p.5 手取り足取り丁寧に示せば、受けては無違反でそのナレッジを受け止めてしまう。その結果出来上がるのは、「教える人の劣化コピー」です。だからこそ、何かを教えるときは、全体像を見せてはなりません。全体像は、ショートケーキの「いちご」のようなもの。何かを教えるときに、教育効果の最も高い「全体像を考える」と言う行為を、教える側は奪ってはならないのです。
p.39 本の中には自分では経験し得ない他者の知見が詰まっています。自分では決して届かない深さまでの考察にたどり着いた人、自分では決してできない広がりの研究にチャレンジした人、そんな人生の先輩たちの経験は、全て本の中に存在します。古くは二千数百年前からそのストックが残っており、そして望むならば、ほとんどの知見はいつでも入手することができるのです。
p.43 私たちの前には2つの扉があります。片方は「終身学習刑」と言う扉、もう一方は「終身エンタメチャレンジ」と言う扉。さて皆さんはどちらを選ぶでしょうか?変化の時代、「学び続けなくてはならない」と言うメッセージに溢れていますが、どうせ学び続けるのであれば、楽しく学び続けたいですよね?
p.48 ここで言う「魅力的」と言うことの意味は、短時間で効率的に情報を吸収できることです。例えば、何かを知るためにYouTubeの解説動画を作れば、誰かがわかりやすくその概念を説明してくれているでしょう。見栄えのする動画と音声が視覚と聴覚を同時に刺激し、一気に脳内に飛び込んできます。時間あたりの情報量が多い分、短時間で効率的に吸収できるはずです。
しかし、情報量が多いと言うのは、受け手側の私たちは情報を受け取ることで精一杯になってしまうと言う事でもあります。いわば、圧が強い。つまり、映像を見ている間の私たちは、飛び込んできた情報を吸収することに脳のリソースの大半がされてしまい、自分でじっくり考えると言うことがおろそかになりがちなのです。
その一方で、本は動画ほど短時間でコンパクトに情報収集ができません。テキスト化、せいぜい図表位しかありませんので、五感のうち使われるのは主に視覚だけ(もちろん、本の手触り感などはありますが)。非常に圧の低いメディアです。
ただし、情報量が少ないと言う事は、自分の思考を投入する余地があると言うことです。本に話しかけても何か返ってくるわけではないと言う意味では一方的なのですが、本を読んでいる間の私たちは、様々なことを思考しながらページをめくっているわけです。動画や音声とは異なり、自分でコンテンツを消化するペースを決めることもできます。つまり、本には五感的にも時間的にも、思考できるだけの「余白」が十分にあるのです。
p.81 本は「問い」と「答え」が自分にとって新しいかどうかを整理することで、3つのカテゴリー、つまり「問いの発見」「答えの発見」「既知のリマインド」に分けることが可能になります。
p.85 確かに、コミュニケーションの発信者の視野そのものを見ることができません。したがって、そのシェアが確認できない以上、今お互いに語り合っている「木」と言う存在は、果たして同じものなのかを確認することができないのです。
そう考えると、私たちが押し疎通しあっていると言う事は、単にわかったつもりになっているだけかもしれない。ウィトゲンシュタインは、その前提の不安定さに何ら疑問を持たない私たちを客観的に見つめ、そして、その中で「なぜ他者とコミュニケーションができるのか?」と素朴な「問い」を投げかけてくるのです。この「青色本」と言う本が持つこの根源的な「問い」も、私にとっては今までは自分に問いかけたことがなかったみちのものであり、私に影響を与えた1冊なりました。
p.90 ドナルドホフマン」世界はありのままに見ることができない」
この本は、「私たちは世界を正確に見ることができているのか?」と言う「問い」に対して、その答えをノートしつつ、その背景として「この世の中で適応するための進化が、正しい認知を阻害している」と言う会予定をしました。「私たちがこの世の中をどう認知しているのか?」と言う「問い」そのものは、常に私が疑問に持っているものであり、「問い」そのものは私にとって新しいものではありません。しかし、その「答え」として「進化」「適用」と言うキーワードを踏まえて提示したこの本のメッセージは、とても大きな発見でした。この概念を、ホフマンはパソコンやスマホの「インターフェイス」と言う比喩で説明します。
私たちは、スマホの写真アプリのアイコンの後に、本当に物理的な写真が存在していると思って押しているわけではありません。実際に存在するのは、二進法をベースとした無味乾燥のデジタルデータです。しかし、私たちはアイコンの裏側にあたかもリアルな写真があるものとして振る舞うことができる。それは、このスマホやアプリの使い手がそのようなインターフェースに仕立てただけのことです。実在は非常に複雑であり、直感的に理解することができません。
そして、この世の中も同じように、私たちの目に見えているものは実在ではなく、単なる人間にわかりやすいインターフェイスなのかもしれないのです。
例えば、人間は紫外線を見ることができません。しかし、インターフェース上では「日焼けした」と言うサインで感知することができます。人間がサバイバルするためには、それくらいのインターフェースで充分と言うことなのです。
もし紫外線を含めた光子光線が見えてしまうと、情報過多でより高度な脳が必要になり、そのためにはより多くのエネルギーが必要になり…結果的には生き残ることができなかったでしょう。だから、今の人間は、この世の中を生き残るためのギリギリ最低限の認知をしているのだと。
このホフマンが提示した「答え」は、私が長らく抱えていた「問い」への補助線として、とても新鮮なものでした。
→HSPが疲れやすいのもこれ?
他の人が見えない・聞こえないものが見え・聞こえている=情報過多になりやすい。紫外線が見えているのと一緒(surviveすることを1番に考えた時、生物としての人類としては劣性にあたるのかもしれない)
p.98 一般論を言えば、「ケチのリマインド」に偏ってしまう人が多い傾向にあります。先ほど述べたように、「問いの発見」のカテゴリーは、世界の見え方そのものを刷新するために、読書の際の体力の消耗が激しい。「答えの発見」のカテゴリーも、それなりにカロリーを消費します。だから、読書となるとどうしても自分が知っている「既知のリマインド」に偏りがちなのだと思います。
特に「口のリマインド」は、自分の「正しさ」を証明してくれる本が多くなるため、不可もなく、スピーディーに読めます。そのため、おのずと「冊数」と言う観点で読書量を稼ぐことができます。
しかし、読んだ本の冊数だけは増えても、全く成長していない可能性があります。なぜならば、「既知の問いと答え」の話の中でループしているからです。いくら本をたくさん読んでいても、「世の中って、やっぱり自分が思っている通りだよね」「やっぱり自分が正しいんだ」としか思えなくなっているとしたら、それはちょっと危険な状態かもしれません。
p.101 近くにあったのに気づかずに踏み込んだことがなかった世界。そんな「未踏の世界への入り口」に気づくためには、他者の力が必要になります。それを実現できるのが、他者の思考を言語化した「本」と言う存在です。自分では当たり前すぎて気づかない。だからこそ、「新たな問い」を提供してくれる「本の力」を使うのです。
p.110 教員と言う立場で前に立つものの、受講生として来ている人たちはほとんどが自分より年上であり、経験豊富なビジネスパーソンばかりでした。その人たちを前にして、若造の自分が何をどう話せばいいのか。
もちろん、教えるべき領域の知識量こそ(準備をしているから)それなりにありますが、それ以外の領域においては、私自身の経験から語れることなんてほとんどない。さて困った…。私は登壇前に、登壇科目の準備をする一方で、自分なりの戦略を考えました。
そこで見出した答えは、徹底的に他者の力を使う、と言うこと。この他者の力とは受講生の力であり、そして本の力です。
例えば、とある受講生から、授業の内容からそれた(でも本質的な)「問い」が出たとしましょう。「荒木さんの言うことはわかりました。でも、私はこういう状況であり、こんな時はどうしたら良いでしょうか…?」と。
そんな時に、まずは受講生の力を使うわけです。「なるほど、良いといいですね。これに対して他の皆さんはどうお考えですか?」と。経験豊富な人たちが集まっている場なので、皆さんから良いアドバイスはいろいろ出てきます。その間に、私の頭はフル回転しながら、その問いに適切なヒントになる本を探すのです。
そして、おもむろに「なるほど、皆さんのアドバイスとして、大きく2つのパターンがありましたね。1つ目は…。2つ目は…。その上で、それらの点を深く理解するためには、「〇〇」と言う本を読むことをお勧めします。実はこの本には、〜と言うことが書いてあるので、この2つのヒント包含した内容になっています」と言うようなメッセージを出すのです。この中に、私自身の直接的な意見は入っていません。受講生の意見と、本の引用のみ。この形であれば、経験に劣る自分でも付加価値をさせるはず。この方程式に可能性を見出した私は、そこから必死になって本を読んだわけです。
p.121 共通項探しゲーム
「一見違うけれど、実は同じ」と言うことを見いだす抽象化のスキルを高める
例えば、「仲間に助けてもらった事はあるか?」「良いチームを作るために心がけている事は何か?」など。この部屋で会話が成立すれば、一気に心理的な距離が近くなります。つまり、一見するとバラバラな属性の2人であっても、抽象化した瞬間にお互いの心の間に「航路」ができるのです。
p.130 ①具体偏重タイプと②抽象偏重タイプ
①具体レイヤーにこだわりや興味関心がつよい人は、一般的には抽象化が苦手である傾向にあります。目の前の過去の事象にこだわりが強く、一つ一つをこだわりを持って丁寧に考える。しかし、その子子の事象を貫く法則や共通項などにあまり関心が向きません。8割型のビジネスパーソンは、この「具体偏重タイプ」のような気がします。
→「1を聞いて1を知る」を繰り返している可能性が高い
②自称横断する法則やメカニズムにはつよい関心を示す一方で、具体的な出来事にはそれほど関心がわかない傾向があります。組織内では2割位の人が該当するマイノリティーです。このタイプの方は、読書した後の実践段階での「問いの舞台が」て壁にぶつかることが多いです。抽象的な概念レベルで満足してしまい、目の前にある具体的な課題にどう当てはめて、どう具体的にどう行動していくのか、ということが放置されてしまうのです。
→この概念は、自分の身の回りで言えば、例えばどういうことなんだろうかと言うように、「例えば」の問いを自分に向けてみると良いでしょう。
p.132 抽象化の最大のメリットとは?
それは、複数のものを共通の特徴を持ってグルーピングして「同じ」とみなすことで、1つの事象における学びを他の場面でも適用することが可能になることです。つまり「1を聞いて10を知る」(実際には、10どころか100万でも可能)です。
p.148 谷本を閉じてそのまま本棚に戻すのではなく、せめて何が書かれている本なのかと言う概要だけは把握しておくことです。せっかく1度は興味を持って手に取った本ですから、「この本の『問い』と『答え』どのようなものなのか」と家概要把握しておくのです。例えば、私は、パラパラとめくって目に入ってきた子単語の1000胡屋店最終章八戸学院に目を通し、印象的な部分に付箋を貼っておきます。「目に入ってきた単語」と言うのは、自分が興味関心がある言葉のはずなので、その前後の文章は比較的理解しやすいのです。
p.145〜 読書の病
・完読の病(途中でやめてもOK)
・コミットメントの病(平行読書OK)
・積読の病(積んであってもOK)
→積読環境はビオトープである
・実践の病(感じるものとわかるもの、わかるものと実践できるものには大きな差がある)
・読書時間不足の病(生活の中の読書の優先順位を考えよう。別に一位じゃなくたって良いぜ)
p.184 「脳内のSnowdome」の沈殿物を増やそう
私たちの頭の中は、飾られている時のスノードームの中のように、読書を経て蓄積された知識が見えない部分に沈殿しています。普段は低迷に沈殿しているのですが、バイブからの刺激によって振動が与えられると、一気にそのすぐがふわっと舞い上がります。そして、その舞い上がった粒同士がつながると、新しい模様を作ることになる。その瞬間的にできた新しい模様こそが、また新たな発見であり、インスピレーションなのです。
例えば、私は人と対談しているときに相手の言葉に着想を得て、「そういえば、この前、読んだ本でこんな言葉がありまして」と言うように、1つのキーワードからの連想がどんどんつながって浮かんでくることが頻繁にあります。これは、まさに藤原さんの言う「沈殿物」が脳の中にたまっていたところに、誰かの言葉が刺激となって脳内が確保され、浮き上がった知見が変わる形状を作っていったパターンです。
そう考えると、何か新たなアイディアを見出そうと思ったら、私たちは日ごろから脳内の沈殿物を増やす必要があります。沈殿がなければ、粒のないSnowdomeのように、シェイクしても形作られるものは何も現れてこないのです。そして、異質な沈殿があればあるほどシェイクされて浮き出てくる形状がユニークになるのです。
p.202 「熱狂」と「懐疑」のバランスに答えがある
本を読む読書と本に読まれる読書の違いはどこにあるのか?ー「熱狂と懐疑のバランス」に答えがある
本を読んだ後、そのメッセージを深く理解し、一片の曇りもなく「その通りだ!」と思った状態を「熱狂10割」としましょう。一方で、読んでもその主張の意味することを理解できない、同意できない、などネガティブな読後感だけで終わったのだとしたら、その状態を「懐疑10割」とします。
理想は、熱狂七割、懐疑三割。
その読後感とは、具体的には、おおよそのメッセージを理解共感できた、と言う感触とともに、一方で未だ風に落ちていない、もしくは「それは本当なのか?」と言う感情が相まっている、と言う読後感です。人にとっては、これを「よかったけど…何かもやる」と表現するかもしれません。
→本を読み終わっても「もやる」と言う事は、読書こそ終われど、その後も本質的な意味での読書は続く、と言うことです。新たな「問い」を抱かされるから、ファイルを閉じられない。でも早く閉じたい。そのような時、私たちはその居心地の悪さを解消するために、まだ1本を読み、人に話を聞き、必死にファイルを閉じようとするのです。この「会議3割」と言うのは、その後の活動の原動力にもなるのです。…そしてこの「懐疑3割」こそが、「本に生まれない」ための、大切な自我の確立でもあるのです。
p.217 「問い」を持ち、それに対して考え続けること
その重要性を語るにあたり、触れておきたい本があります。それはハンナアーレントのエルサレムのアイヒマンです。
ユダヤ人を強制収容所へ送り込む責任者だった元ナチス親衛隊13、アドルフアイヒマンの戦争犯罪を暴くエルサレム法廷の様子を描き、刊行当時、多くの物議をかもしました。もしSNSがある時代であれば、「大炎上案件」となったのは間違いないでしょう。では、なぜ物議をかもしたのか。それはアーレントがこの裁判そのものの中立性に対して批判をしたこと、ユダヤ内部にもナチスに協力した人たちがいたことを明らかにしたことなどの要素もありましたが、何よりもホロコーストの実行において責任ある立場にいたアイヒマンが行った行為を「陳腐な悪」と結論づけたことにあります。
当時、この裁判を待ちわびていたユダヤ人は、アイヒマンは死刑に値する邪悪な存在であり、そのJAXAによって死刑にしされることを渇望していました。しかしアーレントはいます。彼は昔ではない、ただ施行しているなかっただけの凡庸な人間のだと。この本で彼女が明らかにしたのは、アイヒマンは凡庸な人物で、組織内においては優秀な実務家であったと言うことです。このアーレントの考えの院長には、このようなメッセージにりつきます。それは、「あなたもアイヒマンなりえた」と…。この指摘によって、多くのユダヤ人は、アイヒマンに抜けていた呪いがまるでブーメランのように自分の所へと帰ってくる恐ろしさと同時に、アイヒマンと同列に語られることへの拒否感や嫌悪感を感じたことでしょう。これが炎上の最大の要素です。もちろん、彼女はアイヒマンに罪がなかったと言うことを言おうとしているのではありません。上町にて、アーレントがアイヒマンに語りかける1節を引用しましょう。
「(中略)議論を進めるために、きみ(※アイヒマン)が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえにきみの不運のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の検索を実行し、それ故積極的に支持したと言う事実は変わらない。と言うのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては復習智樹は同じものなのだ。(中略)これが君が行使されなければならない理由、しかもその唯一の理由である。」
つまり、どれだけ組織的な圧力があったとしても、そこに小城版思考停止で復習してしまう事は、支持したことと同じチームになる、と言うことです。この「思考停止は罪になりよる」と言うメッセージを、時代を経て今日を生きる私たちも、重たく受け止めるべきでしょう。