱり、自分の直感に誤りはなかったと思う。内容についてここであらためて語ることは野暮でしかないので、語らない。まあ、これはどんな話にも共通しているけれど。気になったら読めばいいと思うし、気にならなければ読まなくてもよい。ただ、気になったのなら必ず読んだほうがよい。そんな話。
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残酷さも貧しさも全ては美しい過去となり郷愁の中に葬られる。
地続きの今がその先にあるとしても。
篝火はすぐに焚けないけれど、外に出れば今夜も綺麗な月が浮かんでいます。
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一切が回帰する世界のなかで、物語は象徴に導かれながらすすみ、やがて始まりに到達する。すでに決められた世界から飛躍し、別の物語へと繋がるためには、神話と時代が必要なのだ。
パヴェーゼが目指したのは神々がまだ人間、動物と平等だった時代の共産主義的ユートピアなのだろうか。とすれば、死すべき者は常に不死である神々なのだ。
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p84. どうやって人に説明できただろう。ぼくが求めているのは、かつて見たことがあるものを、ふたたび見たいだけだ、などと?
初パヴェーゼ。作者も作品も知らなかったたので、「ぼく」の背景を知らず、この主人公の行動や人々の会話が何を意味するか分からず、最初は読んでいるだけだった。そのうち、イタリアの寒村の風景、「私生児」アングィッラの暮らしと、戦争で変わってしまった人々と村、祭りや労働の記憶などの味わいを感じた。ヌートのクラリネット、篝火、玉蜀黍の皮、孤児院と小作人、荒家と山羊と榛の茂み、葡萄とポレンタ、チントヴァリーノ老婆、マッテーオ旦那と2人の娘、司祭とパルチザン。貧しさの記憶と故郷パドリーノの家での季節の移り変わり。
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主人公にとってこの村は血の繋がった家族はいなくても様々な繋がりがあり確かな故郷と言える
それが失われていくそんなストーリーだと感じた
時代の変化だとか、主人公の成長、戦争とか様々な形での喪失を味わうことになる
ただ、孤児など弱者に対する容赦のなさは変わらないことを痛感した
暗いストーリーと美しい描写がよかった
Posted by ブクログ
私生児の「ぼく」が成長し、知恵をつけて独立し、アメリカで資産を得て故郷に戻ってくる話だが、時が行ったり来たりするのと登場人物が多くて整理しきれなかった。
解説を読んで、たくさんの象徴が用いられているのがわかった。
月は死と復活の象徴であり、篝火も夏至の夜、聖ジョヴァンニの祭りに焚かれて再生と豊穣を祈るものである。
最後に、ファシストと通じていた美しいサンティーナが銃殺されて葡萄の枝と燃やされ、その痕が篝火の痕のように残っていた、という描写があるが、それは祭りの供物であり、戦争の供物であったという解説になるほどなと思った。かつての「ぼく」の主人の3人の娘たちは、サンティーナをはじめ、それぞれ男に振り回されて悲惨な死に方をした。一方、孤児院からの月一の入金を目当てに養父に引き取られたようなぼくは、私生児と揶揄され、入金がなくなってからは養家に置いていかれながらも強く生き抜き、戦争と搾取でボロボロになったガミネッラの丘に資産家として帰ってくる。アングィッラ(うなぎ)と呼ばれたそのあだ名が彼の生き方を象徴していると思う。彼の親友で賢いヌートが共産主義的な考え方をするように、戦争やファシズムだけではなくて、金持ちが貧乏人を搾取するあり方への批判も感じられた。
が、難しい。ちゃんと読めてない気がする。
Posted by ブクログ
「故郷は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ。」
すべてが“私生児だから”というのが理由になるだろうか?
月は憧れ、篝火は最期の象徴。
Posted by ブクログ
先日読んだスーザン・ソンタグが取り上げていた、パヴェーゼの最後の長編小説。
40歳になった主人公が、生まれ育った故郷の村を訪れる。その村でかつて起きたさまざまなこと、現在のさまざまな様子、あるいは別の土地(アメリカ)で体験したさまざまなことが綴られる。
これもまた、「場所」に関する小説である。時系列が少々入れ替わっており、通時的な「歴史」というよりも、すべての事象が共時態的に「止まった時」のなかに漂うような、そんな場所=時間が描出されている。
この場所に登場する人物が多く、どの名前がどんな人物を指しているのか、ちょっと混乱させられた。
背景として、両大戦にまたがって、ファシスト党のムッソリーニが権力をふるい、それに対抗するパルチザンが活躍し、やがてファシストが滅びる、という暗く陰惨な、激動の時代がある。この小さな村も、そうした歴史性に完全に巻き込まれており、決して独立したユートピアを形成しているのではない。
この小説を読みながら、小説的な言語ということを考えていた。イデオロギーの言語は、人びとを絶えず争闘のなかにたたき込むということを、日頃目にしている。イデオロギー的な言語とは、否定し、排斥し、攻撃するパワーそのものであり、人びとはむしろ、そんな争闘のパワーに操られているだけのようにも見える。(ただし哲学の言語はまた別だ。)
小説の言語とは、それとは全く異なるものだ。それは誰をも攻撃しない。否定するよりもひたすらに肯定し続ける。そうして、構築された言語は象徴的なイメージを結実し、そこにポエジーを生成する。このポエジーは「語り得ぬもの」であるがゆえに、小説の言語を別の言語に交換することは出来ない。
かけがえのないポエジーが、確かにこの小説にも宿っている。