人文科学の諸領域は、「私たちはどこから来たのか」、「私たちはなにものか」、私たちはどこへ行くのか」という命題を追求するものである。
民俗学もまたこの命題を追求するものであり、私たちがどこまでを含むのか、どういうアプローチをとるのか、その点において、柳田国男は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」と置き、日本人の「心」を手掛かりに解明しようとした。一方で宮本常一は、「もの」を入り口に解明を試みた。
柳田国男は各地に残存する民族伝承を比較することで、その祖形、あるいは理念を探り当てようとした。折口信夫は民俗の伝承と古代文学を比較し、古代文学のなかに含まれた民俗的意味を明らかにしようとした。宮本常一は、大きな歴史は伝承によって記憶されるだけで記録されない小さな歴史によって成り立っていることを具体的に生活史、生活誌によって描き出そうとした。その中で技術や産業の変化に目を向けたことも大きな違いである。
忘れられた日本人の思想
村里の話題を調査・紀行・座談・聞き書きなどの方法を持って記述した。
土佐源氏
高知の梼原村の橋の下に住む乞食の人生譚。夜這いによって生を受け、母親が早く死に祖父母の手で育てられ、牛馬の売買・仲介をする馬喰渡世の身となり、さまざまな女生と関係性を結んだ。目の見えない乞食の分際で自慢できるのは、身分の高い女性との性交渉の話だった。歴史学では歴史の発展に関与したり、事件や事故の当事者でもなければ記録に残されたりするようなことはない。民俗誌っでも民間伝承や信仰などでなければ記録されない。私たちにはこういう人たちも含むということを宮本は教えてくれる。
名倉談義
愛知県の名倉村での四人の村人の話。金田金平は重一さの家のある田で、夜遅くまで仕事をしていた。女性の参加者のシウは、それは重一の両親が金平が仕事をしているので、表の間の明かりが届くように、戸を立ててはいけない、と家族に言っていたからである。金平はそれを知らずにいたのだが、遅くまで明かりがあったおかげで仕事ができてありがたかったと感謝する。
ここに見られるのは、一種の共同体の相互扶助である。村落共同体の人々の生活が、こうした共同性によって支えられることを明らかにする。
世間師
共同体の外側にあり、多様な価値で成立している世間を渡り歩く存在。そんな存在が各村に入り込み、村を新しくしていくためのささやかな方向づけをした。共同体を出て見聞を広め、世間の知識を共同体にもたらすこと、公共性への道を開くことだった。
民俗誌から生活誌へ
日常生活の中から民俗的な事象を引き出し、整理してならべることで民俗誌は事足りすのか。日々営まれている生活を詳細に調査し、検討するべきではないか。民俗誌ではなく、生活誌の方がもっと取り上げられるべきであり、また生活を向上させる梃になった技術についてはもっときめ細やかにこれを構造的にとらえてみることが大切ではないかと考えるようになった。
客観的なデータを整理・分離するそれまでの民俗誌に対し、実感を通して人の生活そのものを観察し、総合的にとらえる生活誌を強調した。さらにそこには、聞き手宮本常一が常に介在し、記録されていく。
テグス
蚕糸から作られたテグスは薬の包み紙を縛る意図として用いられてきたが、阿波国鳴門の漁師が釣り糸として中国から買い入れるようになり、船に乗って売りさばいた。一緒に一本釣りのやり方も教えて歩いたため、どこでもたくさん魚が取れることになり、瀬戸内海のいたるところに一本釣りの村ができた。
庶民不在の歴史
庶民派いつも支配者から搾取され、貧困でみじめで反抗を繰り返しているように力説されることにいつも違和感を持っていた。日々一生懸命働き、その爪痕は文字に残されなくても、集落に、耕地に、港に、樹木に、道に、その他あらゆるものに刻み付けられている。村人の大半はつつましく健全に生きている。その姿を明らかにしておくべきではないか。
相互扶助による共同体
生物の進化の主たる原因は同一種に属する生物間の生存のための激烈な闘争によるものであると論じられてきた。これに対してクロポトキンは、自身の眼で見た動物生活の相互扶助と相互指示の事実が、生命維持や種の保存、将来の変化のための最も重大な点ではないかと述べた。
残酷
東北の方にいくと、人が死んだりするとその挨拶に「残酷でござんした」という。お気の毒でしたと同じような意味ですが、自分の意志ではないのにそうなっていったというような場合に使っている。その言葉に愛着を持つ。
単層文化と重層文化
ある種の行事がきわめて丁寧に行われているのに対し、ほかの行事は多くなく、あるいは詳しく伝わっていない場合がある。一方で、財の蓄積が進んだところでは行事量も多く、ひとつひとつは簡略化されていても全体的に絡み合っていることもある。前者を単層文化と呼び、後者を重層文化と呼ぶ。重層文化では外からの刺激が多い。
寄合
対馬にて区有文書の存在を知り、借用を願い出ると区長は寄合にかけなければならないと言った。午後三時を過ぎても帰ってこないので、しびれを切らした宮本常一は寄合の行われているいる神社へ出向いた。板間に20人ほど、貸出について議論していた。みんなの納得いくまで何日でも話し合う。賛成や反対を話すのではなく、過去のことや知っている知識を話し合う。現代の多数決に代表される民主主義とは異なる寄合民主主義が存在していた。
共同体における自主性と束縛
子供をさがすでは、いなくなった子供を探すために村人は誰かがリーダーシップをとり指示に従ったり、相談することもなく、自主的に自分の熟知している場所を探し始めた。村人が探し回っている最中、道端でたむろしてうわさ話に夢中になっている人たちがいた。最近になって村へ住むようになった人々である。
女性の民俗的地位
家父長制、男性による女性の支配を封建的な社会の残滓とみなされていた。それは東日本の常識を基礎とした捉え方であると宮本はいう。地主が小作人を厳しく搾取しているのは東日本の実態で、西日本とは異なるという。
傍流
渋沢敬三が宮本に「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役を務めていると、多くのモノを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当の喜べるようになることだ」。傍流はオルタナティブと言い換えても間違いではないのではないか。
民具・物流・産業
埼玉県の南西部にある狭山一帯は、大きな茶の栽培地になっている。近くに江戸があるから発展したと書いてある。お茶は密閉しておかないとカビが生える。そのため、ブリキ箱で販売される。昔は、茶壺に入れる必要があった。茶壺を最も作ったのは、宇治にほどちかい信楽焼であった。宇治茶を江戸に送るには茶壺が櫃王で、からになった茶壺を宇治に送り返すのは面倒だった。そうするとからの茶壺が江戸に溜まってくる。そのからっぽになった茶壺を利用して、狭山の茶業が起こった。茶業の方が伸びてくるとこんどは茶壺が足らなくなる。そこで信楽の職人が常陸に移って焼いたのが笠間焼で、ある。移っていくと技術は下手になる。味がでる。文化を見るときにひとつをみるのではなく、相関関係でみていかないと本当のことがわからない。
父の10箇条