『ヴィンセントが死んだ後、私は『グリーフ・レッスンズ』というアン・カーソン翻訳によるエウリピデスの戯曲集、それからシェイクスピアの『ジョン王』で玉座に続き人生も奪われた年若い息子アーサーを失ったコンスタンスの独白をくりかえし読んだ。古代ギリシャの人々は悲しみをこれ以上ないほど高らかにうたい上げる。カーソンが指摘するように、それは激しい怒りである。大きな悲しみや怒りの翻訳は不可能に近い。まるで極みに至った感情は肉体的な感覚でしかありえないかのように――その言葉はやけっぱちの手荒な勢いで読者に襲いかかる』―『2 事実関係』
イーユン・リーの手記「自然のものはただ育つ」を読む。この手記には息子を二人とも自死(しかも同じ方法)で失くした母親の深い悲しみが詰まっている。ただしその「悲しみ」を作家は「悲しさ」という言葉で表現することを避ける。避けるというよりも、むしろその言葉が適切ではないと作家は言う。それを「奈落の底」に居着くことだと表現する。それは誰に向けて良いか解らないままの「怒り」であると言う。その言葉を聞いて、原爆で中学生であった息子を失くした母親の詠んだ歌をふと思い出す。「烈し日の真上にありて八月は 腹の底より泣き叫びたき」。確かにこの歌の感情を表す言葉として「怒り」というのが最も適切なのかも知れないと遅まきながら理解する。
「水曜生まれの子」を読んで、次男の死を予感していたのではないかという印象を持ったと書いたが、本書では自身の自殺未遂、二人の息子たちに備わっていた天分、長男と次男との関係性などが少しずつ語られる中で、それが「予感」などという生易しい言葉ではなかったことを知る。それを知ることが読書の目的ではないけれど、やはりこの作家の業とも言える物事や人々に対する眼差しと思考を垣間見た思いがする。そして再び「もう行かなくては」の読後に綴った「この作家の抱えている絶望感はとても深い。しかし、その絶望の水底を見通すために水面を揺らす小波[さざなみ]を息をこらえて鎮め覗き込もうとする強さも同時に持っている」という感想を新たにする。ただし、それを「強さ」と単純には呼べないことも意識しながら。それは「意を強くして」為す行為であることには間違いはないが、この作家にはそういう風に「見たくないものすら見てしまう」という方法しか人生と対峙する方法がないのだとも理解する。ひょっとするとそれは、奈落の底に引き摺り込まれることに抵抗しないという「弱さ」の表れでもあるのかも知れない。もちろん、そこに居続けることには強い意志が必要とされるだろうけれど。それを「徹底的な受容(ラディカル・アクセプタンス)」という心理学上の概念として理解し積極的に受け入れる作家イーユン・リー。
『私の庭は希望や再生の比喩にはならない。花に明るさや楽観の使者となる務めなどない。自然のものはただ育つだけだ。自死願望のあるバラも怒るバラもいないし、抑鬱状態のユリも反抗的なユリもいない。植物が目指すところは一つだけだ。生きること。生きるために、可能なときは育つし、必要があれば休眠に入る。死ぬまでは生きやがて自然が定めるままに死ぬか、ほかの自然の要素に切られるかだ。庭はいっときだけ場をとっておくもの。花はプレースホルダー』―『12 自然のものはただ育つ』
訳者あとがきにもあるように、イーユン・リーの考え方、物事の受容の仕方の重要な基礎をなしている概念に「プレースホルダ―」というものがあるということは本書を読み進めるにつれ徐々に解ってくる。もちろん、作家が理解しているようにその考え方を理解している訳ではないが、日本的な考え方の特徴の一つにある「諦観」とも通じる概念なのかと理解しておく。荒ぶる自然の中で生かされている場所をそのままに受け入れる、その場所があくまで一時的なものであるということに抗わない、という考えなのか、と。自然災害に見舞われることの多い国土に居着く人々が自然のもたらすものを畏怖を持って受け入れた考え、と言い換えてもよい。そう考えると「徹底的な受容」、「プレースホルダー」、そして「自然のものはただ育つ」という言葉の繋がりが自然と見えて来るような気がする。
『私は考える。次はもっとしっかり水をかくにはどうすればいいか考える。泳いだ後に書くことにしている小説の章について考える。複雑で弾けないショパンのノクターンについて考える。少女の頃に好きだったオリエンタル・ポピーについて考える。私はこの花をうちの庭に植える気になれない。その花の中国名は虞美人といい、愛する人のために自ら命を絶った有名な愛妾に敬意を表してつけられた。その愛人は将軍で、翌日に漢の初代皇帝と最後の宿命の戦いで相まみえることになっていた〔楚漢戦争の項羽と劉邦〕(来年はオリエンタル・ポピーを少し植えようか。スイート・ジュリエットというバラと一緒に)』―『23 子どもは死ぬ。そして親は生きていく』
確かにこれは「手記」ではあるのだけれど、まるでこの作家の小説を読んでいるようだとも思ってしまうのは変だろうか。もちろん、ここに書かれていることはフィクションではないだろうけれど、イーユン・リーの小説の一人称の言葉との違いは随分と小さいように錯覚してしまう。彼女の小説に出て来る主人公たちもまた作家同様幾つもの考えに「捉われ」ていることが多いのだと本書を読んで知る。それは自分にも馴染みのある状態と言ったら言い過ぎだろうと思うし、他人が言葉を発しない時、他人が何を考えているのかあるいは考えていないのかを知ることはできないので他の人がどうなのかは解らないけれど、この人もまた頭の中がうるさい、いや五月蠅くて仕方がない、時に苦しい人なのだろうなと思う。それは彼女の天分と母親との関係性も大いに影響してのことなのだろうけれど。そんな内面の考えの渦や、それを少し外側から見ている存在のことを意識すると、「独りでいるより優しくて」に登場する二人の中国からの留学生が、この作家の分断された内面とそれを外側からみている思考の両方を表しているのだろうなと見えて来る。
考え抜いた末に死を選んでしまうことに共鳴する自分を外側から見つめることが出来ること。それは果たして「性」と呼ぶべきものなのか、あるいは「業」と呼ぶべきなのか。この作家のまだ読むべき作品が残っていることを意識する。