五代目 古今亭志ん生
1386円
★再読
2026/09/13
著者:ビートたけし 本名・北野武。1947年東京都足立区生まれ。浅草フランス座で芸人としてデビュー後、1972年に漫才コンビ「ツービート」を結成、人間の「建前と本音」「理想と現実」との落差を舌鋒鋭く突きまくる芸風で漫才ブームの牽引役となる。テレビに進出後、『オレたちひょうきん族』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などの人気番組を次々と手掛ける。映画監督としても『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA‐BI』などの話題作を多数世に送り出す。2016年にレジオン・ドヌール勲章、2018年には旭日小綬章を受章。近年は小説執筆にも力を入れている。著書に『弔辞』(講談社)、『不良』(集英社)、『浅草迄』(河出書房新社)など。
「 「上野から電車で二時間乗って、そこからバスでさらに三十分行って――」 なんて話し出すんだけど、何分かかるとかそんなのは余分な情報なんだ。 たとえば、こう説明してみたらどうだろう。 「電車で行くと窓から見えるのはずっと田んぼと畑です。あとは仁丹の看板が何度も出てきます。そして駅に着くと、待っているのは松山容子のボンカレーの看板です」 これのほうが断然、わかりやすいよな。 つまり、無駄な情報は省いて、その代わり、田舎の画を想像させてほしいんだ。 漫才でもさ、下手なヤツほど「昨日夕方五時頃に公園に行ってさ」なんて言ってしまう。「夕方五時」という時刻に特別な意味がないかぎり、それは無駄な情報であって、カットするべきなんだよ。 入れるなら入れるで、「夕方五時にラジオ体操はしねーだろ!」みたいなツッコミにつながるとか、そういう必然性がほしい。 ムダを省いて画を想像させるっていうのは、オイラは映画でもよくやるんだけど、どこか数学の因数分解に似ているんだよね。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
「落語家でも、そういう新作をつくる人はいるよね。でも、さっきの話と同じで、ほとんどの場合、画が見えないんだよな。 みんな会話をつくるのはうまいんだけど、それだけじゃなくて空間も見えてこないとダメなんだ。 志ん生さんの小噺なんて、映画を見てるみたいだもの。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
ただ、下町って誤解されているところもあるんだよね。 オイラも下町育ちだからわかるんだけど、下町って、ぜんぜん「親切」なんかじゃなくて、どちらかというと「人見知り」なんだよ。基本的に人と関わりたがらない。困っている人を助けるのは、親切じゃなくて、最終手段なんだ。いき倒れがあったって、できれば見て見ぬふりをしたい。 それを誤ったイメージにしてしまったのが、山田洋次さんの映画『男はつらいよ』なんだよ。あれを見たヤツが、下町はああいうもんだと思って千住とかに来るから、たまったもんじゃない。 いまでは、そういうのを相手にしたニセ下町もあるからね。乾物屋とかコロッケ屋とかが、「はい、オマケ! 持ってきな!」とかやると、「いいね、コロッケをつけてくれたよ、さすが下町だね」なんて勘違いしちゃう。そうやって他人が描いた下町を、本物の下町がなぞってしまうということがよくあるんだ。 実際の下町なんて、もっとケンカっ早くて、歩いているだけで「何見てんだ、この野郎」って因縁をふっかけられたり、ひどいところなんだから。 駐車した車を酔っ払いが抱きしめてるなんてこともあってさ。「オイラの車がどうかしたか?」って聞くと、「この車、拾った」。「いや、それは駐車しただけだ」って言っても、「いや拾ったんだから、二割よこせ」。それでワーワーやっていると、どんどん人が集まってきて、「カネ払ってやれよ!」って。 ようはもう、貧乏人の集まり。本当の下町っていうのは、そういう世間が思っている下町にすらバカにされるような場所なんだ。
「落語がいまでも聴かれているのは、いつの時代も人間は「相変わらず」だから、というのもあるよな。 基本は「チクショウ! あの野郎、モテていいな」とかさ。庶民の本質なんてそうは変わらない。 落語に出てくる連中ってたいていそうじゃない。身分の低い町人たちが、武士に向かってみんなで「バカヤロウ!」みたいなことを言って虚勢をはるんだけど、いざ武士に睨まれたら、「俺の背中に隠れて言うんじゃない!」ってごまかしたりさ。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
「うちのばあさんは竹本八重子といって、豊竹呂昇〔女義太夫師。明治から大正にかけて女義太夫の頂点にいた〕の並びに関脇ぐらいの位置にいたんだよ。それで食ってたんだから、たいしたもんだと思うよ。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
「 オイラは、脳硬塞で倒れたあとの七十代後半の志ん生さんの落語も、わりと好きなんだよね。滑舌は悪いし、間もちょっと長くなっているんだけど、やっぱり、うまい。 なんというか骨董品みたいに古ければ古いほどいいという感じもあって、これはこれで芸だなと思わせるものがあるんだ。 志ん生さんの落語を聴きたくて聴いているんだけど、いつのまにか、大好きなおじさんの噺が聴きたい、という感じにさせられているんだよな。 改めて芸人としてのスケールが違うんだ。他の人は、「あ、商売で笑わすために出てきたんだな」とか、「この人、これでいくらもらっているんだろうな」とか思ってしまうんだけど、志ん生さんにはそういうことを一切感じない。「なんかこの人、人前で話すのが好きなだけなんじゃねえか」とすら思えてくる瞬間があるんだよね。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
「あと、結局、相変わらずガキのままで、みんなであそこに行ってみようとか、あんな無茶してみようとか、そういうことがいくつになってもやめられないんだよね。 毎週土曜、 TBSで「新・情報 7 days ニュースキャスター」の生放送があるんだけど、だいたい二時間ぐらい早く行って、ライブのネタとか、くだらないイタズラとかを考えてるの。楽屋のテレビに映った CMを見て、「このパロディ映像をつくってみようか」とか。 いい言い方をすれば、画家が死ぬまで絵を描くのが好きだっていうのと変わらないと思う。オイラは、ピカソとまでは言わないけど、いままでやったことをある程度否定しつつ、新しいことを試してみたいタイプなんだよね。「相変わらずデッサンがうまいですね、あの人は」というのはイヤなんだ。それだったら、「もっとこんな描き方だってあるぞ」っていうのを試してみたい。まあ、そもそもデッサン力自体がないっていうのもあるかもしれないけどさ。 でも、こういうやり方をしているかぎりは、いつまでも年齢を感じずにはいられるんだよな。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
「それでいて、誰もやらないような噺を発掘してきて、「どうだ?」って高座でかけたりするんだけど、「そんなもの、つまらないネタだから誰もやらなくなったんじゃないか」と思ってしまうことも多い。 どうも、落語というジャンルのマニアックな部分に逃げているように見えてしまう。 もちろん落語というのはいろんな要素を含んでいて、「笑い」もそのパーツの一つにすぎないとは言える。 もともとは語り芸として、講釈や浪曲とも近いものだったわけだし。 だから談志さんみたいに、そういう個別のジャンルに分かれていく前の芸事としての落語を意識している人が講釈風のことをやって、「どうだ」っていうふうに芸を見せたくなるのもよくわかる。 ただ、そういう芸は売れている談志さんだから格好つくのであって、はなからマニアックなところを目指してもしょうがないと思うんだ。 そういう意味でも、志ん生さんがいいのは、一見ハチャメチャなのに王道なところなんだよな。 志ん生さん自身はいろいろな芸事の蓄積があるんだけど、それをこれ見よがしにやるんじゃなくて、王道の笑いの中に溶かし込んでいる。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
「かつて芸能界で活躍して、いまは悠々自適に暮らしてる、という人がたまにいるけど、ああいうのはたいてい嘘だと思うんだ。「庭で犬に餌をあげているのが幸せなんですよ」って、そんなわけがない。客前やカメラの前でずっと生きてきて、死ぬまで本当はそこにいつづけたいと思っているヤツがほとんどなんじゃないか。」
—『やっぱ志ん生だな!』ビートたけし著
「竹 内 よく僕が言うんですが、数学と物理学というのは小説とノンフィクションの差なんですね。たけし 数学と物理学か。竹内先生は小説家でもありますからね。どっちの世界でも表現しているでしょ。だから、その違いがよくわかるんじゃないかな。おいらはノンフィクションは無理だから、数学のほうですね。竹 内 同じ文法で同じ言語で表現しているんですが、数学というのは小説、つまりフィクションの世界なんですよ。ある意味、自由でフィクションとしての整合性が保たれていれば、要するに何をしても許される。しかし、物理学というのはノンフィクションだから現実の世界を描いているんです。ある物体や現象と対応していなければなりません。ひたすら抽象絵画の世界へ行ってしまうのが数学であり、風景画とか静物画とか、何が描かれているのかがわかるのが物理学なんです。ただ、その境界の部分はわりと曖昧になっている。」
—『コマ大数学科特別集中講座 (フジテレビBOOKS)』ビート たけし, 竹内 薫著
「同じ文法で同じ言語で表現しているんですが、数学というのは小説、つまりフィクションの世界なんですよ。ある意味、自由でフィクションとしての整合性が保たれていれば、要するに何をしても許される。しかし、物理学というのはノンフィクションだから現実の世界を描いているんです。ある物体や現象と対応していなければなりません。ひたすら抽象絵画の世界へ行ってしまうのが数学であり、風景画とか静物画とか、何が描かれているのかがわかるのが物理学なんです。ただ、その境界の部分はわりと曖昧になっている。」
—『コマ大数学科特別集中講座 (フジテレビBOOKS)』ビート たけし, 竹内 薫著
「たけし 数学というのは虚構なんだよね。竹 内 人間の頭の中にしかない想像、イマジネーションだという人もいますよ。ただ、人間も宇宙の一部だから。たけし 数学は虚構だけど、宇宙の存在と無関係ではないわけだ。宇宙の構造を考えてる人間の思考も、当然、宇宙と切り離せない。竹 内 つまり、人間の脳が宇宙について考えた、その記述の方法が数学なんです。たけし なるほど。竹 内 宇宙がどういう姿をしているのかということも、数学として表現することができるんです。数学は森羅万象を表すことができる。たけし そうだね。極端に言えば、数学は宇宙を支配している。竹 内 素数は 10進法でも 2進法でも、素数は素数なんですよ。だから、素数は大きな意味を持っている。宇宙は素数からできていると言う人もいます。」
—『コマ大数学科特別集中講座 (フジテレビBOOKS)』ビート たけし, 竹内 薫著
「竹 内 数学と物理学の違いで言えば、この番組で一緒に解説をしている中村(亨)先生は数学が専門なんですけど、やっぱり物理学畑の僕とは違うんですね。たけし 感覚も違うし外見的にもずいぶん違うな。竹 内 数学の人っておもしろい考え方をするんですけれど、たとえば振り子がありますよね。振り子の動きも簡単な関数では解けないんです。たけし そうなんだ。単純な動きみたいですけどね。竹 内 こんな簡単な振り子の運動でも、数学的には簡単に解けない。そうしたとき、どうするかというと、物理学の人間は近似でやっちゃう。数値計算とかグラフを書いておしまいにしちゃう。ところが、数学の人は物理学の人間が近似値を使うと「吐き気がする」なんて表現で非難するわけです。」
—『コマ大数学科特別集中講座 (フジテレビBOOKS)』ビート たけし, 竹内 薫著
「たけし シュールってのは、ねじれてるフリしてるんだけど、結局はあんまり予算がないってことなんですよね。竹 内 というのは、数学も実はシュールだと思っているんですよ。リアルの世界じゃないでしょう。たけし そうだね。竹 内 数学だけのシュールなリアリズムがあるんです。たけしさんのシュールな世界と、数学のシュールさが意外にマッチしてるのかなって感じたんですよ。たけし それはどこかでつながってる部分もあるのかもしれない。数学とは一切無関係のようなものであっても、実は発想として数学的なもので落としてるってのがありますよね。」
—『コマ大数学科特別集中講座 (フジテレビBOOKS)』ビート たけし, 竹内 薫著