あなたは、『三十五歳』という時代をどのように思うでしょうか?
このレビューを読んでくださっている方の年齢はマチマチです。『三十五歳』を、未来に見る方もいれば遠い過去に見る方もいる、そして、現在進行形という方も間違いなくいらっしゃるでしょう。同じ『三十五歳』と言ってもそこに見えてくるものは異なるはずです。
では、『日本人女性の平均寿命は、八十七歳と少し』という現代社会にあって、『一生を六十分のドラマと考えたら』『三十五歳』はどのような時代になるのでしょうか?
『三十五歳は起承転結の起が終わり、承の半ばに差しかかろうとしているぐらいだろう。これから転があり、結はずっと先で、何が起こるかまだわからない』。
確かにこの考え方には一理あると思います。
『とにかく、三十五歳は、まだまだ若いはずだ』。
この考え方は間違いないのだと思います。しかし、本当にそうでしょうか?『まだまだ若い』と呑気に構えていても良いものなのでしょうか?
さてここに、『今日で三十五歳になった』という一人の女性が主人公となる物語があります。カフェの副店長として仕事に奔走する主人公を見るこの作品。そんな女性が『これが、恋なのだろうか』という瞬間を感じるこの作品。そしてそれは、”30代女性が読むと、共感が止まらなくなります。胸キュンも少し”とおっしゃる畑野智美さんが綴る”恋愛物語”です。
『六月二十二日、今日で三十五歳になった』と『目覚まし時計』の『ボタンを押して止め』るのは主人公の葛城命(かつらぎ めい)。『とにかく、三十五歳は、まだまだ若いはずだ』と思うメイですが、『でも、若くなんてないのだ』とも思います。『子供もいなければ、結婚もしていない。八年前、二十七歳の誕生日に、十年間付き合ったフウちゃんと別れてから、彼氏もいない。好きな人もいないし、気になる人もいない』というメイは、『だからといって、恋愛を諦めたわけではないし、仕事に人生を捧げていて恋愛どころではないわけでもない』という今を思います。『もう起きなくてはいけないと思っても、起き上がれない』というメイは、『高校二年生、十七歳の誕生日の放課後、同級生だったフウちゃんに告白された』時のことを思い出します。『「葛城のことが好きだから、付き合ってほしい」と言われ、うなずいた』メイは、『窓から陽が射して、世界が輝いて見え』ます。『十八年も前のこと』にも関わらず、『ほんの数年前のことのように感じる』というメイは、ようやく『起き上がり、ベッドから出』ました。そんなメイは、『キートスという』『駅の反対側にあるカフェ』で副店長として働いています。『北欧風にまとめたお洒落な店として、雑誌の取材も何度か受けているが、チェーン店』という『キートス』へと出勤したメイは、『新卒で今年入社したばかりの社員』である杉本を探します。そんなところに『おはようございます』と『鶏の唐揚げを揚げてい』た『ベテランアルバイトのレナ』が声をかけてきます。杉本のことを訊くと『レジ開けしています』と言われホールへと向かうと、『レジの前に立って、ぼうっと天井を見上げ』る杉本の姿がありました。『どうして、レナちゃんが唐揚げを揚げているんですか?』と訊くメイに『早いですね』と言う杉本。『オープン準備ができているか確認するために、早めに来たんです』と返すメイは、『今日のシフトは十一時から二十時までの中番だが、三十分前に来』ました。『僕ができないって疑ってるんですか?』と言う杉本に、『疑ってるわけではないです。初めてひとりで入ったら、完璧にできないのは当然だから。それよりも、最初の質問にまず答えて』と返すメイは、質問を繰り返します。それに『僕ができないって言ったら、やってくれるって言うから』と答える杉本は、『レジ開け』も『なんか、わかんなくなっちゃった』のでできていないと説明します。『マニュアル、渡したよね?』と訊くメイですが、『今の時代、紙のマニュアルっていうのも、違う気がする』等言い訳ばかりする杉本。『帰国子女で』『今年で二十五歳になる』杉本は、『すごくかっこよくて、背が高』く、『配属されてきて三週間しか経っていないのに、彼目当てのお客さんもいるくらい』の存在になっています。そして、『笑顔で頼まれると、断れなくなってしまう』という『アルバイトの女の子たち』。『店長は未だにガラケー使っていて…やっていることの古さに気づけずに、昔のままで何も変えないでいいと思っている』と続ける杉本に、『わかった。そういうことは、店長がいる時にまた聞きます』とだけ言うと、更衣室へと移動したメイ。『杉本君と話していると、大事にしてきたものを無神経に壊されている気分になる』と思うも『わたしが怒って反論したら、仕事が進まなくなる』と思うメイは、『まだひとりで厨房のオープン準備ができないかもしれない、と思いながら任せたわたしと店長の判断ミスと考えた方がいい』と結論します。そんなメイは『十一時に開店してすぐに来る常連のお客さんがいる』、『その人は、必ず鶏の唐揚げの南蛮漬けランチセットを頼む』と『開店までに、レジ開けをして、レナちゃんが揚げた鶏の唐揚げを南蛮漬けのタレに漬けて、他の下準備ができているか確認しなくてはいけない』と考えつつ、『まずは、制服に着替え』ます。そして、『開店してすぐに来る常連のお客さんは、レジカウンターの正面、ガラスに接した椅子席に必ず座る。眼鏡をかけ、スーツを着た男性で、いつもひとりで来る』と思うメイ。『雨の日も、雪の日も、台風の日も、欠かさずに来て、同じ席に座る。そして、鶏の唐揚げの南蛮漬けランチを頼む』という客が『いつも通りに注文されたので、いつも通りに出した』というメイ。そんな『メイ』に『あのお客さん、いっつも来ますよね』と『小さな声』で話しかけてきた杉本に『七年間、毎日来てるから』と返すと『マジっすか?』と『引いているような目をする』杉本は、『何してる人なんだろう。毎日、スーツですよね』と続けます。『ずっと謎だった』客の『正体が判明したのは、四年前』のこと、『新しくアルバイトに入った女の子が彼』のことを知っていました。『彼は、隣の駅にある予備校の数学教師』で『羽鳥先生といい、数学のカリスマ講師として有名な人』と知ったメイは、『年上だろうと思ってい』ましたが、実際には『同い年』でした。『あのお客さんが何してるか、わたし知ってる』と語るメイは、『教えないけど』と続けます。それに『ええっ、教えてくださいよ』と『かわい子ぶっているような、言い方をする』杉本を見て、『特定の彼女はいないらしい。だが、特定ではない彼女は何人かいるようだ。かわい子ぶれば言うことを聞いてくれたり、お金を出してくれたりする年上の女もいるのだろう』、『彼の性格は三週間でよくわかった。どんな顔をしても、わたしはだまされない』と思うメイは、『教えません。それより、お喋りしている場合ではないよね』、『厨房で、ランチの準備をしてください』と指示を出します。『キートス』で副店長として働くメイの三十五歳の今を見る物語が描かれていきます。
“三十五歳の誕生日を迎えたメイ。「いつから彼氏いないんですか?」「何が目標なんですか?」 ー 失礼な後輩に憤慨しつつも、カフェの副店長として働く日々はそれなりに充実している。毎日同じメニューを頼むお客さんも、そんな日常の一部だったのだけど…。久しぶりの恋に戸惑う、大人になりきれない私たちの恋愛小説”と内容紹介にうたわれるこの作品は、1979年5月にお生まれの畑野智美さんが39歳の時に刊行されています。
そんなこの作品は内容紹介だけでなく、本の帯に”8年ぶりに、恋をした”と大きく記されている通りそこには”恋愛物語”が描かれていきます。ただ、それ以上にこの作品を読んで感じるのは『三十五歳』という人生の分岐点にさまざまに思い悩む女性の姿をリアルに描いていく物語です。その一つが”恋愛”であることには違いないのですが、そこにはその先の結婚、子育てというものを俯瞰する感覚、一方で仕事に対しての思いが対になるように描かれていくのです。そんなこの作品を執筆するに至る畑野さんの思いを”小説丸”というサイトに見つけましたのでまずはご紹介しておきたいと思います。
“『大人になったら、』を構想していた頃、2015年に『感情8号線』を出しました。それとは違うタイプの恋愛小説を書こうと考えていたとき、30代半ばの友人や知り合いと話していると、みんな恋愛や結婚で、すごく迷ったり悩んだりしていました。
女の子は「結婚したい」「子どもがほしい」、でも「相手がいない」と言うんです。彼女たちの周りには、相手になりそうな男性がいないわけじゃないのに、何で?と思っていました。だけど男性の側も「結婚したい」「けど、彼女もいない」と言うんです。すぐ近くに対象がいるのに、なぜ?と不思議でした。ほしいものはすぐ近くにあるのに、実際に何を求めているのか、よくわからない。30代半ばのモヤモヤした空気感に触れて、『大人になったら、』を書こうと考えました”。
少し長い引用ですが、畑野さんのおっしゃりたいことが朧げながらも伝わってくるように思います。短いようで長い人生、その中に私たちはさまざまな悩みと葛藤しながら生きていきます。それは将来が見通せないからこその悩みでもありますが、未来に無限の可能性があった20代までと異なり、30代という時代は、その先に見える景色がよりハッキリしてくる分さまざまな思いに囚われる年代だと思います。まさしく、”モヤモヤした空気感”が漂う時代なのだと思いますが、この作品の主人公・メイは、『十年間付き合ったフウちゃんと別れ』たことで結婚という未来が見えなくなり、一方の仕事においてもまさかの『店長試験』を『三年連続で、不合格』という結果の先に『副店長』という今の人生を生きています。そうです。この作品は、”30代半ばのモヤモヤした空気感”の中に一人の女性の”恋愛”と”お仕事”を見る物語なのです。
では、まずは”お仕事”から見てみましょう。”お仕事”という意味で外せないのはこの作品の多くの場面で舞台となる『北欧風カフェ』『キートス』です。
● 『キートス』ってどんなお店?
・『店の名前は、キートスという。Kiitosと書く。フィンランド語で、「ありがとう」という意味』
・『青い看板に白い壁の外装は、フィンランドの国旗の色をイメージしている。内装も北欧風にまとめたお洒落な店として、雑誌の取材も何度か受けているが、チェーン店』
・『都内はここだけだが、札幌と大阪にも一店舗ずつある』
・『北欧風のカフェでも、ごはんとおかずと味噌汁という定食屋のようなセットをメインとしている。開店と同時にランチタイムがはじまる。十二時になるころには満席になり、十四時までは途切れずにお客さんが来る』
どことなくイメージができるかと思いますが、『北欧風のカフェ』は国内3店舗の一方で『系列店』には『赤と緑と白の看板を掲げたイタリアンレストランや安いことが売りの居酒屋やデザートに力を入れているファミリーレストランもある』というかなり大規模なレストランチェーンというのが組織の実態のようです。そして、主人公のメイは『北欧風カフェ』『キートス』で、副店長として店長を支えつつ店舗の運営を切り盛りしていく姿が描かれていきます。なかなかに気苦労が多い仕事のようですが、まとめるとそこには3つのドラマが描かれています。
・『問題を起こすようなミスはしない。仕事をなかなか憶えないくせに、頭はいいのか、適当に立ち回るのはとてもうまい』という新人の杉本への指導の中で『杉本君と話していると、大事にしてきたものを無神経に壊されている気分になる』と苦悩する姿を見せるメイの物語
・『大学生の子たちの試験やサークルの合宿、フリーターの子たちのかけ持ちしているバイトのスケジュール、諸々を考慮して作らなくてはいけない』というシフト作りに代表されるさまざまな人が働く職場の中で気配りを重視しなければならない副店長ならではの仕事に奔走するメイの物語
・『三年連続で、不合格になる人なんていない』と、『店長試験』に落ち続け、『このままでは、わたしは、四十歳になっても独身で副店長という不名誉な感じのパイオニアになってしまう』とこれからの自身の行く末を不安視する中に、自らの進むべき道を模索するメイの物語
まさしく”お仕事小説”の醍醐味を見せてくれる物語がそこに展開していきます。これは、リアル社会でも同じことでしょう。仕事のなんたるかを覚える時期を過ぎ、後輩の指導にあたりながら、会社員としてその先を見据える動きが見えてくる時代、それが30代だと思います。女性ならではの複雑な思いの先に悩みを深めていくメイ。そんなメイが”お仕事”の側面において結末でどんな姿を見せてくれるのか、これは間違いなくこの作品の一つの読みどころです。
そして、もう一つが”恋愛物語”としての側面です。主人公のメイには、高校時代から十年にわたって付き合ってきた男性がいました。それこそが、フウちゃんと呼ばれる男性・風太の存在です。『フウちゃんと付き合っていたころは、結婚したいと思っていた』と過去を振り返るメイ。半同棲という時代を過ごしてきたメイは、『フウちゃんと結婚して子供を産むという未来を、一度も疑わなかった』という思いの中に生きていました。しかし、あることが原因でそんな時代は一気に終わりを迎えます。
『わたしはどうして、フウちゃんと結婚したいと考えていたのだろう。フウちゃんは、わたしにとっても、結婚を現実的に考えられる相手ではなかった。結婚しようと言い合っても、子供のままで、ままごと遊びをしているようだった』。
そんな風に過去を振り返るメイは、だからと言って新たな恋に踏み出すこともできない今を生きています。
『結婚したいのか、子供が欲しいのか、よくわからない』
高校時代からの友人であるみっちゃんに『考えるだけじゃ駄目なの。行動しないと。あっという間に、四十歳になっちゃうよ』と言われるメイですが、自分が何をすべきなのか、何をしたいのかがそもそもわからなくなっていきます。
『恋人がいたから、結婚したい、子供を産みたいと思っていたのであり、わたしひとりでは、どうしたいとも考えられない。その可能性を考えられる相手もいないのに、結婚や出産を望むのは、おかしい気もする』。
そんな風にある意味で自身の置かれている立場を冷静に分析してもいくメイは、『出会いがないわけじゃない』と、『店長や杉本君の他に、羽鳥先生や鯨岡さんというお客さんもいる。大ちゃんの他にも男友達はいるし、マスターみたいによく行くお店の店員さんと話したりもする』という周囲の状況を見渡します。しかし、
『考えて悩んだところで、誰もわたしのことを好きなわけではないから、話は進みようがない。そして、わたしは八年間、誰のことも好きになれなかった』。
結局のところ堂々巡りを繰り返すメイの姿が描かれていきます。これでは、読んでいてもどかしい思いが読者の側にも込み上げます。そんな物語は、漠然と恋の思いに悩むメイが、上記した通り、”お仕事”に奮闘する姿が描かれていきます。
『子供を産むのも、店長になるのも、何をするのも、早い方がいい。でも、三十五歳では、もう遅いんだ』。
『三十五歳』 という、人生に思い悩む時代だからこそのさまざまな葛藤の日々を生きる主人公・メイのリアルな日常を描いていく物語。そんな物語は、主人公が悩みの中にいることもあって、なんとも鬱屈とした読書の時間が続きます。何事にもおいてもなかなか前に進まない、あまりにもどかしく、場面によっては腹立たしい思いを見せながら物語は展開していきます。そんな物語は、後半数ページになって一気に動き出します。後半数ページ、さらには後半数行に、それまで見えていた鬱屈とした世界が一気に別物に展開する驚き。読者の心をも幸せが包み込んでいく鮮やかな展開。ある意味で読者の大半が予想していたであろう展開にも関わらず、自然とあたたかいものが込み上げるその結末に畑野さんの上手さを改めて感じさせる、そんな”恋愛物語”がここには描かれていました。
『いい人生とは、なんなのだろう。恋愛や結婚が全てではないと思っても、好きな人と一緒にいることがいい人生という気がする』。
そんな思いの先に続く主人公・メイの思いの丈を見るこの作品。そこには、”8年ぶりに、恋をした”というメイの揺れ動く内面が丁寧に描かれていました。カフェの副店長の”お仕事”のリアルを見るこの作品。”恋愛物語”の味わいを堪能するこの作品。
『三十五歳』という複雑な思いが交錯する時代のリアルを鮮やかに描き出す素晴らしい作品でした。