会社では長い間、役職を持ちながらも、私の読書対象にビジネス本というカテゴリが無かったせいか、「インバスケット」という言葉は知らなかった。会社の昇進試験に取り入れられているとのことで、何のことやらと多少不安も感じて読んでみたのだが、これは面白い。既に役職ある方も、また今後のキャリアで目指す心意気のある方は読んでおく事を薦めたい。長い間管理職をやった方なら、経験したあらゆる状況に自分自身を置いて、改めて考える機会になるだろうし、部下のいない担当職の方が読めば、少しは労務管理や上から下から板挟みに合う上司の気持ちや立場が理解されるようになるだろう。俄然私は後者に期待するものである。
管理職が仕事を進める上では、毎日全ての時間は判断に費やされる。メールの新着を知らせるポップアップからふとメールを開くと、また上司からの指示が来ている。それも数分前に全く別の指示も受けているのに、瞬間「またか…。」と呟いている自分がいる。それとは別にチャットの未読も気がついたら10件を超え、中に重要な仕事を抱える部下の個別チャット(チーム単位やメンションされないチャットでなく)が含まれている事に気づき、慌てて開けてみると、何のことはない「経費精算挙げました」の連絡。更には何の前触れも説明もなく、数千万の稟議書をあげてくる者。これって、読んで理解しろという事なのか。油断していると、オフィスの遠くの方から他部門の管理職がニヤニヤしながら近づいてきて、「ちょっと相談なんだけど…」。今自分は猛烈に忙しくて、週末の会議に向けた企画書を作る暇も無いのに!だが、役職者自ら出向いてくる事を無碍にも出来ず話を聞くと、これがまたややこしい問題だったり、ついつい頼られた嬉しい気持ちも手伝って、何とかするよ(この時点で根拠なし)、と軽快に返事をする自分がいる。一方、深刻な顔で相談者の後ろで待機する別の部下。一瞬、過去にメンタル不調を出してしまった悲しい記憶が呼び起こされ、表面上は無理やり感半端ない笑顔で「どうした?」の声がけ。スケジュールを開けばテトリスなら全部消えてしまいそうな程にびっしりと予定は埋まっている。中には予定があっても会議招集してくる強者もいて、これは私に「どちらが重要か判断して、参加する方を選んでください」という意味なのか…。耳のイヤホンからは会議のファシリテーターから、「どうですか」の確認が来て、聞いてはいたが考えていなかった事で慌てる。聖徳太子の気持ちが良くわかる瞬間だ。毎月発表される労務管理報告では、今月も残業時間トップ10、不動のスタメンだ。そう、会社では毎日がこれ、全てが止まる事なく同時並行的に動く。私という人間は1人でも、会社には何万人の社員、少なくとも所属組織は数百人の社員や外注業者さんで構成されている。これぞまさに一斉射撃、集中砲火、一点突破の攻撃に真正面から晒される。
本書を読みあくまで架空の主人公だと知りながらも、他人の事とは思えないシーンの連続で、常に自分ならどうする、の繰り返し。本書の読み応えは抜群だし、トレーニング、新書という限られた頁数で要点の理解に特化したものだから内容もかなり安易なもので理解しながらスラスラ読める。実際のインバスケット(試験)は60分20問で内容も複雑かつ、本書のような選択肢は準備されていないから、高難易度と聞く。とは言え、管理職なら誰しも日常的に使っている武器が次々と試されていく流れは、ストーリーと共に非常に解りやすい構成になっている。
全体最適、長期志向、重点集中、対案選択、一段上の視座に立ち、より広い視野が無ければ、仕事ならそう簡単には上手くいかないが、本書はあくまで簡易的にその必要性に触れ、効果的に訓練してくれるものだと感じた。
実際の試験、いや職場は判断ミスが命取り、気を抜くと誤った内容のまま申請を発信してしまい、部下も叱るが、結果は自分のミス。数億、数十億のプロジェクトが失敗すれば責任は自分の所に(責任取らないの?と言ってやりたい管理職も多数いるが)。もし自分が経営者なら、大事な従業員の人生も、社会からの批判も、大切なお客様の信頼も全て一身に受けなければならないのだから、簡単に他人事とも言っていられない。物事の優先順位を正しくつけ、問題の裏に潜んでいる様々な原因の中から真の原因を見つけ、そしてそれを分析して解決策を打って出る。足りない想像力を読書で鍛え、過去の経験や得た知識から状況に応じた適切な意思決定をし、その結果や影響を果てしなく洞察し、自分ひとりでできない事なら組織の人員を動かして活用し、何事も会社に所属するなら全てが自分の仕事に紐づくという強い当事者意識で事に向き合う。
最後にものを言うのはヒューマンスキル。どんなに知識豊富で技術に優れていても、巨大な組織で大きな成果を挙げるためには、人を動かす力が無ければならない。聖人君主とまではいかないけれど、「私は常に諸氏の先頭にあり」、大きくて広い背中を見せ、安心して付いてくるような組織を作るには、人間性に優れていなければならない。周囲から信頼されるには自分も周りを信頼していなければならない。中には変わった人もいるし、怠けている人、嘘ばかりつく人、すぐ他責にする人、飲み会で私の悪口を言ってる人、様々な人がいるのを知りながら、平然を装い、かつそうした人達こそ自分の中で優先的に対応しなければならない事を知っている。
「無心」。管理職なりたての頃にはなれなかった事を思い出す。常に周りに心も仕事も乱されていると感じていた。だが今は違う。会社での私は「無心」だ。何より先ずは会社の存在意義と共に自分があると考える。それ以外には何事にも乱されない。とまぁ、ここまではいかないまでも、随分と昔と違う自分を感じながら、本書のシーンに身を置いて考えて答えは出せるようになったかもしれない。