トリイ・ヘイデンのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
無言症のセラピストのノンフィクション。この方の作品は初めて読んだが小説のように読みやすく、面白かった。作者の文章力と恐らく、翻訳も良いのだと思う。
この作品の中では、仮名にしているが、彼女が関わった3人との粘り強い、具体的なセラピーが描かれている。子どもの頃に夢中になって読んだ「24人のビリーミリガン」を思い出した。人間の心理(特に困難な状況に直面している本人、またその家族)の複雑さを改めて感じた。
P369 〜370
他人の不可解な行動を理解しようとする過程で、自分から不幸を選び取る人はだれもいないということを理解していることが助けになるとわかった。だれかが不幸だとしたら、それは彼らがほかにどうすることもできないか。そういう状態にあるわけだ。もっと客観的な立場から見れば、彼らの過ちが何なのかはっきりしているようなときでさえ、このことはいえるとわかった。 -
Posted by ブクログ
面白かった。最後まで読むと話が繋がって行く。たぶん、こうなるんだろうなーという予想はしてた。その予想通りに物語は進んだのはちょっとつまらない。
と思ったけれど、別のストーリーラインで以外な終わり方になった。
そんなわけでネタバレ。無駄に長い。
上巻の感想でも書いたかもしれないけれど、再び書く。
主人公は精神科医ジェームズ患者はコナーという男の子。コナーの母親のローラ。
コナーの妹のモーガナ。ローラの頭の中のトーゴン。
さらに下巻では
ローラの恋人(?)ファーガスが登場する。
話は上巻と同じような感じで進む。
現在の話。
・コナーのセッション
・モーガナのセッション
……時々二人まとめてのセッション
・ローラの過去話。
下巻では主にファーガスの話がメイン
・ローラの頭の中のトーゴンの世界『森』
この3つが入り乱れて進む。
他の人のレビューを見ていると、『判らない』というのを見かけた。確かに、この3つが入り乱れていると、話が分かりずらい。
まず、現在の話。
・コナーのセッション
これは上巻も下巻もあまり変わらない。コナーはあまり話さない。それが少しだけ話すようになって「男の人の幽霊が居る(と思ってる)」という事が判る。
この点だけ頭に残しておけば、問題はない。
・モーガナのセッション
これはほとんど頭に残さなくていいと思う。
最後のどんでん返し(?)みたいなもののために、書かれてるだけで話の筋を捉えるためにはほとんど必要ではない。
・ローラの頭の中のトーゴンの世界『森』
これは私の好みで、とても好きだったのだけれども……。物語だけを追うのならば、需要度は下がる。
・ローラの過去話
上巻では子供時代の話が書かれていた。下巻では恋人ファーガスとのやり取りが続いていく。
物語を追うのならば、この過去話が一番重要だと思う。
物語を追うだけならば、『ローラの過去話(特にファーガスとの話)』にコナーのセッションだけで事が済む。『森』の話もモーガナの話も物語の大きな筋には関係が無い。
悪く言えば、詰め込みすぎな話だと思う。あれもこれも書きたくて詰め込んだらこうなった……みたいな。
もしくは、テーマを『現実とは何か』にした結果、『想像の産物』を組み込んで、そこにさらにサスペンス仕立ての謎を突っ込んだらこうなったみたいな。
この話は二つに分かれてしまう。
「コナーは何を知っているのか?」「モーガナは誰と遊んでるのか?」
という謎にそれぞれ
「コナーは現実を知っている」「モーガナは想像の産物と遊んでいる」
という全く別の回答が出てくる。
物語のメインはコナーだと私は思う。
コナーは最初から『現実(主人公たちがいる世界)』で起こる事を言っている。
どんなに怪奇に聞こえても、コナーの言葉は全て『現実』を指している。けれども、それは誰にも信じてもらえない。
それどころか、言葉にして誰かに伝えると「何を言ってるの?」「おかしい」と責められる。だからコナーは話さなくなり、自分の世界に閉じこもる。
コナーは「じゅうたんのしたに男の人がいる」「幽霊がいる」という。
それらは、最終的には事実だったと明かされる。
母親(ローラ)が男(ファーガス)を殺し、捨てたのだ。コナーはそれを見ていて、知っていた。ローラはコナーが小さくて覚えてないと思っていた。
ローラとファーガスの付き合いが過去編で語られている。……結構、うわぁぁぁぁ。と思ってしまう。いや。うん。心当たりがありすぎてね。チャネリングとか天の声とか。
私はそこまでのめりこめなかったけれど、一時期そーいう世界を覗いてみた身としてはなんか「判る」みたいなものがあった。
そして、ファーガスの性格……
普通に考えたらただのストーカーなのに、それを「運命」とか言えるヤバさが怖かった。でも、最初はそれに気が付かないローラの気持ちも何か分かる。みたいな……
色んな意味で「うわぁぁぁぁ」と思いながら読んでいた。
ファーガスは結婚していても、ローラと付き合う。つまり、女なら誰でもいい……と普通は思う。というか、大半の女性がそう感じる。そして大半の女性は誰でもいいなら自分意外とどうぞと思う。けれど、ローラはファーガスと付き合う。
そして、結婚している女性でも自分でもない、新しい若い女の子とくっついているのをみてショックを受ける。
……読んでいる読者としては想定範囲内の内容だ。
そこで別れ話になるだろう……と思ったが、なぜかそれでも付き合い続ける。それもファーガスが「許してくれ」と言ったからだ。
ファーガス、離婚したのか?という突っ込みはどこからも出てこない。
さらには、結婚し子供までいるローラをファーガスは執拗に追いかける。……いや。だから、奥さんどーした?さすがに嫌気がさして離婚になったのだろうか?と思うけれど、そんな話は一切出てこない。
トーゴンの話をあれだけ丁寧に書くのなら、ファーガスの奥さんの話ももう少しだけ出してほしい。そんなわけで(?)ローラはファーガスに襲われて、その恐怖でローラはファーガスを殺してしまう。
……というのが物語の核だと思う。
トーゴンの話と絡めるのならば、トーゴンも男に襲われてその男を殺す。というような点はあるけれど、
トーゴンが殺したから、ローラも殺したのか?と考えるとそれもちょっと違う気がする。
ローラにトーゴンがいなく(感じなく)ても、ローラはファーガスを殺していただろうと思うから。
物語は「コナーの意味不明な言動は、母親のローラがファーガスの殺人を見たせいで起きた」という、とても単純な筋だと思う。
が、ここに物語のテーマ
「現実とは何か」を突っ込むと、上記の物語の筋は脇に追いやられる。
コナーもローラも物語の序章でしかない。
物語のテーマを真ん中に持ってくると、メインに来るのは
「襲われた男との間に授かった子供たち」になる。
トーゴンの子供と、ローラの子供モーガナ。
トーゴンの子供は「ラー、グレート・キャット」
ローラの子供は「モーガナ」
モーガナはローラ夫婦の子供ではなくて、ファーガスとの子供。
で、最後の最後に実はこの二人が「遊んでいた」という事が暴露される。
さて、トーゴンの話は本当に『ただの想像の産物』だったのか?
という疑問で物語は終わる。
トーゴンの子供の名前を忘れていたりすると、最後は意味不明になってしまう。
なぜモーガナが「ライオンキング」と言っていたのかと言えば、たぶんイメージでのやり取りだからではないのかな?と推測する。
『グレートキャット』というものがモーガナには「ライオン」をイメージさせたから、「ライオンキング」になったのでは?と。
コナーは現実(主人公たちが存在している世界)の子供だ。
なぜなら、コナーの父親はとても現実的に物事を考える。その性格を真っすぐに受け継いでいる。だからこそ、現実の事しか言わない。そして、現実のことを言っているのに、否定されてしまった。
コナーには適切な言葉を選ぶ能力が少しだけ足りなかったのかもしれないが、否定された故に世界は閉じてしまった。
一方、モーガナは想像力豊かなローラとチャネリング能力のあるファーガスとの子供。モーガナは現実に存在していながら、向こう側(『森』の世界)を垣間見ている。けれど、それを「言ってはいけない事」だと理解している。だから、普通の子供として存在している。
さて、『現実』とは何か?想像力で見える世界は、いったい何なのか?モーガナは誰と遊んでいるのか?
現実の事を話したコナーは現実を拒絶して、想像(『森』の事)を話さないモーガナは現実を受け入れている。という対比を表しているんだろうなーとは思う。
ただ……その対比のために物語が膨らみすぎていて、疲れた。
ストーリーラインはなるべく一つの方が読みやすい。
タイトルの「機械じかけの猫」はコナーが現実とつながる唯一の手段として出てくる。読み終わると、これもまたチャネリングの一種なのでは?と思ってしまう。コナーは機械じかけの猫(ぬいぐるみや厚紙の猫)を通して、現実に触れる。そうやって現実に合わせる機械(もの)がなければ、現実の世界に居られないくらい現実を拒否していた(もしくは、現実に拒否されていると思っていた)のでは?
コナーが現実を拒否したのは想像の世界が存在しなかったからだ。だからこそ、現実に感覚を合わせるものが必要で、それが「機械じかけの猫」だった。だとするのなら、【想像】は現実に感覚を合わせる「機械じかけの猫」になるのかな。
と、いろんな事を考える。……考えて書いていたら、長くなったのでこの辺りで終わり。
と思ったけれど、最後に気になった文章を。
『わたしはここにいて、日に百万回もトーゴンの名前を口にしているのに、それなのに本物のトーゴンはもはやそこにいないのだということをわかっていすらいなかったのだ。
(略)
いずれそうなると父がいっていたようなことが、わたしにも起こったのだ。次にやってきたのは、ものすごい悲しみだった』
なんとなく…判るような気もする。振り返った時、無くしたものを感じる。遠くまで来てしまったような……とてつもない寂しさと共に悲しみが襲う。当時は分からなかったことが分かってしまう。
それは嬉しい事ではなくて、悲しい事だと思う。 -
Posted by ブクログ
主人公は精神科医ジェームズ。患者の男の子コナー。コナーの母親ローラ。ローラの頭の中のトーゴン。トーゴンの世界『森』
話は、主人公のいる現実とトーゴンの世界『森』を行ったり来たりする。世界はほとんど交わる事が無く、話が進んでいく……と思っていたのに
ローラが成長したら、少しだけ現実と森が交わった。
話の核として出て来てるコナーがなんだか、蚊帳の外みたいな感じだなと思った。けれど、最後でローラの話になった。ローラの知り合いが「あの方はあなたのことをもうすべて、̪知ってらっしゃるはずだから」と言う。あの方というのは教祖と呼ばれる人。
コナーは「猫は全てを知っている」と毎回繰り返していた。なんだか、関係あるのかなー?と思った。
ちょっと気になった部分。
「わたしには痛みを感じないために体と精神を分離するという大人の技術をすでに習得した人が見えるのです」
「だれでもときには空想の世界に住みたいと思うものさ、ローリー。でもそれは大人のやり方じゃない」
上のセリフはトーゴンのもの。
自分は大人か子供か迷っている人にかけた言葉。
下はローラが自分の父親に森の世界を説明した後に、父親からかけられた言葉。
父親はローラの言う事を「空想」と切り捨てた。
トーゴンの言葉は一理あるなと思った。確か、成人の日辺りの新聞に「大人って何?」みたいなものが書いてあったけれど
「痛みを感じない人間が大人」というのは、確かにそうなわけで……正確には「痛みを表さない」だけれども。
そして父親の言葉。
「空想の世界に住まないのが大人」
大人の定義って色々あるなと思ったのです。
ローラは「現実とは何?」という疑問を問いかける。その為のトーゴンの物語という事を忘れそうになってしまう。
コナーはどんな現実を見ているのか。コナーの妹のモーガナも現実なのか空想なのか、よく判らない世界の話をする。大人たちはそれを「空想」と決めつける。
特にローラがそれを「空想」と決めつけてしまった事にはちょっと驚いた。
ローラは子供ではなくて、大人なのだと再確認してしまった。
上巻を読んだ限りでは「空想の世界に住む子供」と「現実(だと思っている)の世界を生きている大人」のお話しなのかなと思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ戦争を経験して心を傷つけられた女性(母親)を軸に、主人公である娘が振り回される話だった。主人公が自分で動いているように見えて、実は母親に振り回されてる。
ただ、これが『戦争による悲惨さ』なのか、『家族のしがらみ』なのかは分からなかった。
私はどちらかと言えば、『家族のしがらみ』のように見えた。
母親の経験は確かに『酷い』のだけれども、主人公の娘の視点から見るとそれは『呪い』にしか見えない。だから、『呪い』が解けて物語が終わる。
『呪い(幻影)』が溶けた後の『現実』がどれだけ残酷でも、呪いは解けてしまった。
母親は強い勇者でもなければ、か弱いお姫様でもない。下手をしたら魔女だったかもしれないという現実。
『勇者ではなくて人間だった』程度なら、子供の成長物語で微笑ましいけれど『魔女かもしれない』は結構衝撃的。
もちろん作中にそんな言葉(勇者や魔女)は出てきません。私的解釈です。
『家族のしがらみ』という風に読むと、エグイ。
ただ、表面は『戦争の悲惨さ』でコーティングしてある。
なので、「戦争中にこんな事があったんだ」という視点で見る事も出来る。
この本を読んでる途中で、とある記事のゲーム紹介でその名前を知った。
『レーベンスボルン』
ドイツの優生思想に基づく「アーリア人増殖のための収容所」……ドイツは選ばれた人種を集めて子供を作っていた。
この話自体はずいぶん前に聞いたことがあった。収容所の名前までは覚えてなかったけど。
ただ、イメージとしては『了承した人達(妊娠したい人)を集めた場所』だと思っていた。
「ひまわりの森」では、『強制的に』人が集められ強姦され子供を作らされたという事が書かれている。ラーフェンスブリュックという収容所の名前も出てくるけれど、ここでの事はあまり書かれていなかった。
調べると女性の収容所だったらしい。(一部男性もいたとなってた)
他にも色んな地名・国名が出てくるので、それらを調べてみるのもいいのかもしれない。
地図があれば判りやすいのになと思ってしまった。地名だけでは……それ、どこ?である。
カンザスとかテキサスとかノルウェーのウェールズとか…聞いたことあるような気がするけど、地図として頭には入っていない。
ついでに言えば、主人公は『アメリカ』に住んでいる事になっているけれど、戦争の話はヨーロッパの辺りをあちこち移動する。
…どこまでがアメリカでどこからがヨーロッパの話かが分からない。地図が描けない。全て異国の話だと切り捨てるしかない状況。
さらに言語が複数出てくる。英語はもちろんドイツ語フランス語ノルウェー語。……語学堪能すぎると思ってしまう。
が、それらが、どこで使われている言語なのか。ノルウェーに行って使ってる言葉は何なのか謎だ。
主人公はノルウェー語は未熟となってたのに、なぜか意思疎通が出来てる。つたない言葉で何とか伝えてるんだろうか?
日本語しかできない身としては、複数言語習得してる主人公が空の上の存在だ。
そんな感じで『家族のしがらみ』を除けば、知的好奇心を刺激してくれる作品だったと思った。 -
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ネタバレ虐待された女の子と、教育心理学者の著者(シーラにとっては先生)とのノンフィクションです。
僕が持っているのはおぞましい表紙のハードブック版で、昔父の本棚にあったのを見て以来ずっと気になっていたんです。その頃は絵が怖くて読んではいけない本かと思っていました。今はこういう絵、すごく好きです。
抱きしめたいとかキスしたいとか歌詞とかでよく見る言葉ですけど、実際盛ってるよな~と今まで思っていました。あるいは性欲とか。でもこの本を読んで、人は言葉で相手を癒せないと知った時、抱きしめたくなるものだなあと思いました。
著者と一緒にシーラを抱きしめたくなるシーンが沢山出てきます。「そんなことない」って言ってあげたいけど、シーラにとっては無駄な言葉だとわかるから、せめて側にいることを体温と鼓動とで知らせてあげたくなります。
しかも傷ついた心を癒すだけではなくて、癒してくれた存在と「さよなら」するところまでシーラが成長しているのが感動です。
続編の「タイガーと呼ばれた少女」はまだ読めていないので是非読みたいですね。 -
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虐待されて育ったシーラという子どもと、シーラを指導することとなったトリイという教師の出会いから別れまでの話。
シーラが辛い環境下で育てられ傷ついていることに胸が苦しくなり、とても重い内容だったが、私はトリイへの尊敬がとても強く心に残った。
自分が関わった子ども達との記憶を重ねながら、トリイならこのような冷静で温かい対応ができるのだと反省と感心が混ざった。
トリイはとにかく忍耐強い。またシーラの態度がどんな背景からくるものなのかを察する力を持ち、丁寧に愛情たっぷりに接した。
自分が話をする時も、シーラの話を聴く時も、言葉で伝えることの大切さを自ら示して心の距離を少しずつ縮めていく様子に、学びがたくさんあった。
「畏敬の念を感じた」と何度も出てくるように、「抱いてあげようか」ではなく「抱きしめてもいいかしら?」というトリイの、子どもへの見方が伝わってくる。
大人だからと決して上から目線ではなく、子どもに対しても人間として対等だという意味での深い敬意が見えた。
このほかにトリイの人間性がよく表れていたのが、シーラに謝ったり、降参したりする場面だ。
どんなことでも自分が間違っていたと認めることはなかなかできないものだ。
ましてや子どもへの指導に対して非を認めることはプライドも邪魔をして、私は素直に謝れたことがないかもしれない。
でもトリイは違った。シーラに対して、自分の指導が間違っていたのではないかと悩み抜き、間違っていたと認めたり、時にシーラに譲ったりと、誠実に彼女と向き合い続けた。
きっとそんなトリイの信念、情熱、愛情がシーラの心を少しずつ溶かして、良い方向に導いたのだと思う。
また私は、シーラから発せられる質問の一つ一つにとてもドキドキした。
「悪いことをしたらあなたもぶつんでしょ?」と聞くシーラに、父親から浴びせられる辛辣な言葉や、服も買ってもらえずぞんざいに扱われ殴られる日常がどれだけ彼女の成長に影響を及ぼしているのかを思った。
お母さんに置き去りにされた過去から、トリイが二日間出張でいないだけで、またすぐに帰ってくるということがどうしても理解できないというシーラ。これはひどく胸に刺さるものがあった。
人は経験したことからしか学ぶことができず、シーラの過去があまりにも酷いものなので頭で分かろうと思ってもできないとはこういうことなのかと胸が痛んだ。
そんなシーラにとって、トリイとの出会いによって得た温かい経験はこれからのシーラにどんな影響をもたらすのだろうかと、シーラのその後がとても気になった。
続編が出ているので時間を見つけてそちらも読んでみようと思う。
トリイ・ヘイデンさんの魅力にどっぷりとハマった読後感は、時代も国も違う場所で同じように悩み傷つき、成長する人々がいることを身近に感じられる素晴らしいものだったとともに、私の心の支えの一つになった。
【メモ】
p.32
私はいつも自分が担当するこどもたちに何を期待しているかをはっきりさせようと意識していた。
p.77帰りの会に「コーボルトの箱」
朝夕互いの親切を教え合う子供たち
すぐれた洞察力を示しているもの
p.96
私は子供がなにをしたかなんて気にしないの。ただ子供が好きなのよ。それだけよ。
p.106
生まれてから六年間、彼女はずっと疎んじられ、無視され、拒否されてきた。
シーラは私が示す親愛の情を一つ残らず吸収した。
自分がほしいものを手に入れるためには戦わなければならないということを身につけていた。動物のような攻撃性。
自分の価値を自分が受け取ったメモの数で量る必要があるなどとは感じていなかった。
p.116
私は筆記問題に降参した。
どうしても人は細かいことにこだわり、もし物事が自分の思っているようにならないと世界が壊れてしまうと考えてしまうのだろうか。一度この苦闘から逃れてしまえば、そのことがどうしてあれほど大事だったのか私にはわからなかった。
p.186
シーラのいうとおりだ。あの子は一度も自分を信用していいなんていわなかった。
自分の行動の仕方は確かに適切ではなかった。たが私だって人間なのだ。
〜悟った。私たちが自分以外の人間がどんなふうであるかをほんとうに理解することは決してないのだ。
人間はそれぞれちがうのに、浅はかにも自分は何でも知っていると思いこみ、その真実を受け入れることかできないということも。
p.
シーラはいまでも訂正されるということに過度に敏感で、まちがいをおかすと、むだつりとふくれてしまったり、悲痛な溜め息をもらしたりした。
ちょっと抱いてあげたり励ましてあげれば、またやる気を出した。
ドラマの一コマ一コマを、〜儀式のように繰り返し語ることでシーラの心は安定していくようだった。
おそらく、最悪の状態を見たことで、シーラは安心したのかもしれない。
シーラは自分の問題を言葉で解決することを学んだのだった。
だからもう身体的な接触を必要としないのだ。
p.298
私が急に無関心になったのは、彼女から離れたいという気持ちの表れだと思ってほしくなかったので、私は微笑んでみせた。そしてもっと時間のあるときにゆっくり話し合おうといった。
p.310
情緒障害の子供たちと一緒の仕事をしてきて強く印象づけられたことは、彼らの回復力の強さだ。
一般に広く思われていることに反して、彼らは決してもろくはない。
私たちの多くがあまりにも当然の道具を与えられれば、自分が持っているときにはそのことに気づかないことが多い愛と支持と信頼と自信が与えられれば、彼らはうまく生き抜いていく。
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購入済み
なんとも言えない
中学生だった時から数十年ぶりに読みました。
当時も衝撃を受けたことを覚えています。今改めて再読するとあの頃の私に理解出来ていたのか…?と疑問が出ましたが、きっとその時なりの感情があったのだと思います。
色んな意味で涙が出るシーンがあります。
ネタバレをせずだと、とにかく読んでください、としか言えない作品です。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ再読。著者本人もそう思っていたようだし編集者も書かない方が良いと結論を出していた『シーラという子』(1980)の後日譚で、7年後思春期の13歳になっていたシーラとの再会を描いたのが本書『タイガーと呼ばれた子』(1995)だ。時期的には『シーラという子』の出版から15年後ノンフィクションシリーズ8作中の6作目にあたる。
この作品の中で出版準備中の『シーラという子』をシーラ本人に読ませていることから1980年より少し前の出来事であったことが推察される。さらにこの時シーラが14歳の誕生日を迎えていることから、今現在40代後半もしかすると自分とさほど歳が違わないかも知れないということに気づいて、なんだか嬉しくなってしまった。果して今ごろ彼女はどうしているのだろうか。とは言えそれは本書を最後まで読めば大体予想はできるのだが。
後日譚を書かない方が良いという判断は、たぶん他の作品のように情緒障害児たちが主役になるのではなく、すでに情緒障害から立ち直りごく普通の思春期の13歳になっていた少女と著者本人とのとても私的な関係性を描くという意味でシリーズのテーマに則していなかったからではないかと思われる。またこの本の内容はむしろ『シーラという子』のドラマティックさに比べて極めてリアルに地味な思い出話にならざるをえず、読者にとって期待はずれになるという危惧があったためのようである。
にもかかわらず完成したこの本を最後まで読むと『シーラという子』とは切っても切り離せない絶対に必要な完結編だと思える。これがあってこそシーラの幼少期を描いた『シーラという子』の本当の魅力が伝わってくると言える。そしてまたこの再会の後、またしてもシーラに関する数々な問題に東奔西走させられてしまうトリイ・ヘイデンだったが、彼女はすでにシーラの教師ではなく、シーラもまた彼女の生徒ではなかった。
その答えが本書の最後の会話によって明らかになる。まあたぶん、著者はこの極めて地味で温かな結末を読者が気に入るだろうと予想したから当初の考えを置いて本にすることを決めたのだろうと思う。
『シーラという子』で学年が変わり別れて行った後もシーラや他の生徒たちの動向を気にかけていた著者は、突然シーラの行方だけ見失ってしまった。再び収監された父親の影響だったということまでは分かったが、その後数年に渡ってシーラの所在がつかめず、ようやく再会できた時はすでに7年が経過していた。トリイとの思い出や教室での日々をほとんど思い出せないというシーラの言葉にとまどいつつ、再び彼女との関係を修復しようと躍起になる著者だったが、またしてもシーラによって引き起こされた事件の後、シーラと父親は住んでいた家からこつ然と姿を消してしまった…… -
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ネタバレ先日から漫画『こどものじかん』を読んでいてヒロイン・九重りんにどうしても重なって見えたのが、現実世界に存在する本書の主役シーラだった。そして、少し前からどうしても再読したくなって続編の『タイガーと呼ばれた子』とセットで安い古本を買って積んであったので『こどものじかん』のラストを読み終えてすぐに読み始めた。
この二人のキャラクターの共通点は年齢の近さと髪の長い美しい少女(金髪)であるという外見のイメージだけでなく、大人が怖じ気づくほど大人びた問題児であるところ。野木田先生(ヒロイン九重りんが1年生の時の担任)と九重りんの関係は年齢的にも『シーラという子』そのままのイメージになるので、ずっと教育問題に興味を持っていたという私屋カヲルがこの本を読んでいた可能性は高い。なんにせよどちらか一方の作品を好きになった人には是非もう一方も読んで欲しいというのが個人的な願い。(ただし、シーラの本にエッチなサービスなどは求めないように…)
『シーラという子』は人気ノンフィクションシリーズとなったトリイ・ヘイデンの第一作目で世界的ベストセラーである。特殊学級などの教師をしていた著者が在職期間中に出会った特別な子供たちと過ごした忘れ得ない時間を卓越した文章力で再現した記録。中でもこの最初の本はもともと出版予定があったわけではなく、著者がシーラとの思い出を残したいという個人的な気持ちから書き始めたものであり、数年後の彼女との再会を描いた『タイガーと呼ばれた子』とともに他のシリーズ作品より一歩抜きん出たインパクトと感動がある。
先にも書いた通りこのノンフィクションシリーズの最大の魅力はトリイ・ヘイデンの卓越した文章力だと思う。もちろんそれぞれの本に取上げられている子供たちと過ごしたドラマティックな時間こそ本の命だが、その体験をした著者自らが読み始めた者を心をつかんで離さないまるで良く出来たエンターテイメント小説を思わせるような力強い筆致で描いているのが特徴。またこのシリーズは全て同一の翻訳者であり、作品の面白さは彼女の実力によるところも大きいと言える。
本書では、著者が普通の学校の一室で主に情緒障害を持つ子供たちを預かる特殊学級を教えていた時期を描いている。その時期すでにサポート人員とともに教えられる限界いっぱいの人数を預かっていたところに、少し前新聞記事になるほどの傷害事件を起こし精神病院送りになる予定だった6歳の少女シーラが期間限定でやってくるところから物語は始まる。
シーラの生活環境は絵に描いたような貧困の父子家庭であり、さらに母親が彼女を乱暴に置いて弟を連れて出て行ったことがトラウマになっていた。また父親が刑務所に入っていた時期に親戚をたらい回しにされた経験も情緒不安定な性質を作る要因になっていたことも想像された。様々な試行錯誤の末ようやくシーラの心の壁を打ち破って著者が知り得た予想をはるかに上回る真実。傷害事件を起こした問題児童として精神病院に送られようとしていたシーラはIQ180を超える超のつく天才児だった…
自分に大きく依存させてしまうような方法で教育をすることは教師と生徒の信頼を高める反面、別離を辛くする。だからもっと教育者として割り切った姿勢が一般的な中で一匹狼的に自己流の母性愛で治らない子供を治すことを可能にして来たことがトリイ・ヘイデンという教師の個性であり、多くの問題児を預けられる信頼に繋がっていったのだということがこの本を読むと良く分かる。ようするに自分の私生活や感情まで犠牲にして生徒を愛するという大変なことを普通の教師はやらない。それを一体誰が責められるだろうか。
終盤近くまで読んでようやくなぜ『こどものじかん』を読んでこの本を思い出したのかが良く分かった。ヒロインのキャラクターイメージが酷似していることも確かだが、それ以上に彼らを担当する教師の苦悩(教師と言う立場の乗り越えられない壁)がだぶって見えたのだ。もちろん『こどものじかん』の青木先生は新米の男性教師でヒロインの恋愛対象であり、トリイ・ヘイデンは中堅所の女性教師でシーラにとっては母性の象徴という全く異なる関係には違いないが、どちらも自分の教師としての立ち位置を見据えつつも、結果的に他の子供たちに対する以上の愛情をヒロインに与えてしまう。
ただし、本書のシーラの物語は現実の出来事であり、もしもトリイ・ヘイデンが彼女の担当になって本来の役割以上の行動に出なかったら、あるいは弁護士の彼氏がいなかったら、様々な偶然が噛み合っていなければシーラはもうすでにこの世にいなかったかも知れないという恐ろしい現実に、まさしく“事実は小説より奇なり”という言葉が自然に出てくる。
トリイ・ヘイデンのノンフィクションシリーズの中で唯一後日談として続編『タイガーと呼ばれた子』が書かれたのもシーラだけであり、そこにも彼女との教師と生徒という以上の深いつながりが垣間見える。そして『シーラという子』から7年後の再会を描いた『タイガーと呼ばれた子』の虚しいほどリアルな時の流れに誰もが再び涙する。 -
Posted by ブクログ
これは著者自らの体験したことを書いたノンフィクションなのだけれど。
だけれど、ノンフィクションだからと言って真実ではなく、書き記された時点で一つの物語なのだな、と思った。
とても強い少女と、優しく見守る先生が出てくる。
が、少女は先生に「あなたは本に書かれてるみたいに優しい人じゃない。いつもイライラしている」という。
どきりとした。
自分のことは(意図的ではなくとも)その時強く感じたことを書き記すし、信じたくないことは書かないだろう。ましてや相手のことなどわかる筈もない。
物語として強いなぁと思った。
面白いといっていいのかわからないけど、面白かった。
前作ともども一読して損は無し、と思う。