守中高明のレビュー一覧
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「リゾーム」「多様体」「器官なき身体(CsO)」「強度」「顔貌性」「非正確(不正確ではなく)」「存立平面」「戦争機械」「抽象機械」といった数々のD-G用語について、おぼろげながら理解した。
本の主題は、資本主義と分裂病なのだが、内容は資本主義の分析にとどまらず、「人間」「言語」「国家」「生命」を、歴史的・宇宙的な規模から考察するどえらい内容となっている。
思考のフィールドが広大すぎて、さすがの翻訳者(宇野邦一先生)も、その全貌をとらえきれないという感じで、あとがきを書いておられる。発刊後43年が経過して、まだ、この本の本格的な解説書は現れていない。
リゾーム概念は、おそらくブロックチェーン -
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「生成変化」「リトルネロ」および、既出ではあるが幾度もリロードされアップデートされる「(脱/再)領土(化)」の3つの概念が中巻においては差し当たり極めて重要。その周囲に彼らの独創的ではっとするようなテリトリーがあり、おそらく彼らの予想を越えた含蓄がある(その予感が「文学をひきあいにだしすぎる」と非難されながらも[上p ]、文学性に近づけた動因ではないだろうか。その美しい表現は、まわりくどく曖昧ないいかただととらえることもできるだろう。しかし、「すべてを曖昧にしておくのは容易だなどと考えないでほしい。」[p64])。
第7-9章は、それらの重要な概念をもちいた実践例。「顔貌性」や「切片性 -
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序章の「リゾーム」は全体の概観を示す。まずこの小片が書かれて発表され、本書に繋がった。ここだけで「アンチ・オイディプス」とは比較にならないほどの射程と奥行きをもっているのがわかる。新しい語が唐突に用いられるので(リゾーム?脱領土化?器官なき身体?強度?存立平面?)、ごく一般的な生活をしている人には「浮いている」ので馴染みずらいか。まず書き方に慣れ、全体を通読、あるいは結論意外の章を[「結論だけはおわりに読むべきである」※冒頭の緒言より]好きな順に、開いた順にでもとにかく通読すること。細かい意味はあまり気にせずに、何度か通読して全体に慣れること。そうすると、この書物全体が地図であることがわかる[
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村の隅々をあちこち探索してみても、「城」への入り口は一向に見えてこない。
注の極小ポイントの活字が眼を射る。
まるでカリンティ・フェレンツ『エペペ』の、未知の言語を使用する国に迷い込んでしまったブダイのようだ。
あるいは、そもそも僕は最初から追放されてあるのだろうか?/
カフカの『流刑地にて』の「処刑機械」は、キリスト教のことではないか?
「処刑機械」は、そのシステムに拘束された者の身体に馬鍬で刑罰を書き込むのだから。
馬鍬で身体に書き込まれる刑罰=最後の審判ではないだろうか?/
【注(1)ザッヘル・マゾッホの評伝(略)の中で、ベルナール・ミッシェル(略)は、『変身』の主人公の名前そのも -
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ネタバレ総括して、まだまだ理解が及んでいない。全体像を理解してからまた読むことの必要性を感じている。しかし所々で自分にはなかった文学の見方、或いはそもそも世界に対する認識の視点を得ることができたと感じている。
中でもお気に入りは「l prefer not to」というそれ。この文章によって全てが曖昧になる様。この言葉を吐く人物の心情や世界への視座というものは、驚くべきものであった。
「拒否しないが、受け入れもせず、彼は前に進み、この全身の動きの中で後退するのであり、言葉のかすかな後退の中でわずかに身をさらすのだ」
すべてをその決まり文句のうちに閉じ込めてしまうことで、前進=彼がその決まり文句を使 -
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かつて、高価で分厚くやたら重いハードカバーのドゥルーズを、こづかいはたいて買っていた身としては、河出文庫で次々と廉価・軽量に発売されていく状況を見て悔しい気持ちがつよい。
『千のプラトー』だけは買ってなかったので、文庫で購入、早速読んだ。
面白い。
ドゥルーズと言えば「ポップ哲学」などと言われたりもするが、この著作にはまさにぴったりな言葉だ。
ポップということは、ヴィヴィッドで人の目をひくカラフルな表現、そのシニフィアンの連鎖に内容=シニフィエの重さが伴わない、むしろ空疎な構造体を指すが、この本はまさにそんな感じである。
『アンチ・オイディプス』よりもずっと「面白い」この本は、かなり独自で奇抜 -
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田舎の純朴な少年がドゥルーズ=ガタリなんて知るはずもなく、いざ大学に入ってみればそれを当然に読んで議論できる秀才たちはごろごろいて、到底埋まりそうにない格の違いにキャッチアップも早々に諦めて平穏無事に終わった学生生活も今は昔、それを今になって読むというのも感慨深い。
さて、そのドゥルーズ=ガタリの「千のプラトー」、副題の「資本主義と分裂症」は前作「アンチ・オイディプス」から引き継いでいるものの、その思想は分裂症分析から大きく離れてあらゆる方向へと広がっていく。広がり蛇行しながらぎりぎりの表現を試みつつより壮大な資本主義分析、資本主義批判が展開される。
それは、変化の哲学であり、より具体的には