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Posted by ブクログ
2026.01.06記
川中島の戦いを終えると、ちょっと忘れていた父信虎からの使者が来る。
この辺りが上洛への布石であろう。読者も 川中島の戦いの余韻を京都へと向け始めるきっかけにしている「起承転結」の「転」は極めて上手いと言える。
そして、逍遙軒(しょうようけん)武田信廉(たけだのぶかど)が明確に現れる。影武者として活躍しながらも、文才が高く、武将というよりも風流人の資質が高い。
そして、義信謀反の前触れとして、信玄親子の温泉「志摩の湯」での対話が描かれる。これは作者の創作であろうが、歩み寄ろうとする信玄に対して、 断じて自分の持論を譲ろうとしない義信が描かれる。
そして、兄、飯富(おぶ)兵部と弟、三郎兵衛の名シーンが描かれる。
兵部の語る言葉はこうである。
「いや、話すことは難しいと言ったのだ。俺が死んでも晴れないかもしれない。10年、50年、100年、数百年後に余の気持ちを推察してくれる御人があるかもしれない。それでもいいと思っている。」
そしてその言葉通り、筆者によって、世の中に表現された。
飯富(おぶ)兵部さん、安心してください。
この辺りまで読み進めると信玄の「志摩の湯」をしみじみと堪能する聖地巡礼の旅へと行きたくなる。
息子の謀反により、有能な部下を失っていくあたりには、山岡荘八氏による『徳川家康』の家康と同じく、長男を失う悲しみを感じる。
直接、書かれているわけではないが、この時の悲しみが、ずっしりと信玄の病を重くしていったことを空気として感じさせる。
このあたりの表現は、もう絶妙としか言いようがないであろう。
感情移入して読んだ者にしかわからない「千金の喜び」である。
そして、信長が上洛に入る頃、駿河進攻とともに安倍金山を手に入れる。この辺りから徳川家康の姿が見え始め、信玄にとっての「上洛の壁」を思わせる。
信玄が小田原まで攻めていたというイメージはなかったが、関東の方まで兵を進めていたことがわかる。
ここで「灰吹法」から水銀を用いる「コンコウ法」に対する記述が見られる。
これは、徳川家康の配下としても活躍する、後の大久保長安が得意とした方法であり、今現在でも、この方法は金の採掘にアフリカなどで使われている方法である。
「金の吹き立て法」一つにしても、歴史小説でありながら、できるだけ史実に即し、資料に基づいて書きつつも、単なる説明くさい記述で、話のテンポが悪くならないようにという著者の配慮が感じられる。
八王子から突如、小田原を目指して進む際の行軍の編成について詳しく描かれている。
『甲陽軍艦』は史実として誤りが多いとは書かれているものの、それらの資料を前提にしっかりとした軍編成のメンバーまで描かれているところは手抜きがない。マニアにとってはとても嬉しい記述である。
ここにも「単なる歴史小説」ではなく、歴史家としての面も忠実に果たしていこうという著者の意志が強く感じられてくる。
並の小説家がそのようなことをしてしまえば、単なる教科書のような、事実の羅列のような、無味乾燥の記述になりがちである。
だが、小説におけるリアリティを追求する延長上にあるものだとすると、その息遣いに迫っていきたいという「情熱の結晶化そのものである」という感じがする。
そして、ほんの些細なすれ違いから大切な『諏訪神社を壊して炊いている雑兵』たちが現れる。
これに関して、史実なのか、創作なのかは分からないが、武田勝頼のその時の裁き方というものが、実に心憎いほど明君としてふさわしい。
「勝頼が暗愚だったために、武田家は滅んでしまった」というような俗説に言われるようなものではない、という印象を与えるにふさわしいエピソードが組み込まれている。
そして、生涯、信玄を悩ませ続け、悪役的存在としての三条氏が登場する。
息子義信を失い、北条氏政の正室になった時姫も早死にしてしまったという背景を描くことで、信玄の「不憫な女」という言葉の奥にある哀れさが表現されている。
今まで「信玄の邪魔しかしない」という、この京都の女に対する読者の嫌悪感が、この時に「この女性もまた、戦国乱世にある一人の犠牲者にすぎなかった」という憐れみの気持ちへと読者に思わせる。
この辺りの大逆転の表現のまま、三方ヶ原の戦いに至るまでの読者の心のくすぶりのようなものをすっきりさせて、進めるあたりも、完成された『武田信玄』という小説の構成を思わせる。
「あとがき」では、著者もこのように書かれている。
「信濃を平定した後の武田信玄は駿河に進行する際に、信玄の戦術・戦略が年と共に変わっていっているように、著者の考え方も変わってきている。」
確かに、それは文章全体から落ち着きのようなものを感じる。
「風」の時には、父を追放し、創業の苦しみと失敗を。この辺りには伸びゆく若さを感じる。
「林」の時には、一定の勢力の安定と地盤固めを。この辺りは自分の実力を発揮し、 ライバルと戦いつつ、勢力を獲得する中堅の勢いを。
そして「火」に至るに従って「天下へ号令する」というものを視野に入れたグランドデザインからの息子との衝突と葛藤を通し、武田信玄自身の人間性が、一段と練れてきてき始めているところがうまく描かれている。
この辺りが現代でも、会社経営など、より大きく成長していく過程においての社会的に責任の重さなどから来る子供や社員との認識の違いなどにも、影響を及ぼすであろう。
「単なる娯楽以上の価値ある書籍として長年愛されるだけのことはある」と、読み終えた後に、一抹の寂しさのようなものを読者に感じさせる腕は、本当に神がかっていると言うしかない。
改めてこのような本を書いていただいた著者に、感謝を深める次第である。
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