絲山秋子のレビュー一覧
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最近、積読を積極的に消化しようキャンペーンをやっていて、この本も随分と前に古本屋で購入してあった本。
まず、袋小路の男と小田切孝の言い分。
デカダンス的な男女の何とも割り切れない十数年。2人が、世の中で名前がついている関係にならないのは、2人がどこまでも自己愛から抜け出せないエゴイストだからかなと思います。別にそれが良いとか悪いとかじゃなくて、2人はその自己愛の依存関係が心地良いのだから、そういう関係性もあるのだろうけど。臭いモノを、臭いとわかっていながら何度も嗅いでしまうような、そんな気持ちで読み進めてしまった物語でした。
私が好きだったのは、アーリオ オーリオの方。
中年独身男と姪っ子の文通のお話なのですが、中学生の伸びやかな、ともすると宇宙大の思想と、まだ何者にもなっていないただ歳を重ねた少年としての哲が、手紙を通して触れ合う様が美しくて、美しくて、夢中になって読んでしまいました。大人になれば、何かの役目や責任を引き受けなければなりません。それは社会にとって必要不可欠な尊いことなのだけど、親であるが故に子供の将来を心配するがゆえの制限は、1人の人間であるはずの親の思考そのものにも制限を与えていて、本来自由であるはずの思考の世界がどんどん枠にはまっていってしまうものなのだなぁと思いました。それが普通の大人になるということなのかもしれませんが、その不自由さに敏感でありたいし、その制限の逃げ場を常に用意しておきたい。それが私にとっては、読書であり、音楽であり、映画であると思いました。 -
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ネタバレ「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」の三篇からなる中編集。
恥ずかしながら私、「超然」という言葉を知らなくて。
読む前に意味を調べました。
で、「超然」とは、『物事にこだわらず、平然としているさま。世俗に関与しないさま』という意味とのこと。
夫の浮気に超然といようとする妻。
超然とした態度を恋人に罵倒される男。
そして病気に対して人生に対して超然としている作家。
それぞれがそれぞれの問題に対して、どこか悟りを開いたような、一種諦めのような、そんな状況が描かれています。
でも、なんだろうなー。
それって、自分の本当の感情を抑えようとしてるだけなんじゃないかなー。なんてことを、読みながら思ったりしました。
私は、夫が浮気したら怒り狂うだろうし、恋人から理不尽な要求をされたら喧嘩になるだろうし、病気になれば毎日ほろほろと泣いて過ごすだろうし。
それが、一般的な人間の素直な感情だと思います。
でも、ふと思ったのは、感情を露わにして生きて行くのは楽なんだよなー。ということ。
「下戸の超然」の彼女のように、そして怒り狂い喧嘩をしほろほろ泣く私のように。
超然でいること。つまり何事にも無関心でいることって、多分、きっと、すごくエネルギーが必要なことなんですよね。
無関心でいつつ、でもどこかで期待もしつつ、だけどその期待を裏切られた時、大きな傷を負わないように、心のバランスを保っている。それが「超然」なのかなー。
というのが、絲山作品三作目の私の解釈でした。
それにしても「作家の超然」はすごく難しかったー。
勉強して出直してきます -
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大谷日向子の心境はさぞ辛いだろうなと思う。
読んでいる私からすれば、日向子と小田切、お互いの胸の内を読者として知っているから、これはこれでいい関係かもしれないと思うけれど、片思い中の当人にとっては、たまったもんじゃない。ただ、答えが出たら、そこで何かが終わってしまうかもしれない怖さもあり、改めて恋愛の複雑さを思い知る。
はっきりさせていないが、これは恋愛でしょう。
日向子はわかりやすいし、小田切にしても口は悪いし、駄目な部分も多々あるが、クズでもない。日向子への気遣いを持とうとしている時点で、「それだよ、あなたの~は」、と私は思ってしまうが、人の恋路に口出しは無用。だって、相手の心の内を微妙に勘違いしながらも、それでもなんとかなる人間の奥深さを感じたし、絲山さんの書く、人間心理の描写の巧みさもすごい。
それに、辛いだろうなと思う場面もあるが、それと対照的に心底楽しそうだなと思う場面もあり、そこでの幸せそうな日向子を見ていると、求めたいものがあるから、辛いことにも耐えられるのかもしれないなんて思い、そういえば遠距離恋愛していた頃、仕事終わりに、夜中車を走らせて待ち合わせしたことをふと思い出したが、なんでこんなことしてんだろうとは微塵も思わなかった。だから分かる部分もすごくあるし、私も当時の自分の世界が崩壊するのがすごく怖かった。
ちなみに、もう一つの短編「アーリオ オーリオ」は、まだ見ぬ世界の夢と不安に揺れ動く中学生の姪と、それによって違う未来が見えようとしている孤独な男との、ささやかな交流が味わい深い作品となっております。
小田切を庇うわけではないが、印象的な場面をひとつ書いて終わりにします。小田切の生き様を考えると、プロポーズのようにも聞こえてしまうが。
「ありがとう」
消え入りそうな声で日向子が言うと、小田切は、
「俺がこんなとこ来るの、最初で最後だろうな」
と言った。それから声のトーンを変えて、
「最後にしてくれよ」
と低く笑った。 -
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精神病院を脱走し年代物のボロ車で目的の無い旅をする二人の最後は、、、
躁病の主人公と鬱病の”なごやん”は突然にある日精神病院を抜け出し”なごやん”の広島のメルセデスこと名古屋ナンバーのマツダルーチェで目的のない逃走を図る。
九州の福岡を出発し別府温泉、阿蘇山、宮崎市、鹿児島と車中泊を重ねながら南進して行く道中では何故か大量のヒルが降ってきたり、無免許運転、食い逃げ、畑荒らし等社会で生活していれば絶対に取り得ない行動を繰り返す二人。
小説のところどころで町田康ばりの意味不明な面白さに出会うのもこの作家さんの特徴で”なごやん”憧れのポルシェに無免許の主人公がルーチェでぶつけて当て逃げするシーンや国東半島で突然ヒルが振ってくるシーンには思わず笑ってしまいます。
鬱だけど東京の大学を卒業し大手企業に勤めている知性的で常識派の”なごやん”と大学目前で躁で入院してしまった博多っ子の主人公が博多弁・東京弁(標準語)・名古屋弁で当ての無い道中に繰り広げる会話は暖かくユーモア溢れ終着の指宿迄に二人は精神的に新たなステップに辿り着く。
軽快で温かくユーモア溢れ青春のひと時が生き生きと伝わる作品です。
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ネタバレ軽妙な文体で読みやすい。この世代の人はこういう時代を生きて、みたいな世代感が全然分からないためになんとなくぼんやりと霧の中を行くように読み進めていたんだけど、何にも信じられないから神様だけは信じられる、毎日謝ってるっていうバンジャマンの話はすごくわかるなあと思ってしまった。
江崎は大人は生でぬるついて気持ち悪いっていうけど、私は子供の方が生で怖い。神様は人の罪なんて聞かずに応援しろ、祈れって言うけど、ただ聞いてくれるのってむしろすごい応援だと思う。なんか根本が違うんだろうな。江崎はちゃんと人が好きな人というか、結局のところそうだからセクトみたいな活動だってできるんだろう。そう考えると「愛がない」バンジャマンとは正反対の人なんだろう。 -
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『資本論』の一節が頭のなかに響くことに悩まされる花ちゃんが、なごやんという青年とともに精神病院を脱出し、彼の運転する車で福岡から南へと九州を駆け抜ける物語です。
精神病院からの逃走劇ということで、もっとぶっ壊れた内容を想像していたのですが、方言が飛び交う二人の会話と、行き当たりばったりな旅の雰囲気のおかげで、全編にわたって明るさを感じる内容でした。
『資本論』と「逃走」というテーマは、80年代の島田雅彦の作品を連想させますが、東京かぶれの名古屋出身者という設定のなごやんが前時代的な地方コンプレックスを丸出しにしていることが、こうした図式に収まることを拒んでおり、力の抜けた作品世界をつくり出しています。いわゆる80年代的な消費社会論以後の状況をここに読み込むことも可能なのかもしれませんが、ともあれ二人の無謀さに元気をもらえる作品です。 -
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表題作の「イッツ・オンリー・トーク」と「第七障害」の二編を収録しています。
「イッツ・オンリー・トーク」は、橘優子という35歳の女性の物語です。議員候補の本間、鬱病でヤクザの安田、いとこで元ヒモの祥一、そして優子と奇妙な関係をつづける痴漢など、彼女をとりまく男たちとの日常を、タイトルが示すとおり「イッツ・オンリー・トーク」、すべてはムダ話だという調子でえがいています。
「第七障害」は、かつて馬術大会でゴッドヒップという馬とともに出場するも転倒してしまい、馬を安楽死の運命へと追い込んでしまったことに対する懺悔の念をいだきつづけている早坂順子の物語です。彼女のライヴァルだった永田篤や、同居人の美緒との関係をえがいています。こちらは、順子が過去の苦しみを乗り越えるというストーリーでありながら、ドラマティックな盛り上がりを作り込むのではなく、「イッツ・オンリー・トーク」と同様の淡々とした叙述で物語がつづられていくのが印象的でした。 -
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ネタバレ確かにファンタジーのお話。読後にあらすじで考えれば荒唐無稽なんだけど、そこで書かれていることが地に足ついているためにそのことに気が付かないようになっている。
孤独は心の輪郭で、自分のあり方だっていうのは、わかる。輪郭がなければ触れ合うことができないから。でもこの本の登場人物たちはあんまり触れ合おうとはしていない。惹かれていても、みんなどこか別の方向を向いていて、私はこういう話は切なくなってしまって苦手だ。
孤独とともに現れるファンタジー。孤独は人と一緒にいてもある。後で思い返せば、輪郭に触れれば良かったのに、何で孤独に浸っていたんだろう、と後悔することがたくさんある。私は今こう思っていて、あなたはどう思う?という風に、さっさと、ただ聞けばよかったのに…と思う。
河野とかりんは、遅かったけど少し触れ合って、永遠の別れを迎える。片桐は澤田に後押しされて、河野に会いに行く。この本は、大丈夫だよ、と言っているトーンであのラストを突き付けてくるわけで、この距離感を本当に肯定しているのだろうか、と訝しく思う。踏み出して、触れ合っておかなければ、取り返しのつかないことになるんだよ、と言っているんじゃないかと。どうなんだろう。 -
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ネタバレな。なんだこれ?という小説だなあ、って印象。読んでいて、ビックリするほどに「そう行くのか!?」という展開。いやあ、驚きでした。中編?というか、短編?というか、極めて短い、あっちゅう間に読んでしまえるのに、ここまで展開変わるかね?という驚き。
いきなり、主人公と、年上の恋人の女とのエロエロのシーンから始まり。その後。問答無用でフラれる。
学生時代からの女友達が、何故かいきなり。宗教にハマりまくっている。
主人公、気が付いたら、バンバンにアルコール中毒のダメ人間になる。
そっから一応回復?して、まあ、あの、ええなあ、って感じの終盤に、流れ込む。
という。いやもう。え?なんなんこの展開?という、全く予想していなかった流れにドンドンと話、進むんです。ビックリした。なにこれ?なにこれ?という物語。
だが、それが、なんだか、こう、妙に納得できるんですよ。ああ、、、こういうの、、、あるかもなあ、、、ってか、うん。なんじゃこら?この展開、意味わからんぞ?という感じでは、ないのです。なんとも、納得、できてしまうんです。不思議と凄い。
凄い不思議な味わいでした。コレってアリ?ナシ?なんなん?って思いつつ揺れ動きつつ読んで、いやでも、うん。アリですね。って思う。思うに至った気持ちの動き。自分としては。面白かったですね。
どうなんだろう?好きか嫌いか?って、結構分かれるんじゃないかなあ、、、って内容でしたが、自分としては、最初は意味わからん、って思いつつ、途中から愛おしくなり、終わり口は極めて納得。ああ、ええもん読ませてもらいました、という印象。なんじゃこの感想?って感じですが、うん。好きです。こういうの。決してアルコールに溺れないようにしたい、、、という気持ちを、できるだけ持ち続けたいです。うん。
それにしても「ばかもの」って。「馬鹿者」ではなくて、なんか、ひらがなで「ばかもの」って、愛があるなあ、って、思いますね。日本語って、いいなあ。 -
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ネタバレ中編「小松とうさちゃん」
短編「ネクトンについて考えても意味がない」
掌編「飛車と騾馬」(小松とうさちゃんの前作)
たいてい読んだ小説に関しては、エバーノートや未公開メモに詳しめのあらすじを書くのだけれど、本作はその必要はなさそう。
50代冴えない男の、これが最後かもしれない恋を、40代のネトゲに嵌っている飲み友達が応援する。
実は相手にも事情があって……、という内容。
断章ごとに視点人物が変わる。それが3人、と思いきや4人。
タイトルふうに言い直してみれば「小松と、宇佐美と、みどりと、ほんのちょっとだけ八重樫と」というところか。
偶然が幾つか起こるが、それが虚構的に嘘っぽくなく、とはいえ事実のんべんだらりべったりの散文と違って、この偶然って面白いねーと思えるというくらいの絶妙なリアリティラインで成立している作品。
しかし個人的には、ラインを越えてあえてご都合主義的あるいは作者の恣意的、と見做せるレベル、に注目しておきたい。それでもいいのだと。
さらに俯瞰してみれば、語り手の中年女性みどりが、若者(八重樫)も少し年下(宇佐見)も、本命の同い年(小松)も3人全員、無意識的に手玉に取っておいて自分の術数にはまるで無自覚、というやや怖い構図になるが……そこまで深読みできながらも、する必要がない、という作り。
みなどこか、平均的・標準的・普通の幸せ(親世代の常識)を、掴み損ね、静かな諦観を感じながらも、自分の現状をさほど恨んだりしない。この、よさ。
掌編は措いておくとして、短編「ネクトンについて考えても意味がない」は……おお、私自身の小説だ。