作品一覧

  • 日本近代美術史論

    日本近代美術史論

    ビジネス・実用

    -
    1巻660円 (税込)
    秀抜な眼識が捉えた日本近代美術の創生・発展の軌跡……高橋由一・黒田清輝・青木繁・狩野芳崖・フェノロサ・岡倉天心・横山大観・菱田春草・富岡鉄斎・藤島武二・山本芳翠……個々人の内包する諸問題を分析しつつ、近代日本における洋画・日本画の進化・展開の様相を克明に追究した、高階秀爾の力作評論。
  • 《受胎告知》絵画でみるマリア信仰

    《受胎告知》絵画でみるマリア信仰

    ビジネス・実用

    4.3
    1巻880円 (税込)
    【複数色を使用したコンテンツです。モノクロ端末では一部読みづらい場合がございます】聖母マリアが身籠ったことを知らされる一瞬の出来事を描いた《受胎告知》は、近現代に至るまで1500年以上ものあいだ、多くの画家たちが手掛けてきた、人々を魅了するテーマだ。時代によって、また画家によっても全く異なり、イエスも描かれていないのに、なぜ人気だったのか――。本書では、カラー48点の作品を、歴史だけでなく図像学的なモチーフやその変遷、さらに、名高い画家たちの名作の秘密や背景も解説。西洋絵画屈指の名場面の魅力を明らかにする。 《構成》【序章】キリスト教と西洋美術の関係 ●文化に溶け込んだマリア信仰 ●実は聖書に具体的な記述はない 【第一章】《受胎告知》とは? ●わずか数分の出来事を一枚の絵に収める ●告白された日は、いろんな都合で「三月二十五日」に…… 【第二章】なぜマリア信仰が盛んだったのか ●ペストが流行したゴシック時代から優しいマリアに ●教会内で飾られる位置は決まっている…… 【第三章】ルネサンスの写実的な表現と細密描写 ●富豪たちが積極的に寄進した理由とは ●ルネサンス時代になって人間らしく描かれた…… 【第四章】マニエリスム――特異な表現様式と宗教戦争 ●カトリックの戦略的な宗教普及 ●さらに神秘性を強調した表現…… 【第五章】バロック――そして近現代における《受胎告知》 ●宗教絵画に日常表現を取り入れる ●描かれなくなった現代でも有名なテーマ……
  • ルネッサンスの光と闇(上) 芸術と精神風土

    ルネッサンスの光と闇

    ビジネス・実用

    5.0
    1~2巻990円 (税込)
    人間性の開放と現実世界の肯定という明るい光の部分の裏側に、世界の終りに対する恐れ、死の執念、混乱と破壊への衝動、破滅へのひそかな憧れ、非合理的幻想世界への陶酔といった別の一面を持つルネッサンス……。ボッティチェルリの《春》や、ヴァティカン宮殿の署名の間、メディチ家の礼拝堂といった傑作を輩出したその精神的風土と芸術のからみあいを、刷新した多数の図版をもとに解き明かす。
  • カラー版 近代絵画史 増補版(上) ロマン主義、印象派、ゴッホ

    近代絵画史 増補版

    ビジネス・実用

    4.3
    1~2巻1,100~1,122円 (税込)
    絵画における近代は、印象派とともに始まる、といわれる。しかし、印象派の「革命」をもたらした要因がロマン主義の運動にあるとすれば、広い意味でのロマン主義に始まる大きな歴史の流れの中で近代絵画は理解される必要がある。本書は、十九世紀前半から第二次世界大戦にいたるおよそ一五〇年間の西洋絵画を概観。上巻は近代絵画の先駆者ゴヤから、ボナールに代表されるナビ派まで。名著をカラーで刷新。
  • ルネッサンス夜話

    ルネッサンス夜話

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,287円 (税込)
    中世フィレンツェを中心に、芸術に加えて経済や戦争、病気や占星術や女性など種々の角度から転換期の全体像に迫る名著、待望の復刊。
  • 芸術空間の系譜

    芸術空間の系譜

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,287円 (税込)
    圧倒的な芸術論 空間認識の変遷から西洋文化を捉え直す 西洋美術史の泰斗による名著 ラスコー壁画から20世紀における抽象芸術にいたるまで、人間の空間認識や対象把握の特徴を西洋美術・彫刻・建築を横断し読み解く隠れた名著。解説 三浦篤 === 芸術とは「眼に見えたもの」の再現ではなく「知っていること」から創られる。絵画や彫刻にせよ建築や都市にせよ、優れた独自の表現が確立された時、そこには、かつてなかった精神的価値に裏打ちされた空間認識が根ざしているに違いない。原始時代の洞窟壁画、ギリシアの神殿と彫刻、ゴシック建築、ルネサンスの理想都市、鉄とコンクリートと工業化から現れた世紀末芸術、20世紀に花開く抽象芸術……。自己と対象との関係において際立った表現様式が持つ文化史的・精神的背景を解き明かす、圧倒的な芸術論。西洋美術の碩学の隠れた名著。 【目次】 原始空間の特質 ギリシャ人の空間意識 イタリア美術の空間意識 ゴシック空間の象徴性 ルネッサンスの理想都市 新しい技術と空間的可能性 世紀末芸術の空間意識 キュビスムの空間意識 抽象的空間の成立――抒情と幾何学 あとがき 解説 三浦篤
  • カラー版 名画を見る眼 油彩画誕生からマネまで Ⅰ

    カラー版 名画を見る眼

    ビジネス・実用

    4.4
    1~2巻1,364円 (税込)
    名作はどのように生まれたのだろうか? 本書は,西洋絵画の本質について一歩進んで理解したいとする人びとの願いに応えて執筆された,西洋美術鑑賞の手引きである.一枚の絵に隠された芸術家の意図,精神性を探りながら歴史を一望する.Ⅰ巻では,油彩画の誕生からマネまで,一五人の画家と一五の名画を丁寧に解説する.

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  • バロックの光と闇

    バロックの光と闇

    ビジネス・実用

    4.7
    1巻1,540円 (税込)
    「歪んだ真珠」を意味する語として生まれた「バロック」は、「粗野な」、「劣った」というニュアンスを帯びて使われる一方で、バッハやベルニーニに代表される雄大壮麗な作品とともに知られてもいる。──では、「バロック」とはいったい何か? 西洋美術史研究の第一人者が、多彩な時代と分野を縦横無尽に駆けめぐり、本質に迫っていく旅の記録。多数の図版を収録した原本に、さらに新たな図版を加えた決定版が登場!
  • エラスムス 闘う人文主義者

    エラスムス 闘う人文主義者

    小説・文芸

    5.0
    1巻1,716円 (税込)
    中世の大ベストセラー『痴愚神礼讃』の名を知る人は多いだろう。ヨーロッパ文化への貢献者に与えられる栄えある賞に今もその名を残す、西洋知性の粋、デジデリウス・エラスムス。宗教改革をはじめ、世俗権力と教会の対立が顕在化し、争いが絶えなかった狂乱の時代を生きた彼は、つねに学問に打ち込み、「何者にもその道を譲らない」という自らの信条が揺るぐことはなかった。派閥に属さない知性的な態度や人間味あふれる魅力的な人柄、「世界市民」としての生き方を、西欧文化を知悉する著者が憧憬をこめて描き出す傑作評伝。 【目次】まえがき/第1章 我、何者にも譲らず/第2章 不信の時代/第3章 変革への底流/第4章 古代へのめざめ/第5章 ふたつの友情/第6章 イタリアへの旅/第7章 ヴェネツィアの印刷業者/第8章 ゆっくり急げ/第9章 『痴愚神礼讃』/第10章 宗教改革の嵐/第11章 嵐のなかの生涯/第12章 自由意志論争/第13章 栄光ある孤立/はしがき
  • カラー版 近代絵画史 増補版(合本)

    近代絵画史 増補版

    ビジネス・実用

    5.0
    1巻2,222円 (税込)
    本書は、十九世紀前半から第二次世界大戦にいたるおよそ一五〇年間の西洋絵画を概観。上巻は近代絵画の先駆者ゴヤから、ボナールに代表されるナビ派まで。下巻は、世紀末絵画から抽象絵画まで。増補にあたりあとがきを新規に収載し、名著をカラーで刷新。
  • 近代美術の巨匠たち

    近代美術の巨匠たち

    ビジネス・実用

    -
    1巻2,640円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 あの名作はどのようにして生まれたか。飽くことなく「光」を追求したモネ、不遇の天才セザンヌ、女性の美を絵筆に託したルノワール、単身タヒチに渡り、絵を描きながら孤独のうちに病没したゴーガンなど、近代絵画史に偉大な足跡を残した画家たち。その生い立ちから画家としての目覚め、数々の名作を描くにいたるまで、生活史をも織り込んで描く、巨匠列伝。

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  • 日本絵画の近代 : 江戸から昭和まで

    日本絵画の近代 : 江戸から昭和まで

    ビジネス・実用

    -
    1巻2,776円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 日本で洋画はどのように受容され、発展したのか。江戸鎖国期に始まる洋風画の導入から、ジャポニスムの里帰りを経て、第二次世界大戦時に描かれた戦争画まで、激動の時代の絵画の変貌を描く、ダイナミックな日本絵画史。

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  • 西欧絵画の近代 : ロマン主義から世紀末まで

    西欧絵画の近代 : ロマン主義から世紀末まで

    ビジネス・実用

    -
    1巻2,776円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 ロマン主義、象徴派、印象派など、様々な主張を持って生まれた近代芸術の方法。―芸術家たちは、どのように時代を生き、思潮を生みだし、手法をつくりだしたのか。近代の本質を探り、新しい視座から作家と作品を論ずる、躍動の美術史。

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  • 美の思索家たち

    美の思索家たち

    ビジネス・実用

    -
    1巻2,989円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 現代の美術論に決定的な影響を与えた美の思索家18人の名著を系統的に紹介し、20世紀芸術思想の展開を鮮やかにあとづけ、美術と美術批評の今日の地平を浮彫りにする。

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  • 日本近代の美意識

    日本近代の美意識

    ビジネス・実用

    -
    1巻3,631円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 円山応挙、高橋由一、フェノロサ、岡倉天心、村上華岳、竹久夢二、佐伯祐三ら近代美術の惑星を論じ、前衛の役割、日本人と自然、現代文学における美の表現等にいたるまで幅広く精緻にたずね、日本美術の特質を明らかにする美の精神史。

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  • ヨーロッパ近代芸術論 ――「知性の美学」から「感性の詩学」へ

    ヨーロッパ近代芸術論 ――「知性の美学」から「感性の詩学」へ

    ビジネス・実用

    -
    1巻4,290円 (税込)
    私たちの時代の感性がここに幕を開ける! 19世紀は自らの内部に新たな想像力の源泉を見つけた。美術史の碩学が自選した評論により“近代”から“現代”に至る芸術の道筋を示す決定版。

ユーザーレビュー

  • 《受胎告知》絵画でみるマリア信仰

    Posted by ブクログ

    792円

    164P

    これ分かる。エル・グレコは20世紀の画家達に通づるものがあると思ってた。

    ニースとアンティーブorヴァロリスって東京横浜間ぐらいの距離だから普通に日帰りで泊まる場所はニースにした。

    高階 秀爾
    (たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 2024年10月17日)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位。東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。1932年、東京で生まれた。父は哲学者・高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った[1]。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹、平川祐弘、石井進、平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1944年9月から1946年9月まで、父親の出身地である秋田県(大曲町)に疎開し、旧制角館中学で学んだ。1948年、四修で旧制第一高等学校に入学。1年修了で翌年新制東京大学に入学。在学中に矢代幸雄の『世界に於ける日本美術の位置』を読み、西洋美術史研究を志す。1953年、東京大学教養学部教養学科を卒業。東京大学大学院に進み、在学中の1954年から1959年まで、フランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学付属美術研究所およびルーブル学院で西洋近代美術史を専攻し、展覧会の運営など美術行政についても学んだ。帰国後、国立西洋美術館主任研究官に就いた。美術館勤務の一方で評論活動も開始し、1967年には遠山一行、江藤淳と雑誌『季刊藝術』を創刊。編集長は古山高麗雄で1979年まで計50号発行した。学界では、1968年に発足した日本文化会議に参画(1994年に解散)。1971年、東京大学文学部美術史科助教授に就いた。1979年に同教授昇格。1992年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。同1992年4月、国立西洋美術館館長に就任。2000年まで務めた。1997年、パリ第一大学より名誉教授を授与された。2002年4月~2023年6月、大原美術館館長[2]。2004年、京都造形芸術大学大学院長となり、同比較藝術学研究センター所長も兼ねた。2008年、京都造形芸術大学を退職。2015年、日本芸術院会員に選出された。2020年10月~2023年9月まで日本芸術院長を務めた[3]。2024年4月に発足された大原芸術研究所の所長に就任[4][5][6]。運営財団の理事も兼務していた[7]。2024年10月17日、心不全のため、死去[8]。92歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]。西洋美術館研究官、東京大学の美術史教授として、1963年の『世紀末芸術』を始め数多くの著作があり、啓蒙的役割を果した。ルネサンス期以降の西洋美術を専門としながら、日本近代美術にも造詣が深くその方面の著作、画集編集もある。
    同じ東京大学比較文学教授を務め、京都造形芸術大学名誉学長である芳賀徹とは小学校時代からの友人。『名画を見る眼』正・続(岩波新書)は、半世紀重版され計・82万部出された(新版の紹介より)。
    家族・親族
    父:高階順治は哲学者。
    母:佐々木信。
    祖父(母方):佐々木秀一。
    妻:舞台女優・エッセイストの高階菖子(しょうこ)
    娘:京都大学人文科学研究所教授で美術史学者の高階絵里加。

    「「受胎告知」と聞けば、ただちに美術史を彩る、いくつもの名作が思い浮かぶ。事実、中世初期から現代に至るまで、それぞれの時代にさまざまな画家たちによって、多くの受胎告知図が描かれてきた。  もちろん、他にも《アダムの創造》や《最後の晩餐》など、聖書に基づく絵画の例は少なくない。しかし《受胎告知》ほど、幾度も繰り返し描かれた主題は他にないと言っていい。  ヨーロッパを旅したことのある人なら、修道院や教会、あるいは美術館を訪れて、その壁を飾る《受胎告知》に感銘を受けた経験があるに違いない。古い町の場合は、通りを散歩している時に、建物の壁に《受胎告知》の像がつつましく設置されているのを目にすることもある。つまり、《受胎告知》はそれほどまでにヨーロッパの文化に、そして人々の日常生活の中に溶け込んでいるのである。  この《受胎告知》という主題は、単純と言えば単純なものである。だが、一見単純なようでいて、その中に侮れない奥深さを秘めている。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著

    「それというのも、そこには神秘/現実、超越的なもの/日常的なもの、天上(神)の世界/地上(人間)の世界などの対立する要素が交錯し、複雑に絡み合っているからに他ならない。  また、《受胎告知》はキリスト教神学の根本的で本質的な思想を核にしながらも、憧れや喜び、恐れ、不安などさまざまな人間的感情を投影できる主題であることも見逃せない。  つまり、深遠であると同時に、身近で親しみやすい側面も兼ね備えている。  だからこそ《受胎告知》は数多くの芸術家たちの想像力を刺激し、折に触れてバリエーション豊かな表現を生み出し、その時代、その時代の民衆の心をとらえてやまなかったのである。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著



    六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。



    「マリアに関しては折に触れて解説していくが、ここでは大天使ガブリエルについて少し触れたい。  キリスト教の信者以外にとって、ガブリエルの地位を誤解する者は少なくないだろう。「大天使」という呼び名だから偉い天使なのかというと、実はそうではなく、下から二番目の地位にすぎない。キリスト教の天使には階級制度があり、九つの階級に分けられている。上・中・下の三段階があって、さらにそれぞれ、上の上・上の中・上の下といったように細分化される。これは仏教の九品仏や軍隊組織とも共通する。後者では、まず大将・中将・少将がいて、次に大佐・中佐・少佐、そして大尉・中尉・少尉となる。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著




    「 天使では、まず、上位三隊に熾天使・智天使・座天使、中位三隊には主天使・力天使・能天使、そして下位三隊に権天使・大天使・天使がいる。要するに大天使は下の中にあたり、軍隊でいえば中尉といったところだろう。  なおキリスト教では、ガブリエルとともにミカエルとラファエルは三大天使と呼ばれ、崇敬されている。ミカエルは戦いの天使である。アダムとエヴァを追放したのもミカエルであり、悪魔を相手に戦うこともある。ラファエルは子どもの守護聖人で、たとえばトビアスという子どもが旅する時に守ってくれた。  ガブリエルはお告げの天使である。背にふたつの翼を備える大天使は、神と人間を結ぶ役割を担っている。前図下の熾天使(セラフィム)や智天使(ケルビム)のような格の高い天使たちは絶えず天上の神のそばにいて、地上に降りてくることはない。地上の人間とかかわり、人間に向けて神の意志の代行者を務めるのが大天使なのである。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著


    「このエフェソス公会議の結論が、中世以降のヨーロッパ社会に強い影響を及ぼした。イエスは人間ではあるが、やはり神なので畏れ多く、ちょっと近寄り難い。  そこで、親しみやすいマリアを仲介者として、天上の神に執り成してもらうことを民衆は望んだ。人々はマリアに祈りを捧げることで、神に救いを求め、赦しを請うた。マリアが「とりなしの聖母」と呼ばれるゆえんである。また、「憐れみの聖母」と言われることも多い。  マリア信仰が盛んになるのはゴシック時代以降のことだが、崇敬の念を抱くと同時に、どんなに貧しい、どんなに卑しい人間でも、安心して保護と救いを依頼できる優しい存在として親近感が持たれるようになったからである。  むろん、マリア信仰のあり方も、時代とともに異なる。それに伴って、《受胎告知》や《聖母子像》などに描かれるマリアの表情やしぐさなども異なる。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著

    「キリスト教は、絶えず布教を行なってきた。十一世紀末から十字軍の遠征が始まり、大航海時代にはさらに広範囲にわたって布教を行ない、十六世紀半ばには日本にもイエズス会のフランシスコ・ザビエル(一五〇六頃 −五二年)が、はるばる伝道に訪れたのはよく知られた話であろう。  一方、中世において書物は一般の人たちの間では普及しておらず、多くの民衆は本を読む習慣などもっていない。  そもそもヨハネス・グーテンベルク(一三九八頃 −一四六八年)による活版印刷術の発明以前には、もっぱら写本のかたちで存在した書物は、ごく限られた人しか、目にすることはできなかった。  そこで絵画や彫刻などの視覚芸術が、伝達手段として利用された。一般の人たちにキリスト教について説明する際に、聖なる物語の絵解きとして大いに活用された。いまの言葉に置き換えるなら、教義プロモーションの手段として絵画が活用されたのである。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著



    「エル・グレコは存命中、高い評価を得ていたが、その死後、次第に忘れられるようになり、バロックの時代にはもはやスペイン以外ではほとんど顧みられることはなくなっていた。  しかし、二十世紀を迎えてフォーヴィスムや表現主義などの新しい芸術運動が登場すると、事態は大きく変わった。特にドイツ表現主義の画家たちを中心に、グレコ再評価の機運が高まり、強烈な色彩や大きな動きを特色とする表現主義の先駆として、エル・グレコの存在がクローズアップされるようになったのである。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著

    「「受胎告知」とは、なんとも魅力に富んだ主題である。  奥深い神秘に包まれた天上の神の世界と、きわめて身近な日常の人間の世界とが一瞬だけ交わる玄妙不可思議な出会いのドラマ、それが「受胎告知」に他ならない。  もっとも、ドラマと言っても登場人物はわずか二人、内容も、天使がマリアにお告げの言葉をかけ、マリアは最初は驚き、恐れ、怪しみながら最後に神からのお告げを受け入れるという単純なものである。  しかし、その奥に秘められた神秘は多くの人々の心をとらえ、なによりも数多くの多彩で豊かな美術作品を生み出させた。  だいぶ以前のことになるが、長いことイタリアに滞在して美術の研究を重ねてこられた鹿島卯女さんから、《受胎告知》の名品を集めた豪華画集を作りたいというお話があり、私は卯女さんとは小さい時からお世話になったご縁もあり、喜んでお手伝いさせていただくことになった。その結果、鹿島卯女監修、高階秀爾編集による『受胎告知』(鹿島出版会、一九七七年)が刊行された。私にとって、忘れられない仕事である。」

    —『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)』高階 秀爾著

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    2026年08月07日
  • バロックの光と闇

    Posted by ブクログ

    1540円

    413P

    フランスは中央集権で何もかもパリにあるけど、ドイツは観光してても分散を感じた。

    写真とかレプリカでも見たことは見たことにカウントしてないんだけど、写真とかレプリカで見る事も音楽を生音ではなく、サブスクリプションで楽しむのと同じだって論を中野京子さんが展開してて、音楽に疎い私からしたら、サブスクリプションで音楽を聴く事ってそんなに質の低い事なんだと衝撃受けた。

    高階 秀爾
    (たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 2024年10月17日)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位。東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。1932年、東京で生まれた。父は哲学者・高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った[1]。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹、平川祐弘、石井進、平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1944年9月から1946年9月まで、父親の出身地である秋田県(大曲町)に疎開し、旧制角館中学で学んだ。1948年、四修で旧制第一高等学校に入学。1年修了で翌年新制東京大学に入学。在学中に矢代幸雄の『世界に於ける日本美術の位置』を読み、西洋美術史研究を志す。1953年、東京大学教養学部教養学科を卒業。東京大学大学院に進み、在学中の1954年から1959年まで、フランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学付属美術研究所およびルーブル学院で西洋近代美術史を専攻し、展覧会の運営など美術行政についても学んだ。帰国後、国立西洋美術館主任研究官に就いた。美術館勤務の一方で評論活動も開始し、1967年には遠山一行、江藤淳と雑誌『季刊藝術』を創刊。編集長は古山高麗雄で1979年まで計50号発行した。学界では、1968年に発足した日本文化会議に参画(1994年に解散)。1971年、東京大学文学部美術史科助教授に就いた。1979年に同教授昇格。1992年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。同1992年4月、国立西洋美術館館長に就任。2000年まで務めた。1997年、パリ第一大学より名誉教授を授与された。2002年4月~2023年6月、大原美術館館長[2]。2004年、京都造形芸術大学大学院長となり、同比較藝術学研究センター所長も兼ねた。2008年、京都造形芸術大学を退職。2015年、日本芸術院会員に選出された。2020年10月~2023年9月まで日本芸術院長を務めた[3]。2024年4月に発足された大原芸術研究所の所長に就任[4][5][6]。運営財団の理事も兼務していた[7]。2024年10月17日、心不全のため、死去[8]。92歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]。西洋美術館研究官、東京大学の美術史教授として、1963年の『世紀末芸術』を始め数多くの著作があり、啓蒙的役割を果した。ルネサンス期以降の西洋美術を専門としながら、日本近代美術にも造詣が深くその方面の著作、画集編集もある。
    同じ東京大学比較文学教授を務め、京都造形芸術大学名誉学長である芳賀徹とは小学校時代からの友人。『名画を見る眼』正・続(岩波新書)は、半世紀重版され計・82万部出された(新版の紹介より)。
    家族・親族
    父:高階順治は哲学者。
    母:佐々木信。
    祖父(母方):佐々木秀一。
    妻:舞台女優・エッセイストの高階菖子(しょうこ)
    娘:京都大学人文科学研究所教授で美術史学者の高階絵里加。


    「われわれから見ると、パリにはルーヴル美術館、オペラ座、コメディ・フランセーズ劇場をはじめ数多くの伝統的施設があり、現代美術に関しても、国立、市立の近代美術館のほか大小さまざまの画廊があって、まさしく芸術の都と呼ぶにふさわしい充実ぶりと感心させられるのだが、芸術愛好家としてもよく知られた故大統領は、必ずしもそう思ってはいなかったらしい。芸術がごくかぎられた一部のエリート層のみの関心の対象であるという事態は、決して望ましいものではないと考えたのである。  実際、今から半世紀近く前、私がはじめてパリに住んだ頃には、ルーヴル美術館でさえそれほど混雑しているわけではなく、《モナ・リザ》を見るのに苦労するなどということはまったくなかった。  近代美術館にいたっては、いつ行ってもがらんとして、ほとんど人気がないという有様である。しかもその数少ない観客の大部分は、専門の研究者か外国からの観光客で、一般のパリ市民は美術館とは無縁という人々が少なくなかった。特に現代芸術は「わけがわからない」といって、最初から敬遠されていたのである。  ポンピドゥー・センターの設立は、このようないわば閉ざされた文化状況に大きな風穴をあけるために構想された。それは、現代芸術の豊かな成果を、さらに言えばこれまでに蓄積されてきた人類の知的遺産を、かぎられたごく一部のエリート層から広く一般大衆に開放しようというものである。内部の空間構成や各種の配管設備などがすべて丸見えの全面ガラス張りのその建物は、外部にむき出しのかたちでつけられた上昇する巨竜のようなエスカレーターとともに、まさしく開かれた存在としてのこの施設の意味を象徴的に示していると言ってよい。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「国際設計競技の結果、選ばれたのはイタリア人のレンゾ・ピアノとイギリス人のリチャード・ロジャースのチームであった。このことはフランス人をかなり驚かせたらしい。しかもそれに続いて、国立近代美術館の館長にスウェーデン人のポンテュス・フルテンが就任したことは、さらに大きな反響を呼び起こした。フランスの国家的事業でありながらなぜ外国人ばかり登用するのかという批判が新聞を賑わせたのも、一度や二度ではない。だがそのような一国中心の枠を越えたところに現代美術の活力があり、芸術家たちの活躍の場があるということを示すのが、まさしくポンピドゥー・センターの狙いであった。  事実、現代では、芸術家たちは国境を越えて自由にその活動の舞台を拡げ、ひとつの町に生まれた芸術運動はただちに他の主要都市に波及する。ポンピドゥー・センターが、アメリカを第二の故郷として選んだマルセル・デュシャンに捧げる展覧会で幕をあげた後、「パリ‐ニューヨーク」、「パリ‐ベルリン」、「パリ‐モスクワ」と相次いで大がかりな都市シリーズ展を開催したのも、このようなグローバル化の情況をはっきりと見据えていたからに他ならない。先に触れた「前衛芸術の日本  一九一〇─一九七〇」展も同様の国際化志向による企画であることは言うまでもない。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著

    「このように見てくると、現代世界は多くの点でバロック世界と共通するものがあることに気づく。ポンピドゥー・センターが、当初のさまざまの批判にもかかわらず、一日平均二万人もの観客を集めるという予想外の成果を見せているのは、それがまさに時代の要請に応えるものだったからであろう。ポンピドゥー・センターのみならず、フランク・ゲーリーの設計になる不気味な未来都市のようなビルバオのグッゲンハイム美術館や、かつての火力発電所を大胆に改装したロンドンのテート近現代美術館(テート・モダン)が、人目を驚かす巨大さと、国境やジャンルの境界を越えた活動によって人気を集め、ヴェネツィアのビエンナーレ展やカッセルのドクメンタ展のような大がかりな国際的芸術の祝祭が多数の観客を惹きつけているのも、同様の理由によるものに違いない。現代はまさしく新しいバロックの時代なのである。  とすれば、建築、美術、音楽、演劇、文学など、さまざまの分野において、かつてのバロックが再び人々の熱い視線を浴びるようになったことも、少しも驚くにはあたらない。むしろ今こそ、過去のこの豊かな遺産を改めて見直し、その多彩な魅力を味わう絶好の機会と言ってよいであろう。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「「バロック」という言葉を聞いて、人はいったい何を連想するだろうか。音楽好きの人なら、よく知られたバロック音楽の作品、例えばヴィヴァルディの《四季》を思い浮かべるだろう。美術に関心があれば、カラヴァッジオとかルーベンスという名前を思い出すかもしれない。だが、何となく耳にしたことはあっても、詳しいことはわからないという人も少なくないであろう。そこで辞書の助けを借りることとする。この言葉は、たいていの国語辞典にのっている。例えば『大辞泉』(一九九五年版)を開くと、「一六世紀末から一八世紀に欧州で流行した芸術様式。均整と調和のとれたルネサンス様式に対し、自由な感動表現、動的で量感あふれる装飾形式が特色。同じ傾向の音楽・文学の様式をもいう」とある。基本的にはその通りだが、もう少し深く内容にはいり込むためには、言葉の出自を探る必要がある。実は「バロック」の語源についてはふたつの説があり、そのこと自体がバロック理解に大きく役立つものなのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「もともとフランスは、西ヨーロッパの中心とも言うべき絶好の場所を占め、東西南北の交通の要衝にあたっていたというその恵まれた地理的条件から、さまざまの影響を受け入れ易い状況にあった。ルネッサンスの時代に最も豊かな経済的発展を見せたのは、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマなどのイタリア半島の主要都市国家と、ブリュージュ、アントウェルペンなど北方のネーデルラント地域であったが、この南北ふたつの先進地区のあいだの交流は、当然その中間に位置するフランスを通って行われた。その結果、北からも南からも優れた人材がフランスにやって来て足跡を残し、時にはそこに住みついて活躍することになった。実際、イタリアから多くの芸術家たちを積極的に招いたフランソワ一世の宮廷には、また、クルーエ一家のようなフランドル出身の画家たちも少なからずいて、肖像画や風景表現の面で注目すべき成果をあげていた。フォンテーヌブロー派が、一方でイタリアの完成された様式を取り入れながらも極端な綺想や人工性に溺れることなくつねに現実の世界に立ち戻り、また他方、北方の徹底した写実的表現を学びながらも理想的秩序への志向を失うことがなかったのは、そのためである。節度と抑制を本質とするフランス絵画の特色は、ここでもはっきりとうかがわれる。一説にはフィレンツェ出身の画家ルカ・ペンニの手になるとされる《狩人姿のディアナ》が、艶麗優美な女性像表現に加えて、ディアナと女神に従う犬とをごく狭い空間のなかに重ね合わせるというマニエリスム的構成を見せながら、少しも息苦しさを感じさせないのは、遠くに拡がる自然の背景のせいで、ここではフランドル派から学んだ風景表現が前景の窮屈な空間に対する有効な解毒剤の作用を果たしているのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「マニエリスムは、その古典主義の理想化の手法を受け継いだと言ってよい。理想化は美化であり、洗練化であって、その追求は、いつしか現実離れのした人工性の極致に達した。ラファエロやティツィアーノにおいてはなお保たれていた現実と理想のバランスは崩れ、極端なまでの優美さが強調されるようになった。不自然なほどに引き伸ばされたマニエリスムの人体比例は、その結果として生まれてきたものである。  とすれば、マニエリスムに対する反発として登場してきたバロックが、現実性の回復を企てたのは当然のことである。その点においてバロックは古典主義の現実感覚と結びつくが、その現実世界を、理想化すべき不完全なものとは見做さず、むしろありのままの姿を再現することこそが重要だと考えた点で、古典主義の美学とは異なる。カラヴァッジオが「溺死体」のような聖母を描き、ベラスケスが老醜と言ってもよい老女の相貌を仮借なく描き出したのは、そのためである。  つまりそこには、理想化された世界よりも真実の世界を求めるという新しい美学が登場してきた。いやそれは「美学」という以上に、「信念」と言った方がよいかもしれない。レンブラントが、決して若いとは言えない女性の生身の肉体を繰り返し写生し、それを銅版画にまで仕立てているのも、同様の信念に基づくものであろう。例えば《座る裸婦》(エッチング)がその好例である。それは、ボッティチェリやティツィアーノの裸婦のように理想化されてはおらず、ましてマニエリスムの「優美さ」からは程遠い。しかし、そこにこそ本当の美がある、何故ならそれは真実の姿だから、とレンブラントは断固として主張しているのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著

    「光学研究の成果であるカメラ・オブスクーラ(暗箱カメラ)も、画家たちに大きな影響を与えた。ケプラーは、暗箱のなかに映し出された光景を写生しているが、それは、彼自身語っている通り、「画家としてではなく、数学者として」そうしたのだという。逆に「画家として」カメラ・オブスクーラを利用した一人に、オランダのフェルメールがいる。アムステルダムの国立美術館にある彼の《牛乳を注ぐ女》は、左側の窓から降り注ぐ光を受けて、卓上の籠、パン、鉢、女の手にする牛乳の壺などに宝石のような光の滴りが宿る模様を見事に描き出した名作だが、背後の壁に映るゆるやかな光の環や、ハイライトの部分のハレーションの表現がカメラ・オブスクーラの場合に見られる特徴と一致することから、フェルメールがこの当時最新の光学仕掛けを利用したことは間違いないと見られている。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「夜の星座から台所の平凡な什器類まで、画家たちの視線は「真実」の姿を求めて絶え間ない研究を続け、表現の世界を拡大させた。スペインにおいて形成された特殊なジャンルである「ボデゴン(静物画)」は、描かれる対象への興味よりも正確に再現することへの情熱が生み出したものと言えるであろう。スルバランの《壺のある静物》が静謐な力強さでわれわれに訴えかけてくるのも、その情熱の故なのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著

    「そのことは、芸術活動を経済的に支える社会のあり方と無縁ではない。絶対王政体制が保たれていたフランスやスペイン、あるいは教会や高位聖職者、地方の領主貴族の勢力が強かったイタリアにおいては、芸術のパトロンとしての上流市民階級が一部存在しなかったわけではないが、建築はもとより、絵画、彫刻を依頼し、芸術家を支援したのは、もっぱら宮廷、王侯貴族、教会等であり、当然、宮殿の装飾や聖堂内に設置する祭壇画にふさわしい神話画、宗教画などが求められた。しかしプロテスタントが主流であったため教会の力が弱く、しかも共和制国家であって宮廷を持たないオランダでは、芸術のパトロンとなったのは、もっぱら経済活動の担い手であった市民たちであり、絵画作品は、市民たちの住居を飾るために求められた。とすれば、堅実で現実感覚に富む市民階級の好みが、現実世界の種々相を映し出した風景画、静物画、風俗画などに向けられたのは、少しも驚くにはあたらないであろう。これらの新しいジャンルに対する需要がきわめて大きかったため、画家たちの方でも、ジャンルごとの専門分化が行われ、時には、同じ風景ジャンルのなかでも、都市風景だけの専門画家や、海景専門の画家、あるいは花ばかり描く画家といったような細分化すら見られたのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「ランプも、ここでは「死」の象徴である。ランプが、というよりも、灯の消えたランプがそうである。よく見ると、画面のランプの火口からうっすらと白い煙がたちのぼっている。生命の灯が今ちょうど消えたことをそれは物語っている。つまり、ステーンウェイクの《ヴァニタス》の画面を支配しているのは、個々の事物の確固とした実在感にもかかわらず、それらすべてを否定する不気味な「死」の影なのである。その意味で、この作品は、中世以来の「メメント・モーリ(死を思え)」の系譜に連なるものと言うことができるであろう。  スペインの画家フアン・デ・バルデス・レアールの《虚栄の寓意》も、画面が一見雑然とした感じだが、基本的にはやはり死の影に支配された「ヴァニタス画」である。そこには、宝石や金貨などの富の象徴をはじめ、地上の権力を表わす王冠や王笏、知識と学問を意味する書物や定規など、この世の価値を示すさまざまなものが置かれているが、それらはすべて不気味な髑髏によって否定されている。その髑髏に橄欖の葉の冠がかぶされているのは、まさしく死の勝利の表現にほかならない。時計と灯の消えた蠟燭も登場している。それに加えて、髑髏の上にシャボン玉を吹く子供の姿が描かれていることが、画面の意図をいっそう明確に伝えてくれる。シャボン玉は、バロック時代に好んで取り上げられたモティーフで、「はかなさ」のシンボルだからである。そして画面の上の方では、天使が垂幕を開いているが、その奥に見えるのは「最後の審判」を描き出した絵である。「メメント・モーリ」のもつ宗教的意味が、ここではきわめて明確に図像化されているのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「極度の激情表現を好んだバロック芸術は、苦悩の表現においても、忘れ難い崇高なイメージを生み出した。その最も優れた例のひとつは、現在アントウェルペンの大聖堂にあるルーベンスの三翼祭壇画《キリスト昇架》の中央パネルに描かれたキリストの姿であろう。すでに両手と両足を十字架に打ちつけられたキリストは、不安に満ちた眼差しで天を仰いでいる。粗暴なまでに荒々しい兵士たちによってこれから立てられようとする十字架が画面に大きく斜めに描かれているという不安定な構図が、犠牲者の苦悩をいっそう強調するかのように見える。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著

    「バロック時代のヨーロッパにおいて、社会的、政治的に大きな力を持っていたのは、教会と王室と市民である。その勢力分布はむろん地域によって違う。教会はカトリック諸国で大きな権威があり、市民の力はオランダで特に強かった。王権が強大だったのは、フェリペ四世のスペインとルイ十四世のフランス、それにエリザベス一世からチャールズ一世までのイギリスである。この三つの国において、宮廷絵画が特に華やかであったのは驚くにはあたらない。  宮廷絵画は、当然政治的な役割を担わされている。人目を驚かすような派手な宮殿も、堂々とした肖像画も、単なる飾りや記録ではなく、国王の権威を称揚し、誇示するためのものであった。そのために、宮廷は優れた芸術家を招き、その才能にふさわしい処遇を与えた。宮廷絵画という制度は、かつては職人と同じように考えられていた画家の社会的地位を大きく向上させ、ルーベンスやヴァン・ダイクやベラスケスのような巨匠たちは、騎士の称号を得て貴族の仲間入りをするまでになったのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「オランダと並んでこの時期、海外進出に大きな発展を見せたのはイギリスである。十六世紀のイギリスは、王位継承をめぐる争乱やカトリック派とプロテスタントの対立抗争による混乱が続いたが、エリザベス一世が登場してからは、国情も安定し、シェイクスピアなどが活躍する文芸隆盛の時代を迎えた。特に一五八八年、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破って海上の覇権を得てからは、オランダと対立しながら海外貿易による繁栄の道を歩むようになる。十七世紀には、ピューリタン革命によって国王が処刑されるという政治的混乱も生じたが、市民社会は着実に成熟へと向かっていた。ローマ教会と絶縁したため宗教美術がすたれたこと、君主制と言ってもフランスのような絶対王政ではなく、議会の勢力が伝統的に強かったことなど、プロテスタント共和国オランダとよく似た状況にあったと言ってよい。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著

    「美術の世界においても、このような状況は端的に表われている。バロック時代のオランダ絵画においては、壮大な祭壇画や宮殿装飾画はほとんど見られない。絵画は何よりもまず市民たちの住居を飾るものであり、したがってイタリア、フランス、スペインなどと比べて、個々の作品のサイズがそれ程大きくなく、しかも数が圧倒的に多いというのがその特徴である。大画面構成の作品と言えば、市庁舎、同業者組合や市民隊などの市民たちの組織の建物、あるいは養老院や救護院などの公共の社会施設を飾るためのもので、多くの場合、組織の幹部、理事者、主要メンバーの集団肖像画である。レンブラントの有名な《夜警》や、この分野で最も活躍したフランス・ハルスの《聖ゲオルギウス市民隊の幹部たちの宴会》などが、このジャンルの代表的なものとして挙げられるであろう。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著

    「この種の「公共的」作品を別にすれば、この時期のオランダ絵画のほとんどは、普通の市民の家庭の壁にかけられるものであった。市民たちの芸術愛好熱は、しばしば外国からの訪問者を驚かせるほどのもので、あるイギリスの旅行者は、多くの家の、それも外からよく見える部屋に「高価な絵画作品」が飾られていることに驚嘆し、それのみならず、「肉屋やパン屋や、さらには鍛冶屋の店先にも」絵が並べられていた、と書き記している。実際、豊かな海産物や、何よりも活発な海外貿易によって蓄積された富は、イギリスにおけるように土地に向けられることはなく(土地の投資効果はきわめて低かった)、一時期のチューリップ投機熱に見られるように、珍品、奇物、そして芸術品へと流れ込んだのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「例えば、七つの通りが出会う一画に忽然という感じで出現する「トレヴィの泉」のすぐ傍らを、ローマで最も賑やかな中心であるコルソ大通りが一直線に南北にのびている。その北端では、中央に大きなオベリスクの立つポポロ広場に突き当たる。このポポロ広場は、教皇シクストゥス五世の意向を受けてドメニコ・フォンターナが十六世紀末に整備したものだが、中央のコルソ大通りの左右にさらに、放射状に真っ直ぐの見通しをもった通りが造られた。海神ネプトゥヌスの三つ股の槍に譬えられる三叉路である。その左の方のバブイーノ通りを進むと、観光客で賑わうスペイン広場に出る。この広場から、壮麗なスペイン階段を登って、ローマの町を一望のもとに見渡せるピンチョの丘に立つと、トリニタ・デイ・モンティ聖堂が聳え、その前にやはりオベリスクが立つ。そこからまた一直線の見通しをもったシスティーナ通りを下ると、『即興詩人』に出てきたバルベリーニ広場と「トリトーネの泉」を通り、バルベリーニ宮殿の傍らを通って、遠くサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂前の広場のオベリスクに達する。その途中で、バロック建築の傑作、ボッロミーニのサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂の角を右に九〇度曲がると、クイリナーレ広場のオベリスクに至る。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「ヴェルサイユがこの時期にまったく新たに造り出された新興都市であるのに対し、中世以来の長い歴史をもつパリも、十七世紀に新しい相貌を呈するようになった。すでにアンリ四世の時代から、古い城壁を取り壊し、大街路(ブールヴァール)を整備して、明確な軸線を強調する町づくりが行われ、さらに町の中に核となる場所を造るための国王広場(現在のヴォージュ広場)の建設も試みられた。ルイ十四世の時代は、この伝統を受け継いで、ヴィクトワール広場、ルイ大王広場(現在のヴァンドーム広場)を新たに加え、広場周辺の建物を整備することによって、都市景観を秩序づける方向が定められた。この時期を代表する建造物としては、イタリア・バロックの影響が強いフランソワ・マンサールのヴァル・ド・グラース修道院聖堂や、その流れを汲みながらいっそう強く古典主義的な秩序感覚を見せるアルドゥアン゠マンサールのアンヴァリッド聖堂ドームなどがある。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著



    「中央集権の絶対王政国家フランスと違って、数多くの王侯国に分裂していたドイツでは、それぞれの領主が権威の誇示のため競って宮殿や離宮の造営に力を入れたという事情もあって、ドイツ・ロココの宮殿建築は、洗練された優美軽快な表現よりも、豪奢なものへと向かう性向が強い。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著





    「この時代、芸術活動の保護に見逃すことのできない役割を演じたのは、貴族や貴族の趣味に憧れる富裕な市民たちの邸館で行われた学者、文人、芸術家たちの集まり、いわゆる「サロン」である。その中心となったのは、優れた趣味と教養の持ち主である女主人で、そこでは、文学や芸術のさまざまな問題が論じられ、洗練された会話や機知に富んだ応酬が喜ばれた。この種の「サロン」は、豪華な内部装飾で飾られた広間を舞台として展開され、その女主人は自ずから芸術のパトロンとして貢献することになったが、その最も代表的な例は、ルイ十五世の寵姫でもあったポンパドゥール侯爵夫人であろう。もともと平民の出身である彼女が宮廷のなかで大きな勢力をもつに至るまで出世したのは、その傑出した美貌に加えて、哲学者や文人たちと対等に議論を交わしたり、自らオペラに出演したりデッサンを試みたりするだけの優れた知性と芸術的感性を具えていたからである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「 私は絵画界全体を大きくゆるがしたあの有名な論争のことを、今でもよく憶えている。一方にはデッサンを重んじて色彩の魅力を否定しようとする人々があり、他方には色彩に熱中して厳しいデッサンの美しさを軽蔑する人々がいた……。この華々しい絵画戦争において、一方の陣営はルーベンスの旗を掲げ、他方の陣営はプッサンの旗を掲げた。ルーベンスの支持者たちはプッサンに罵声を浴びせかけ、プッサンの崇拝者たちは、ルーベンスを侮蔑の念をこめて扱った……。  フランス絵画史の上で、ルーベンス派とプッサン派の争いとして知られる言論闘争がこれである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「彼ら二人の絵画表現の特質を理解するには、現在ではともにルーヴル美術館に収蔵されているルーベンスの「アンリ四世の神格化とマリー・ド・メディシスの摂政宣言」と、プッサンの《エリエゼルとリベカ》を比較してみるのが早道であろう。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著

    「ルーベンスの作品では、人物たちは大袈裟な身振りを見せて複雑にからみ合い、画面では向かって左側の天上に運ばれるアンリ四世のグループが示すように、ダイナミックな動勢と斜めの方向性が支配的である。その国王の死を悲しむ画面手前の身体を大きくよじった半裸の女性とその足許に腰をおろして上を見上げる女性のポーズは、その動きの激しさと情動表現の強烈さにおいて、ルーベンスのバロック的特性を雄弁に物語っていよう。  それに対して、プッサンの作品においては、すべてが安定した静けさのなかで落ち着いた調和の世界を創り上げるのに参画している。人物たちはそれぞれ物語内容にふさわしいポーズを与えられているが、その動きは厳しく抑制されていて派手な身振りはほとんど見られない。しかも、その配置は画面に平行にほぼ同じ高さで左右に並ぶという水平性を強調したもので、そのことが構図の安定性に大きく寄与している。しかし何よりも特徴的なのは背景の建築構成で、そこにプッサンの厳しい秩序感覚がうかがえる。特に画面右手、リベカの右奥に見られるどっしりした角柱とその上に載せられた球体は、その幾何学的厳格さによって画面に君臨している。それは、ちょうど身をよじって嘆く女たちがルーベンスの画面の主調音を形成しているように、プッサンの構図の静謐な厳しさを凝縮して示しているのである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「プッサンとルーベンスという二人の巨匠の作品が示すこのように大きな差異は、単にデッサンか色彩かという技法上の問題だけではない。それは同時に、ふたつの異なった絵画観の表明であり、さらに言えばふたつの異なった精神世界の表われである。それは、今日の美術史的用語を用いるなら、古典主義的世界とバロック的世界と言うことができるであろう。プッサンその人は、内部に激しい情念を秘めた画家であり、これまでにも見たように、バロック的特質を示す作品も残しているが、《エリエゼルとリベカ》や《アルカディアの牧人たち》のような作品においては、その激情を強い意志の力で制御して時間を超越した永遠の理想世界を実現してみせた。プッサンの崇拝者たちにとっては、それこそが究極の絵画に他ならなかった。他方、ルーベンスに傾倒する画家たちの眼には、豊麗な色彩と激情の表出がもたらす劇的な昂揚感が絵画の生命と思われた。プッサン派とルーベンス派が、互いに相手を拒否して、真っ向から対立したのも、少しも不思議ではない。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「このようなふたつの異なった絵画観の対立抗争は、一世紀半ほど後に、新古典派とロマン派のあいだで再び繰り返されることとなった。この時の両派の代表はアングルとドラクロワである。  十九世紀中葉の時点において、この二人がフランス絵画界を代表する巨匠と見做されていたことは、一八五五年、パリでの最初の万国博覧会の際に、特に彼らにそれぞれ特別室が与えられたという事実によっても明らかである。そのことは同時に、両雄の対立をいっそう鮮明なかたちで世に示すことともなった。今日の眼から見れば、アングルの作品にもロマン派的性格が多々認められる等、その美術史的位置づけについては微妙な問題が残るが、少なくとも当時の人々にとっては、この二人は激しく対立する両派の領袖であった。学士院(アカデミー)の建物を背景に、中世の騎士よろしく一騎打ちの騎馬試合を闘わすアングルとドラクロワを描き出したベルタルのカリカチュアは、そのことをよく物語っている。はなはだ興味深いことに、このカリカチュアで両騎士が手にしている槍は、アングルの方は先端を尖らせたデッサン用のチョークであり、ドラクロワの方は絵具を含んだ絵筆である。つまり、ここでも、デッサンと色彩の対立が強調されている。さらに言えば、アングルは早くからアカデミーの会員に選ばれていたが、ドラクロワは度重なる立候補にもかかわらず、新古典派の会員たちに阻まれて、会員になったのはようやく晩年に至ってからであった。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


    「本書は、一九九五年十二月から一九九九年七月にかけて刊行された小学館版『バッハ全集』全十五巻に「バロックの美術」として掲載された文章をまとめたものである。執筆は全集刊行の全期間にわたったが、当初からまとまったバロック論としての統一性を保つため、編集部とも相談の上、最初にまず全十五章の内容構成を定め、配本の順序にしたがって発表するという方法をとった。一冊にまとめるにあたっては、読者の便宜のため各章冒頭に簡単なリードを加え、本文に若干の補筆を施したほかは、ほぼ発表時のままである。ただし、序章の「バロックと現代」は今回新たに書き下ろした。本書が、きわめて多面的なバロック芸術の本質と魅力を理解する手引きとなれば幸いである。」

    —『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾著


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    2026年08月07日
  • カラー版 近代絵画史 増補版(下) 世紀末絵画、ピカソ、シュルレアリスム

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    1111円

    ★再読

    ルドン、

    第 13章  世紀末絵画ドニの《セザンヌ礼讃》幻想世界への招待国際的な拡がり

    第 14章  ドイツ表現主義歴史と時代ノルデとベックマンキルヒナーと「ブリュッケ」の画家たち「青騎士」のグループミュンヘンのカンディンスキー

    第 15章  マティスとフォーヴィスムフランスにおける表現主義的傾向一九〇五年のサロン・ドートンヌフォーヴィスムのグループフォーヴ時代のマティス

    第 16章  フォーヴの画家たちマティス芸術の展開ヴラマンクとドランその他のフォーヴの画家たちルオーと宗教絵画

    第 17章  ピカソとキュビスムキュビスム以前のピカソ《アヴィニョンの娘たち》キュビスムとその後の展開ピカソ変貌の意味

    第 18章  キュビスムの画家たちキュビスムの登場分析から綜合へブラックレジェとグリス

    第 19章  幻想の系譜素朴派の画家たちアンリ・ルソーマルク・シャガール

    第 20章  エコール・ド・パリエコール・ド・パリの形成ヴァラドンとユトリロモディリアーニとスーティンパスキンとキスリング

    第 21章  機械文明への讃美と反撥未来派キリコと形而上派ダダの運動の発端ピカビアとデュシャン

    第 22章  シュルレアリスムダダからシュルレアリスムへシュルレアリスムの美学エルンストダ  リマグリットとデルヴォーホアン・ミロ

    第 23章  バウハウスとその周辺バウハウスの画家たち第一次大戦後のカンディンスキーパウル・クレー

    第 24章  抽象絵画への道抽象への志向マレーヴィッチとスプレマティスムドローネとオルフィスムモンドリアンと新造形主義

    高階 秀爾
    (たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 2024年10月17日)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位。東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。1932年、東京で生まれた。父は哲学者・高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った[1]。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹、平川祐弘、石井進、平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1944年9月から1946年9月まで、父親の出身地である秋田県(大曲町)に疎開し、旧制角館中学で学んだ。1948年、四修で旧制第一高等学校に入学。1年修了で翌年新制東京大学に入学。在学中に矢代幸雄の『世界に於ける日本美術の位置』を読み、西洋美術史研究を志す。1953年、東京大学教養学部教養学科を卒業。東京大学大学院に進み、在学中の1954年から1959年まで、フランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学付属美術研究所およびルーブル学院で西洋近代美術史を専攻し、展覧会の運営など美術行政についても学んだ。帰国後、国立西洋美術館主任研究官に就いた。美術館勤務の一方で評論活動も開始し、1967年には遠山一行、江藤淳と雑誌『季刊藝術』を創刊。編集長は古山高麗雄で1979年まで計50号発行した。学界では、1968年に発足した日本文化会議に参画(1994年に解散)。1971年、東京大学文学部美術史科助教授に就いた。1979年に同教授昇格。1992年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。同1992年4月、国立西洋美術館館長に就任。2000年まで務めた。1997年、パリ第一大学より名誉教授を授与された。2002年4月~2023年6月、大原美術館館長[2]。2004年、京都造形芸術大学大学院長となり、同比較藝術学研究センター所長も兼ねた。2008年、京都造形芸術大学を退職。2015年、日本芸術院会員に選出された。2020年10月~2023年9月まで日本芸術院長を務めた[3]。2024年4月に発足された大原芸術研究所の所長に就任[4][5][6]。運営財団の理事も兼務していた[7]。2024年10月17日、心不全のため、死去[8]。92歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]。西洋美術館研究官、東京大学の美術史教授として、1963年の『世紀末芸術』を始め数多くの著作があり、啓蒙的役割を果した。ルネサンス期以降の西洋美術を専門としながら、日本近代美術にも造詣が深くその方面の著作、画集編集もある。
    同じ東京大学比較文学教授を務め、京都造形芸術大学名誉学長である芳賀徹とは小学校時代からの友人。『名画を見る眼』正・続(岩波新書)は、半世紀重版され計・82万部出された(新版の紹介より)。
    家族・親族
    父:高階順治は哲学者。
    母:佐々木信。
    祖父(母方):佐々木秀一。
    妻:舞台女優・エッセイストの高階菖子(しょうこ)
    娘:京都大学人文科学研究所教授で美術史学者の高階絵里加。


    「ルドンは、たしかに、世紀末の時代における最も優れた「魂の画家」であったと言ってよいが、しかし、もちろん、「魂の神秘の扉口」をのぞきこんだのは、ルドンひとりではなかった。近代科学思想と実証主義を背景にあくまでも眼に見える現実の世界の再現を目ざした写実主義──印象派をも含めて──全盛の時代に、あえて人間の心の奥底に探求の眼を向けた人々はほかにもいた。ルドンの先輩にあたる版画家のロドルフ・ブレダン(一八二二-一八八五)や、晩年美術学校の教授となってマティスやルオーなどフォーヴの画家たちを育て上げた教育者としてよく知られているギュスターヴ・モロー(一八二六-一八九八)、リヨン出身で、十九世紀後半の最大の壁画家として、パンテオンをはじめ、ソルボンヌ大学講堂、パリ市庁舎など、多くの装飾作品を残したピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(一八二四-一八九八)、印象派とほぼ同じ世代で、薄明のなかから浮かび出てくるような抒情的な色調のなかに母性愛や家族への親愛など、人間の情愛を柔らかく歌い上げたウジェーヌ・カリエール(一八四九-一九〇六)などがそうである。彼らは、それぞれ異なった個性の持主であるが、いずれも単に眼に見える世界の奥に、感覚だけでは捉えることのできないもうひとつ別の世界がたしかに存在していることを信じている点で、幻視者と呼ぶにふさわしい人々である。「私は眼に見えるものも手に触れるものも信じない。見えないもの、ただ感じるものだけを信ずる」というモローの信念は、そのまま、これら象徴派の画家たち全部のものであったろう。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「長い歴史を持つゲルマンの民族的特質と、時代の精神的雰囲気に培われたこの表現主義の絵画は、ドイツにおける印象主義の代表者であるマックス・リーバーマン(一八四七-一九三五)や、ベルリンの分離派展に参加してはいるものの、その挿絵的な物語趣味や心理的洞察に満ちた肖像画によって人々のあいだに人気を得ていたロヴィス・コリント(一八五八-一九二五)などの折衷的な様式が支配的であった二十世紀初頭のドイツ絵画界に、まったく新しい衝撃と活力とをもたらした。すでに、前世紀末の九〇年代に、ドイツの各地における革新の気運は明らかである。一八九二年には、ミュンヘンの分離派、一八九七年にはウィーンの分離派が結成され、引き続きベルリンにおいても、きわめて影響力の強い分離派の運動が一八九八年に始まった。すべての文化的活動がパリに集中されるフランスの場合と違って、それぞれの地方が独自の伝統にもとづく創造的エネルギーを保ち続けていたドイツにおいては、この革新の動きは、それだけいっそう多様なものであった。しかも、外界の「再現」よりも自己の内部の「表現」を重視した新しい画家たちは、それゆえに、統一的な美学よりも自己の個性を重んじ、それがまた、表現主義の多様性をもたらすこととなった。事実、表現主義のグループは、「ブリュッケ」にしても「青騎士」にしても、多様な個性の集まりであるだけに長くは続かず、しばしば離合集散を繰り返すこととなるし、またノルデやベックマンのように、どのグループにも属さない孤独な芸術家が登場してくることにもなるのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「この点、フォーヴの画家たち、ことにその中心的存在であるマティスにとって、セザンヌと新印象主義とが決定的な役割を演じたという事実は、はなはだ暗示的である。実際、マティスによる色彩の表現力の発見は、たとえば一九〇四年に南フランスで描かれた《豪奢・静寂・逸楽》(パリ  個人蔵)の画面にはっきりとうかがわれるように、新印象主義の色彩分割の技法に直接由来するものであるし、《サント・ヴィクトワール山》の画家について言えば、マティスはすでに一八九〇年代から、他の印象派の画家たちとは違うセザンヌの歴史的意味を、はっきりと見抜いていた。後にマティス自身がパリのプティ・パレ美術館に寄贈したセザンヌの《三人の浴女》を一八九九年にヴォラールの店で見つけて買い求めて以来、長いこと手もとにおいて大切にしていたという事実は、「セザンヌはわれわれすべての師だ」という彼の有名な一句とともに、セザンヌへのマティスの傾倒をよく物語るものであろう。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「マティスは、フランス、ノール県のカトー =カンブレジーに生まれ、サン =カンタンで中等教育を終えてからパリに出て、法律を学んだ。一八八八年、司法生としての資格試験に合格すると、翌年サン =カンタンに戻ってある弁護士の事務所の見習書記となった。もしさらにその翌年、彼が盲腸炎をこじらせてほとんど一年近くのあいだ、病床につくという偶然がなかったなら、われわれは《豪奢・静寂・逸楽》の画家を持つことができなかったかもしれない。マティスが画家としての天職に目覚めるのは、恢復期の徒然を紛らせるためにグーピルの『絵画論』を読んだことと、母親から贈られた絵具箱を使ってみたことがそのきっかけとなったからである。  健康を取り戻した彼は、一八九一年、ふたたびパリに出てアカデミー・ジュリアンに学び、翌年国立美術学校に入学した。美術学校在学中は、ギュスターヴ・モローの指導のもとに、まず画家としての基礎的な技術の習得に努め、ルーヴル美術館に通って、ラファエㇽロやシャルダンを模写した。つまりマティスは、画家としての出発点においては、むしろ伝統的な様式の信奉者であった。そのことは、すでに一八九六年に、彼がサロンに入選していることからも明らかと言えよう。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「まとまった運動としてのフォーヴィスムは、一九〇五年、〇六年を絶頂として、急速に衰えていった。多くの仲間たちは、あるいは禁欲的な渋い色調による構成的方向に進み、あるいはもっとはっきりと伝統的な古典世界へ復帰して、かつての鮮烈な色彩表現はすっかり忘れ去ったかのように思われるまでにいたったが、そのなかで、最初からフォーヴィスムの中心人物であったマティスだけは、あくまでも平坦な色面の持つ豊かな表現力を保ち続け、晩年にいたるまでフォーヴィスムのなしとげた革命の成果を自己の様式の基本として、決して見失うことがなかった。おそらくそれは、もともとマティスが鋭敏な感覚の持主であると同時にきわめて理知的な性格でもあり、フォーヴの混乱の時期においてもつねに画面の秩序と構成ということを忘れなかったためであったろう。そして、一九一〇年、友人のマルケといっしょにミュンヘンに旅行して、そこで開かれていたペルシアのミニアチュアの展覧会を訪れたことは、平坦な色面構成の持つ表現力というものをあらためてマティスに確認させることとなった。事実、その直後、一九一一年から一二年にかけてモロッコに滞在した時にマティスが描いた作品は、豊かなアラベスクの効果と強烈な色面構成によって、依然としてマティスがフォーヴィスムの原理に忠実であったことを、はっきりと示している。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著



    「美術学校においてやはりギュスターヴ・モローのアトリエに学び、モローからとくに愛されてその死後モロー美術館の初代館長にまでなったルオーは、マティスやマルケとの交友関係から言っても、また、人間の醜さを思いきって強く告発するようなその激しい表現力から言っても、フォーヴの仲間たちと深い関係にあり、事実、一九〇五年のサロン・ドートンヌにおいては、あの「野獣の部屋」で最も注目されたひとりであった。とくに、フォーヴィスム運動を二十世紀初頭のヨーロッパ全体に見られた表現主義的傾向の一環として捉えるなら、おそらく仲間の誰よりも表現主義者であったルオーは、最もフォーヴ的な画家とさえ言うことができるかもしれない。しかし、ルオーの表現主義は、単に技術上の問題ではなく、時代の雰囲気の反映ばかりでもなく、より深く人間の本性に対する鋭い洞察に根ざしており、時代を越えた魂の表現となっているがゆえに、歴史的な枠組のなかに収まりきらないものを持っている。少なくともフォーヴィスムがもっぱら造形上の革命であるかぎり、ルオーのなしとげたことはフォーヴィスムの枠を大きくはみ出していると言わざるをえないであろう。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


    「この時のサロン・ドートンヌの審査会の席上、マティスは、ブラックの作品をすべて「キューブ」(立方体)で構成されていると批評した。かつて「フォーヴィスム」という名称を生み出した批評家のルイ・ヴォークセルは、さっそくマティスのこの言葉を利用して、カーンウェイレル画廊でのブラック展の批評に、ブラックは、「風景も、人物も、家も、すべてのものを幾何学的図形に、立方体に還元する」と書いた。さらにその翌年、今度はサロン・デ・ザンデパンダンに出品したブラックの作品について、ヴォークセルは同じように、「奇妙な立方体の遊び」と批評した。  ヴォークセルのこの批評は、かつての「フォーヴ」の時と同様に、なかば嘲笑の意味をこめたジャーナリスティックなものであったろう。考えてみれば「印象派」以来、近代絵画はずいぶん悪口によって色どりを与えられてきた。「キュビスム」もそのひとつで、あらゆる前衛的なものに強い興味を示した詩人のギヨーム・アポリネールは、早くも一九一一年の講演で、」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「キュビスムの美学の形成にあたって、ピカソと同じくらい、いやもしかしたらある面ではピカソ以上に重要な役割を果たしたのは、ジョルジュ・ブラック(一八八二-一九六三)であった。彼は、印象派の思い出に満ちたセーヌ河畔の町アルジャントゥイユに生まれ、父親の仕事の都合でル・アーヴルで育ったが、早くから絵画に惹かれ、一九〇〇年にパリにやって来た。最初印象派風の画風から出発する彼が、パリにやって来てから、短期間ながら驚くべき豊かな色彩感覚を示すフォーヴ時代を過ごすことは、すでに見たとおりである。  しかし、ブラックは、生来、たとえばヴラマンクのように感覚的なものに溺れきってしまうことのできない知的な性格を強く持っていた。もっぱら色彩の輝きを追求したフォーヴ時代の作品ですら、彼の場合は、そのずば抜けた構成力によって、他のフォーヴの画家たちと大きく異なっている。間もなく彼が、ピカソとセザンヌの先例に触れて、急速にキュビスムの世界にはいりこんでいくのも、あるいは当然のことであったかもしれない。事実、一九〇七年から第一次世界大戦の始まる一九一四年まで、彼はピカソとほとんど一体になってキュビスムの探求にすべてを捧げるが、この時代のキュビスムの持つ厳しい知的な構成は、ピカソ以上にむしろブラックの気質に似つかわしいものであった。もっとも、この時期のふたりの活動は、きわめて密接に結びついており、「コラージュ」の利用などもふたりの作品に相前後して登場してくるので、キュビスムの美学への寄与においてどちらがいっそう大きな役割を果たしたかは、容易に決定しがたい。むしろ奔放で情熱的なピカソと、冷静で理知的なブラックとの文字どおりの協力によって、あの革命的な事業がなしとげられたと言うべきであろう。このふたりの天才の協力は、第一次大戦の勃発によって永遠に中断されることになるが、その時にはキュビスムの主要な仕事は、すべて果たされていたのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著




    「「対象となるものは私にとってもはや存在しない。あるのはもの同士のあいだと、ものと私とのあいだの調和のとれた関係だけだ。この調和に達すると、人は一種の知的〈無〉の世界に達する。そうすればすべては可能となり、すべては適切なものとなる。つまり人生は永遠の啓示となるのだ。これこそが真の詩というものだ……」という彼の言葉は、まぎれもなくひとりの詩人の存在を物語っている。そして、ブラックの作品は、一見もの静かな渋い表現の奥で、つねに力強く、自己の「詩」を歌い続けているのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「 フェルナン・レジェ(一八八一-一九五五)は、アルジャンタンに生まれ、十六歳の時からノルマンディ地方のある建築家の事務所で見習いとして勤め、その後一九〇〇年ごろパリに出てからも、しばらくのあいだは、建築の勉強を続けた。彼は、もともと絵画に強い興味をいだいており、建築の勉強も、母親と叔父の意志によって、いわばいやいやながら学ばせられたのであるが、しかし、彼の作品に一貫して認められる構築的性格や、あるいは晩年の《建設者》のシリーズなどを考える時、彼のその若いころの修業も決して無駄なことではなかったと言えるであろう。  絵画に身を捧げるようになってから、レジェがまず影響を受けたのは、印象派の明るい色彩であった。レジェの作品は、キュビスムの時代のものでさえ、鮮やかな色彩の対照を見せており、その点「まるで蜘蛛の巣のようだ」と言われたピカソやブラックの作品と大きく違っているのであるが、彼は、印象派の作品から受けたこの原色の教えを、生涯忘れることがなかったのである。続いて、一九〇七年以降、ピカソやブラックの場合と同じように、セザンヌの強い影響を受ける時期が来る。何よりも、エクスの巨匠の持つ構成的世界の厳しさが、彼を圧倒したようである。「私はセザンヌの影響を追いはらうのに三年かかった。そのために私は、ほとんど抽象の世界にまで行ったのだ」という彼自身の告白は、おそらく正直なところであったろう。そして、そのことは同時に、セザンヌからキュビスムを経て抽象絵画へと向かう道程が、モンドリアンの場合ばかりではなく、レジェにおいても暗示されている点で、われわれにとってきわめて興味深い。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「しかしそれは、ひとつの条件ではあっても、それだけで十分というわけにはいかない。たしかに、写実主義の美学が支配的であるあいだは、「素朴派」の登場する可能性はほとんどなかった。しかし、第一次大戦以後、今日にいたるまでずっと続いている「素朴派」への関心は、やはり同時代の美意識と密接に関係があるように思われる。その点でとくに重要なのは、第一次大戦前後に支配的であった表現主義とキュビスムの美学である。「素朴派」の画家たちは、グループとしての活動もせず、そのような意識もなかったため、いったい誰がそのメンバーであるか──と言うよりも、誰をメンバーと見なすべきか──についても、かならずしも批評家のあいだで意見の統一が見られない。しかし、メンバーが誰であるにせよ、「素朴派」の画家たちに多かれ少なかれ表現主義的傾向が見られることは、彼らの作品が基本的に反写実主義的であることからも、明らかであると言える。ちょうど子供たちの作品がそうであるように、「素朴派」の表現は、画家自身が厳密に写実的であろうと意図している時でも、自分にとっていっそう重要であると思われるものを、ほとんど本能的に強調する傾向がある。アンリ・ルソーが、実際にはそう見えるはずがないジャングルの木の葉を一枚一枚丹念に描き出す時、彼は自分の眼以上に自分の心情に対して忠実なのであり、したがってその結果は、彼が写し出そうとした「現実」以上に、彼自身の心の状態を反映することになる。子供の絵に対してまじめな関心を示した最初の一人であるフランツ・マルクがルソーに対しても強い関心を寄せ、ドイツ表現主義のマニフェストとも言うべき『青騎士年鑑』が多くのページ数を使ってルソーを紹介したのも、その意味では当然と言ってよいのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「もっとも、アンリ・ルソー(一八四四-一九一〇)をはたして「素朴派」と考えてよいかどうかについては、いろいろ問題が残る。「素朴派」が、印象派のようなまとまった芸術運動でない以上、歴史上の分類にはどうしても無理がつきまとうが、ルソーに関しても、一方では、彼の「子供のような」無邪気な性格と伝統的技法をまったく無視したような「素朴な」表現が強調される反面、他方ではことに近年になって、ルソーはかならずしもそれほど「素朴」ではなく、彼の性格にまつわるエピソードには、根拠のない伝説が多いということも指摘され、あらためてルソーの人間像が見直されようとしている。しかしながら、彼自身の性格が「素朴」であったかどうかは別として、彼の作品が従来の伝統的表現と比べてみればもちろんのこと、フォーヴィスムからキュビスムにいたる「革新的」な絵画と比べてみてもはっきりと違ったものを持っており、それゆえに強烈な衝撃力をそなえていたことは否定できない。考えてみれば、いかに晩学とは言え、印象派と同世代の画家がピカソやブラックに新鮮なショックを与えたということ自体、驚異と言ってよいであろう。かつてルソーがピカソに向かって、「現在、本当に優れた画家は君と僕のふたりしかいないね。もっとも君は様式的にはエジプト風で、僕は現代風だけどね」と語ったという有名なエピソードも、単なる「素朴」な自慢話とのみは言えない一面の真実を物語っていたとも言えるのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「考えてみれば、いかに晩学とは言え、印象派と同世代の画家がピカソやブラックに新鮮なショックを与えたということ自体、驚異と言ってよいであろう。かつてルソーがピカソに向かって、「現在、本当に優れた画家は君と僕のふたりしかいないね。もっとも君は様式的にはエジプト風で、僕は現代風だけどね」と語ったという有名なエピソードも、単なる「素朴」な自慢話とのみは言えない一面の真実を物語っていたとも言えるのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「もっとも、正式の地位から言えば、彼は勤めをやめるまで、単なる収税吏であって、税関吏であったことはない。それにもかかわらず「税関吏ルソー」の名前が早くから定着してしまったのは、ルソー自身にも多少責任があるらしく、その点が彼が「素朴」ではないという論拠のひとつにしばしば指摘されている。事実ルソーには、どちらかと言えばかなり平凡な自分の生涯を、劇的に飾り立てようとする傾向があった。「税関吏」はその一例であるが、ほかにもたとえば、晩年になってからしきりに、テーマとして取り上げるようになる《蛇使いの女》(パリ  オルセー美術館蔵)や《夢》(ニューヨーク  近代美術館蔵)のような熱帯風景のモティーフは、軍隊時代のメキシコ遠征の思い出にもとづくものだと人に思いこませたり、その《夢》に登場する少女を、ポーランド出身のエキゾティックな女に仕立て上げたりしている。実を言えば、彼の属していた軍隊は一度もメキシコ戦役に加わったことはないし、ヤドヴィガという異国的な名で呼んだ女は、パリの郊外に生まれた彼自身の妻にほかならなかった。おそらくルソーは、あまりにも生き生きとした想像力に恵まれていたので、自分自身の幻想の世界と現実との区別がつかなくなってしまっていたのであろう。詩人のジャン・コクトーは、一八九七年のアンデパンダン展に出品された《眠るジプシー女》(ニューヨーク  近代美術館蔵)について、この画面に登場するライオンや河は、眠っているジプシーの夢に出てくるものであろうと述べているが、それ以上に、この画面が、そしてルソーの描き出す映像世界のすべてが、現実以上に強烈な彼の夢にほかならなかったのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


    「シャガールがパリにやって来た一九一〇年前後というのは、現代美術の歴史の上で、パリが「芸術の都」として世界中の若い芸術家たちを惹きつけ、夜空の華麗な花火のように「良き時代」の最後の輝きを見せている時代であった。やがて始まる第一次世界大戦は、もちろんこの「芸術の都」に住む若者たちをも捲きこんでしまうが、その暗い戦乱の時代をはさんで、パリはかつてないほど賑やかで、国際的で、豊かな創造の場となったのである。  西欧の数多い都会のなかでも、なぜパリがとくに、この時期において、芸術に憧れる若い魂をこれほどまで惹きつけたのかということは、なぜスペインのアンダルシア地方の港町に二十世紀を代表する革命的天才が生まれ、なぜロシアの貧しい片田舎に生まれた職人の子が現代の最も優れた幻想画家のひとりになったかというのと同じくらい謎である。おそらく、十七世紀以来、ヨーロッパの文化的中心であり続けたパリの伝統が、ちょうど長い歳月のあいだに葡萄酒がいよいよ芳醇な香りを放つようになるのと同様に、豊かな芸術的香気を発するようになって、世界中の敏感な若い魂に語りかけたのであろう。また、フランスは西欧諸国のなかでも最も早く近代統一国家としての体制を整え、しかも王権が強大であったため、地方の諸都市に比べてパリがずばぬけて重要な位置を占めるようになったという社会的、政治的事情もそれなりの役割を果たしたかもしれない。いずれにしても、十九世紀以来パリはヨーロッパの芸術の中心として自他ともに認める不動の地位を築き上げ、それが今世紀の初頭に華やかな実りをもたらしたのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「事実、シャガールと相前後してパリにやって来た異邦人芸術家は、歴史に名を残すほどの大家たちだけにかぎってみても、同じロシアからやって来たスーティンをはじめ、オランダのモンドリアン、イタリアのモディリアーニ、ブルガリアのパスキン、ポーランドのキスリング、チェコのクプカ、日本の藤田嗣治などを挙げることができる。もちろん、もう少し視野を拡げるなら、フォーヴの仲間のヴァン・ドンゲン、キュビスム運動の中心にいたピカソとグリス、未来派のセヴェリーニなどの名前も、当然同じような「異邦人画家」として、そのリストに加えることができるであろう。さらに、彫刻家として、アルキペンコ、リプシッツ、ブランクーシ、ゴンザレスなどがいた。これら世界の各地からセーヌ河畔の芸術の都にやって来た若者たちは、かならずしもこの町が提供する美術教育の機関や施設を求めて来たのではなかった。多くの場合、彼らは美術学校に学んだり画塾に通ったりすることはせず、町の画廊で発表されるさまざまの新しい試みを熱心に見て回ったり、仲間の芸術家たちと議論を闘わせたりしながら、自由に自分の表現世界を追求していった。つまり彼らは、何よりもパリという町の芸術的、創造的な雰囲気を求めたのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「そして事実、そのパリは、鋭敏で意欲的な若者たちを惹きつけるだけの芸術的な刺戟に欠けてはいなかった。審査制度も賞もなく、文字どおり誰でも自由に出品できるというサロン・デ・ザンデパンダンのような展覧会を持っていたのは、当時の世界においてはパリだけであったし、フォーヴィスムやキュビスムのような大胆な実験がつぎつぎと展開されていったのも、パリにおいてであった。その上、この町には、同じように清新な意欲に燃えた優れた若者たちが集まっていて、おたがいに自己の個性を主張しながら、創造的な気迫に満ちた熱っぽい雰囲気を作り出していた。実際彼らは、新しい試みに理解を示すいくつかの前衛的画廊やなじみのカフェで始終出会って刺戟を与え合っていたのみならず、しばしば同じ建物に住み、時には共同のアトリエを利用したりしながら、誰にも制約されない自由な芸術の王国を作っていた。そこには、世界の最も遠い所からやって来た若い画家や彫刻家のみならず、詩人や、音楽家や、批評家や、画商たちが出入りし、夜を徹して議論を交わしたり馬鹿騒ぎをしたりしながら、青春の生命を燃焼させていたのである。ピカソやグリスの住んでいたモンマルトルの「バトー・ラヴォワール」(洗濯船)や、シャガールの根城であったモンパルナスの「蜂の巣」など、まさにこの時代の象徴的な存在だったと言ってもよいであろう。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


    「このようにして、後に「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の芸術家たちのグループが形成されることになった。この名称は、「素朴派」の場合と同じように、歴史家たちによって与えられたもので、芸術家たち自身によって選ばれたものではない。したがって、「エコール」(流派)と言っても、それは何か明確な美学や主義主張を持っているわけではなく、ただ漠然と、第一次大戦前後にパリに集まってきた芸術家たちのことを、一種のノスタルジーをこめて呼ぶ言葉であったにすぎない。「エコール・ド・パリ」は、「エコール」の厳しさや体系よりも「パリ」の懐しさをいっそう強く思い出させる名称なのである。  もちろん、ただパリに住んでいた画家ということになれば、美術学校を目ざして勉強している画学生まで含めて、厖大な数にのぼることであろう。しかし、「エコール・ド・パリ」の画家たちは、美術学校とか、ローマ賞とか、おおやけのサロンでの受賞などということはおよそ考えず、むしろそのような伝統的な制度を無視して、自由奔放な生活を送り、それぞれ自己の気質に最も適した表現手段によって、他の誰のものでもない自分本来の造形世界を創り出そうとした。「エコール・ド・パリ」という名前からわれわれが連想するものは、時にその日の食事にもこと欠くような貧しい生活と、そのような貧しさにもかかわらず自己の夢を追い続けるボヘミアン芸術家の姿なのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


    「 ユトリロのこのように異常なアルコールへの執着がどのような遺伝的特性に由来するものか、明らかではない。それどころか、彼の場合──実はシュザンヌ・ヴァラドン自身もそうなのであるが──父親が誰であるか、はっきりしたことはわかっていない。いちばん広く認められている説は、当時モンマルトルをうろついていたボワシーという酔いどれの放浪者が実の父で、彼の酒好きはこの父親から受け継いだというものである。しかし、それには何の記録も証拠もない。のみならず、彼の父親については、シュザンヌが最初にそのモデルとなったピュヴィス・ド・シャヴァンヌがそうであるとか、シュザンヌが「私生児」モーリスをかかえて困っていた時、義俠心から彼を自分の息子だと認知したスペイン人の画家ミゲル・ユトリロが実際にも父親だったとか、いろいろ説があって、しかもどれも決定的ではない。ユトリロという名前は、ミゲルが認知した時、正式にモーリスのものとなったが、それ以上のことは現在ではもはや何もはっきりとはわからないのである。  いずれにしても、ユトリロは、生まれながらにして、父無し子という不幸な運命と飲酒の悪習を背負わされていた。それと同時に、彼の優れた絵画の才も天賦のものであったが、初めのうちは誰も、母親でさえも、それには気づかなかった。ただ、何とか気を紛らせるためにという母親の思いつきが、思いもかけず彼のなかの画家を目覚めさせたのである。その母親も、彼を絵画の世界に導きはしたものの、何ら具体的な技法のことを教えてくれたわけではなく、まして他の誰からも正規の指導を受けたこともなかったのに、ユトリロは最初から、表現に素朴なぎこちなさを残しながらも、すでに完成された自己の世界を持っていた。絵を描きはじめてから最初の五、六年間の「モンマニー時代」は、それなりに彼の修業時代であったとしても、一九〇六年ごろから第一次大戦勃発の時期までのいわゆる「白の時代」においては、ユトリロは、自己の最高の表現を達成したのみならず、二十世紀の風景画のなかでも最も優れた傑作のいくつかを生み出したのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「もっとも、風景画といっても、ユトリロの場合は、印象派の画家たちが追求したような田園の自然、または水と空の自然の風景を主題としているわけではない。シュザンヌ・ヴァラドンが生涯ほとんど人物画しか描かなかったように、ユトリロはほんのわずかの例外を除いてもっぱら風景画ばかり描いていたが、そのほとんどは、家、建物、街路等をモティーフとした都会風景であり、それも貧しい、うらぶれた生活の匂いのしみこんだような裏町の風景である。ユトリロにとっては、風景とは人間のいない自然ではなく、逆に最も人間臭い、毎日の生活に直結したものであった。むろんそれは、とりもなおさず彼自身が毎日眼にしている身近な対象であり、彼自身がそのなかで生きている世界であった。彼は、その世界の持つなまなましい特徴を大胆に抉り出して、そのまま画面に定着しようとした。絵具だけで壁の白さが十分に表現できない時は、絵具に石膏を混ぜるという思いきった試みさえ辞さなかった。つまりユトリロは、人間臭い街頭風景のその個性的相貌を、直截に捉えようとした。その意味では、彼は、裸婦のモデルを見つめる母親と同じ眼で、古びた白い壁を見ていたのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「事実モディリアーニは、画家であるとともに彫刻家でもあり、一九〇九年にパリでブランクーシと知り合いになってから数年のあいだは、もっぱら直彫りの頭像に熱中していた。たしかに、絵画においても、彼の対象の捉え方には、余計な部分を取り除いていって本質的な量塊を端的につかみ出してくる彫刻家的特色が見られる。おそらく彼は、自分でも語っているように、もし事情が許せば彫刻家になりたかったにちがいない。彼がモティーフとして人物以外にほとんど興味を示さなかったということも、そのこととあるいは無関係でないかもしれないし、少なくともたとえばカリアティードのように、本来彫刻のための主題にあれほどまで執着したという事実は、彼の本質を理解するひとつの鍵であると言えるであろう。だが、結核に蝕まれた身体には、重い鑿と槌を振るうという仕事はきわめて辛いものであったし、何よりも彫刻は、絵画よりも出費は大きくて、しかも容易に売れないという実際上の難点があった。そのため、最終的には彼は画家としての道を選んだわけだが、しかしそれにしても、ふたたび絵画に専念するようになってから彼に残された生涯は、わずか数年にすぎなかったのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


    「そのモディリアーニと、モンパルナスにおいて友人であったシャイム・スーティン(一八九三-一九四三)は、もうひとりの典型的なエコール・ド・パリの画家である。ロシア領リトアニアのスモレンスク近くの貧しい村に生まれた彼は、一九一三年にパリに出てきてから、他の多くの仲間の画家たちと同じように、最初のうちは貧しい放浪の生活を送っていたが、モディリアーニが最後まで貧困に苦しめられたのに対し、この友人の死後間もなく、アメリカの大収集家バーンズ博士に認められて、一転して華やかな名声と経済的安定を得るというドラマティックな生涯を送った。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「そのモディリアーニと、モンパルナスにおいて友人であったシャイム・スーティン(一八九三-一九四三)は、もうひとりの典型的なエコール・ド・パリの画家である。ロシア領リトアニアのスモレンスク近くの貧しい村に生まれた彼は、一九一三年にパリに出てきてから、他の多くの仲間の画家たちと同じように、最初のうちは貧しい放浪の生活を送っていたが、モディリアーニが最後まで貧困に苦しめられたのに対し、この友人の死後間もなく、アメリカの大収集家バーンズ博士に認められて、一転して華やかな名声と経済的安定を得るというドラマティックな生涯を送った。  このような波瀾と変化に富んだ生涯自体、多かれ少なかれこの時代にパリにやって来た若者たちと共通するものを持っているが、そのような状況とは別に、表現様式の上でも、スーティンの作品には、パリの空気に触れて燃え上がった強烈な色彩と激しい筆遣いが、はっきりと認められる。たとえばスーティン自身は、ゴッホに対して、むしろ反撥するような感想を洩らしているが、彼の画面に見られる青、赤、黄、緑のなまなましい原色表現と、風景画においてさえ斜めの線を主体としたダイナミックなうねるようなタッチは、オーヴェールの画家の持つ劇的表現を受け継いで、いっそうそれを強調したものと言ってよい。スーティンは、モディリアーニとは違って、人物のみならず静物や風景にも優れた作品を残しているが、そのいずれにおいても、ドラマティックなものを極点にまでおし進めた表現主義の最も激越な現われを見て取ることができるのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「ダダの運動の発端  キリコにおいて、きわめて詩的な喚起力を持つイメージに結晶していた現代的な不安を、いっそう急進的なかたちで行動に実現させたのが、ダダの運動であった。いや、正確には、いくつかのダダの運動、と複数で呼ぶべきであるかもしれない。というのは、ダダは、ヨーロッパおよびアメリカのいくつかの都市で、ほとんど同じ時期に発生し、平行して発展していったからである。もちろん、その発展の過程において、主として中心になる芸術家の往来を通じて、それぞれの都市のダダの動きのあいだに、当然さまざまの関係があったが、しかし少なくとも、最も早くその運動の烽火をあげたニューヨークとチューリヒのふたつの中心地は、最初は直接おたがいのあいだの結びつきなしに本質的に同じ意味を持つ芸術運動──ないしは反芸術運動──を展開していったのである。そのことは、これらのダダの運動が、決して単に二、三の芸術家の気まぐれだけに由来するものでなく、もっと密接に時代の雰囲気と関連していたことを物語るものであろう。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「ダ  リ  しかし、多くの人々にとっては、シュルレアリスム絵画と最も密接に結びついている名前は、エルンストよりも、むしろスペインのカタロニア地方フィゲラスに生まれたサルヴァドル・ダリ(一九〇四-一九八九)であるかもしれない。マドリッドの美術学校に学び、日曜日ごとにプラド美術館に通って古典的作品の模写をするというきわめて正統的な絵画修業を経て画家となったダリは、ほとんど職人的と言ってもよいその堅実な技術を、「偏執狂的批判的方法」によって生み出された大胆な、しばしば血なまぐさい、時には官能的な風変りなイメージの表現に適用することによって、彼特有の複雑な白昼夢の世界を作り上げた。ダリの名前とともに名高いその「偏執狂的批判的方法」というのは、本質的には、たとえばオートマティスムのような「受動的」方法によって無意識の神秘を探ろうとする初期のシュルレアリストたちのやり方とは逆に、もっと積極的に想像力に働きかけることによって、個人の心の最も奥底の部分に眠っているイメージを甦らせようとするものである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「現代絵画の歴史におけるパウル・クレー(一八七九-一九四〇)の位置とその役割とは、バウハウスのプログラムの枠をはるかに越えるものではあるが、しかし、一九二〇年から三一年まで(実際にはワイマールに移ったのは一九二一年)、カンディンスキーとほぼ相前後してバウハウスの仲間に加わったことは、バウハウスの名誉を高めるものであったと同時に、クレー自身にとっても、重要な意味を持つものであった。事実クレーは、バウハウス滞在中に絵画造形についての思索を深め、自己の創造の根源を探ることができたからである。彼のその思索の成果は、バウハウス叢書の一冊として刊行された『教育的スケッチブック』(一九二五年)と、バウハウスでの講義ノートおよびその他の論文を合わせて彼の死後編纂された『造形思考』(一九五六年)のなかにまとめられている。ある意味ではクレーは、バウハウスでの教育の体験を通して、その溢れるような自由な想像力を他の誰も真似することのできない独自の形態のなかに定着していく術を体得していったと言ってもよいのである。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

    「そのような天使の世界を画面の上に実現するにあたって、きわめて重要な手段である色彩表現をクレーに教えたのは、一九一四年のチュニジア旅行であった。かつてドラクロワがモロッコ旅行によってはじめて真の色彩画家となったように、クレーも北アフリカの強烈な太陽の輝きに触れてはじめて色彩に開眼した。「私と色彩とはもう一体だ。私は画家なのだ」という『日記』のなかの一句は、この時のクレーの感激をなまなましく伝えている。そして事実、たとえば《カイルアンの城門の前で》(ベルン  クレー財団蔵)のような水彩画を、それ以前のデッサンとくらべて見れば、クレーがチュニジア旅行から得たものが何であったか、容易に推察することができるであろう。」

    —『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著



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    2026年08月06日
  • カラー版 名画を見る眼 印象派からピカソまでⅡ

    Posted by ブクログ

    1364円

    262P

    ★再読

    確かにピカソって色彩に全く執着を感じない。今ピカソ作品20作ぐらい模写したけど、ただひたすら造形の探究をしてる人って感じがする。

    フィレンツェとピカソが造形、ヴェネツィアとマティスが色彩を探究してるけど、私は建築に対する興味は構造的な部分が強かったから圧倒的に、フィレンツェとピカソ派なんだよね。人の感覚はそれぞれだけど。

    ルソーの絵は美術史の系譜の中で宇宙から来た絵って面白い

    ゴッホを否定するならゴッホの絵は知性を感じられないんだよね。凄く馬鹿そうなのが絵に出てて苦手。

    Ⅰ  モネ「パラソルをさす女」──光への渇望
    Ⅱ  ルノワール「ピアノの前の少女たち」──色彩のハーモニー
    Ⅲ  セザンヌ「温室のなかのセザンヌ夫人」──造形のドラマ
    Ⅳ  ファン・ゴッホ「アルルの寝室」──不気味な内面世界
    Ⅴ  ゴーギャン「イア・オラナ・マリア」──異国的幻想
    Ⅵ  スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」──静謐な詩情
    Ⅶ  ロートレック「ムーラン・ルージュのポスター」──世紀末の哀愁
    Ⅷ  ルソー「眠るジプシー女」──素朴派の夢
    Ⅸ  ムンク「叫び」──不安と恐れ
    Ⅹ  マティス「大きな赤い室内」──単純化された色面
    Ⅺ  ピカソ「アヴィニョンの娘たち」──キュビスムの誕生
    Ⅻ  シャガール「私と村」──回想の芸術  カンディンスキー「印象・第四番」──抽象絵画への道  モンドリアン「ブロードウェイ・ブギウギ」──大都会の造形詩あとがき『カラー版名画を見る眼 Ⅱ』

    この印象派に対する批判分かる。確かに印象派は頭使ってない感がある。印象派って知性を感じられないよね。

    中野京子さん高階秀爾さんのファンだったからか、話の持って行き方がなんとなく似てる気がする。アーティストをオムニバス的に紹介していく感じというか。一人の画家を徹底的に掘るというか、複数の画家とか作品を横断しながら、美術全体の見取り図を作っていくタイプの書き方だよね。

    高階 秀爾
    (たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 2024年10月17日)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位。東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。1932年、東京で生まれた。父は哲学者・高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った[1]。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹、平川祐弘、石井進、平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1944年9月から1946年9月まで、父親の出身地である秋田県(大曲町)に疎開し、旧制角館中学で学んだ。1948年、四修で旧制第一高等学校に入学。1年修了で翌年新制東京大学に入学。在学中に矢代幸雄の『世界に於ける日本美術の位置』を読み、西洋美術史研究を志す。1953年、東京大学教養学部教養学科を卒業。東京大学大学院に進み、在学中の1954年から1959年まで、フランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学付属美術研究所およびルーブル学院で西洋近代美術史を専攻し、展覧会の運営など美術行政についても学んだ。帰国後、国立西洋美術館主任研究官に就いた。美術館勤務の一方で評論活動も開始し、1967年には遠山一行、江藤淳と雑誌『季刊藝術』を創刊。編集長は古山高麗雄で1979年まで計50号発行した。学界では、1968年に発足した日本文化会議に参画(1994年に解散)。1971年、東京大学文学部美術史科助教授に就いた。1979年に同教授昇格。1992年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。同1992年4月、国立西洋美術館館長に就任。2000年まで務めた。1997年、パリ第一大学より名誉教授を授与された。2002年4月~2023年6月、大原美術館館長[2]。2004年、京都造形芸術大学大学院長となり、同比較藝術学研究センター所長も兼ねた。2008年、京都造形芸術大学を退職。2015年、日本芸術院会員に選出された。2020年10月~2023年9月まで日本芸術院長を務めた[3]。2024年4月に発足された大原芸術研究所の所長に就任[4][5][6]。運営財団の理事も兼務していた[7]。2024年10月17日、心不全のため、死去[8]。92歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]。西洋美術館研究官、東京大学の美術史教授として、1963年の『世紀末芸術』を始め数多くの著作があり、啓蒙的役割を果した。ルネサンス期以降の西洋美術を専門としながら、日本近代美術にも造詣が深くその方面の著作、画集編集もある。
    同じ東京大学比較文学教授を務め、京都造形芸術大学名誉学長である芳賀徹とは小学校時代からの友人。『名画を見る眼』正・続(岩波新書)は、半世紀重版され計・82万部出された(新版の紹介より)。
    家族・親族
    父:高階順治は哲学者。
    母:佐々木信。
    祖父(母方):佐々木秀一。
    妻:舞台女優・エッセイストの高階菖子(しょうこ)
    娘:京都大学人文科学研究所教授で美術史学者の高階絵里加。



    「 クロード・モネ(一八四〇─一九二六)は、パリの下町の食料品店の息子として生まれた。しかし、彼が五歳の時、一家がノルマンディ地方の港町ル・アーヴルに移ったので、モネの少年時代は、主として英仏海峡に面した海辺の町で過ごされた。遠く拡がる空と水の世界に対する彼の鋭敏な感受性は、この時代に養われたと言ってよい。  このル・アーヴルの町で、少年モネは、ボードレールを驚嘆させた海景画家ウジェーヌ・ブーダンと知るようになった。モネが画家を志すようになったのは、もっぱらブーダンの導きによるものである。十八歳の時、父親の反対を押し切ってパリに出たモネは、それ以後、ほとんど独力で自己の道を切り開いていかねばならなかった。パリの画塾で知り合ったルノワールやピサロなどと「印象派」のグループを結成し、近代絵画の歴史を大きく変えるのに貢献しながら、彼はあくまでも自己の固有のヴィジョンをカンヴァスの上に展開していったのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「 たしかに、印象主義の体験は、ルノワールにとって大きな意味を持っていた。「ピアノの前の少女たち」に見られたような補色の効果の利用や、形態の輪廓線にとらわれない自在なタッチは、印象派時代に体得したものである。しかし、一八七〇年代の代表作である「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や、同じ年の「ぶらんこ」(オルセー美術館所蔵)に見られるように、明るい太陽に照らし出された戸外の風景という印象派特有の主題を取り上げる時にも、ルノワールはもっぱらそこに人物を配置することを好んだ。印象派時代には、モネやシスレーにならって、人物のまったくいない風景画ももちろん描いているが、艶やかな肌の下に暖かい生命の流れの脈打っている女性美をこよなく愛したルノワールは、彼自身、後に告白しているように、本質的に人物画家であった。そしてそこに、遅かれ早かれ彼が印象主義と訣別しなければならない根本的な理由があったのである。  晩年になってから、ルノワールは、友人の画商ヴォラールに向かって、一八八三年頃、私の仕事にひとつの断絶が訪れた。印象主義をとことんまで追いつめていった結果、自分はもう絵を描くこともデッサンすることもできないのではないかという結論に達した。つまりひと口に言えば、私は袋小路にはいってしまったのだ……と語っている。印象派の仲間たちのなかでも最も多作家であり、ただ絵を描くためだけに生まれてきたようなルノワールが「絵を描くこともデッサンすることもできないのではないか」と思ったというのは、よくよくのことである。この頃、ルノワールは、彼の長い生涯のなかで唯一の芸術上の危機を迎えたのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「ルノワールが四歳の時、一家はパリに移ったが、生活は依然貧しかったので、ルノワールは、十三歳の時から、陶磁器の絵付職人として働くようになった。晩年、功成り名遂げてから、彼はふたたび焼物の世界を楽しむようになるが、おそらくその時には、苦しかった少年の頃を懐かしく思い出していたに違いない。  彼の勤めていた陶器工場が、機械による大量生産商品の登場によって潰れると、ルノワールは、扇子の絵付けや、窓のブラインドのペンキ塗りのような仕事までしなければならなかったという。  画家としてのルノワールの修業は、一八六二年、二十一歳の時にパリ国立美術学校のグレールのアトリエに学ぶようになった時から始まる。このグレールの許での二年間の勉強は、直接には彼の様式に何の成果ももたらさなかったが、そこでモネ、シスレー、バジールなど後の印象派の仲間たちと知り合ったことは、大きな収穫であった。このグレールのアトリエの仲間たちが印象派運動のひとつの中心になるのは、広く知られている通りである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「一八七〇年代、印象派の技法に深く浸されていた時代のルノワールは、清潔な明るい色彩で数多くの名品を残したが、一八八〇年代にはいって印象主義に疑問を抱くようになり、やがて後半生の独自な豊麗な様式に移っていく。この様式の転換には、一八八一年から八二年にかけてアルジェリア、イタリアを旅行し、地中海の明るい太陽とルネサンス期の古典作品に触れたことが、大きな役割を果たしたに相違ない。そして晩年には、パリよりも地中海の明るく暖かい風土を愛してしばしば南フランスを訪れたが、一九〇三年以降、青い海を見下ろすカーニュに住むようになり、一九一九年、最後まで制作を続けながら世を去った。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「だが、ということは、セザンヌの作品が、時に誤ってそう言われるように、もっぱら色と形の構成だということではない。彼は友人のジョアシャン・ガスケに宛てて、モデルを読み取ることと、それを実現することは、大変に時間のかかる仕事だ。という意味のことを書き送っている。つまり彼はモデルの持っているすべての本質をまず「読み取」って、しかる後にそれを画面に「実現する」という二段階の操作を経て、肖像画を作り上げるのである。だが、もしそうだとしたら、逸話的なポーズや、心理的表現や、社会的道具立てにおよそ関心のなかったセザンヌは、モデルからいったい何を「読み取」ろうとしたのだろうか。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「オルタンスがセザンヌと知り合ったのは、おそらく一八六九年のことである。一八五〇年生まれの彼女は、当時ようやく十九歳で、それに対し、セザンヌの方はすでに三十歳に達していた。一説には、その頃彼女は、家計を助けるためにモデルをしており、それでセザンヌを知るようになったと言われているが、はたしてその通りであったかどうか確証はない。むしろそれは、およそ非社交的で、特に異性に対しては並はずれて臆病であったセザンヌが若い女性と知り合うとすればほかの事情は考えられないというところから生まれた伝説のように思われる。  しかし、いずれにしても二人は相知るようになり、そして結ばれた。三年後には二人のあいだに息子が生まれ、セザンヌと同じくポールと名づけられた。セザンヌは、この息子をちゃんと自分の籍に入れているが、その母親の方はずっと後まで、正式に入籍はしなかった。オルタンスが正式にセザンヌ夫人になるのは、一八八六年四月、つまり二人が知り合ってから実に十七年後のことである。その時、息子はすでに十四歳になっていた。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「二人の結婚がそんなにも遅れたのは、何よりもセザンヌが、オルタンスのことを自分の家族に、特に父親にひた隠しに隠していたからである。その頃までのセザンヌの生活は、両親のいる南フランスのエクス゠アン゠プロヴァンスとパリとの間を行ったり来たりするものであったが、両親の許へ帰る時は、オルタンスと息子をマルセイユまで連れてきてひそかにそこに住まわせ、父親の眼を盗んで時々会いにいくという有様であった。ある時などは、マルセイユから帰る時つい汽車に乗り遅れてしまい、夕食の時間に遅れて父親に怒られてはならないと、三〇キロ近い道を大急ぎで歩いて帰ってきたという話まで伝えられている。  セザンヌがそれほどまで父親に気を使っていたのは、彼の生活が完全に父親に依存していたからである。絵画の歴史を大きく変えてしまったこの稀有の天才も、こと生活に関してはまったくの無能者であった。もちろん作品は一点も売れなかったし、絵を描くこと以外、彼には何の才覚もなかった。したがって、彼(およびオルタンスと息子)にとっては、毎月父親から渡される二〇〇フランが、唯一の生活の支えであった。そして、息子が自分の跡を継がずに画家になったことに対してさえ強い不満を持っていた専制的な父親のことであるから、息子が勝手に結婚したなどということを知ったら、生活費の支給すら打ち切ってしまうのではないかとセザンヌは虞れていたのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「 セザンヌの作品の主要なテーマは、ごく初期のロマン派風の物語的主題を別にすれば、ほとんど風景、静物、肖像の三つに尽きると言ってよい。そのうち、風景と静物は、彼の身のまわりに、いつでもあった。だが人物は、かならずしもそうではなかった。セザンヌが描きたい時に、いつも肖像のモデルがいるというわけではなかった。それは、彼の芸術がおよそつまらないものと思われていたから誰も彼に肖像を描いてもらいたいなどと考えなかったばかりではなく、彼のモデルとなることは、大変な苦労を伴うことだったからである。  セザンヌの作品の最初の理解者のひとりである画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、その苦労を、おそらくはいささか誇張をまじえながらではあろうが、生き生きとした筆致で語っている。モデルとなるヴォラールがポーズするために、セザンヌが特に用意したのは、細い四本の支柱の上に木箱を載せ、その上にさらに椅子を置いたはなはだ不安定なものであった。その椅子に座ったまま、ヴォラールは絶対に動いてはいけないと命じられた。ところが、じっと座っているうちにいつしか眠くなり、思わずこっくりした途端、彼は椅子もろとも床の上に落っこちてしまった。それを見たセザンヌは、大声で怒鳴った。  「何てことだ!  君はポーズを滅茶滅茶にしてしまった。だから言ったじゃないか。林檎のようにじっとしていなければいけないって。いったい林檎が動くかね」。  そこで次の日からは、ヴォラールはセザンヌのアトリエに出かける前に、濃いコーヒーをたっぷり飲んでいくことにした。「林檎のようにじっとして」いる苦行は、毎日朝の八時から十一時半まで、三時間半も続いた。ヴォラールがその苦行を百十五回も繰り返したところで、セザンヌはエクスに帰らなければならなくなって、作品は中断された。その時セザンヌは、「シャツの前のところだけはどうにか出来た」と語ったという。もしエクスに帰るという事態が起こらなければ、制作はあとどのくらい続いたかわからない。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「このような苦労をしてまで、無名の画家のモデルになろうという奇特な人はそういない。セザンヌが繰り返し自分自身の肖像を描いたのは、理由のないことではない。だが、その自画像よりも数の上でもっと多いのが、オルタンスの肖像である。セザンヌの友人たちが言うように、彼女は夫の芸術をおよそ理解しなかったかもしれないが、少なくともモデルになるということがどういうことであるかは理解していたに違いない。そしてその点だけについても、われわれは、セザンヌとともに彼女に感謝しなければならないのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「すでに引いた彼のガスケへの手紙の一節からも明らかな通り、彼はまずモデルを「見て」いた。彼は自分の眼を通して、眼の前の対象のすべてを「読み取ろう」としていた。しかし彼が「温室のなかのセザンヌ夫人」の姿に見ていたものは、モネが見たような、すべてが魅惑的な光の波に覆われる世界でもなければ、ルノワールが見ていたあの熟れた果実のように暖かくみずみずしい肌の魅力でもなかった。彼が求めたものは、眼の前の対象を形づくる本質的な構造であった。すべてが一様な光の波に還元されてしまう印象派の世界のなかから、セザンヌは、対象を周囲の世界から区別する基本的な形態を求めた。そして、そのような確固とした形態を求めるということは、もはや単に視神経だけの問題ではない。それは後にブラックが、「眼は形態を歪め、精神は形態を作る」という簡潔な言葉で表現したように、自然のなかにひとつの秩序をうち立てようという精神の働きである。セザンヌが友人のモネについて、彼はひとつの眼に過ぎない、だが何と素晴らしい眼だろう。と語ったという話は有名であるが、この一句にはモネの精緻な感覚に対する賛嘆と同時に、ひそかな批判をも読み取ることができる。形態を把握するものは、単なる「眼」ではなく、究極的には幾何学の世界と相通ずる知的な精神の作用である。セザンヌが若い友人のベルナールに向かって「自然を円錐と、円筒と、球体で捉えること」と教えたのも、実はその意味にほかならない。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著



    「*セザンヌは「自然を円錐と、円筒と、球体で捉える」という有名な一節にすぐ続けて、「自然はわれわれ人間にとっては、表面であるよりも奥行きとして存在している。それ故、赤や黄色によって表現される光の震えのなかに、空気の印象を与えるため充分な青を導入しなければならない」と述べている。セザンヌの画面で青が強調されるのはそのためである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「この手紙にも語られているように、「アルルの寝室」を描いた頃、ゴッホはゴーギャンのやってくるのを待ち望んでいた。もともとその年の春早く、南フランスの明るい太陽に憧れてアルルにやってきた時、ゴッホはひとつの遠大な計画を抱いていた。いや、計画というよりもむしろ夢と言った方がよいかもしれない。それは、アルルの町にパリの友人の画家たちを呼び集めて、共同生活をしながらいっしょに芸術制作に励むという企てである。ゴッホはこの夢のような計画を本気になって考え、アルルに着くと、そのためのアトリエを探し、それを「南仏のアトリエ」と名づけて、パリにいる友人たちに、この共同生活に参加するよう、勧誘の手紙を書き送った。しかし、ゴッホの熱心なすすめにもかかわらず、彼の呼びかけに答えてわざわざアルルまでやって来ることになったのは、ゴーギャンただひとりであった。ゴーギャンは、ゴッホがパリにいた頃から深く尊敬していた友人であったばかりでなく、もしそのゴーギャンまで来ないということになれば、「南仏のアトリエ」の夢は空しく潰れてしまうことになるので、ゴッホがいかにこの友人の来訪を待ち望んでいたか、容易に想像されるところであろう。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「それのみならず、さらに色彩についての考え方にも、ゴーギャンの影響が見られる、いやそれは、影響というよりも、むしろスーラやルドンなどまで含めて、印象派に飽き足らなかった当時の創造的芸術家たちの間に見られる共通の信念とも言うべきものであった。それは、色彩というのは、単に光に照らし出された外の世界をカンヴァスの上に再現するためだけのものではなく、それ自身ある精神的、心理的内容を表現するという考え方である。  事実、先に引いたゴーギャン宛の手紙のなかで、ゴッホははっきりと、多くの色によって「絶対的な休息を表現しようとし」たと述べていた。また、同じ頃、やはりこの作品について語った弟のテオ宛の手紙のなかでも、「ここで大切なのは色彩であり、色彩は単純化によってものにいっそう大きな様式を与えると同時に、ここでは、一般に休息、ないしは睡眠を暗示するものだ」と書いている。つまりゴッホは、色彩に単に外界の再現以上の役割を求めていたのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「 ゴッホがきわめて激しやすく、興奮しやすい性格の持ち主であったことは広く知られている。それと同時に、彼はひとつのことを思いつめると、病的なまでそれに熱中するところがあった。「南仏のアトリエ」は、まさにそのような彼の「夢」であった。その「夢」がもう間もなく実現しようという時、彼は不安と期待に満ちた昂揚した心理状態にあったはずである。当時書かれた彼の手紙は、よくその興奮した心理を伝えてくれる。そして、「アルルの寝室」も、やはり同じようにはっきりと彼の当時の不安定な、昂揚した精神を反映しているのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「ゴーギャンは、印象派が「眼の周囲ばかりに気を使っていて、少しも頭を使おうとしない」のを不満に思っていた。彼にとっては、絵画とは単に外の世界を忠実に写し出せばそれですむものではなく、さらにそこに想像力や知性の働きがなければならないものであった。印象派はあまりにも「感覚」に頼り過ぎているので、彼はそこに「精神」の権威を復活しようとしたのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「 とすれば、すべてをタッチに──そしてやがては点に──分解しようとする印象派の「分割主義」に対し、形態をひとつの大きな塊として把握しようとするゴーギャンのこの手法が「綜合主義」と呼ばれたとしても、少しも驚くにはあたらないであろう。印象派の画家たちにとって「分割」が合言葉であったように、ゴーギャンおよびその仲間の画家たちにとっては、「綜合」が合言葉であった。そして事実、一八八九年、パリで万国博覧会の開かれた年、ゴーギャンが中心となってカフェ・ヴォルピーニで開かれたあの記念すべき展覧会は、「印象主義ならびに綜合主義の展覧会」と名乗ったのであった。  もちろん、この作品に見られるようなはっきりした輪廓線は自然のなかには存在しないという意味で、「綜合」もひとつの虚構に過ぎない。それは現実の対象を写し出すものではなくて、現実の対象についての抽象化されたイメージを与えてくれるものである。そう言えば、印象派の「色彩分割」にしてもひとつの虚構であった。ただモネは、その虚構によって現実のありのままの姿を捉え得ると信じていた。それに対し、ゴーギャンは、「綜合」が現実世界を離れて抽象化の方向に向かうものであることを知っていた。それを知っていながら──いや、それを知っていたからこそなお──ゴーギャンは、自己の画面に、自然とは別の、新しい知的秩序を与えようとしたのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「しかし、タヒチ島がゴーギャンの作品に及ぼした第三の、そして何よりも重要な影響は、新しい人間像の発見であろう。一八八〇年代の後半においてすでに、彼は、白いヴェールで頭を覆ったブルターニュ地方特有の民族衣裳に惹かれ、「説教の後の幻影」などに見られるように「綜合主義」の実践にあたってそのモティーフをフルに利用している。しかし、ブルターニュにおいては、民族的なものは、もっぱらそのモティーフとしての価値の故に取り上げられた。タヒチでは、ゴーギャンは新しい人間を見出したのである。  もちろん、眼鼻だちの大きい、褐色の肌に輝くたくましい体つきのマオリの男女は、「綜合主義」のモティーフとしても適切なものであったろう。しかし同時に、異教の神像を思わせるその不気味なほど強烈な相貌は、彼の画面に新しい心理的次元をもつけ加えるものであった。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「モネやシスレーのような印象派の画家たちが、何よりも現場での直接の「印象」を重んじて、戸外にカンヴァスを立てて制作したのに対し、スーラは、毎日のようにスケッチに出かけながら、その油絵作品はアトリエで丹念に仕上げていった。午前中に実際に現場で写し取ってきたスケッチをもとに、午後には彼は、独りアトリエにこもって、それらの材料を最終的にどのような構図にまとめ上げるか、徹底的に追求するのである。  最初の大作「アニエールの水浴」には、このようにして構図の研究のために描かれた油絵の習作が十四点残されている。この「グランド・ジャット島」の場合は、さらに多く、個々の部分のための習作や全体の構図の研究などを合わせて、三十点以上の油絵習作が伝えられている。もちろん、いずれの場合でも、その他に白黒のデッサンは、さらに多く作られた。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「事実、スーラは、この静謐な風景のなかに、彼自身実際に観察して得たさまざまな人物モティーフをはめこんでいく。優れた詩人の魂の持ち主でありながら、スーラは人物でも風景でも、自分の想像力のみによって形態を生み出すことをせず、かならず実際に見た光景や、現実のモデルを写し出した姿を利用した。ただ、それらの人物や光景は、現実の世界からスーラの画面に移される時、現実の不純物をすっかり失って、清潔な造形要素に変貌しているのである。  例えば、画面左端で立ったまま釣りをしている女性は、最初は、ごく当たり前の釣りする男のスケッチとして描かれた。それは、スーラ自身が、ある日グランド・ジャット島で実際に見た男の姿に違いない。それは、やや斜め後ろの方から見た自然なポーズで、どちらかと言えばスナップ写真に近いものである。しかし最終作品では、その斜め後ろから見た男は、まるで古代の彫像のように厳しい輪廓線を持った女性の横向きの姿に変えられてしまった。それはもちろん、画面右手を大きく占めるパラソルをさした婦人の横向きの姿と相呼応するリズムを作り出すためであろう。事実二人の横向きの姿は、腰のところを大きくふくらました当時流行の衣裳をつけて、まるで主旋律とその変奏のように、画面に造形的なリズムを与えているのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著



    「構図と同様に、色彩表現においても、スーラはきわめて合理的であり、理知的であった。彼は、ある日たまたま町を歩いていた時、画商の店にドラクロワの「タンジールの狂信者たち」が並べられているのを見て、その色彩の使い方、特に赤と緑、オレンジと青などの補色の効果を丹念にメモに書き残した。また、シュヴルールやルードなどの光学理論にも強く惹かれ、まるで科学者のように冷静にその理論を実際に適用しようと試みた。なかでも、ドラクロワや印象派に大きな影響を与えたシュヴルールは、ちょうどこの「グランド・ジャット島」が描かれていた頃は、すでに九十八歳という高齢であったが、スーラはシニャックとともにわざわざその研究室を訪れて、いろいろ教えを受けている。そのような研究を重ねた結果、彼は物体の持つ「色」を、次の五つの種類に分析した。 (1)白色光線のなかで物体の示す色、すなわち物体固有色 (2)物体の上に落ちる光の色、すなわちもし太陽の光に照らされているのなら暖かい黄色 (3)物体にあたる光がその物体固有色によって変化させられて生じた色 (4)近くにある他の物体の色から反射してくる光の色 (5)隣接する他の物体との影響関係によって感じ取られる色。例えば、青い空を背景とする物体は、青の補色であるオレンジ色を帯びる」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「しかしながら、今日のわれわれの眼から見る時、「グランド・ジャット島」は、その幾何学的な構図や色彩理論の故ではなく、そこにこめられた詩情の故に、われわれを感動させる。余計な細部を切り棄て、対象を単純な幾何学的形態に還元して、知的な造形表現を求めた画家としては、例えばスーラ以前ではルネサンス期にピエロ・デラ・フランチェスカがいたし、スーラと同時代にはセザンヌが、スーラ以後にはキュビスムの画家たちがいた。わずか三十一年の短い生涯しか生きなかったスーラは、一度もイタリアに行ったことはなかったが、ちょうど彼が美術学校に学ぶ直前、一八七四年に、アレッツォのピエロ・デラ・フランチェスカの有名な壁画「聖十字架の伝説」の模写がパリの国立美術学校に収められ、研究熱心なスーラはおそらくそれから多くのことを学び取ったに違いないと思われる。またセザンヌとは言うまでもなく同じ時代の空気を吸っていたし、そのセザンヌとスーラは、キュビスムの誕生に大きな影響を与えている。したがって、スーラの仕事を歴史の流れのなかに位置づけることは、それなりに可能である。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「ジョルジュ・ピエール・スーラ(一八五九─九一)は、パリの比較的富裕な家に生まれた。父親は退職した官吏で、田園生活を好み、もっぱら田舎で暮らしていたので、スーラは主として母親の手で育てられた。一八七五年、十六歳の時、パリ市立デッサン学校に入り、そこで三年ほど学んでから、国立美術学校でアンリ・レーマンの許に学んだ。レーマンはアングルの弟子であったので、その教え方も、アングル風の様式によるものであったらしい。少なくとも現在残っているスーラの学校時代のデッサンなどを見ると、厳しい古典主義的な画風で、彼自身アングル的なものに憧れていたことをよく物語っている。  このような伝統的なアカデミズムの画風から、スーラが独自な様式を確立するためには、一八八〇年頃からほぼ二年間にわたる熱心なデッサン修業の時期が必要であった。この時期に、スーラは、アングル風の硬い描線を棄てて、明暗の調子によって対象の実在感を確実に捉える技術を身につけた。そして、その後ではじめて大画面と取り組んだのが「アニエールの水浴」であり、その次に描かれたのがこの「グランド・ジャット島」である。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「しかし、いかにデッサンがそのまま再現されるといっても、やはり版画として種々の制約があることは言うまでもない。例えば、色数は版を刷り重ねることによって増やすことができるが、しかしひとつひとつの色は一様な平坦な色面で、微妙な調子の変化などは望むべくもない。また油絵に見られるような重みのあるタッチの質感も再現できない。したがって、デッサンのアラベスクなどは容易に再現できるが、色彩に関して言えば、微妙なニュアンスの差異や濃淡の調子よりも、平坦な色面の並列によって効果をあげる方が石版画の特質にかなっているのである。  「ムーラン・ルージュ」のポスターの注文を受ける以前に、ロートレックはすでにいくつか石版画を試みている。彼の最初の石版の試みは、一八八六年頃と思われるが、しかしそれらは、多くは新聞の挿絵などに使われたもので、おそらく直接彼が原版の制作にあたったものではない。したがって、このポスターは、版画家としてのロートレックの最初の重要な作品と言ってよいものである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「ロートレックが優れたデッサン家であったことは広く知られている。彼は「ムーラン・ルージュ」のテーブルに座ってアルコールに陶酔している時でも、鉛筆を持つ手だけは休めず、手あたり次第に眼に映る観客や踊り子の姿を紙の上に写し出していたという。今日残っている彼の多くのデッサンは、この言い伝えが単なる伝説ではなくて実際にそうだったことを証明している。特に彼は、時に誇張とも思われるようなどぎつい表現で、モデルの人物の個性的特徴を的確に捉える腕前に長じていた。石版画のように陰影や濃淡が自由に使えないとなると、その対象表現は、何よりも正確な輪廓線を見つけることにかかってくる。このポスターの前景に大きく立ちはだかる「骨なしヴァランタン」の姿が、彼を実際に一度も見たことのないわれわれにまでいかにもその人物を髣髴させるように生き生きと描かれているのは、もっぱらその鋭いデッサンの故である。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著



    「絵画の歴史には、時に奇蹟としか言いようのない不思議が起こることがある。様式の発展とか、時代の動きなどというものとはまったく無関係に、思いがけない傑作が、まるで別の星の世界から突然やってきたかのように、われわれの眼の前に出現する場合がある。一八九七年のパリのサロン・デザンデパンダン(アンデパンダン展)に並べられたルソーの「眠るジプシー女」の場合がそれであった。  もちろん、現在の時点から振り返ってみて、ルソーを「歴史的」に当時の流れのなかに位置づけることはできないことではない。歴史家は、ルソーに「素朴派」という分類を与え、さらにこの「眠るジプシー女」におそらく直接ヒントを与えたと思われる先例すら探し出してきた。しかし、この絵の前に立つと、そのような種類の説明は、まったく無力に思われてくる。われわれはただ、夢とも現実ともつかぬ妖しい世界に引きこまれて、平素の日常的感覚はすっかり沈黙させられてしまう。優れた芸術作品というものは、多かれ少なかれそのような効果を見る者に与えるものだが、しかしそれにしても、この絵から受ける印象は、あまりに現実離れをしていて、しかも異様なまでになまなましい。この絵の前に佇んでその魔力に浸った後では、周囲の現実世界の方がかえって空々しいものにさえ思われてくるほどなのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「しかしその「夢」は、彼にとっては日常の現実以上になまなましい現実性を持った夢であった。この「ヤドヴィガの夢」について、ある批評家がルソーに、なぜジャングルの真ん中にこんな立派な長椅子が置いてあるのかと尋ねたところ、ルソーは早速その批評家に手紙を送って、「それはこの女が長椅子の上で眠っていて、密林に運ばれた夢を見ているところだから」と答えた。つまり、画面いっぱいに丹念に描き出された花や、動物や、笛を吹く女など、皆この少女ヤドヴィガの夢の中のイメージだというのである。  ジャン・コクトーは、上に引いた文章の中で、ライオンや河はジプシー女の夢に出てくるものだと書いた時、もしかしたらこのエピソードを思い出していたのかもしれない。あるいは、この話は知らずに、詩人の鋭い直観でルソーの作品の本質を言いあてたのだろうか。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「しかしその「夢」は、彼にとっては日常の現実以上になまなましい現実性を持った夢であった。この「ヤドヴィガの夢」について、ある批評家がルソーに、なぜジャングルの真ん中にこんな立派な長椅子が置いてあるのかと尋ねたところ、ルソーは早速その批評家に手紙を送って、「それはこの女が長椅子の上で眠っていて、密林に運ばれた夢を見ているところだから」と答えた。つまり、画面いっぱいに丹念に描き出された花や、動物や、笛を吹く女など、皆この少女ヤドヴィガの夢の中のイメージだというのである。  ジャン・コクトーは、上に引いた文章の中で、ライオンや河はジプシー女の夢に出てくるものだと書いた時、もしかしたらこのエピソードを思い出していたのかもしれない。あるいは、この話は知らずに、詩人の鋭い直観でルソーの作品の本質を言いあてたのだろうか。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「もともと、西欧においては、自然が独立した存在として絵画の対象となったのは、そう古いことではない。早くから自然の美しさに気づいて、風景画を発達させてきた東洋の場合と違って、ヨーロッパにおいてはっきり「風景画」というジャンルが成立するのは、やっと十七世紀になってからのことである。  もちろん、それ以前に、自然の姿を写し出した絵画作品がまったくないというのではない。花や、木や、山は、中世の美術においても、あるいは物語の背景として、あるいは宗教的象徴として、あるいは単に装飾的モティーフとして、しばしば登場してくる。そして、ルネサンス期になると、自然はいっそう現実に近いかたちで、画面を豊かに飾り立てるようになる。ボッティチェルリの「春」の画面に咲き乱れる多彩な花々や、ヴェネツィア派の宗教画や寓意画の背後に拡がる野山は、たしかにルネサンス時代の人びとが自然の持つ美しさに気づいていたことを物語っている。しかしながら、それらはいずれも、ある物語的内容、または宗教的内容を持った中心テーマの背景として考えられているに過ぎず、それ自身が独立した絵画の主題となることはなかった。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「それは、強いて言うなら、ムンク自身の心のなかにあった不安としか言いようがない。一八九〇年代のムンクの作品を見ると、そこに一貫して、同じような説明し難い不安感が流れていることに気がつく。星の明るい夜、閉ざされた家のなかで男女のひそかな出会いの行なわれている場面を外から描き出した抒情的な「星月夜」(一八九三年頃)ですら、青く拡がる空と海を背景として、その前に巨大な細胞のように黒く不規則な形を示す岬や丘は、何か不吉なものを感じさせる。あるいは、一八九〇年代の末に描かれた、あの月の夜の海岸で踊る若い男女の群れを描き出した「生命のダンス」を思い出していただいてもよい。「生命のダンス」とは言いながら、そこに展開されているのは、まるで葬式の夜のように陰鬱でもの淋しい世界である。事実、その画面で、不吉な黒い衣裳を身にまとって両手を組んだまま踊ろうともせずじっと立つ女の姿は、数年前に作られた石版画「臨終の床で」に登場する女と、服装も、ポーズも、そっくりそのままなのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「精神的には写実主義者クールベの嫡子である印象派の画家たちにとって、自然は、捉え難い時々刻々の変化を見せるものではあっても、不安を感じさせるものではなかった。彼らは、自然をあくまでも外側から眺め、その正確な相貌をカンヴァスの上に再現しようとした。そこでは人間は、モネについてセザンヌがいみじくも喝破したように、「ひとつの眼」に還元される。しかしながら、印象派のすぐ後に続いて登場した世代は、ゴッホや、ゴーギャンや、ルドンなどの例に明らかに見られるように、眼には見えない別の世界を求めた。一八八〇年代の後半から九〇年代にかけて、ヨーロッパの絵画は、眼に見える外の世界を写し出すことから、眼に見えない心の内部を表現することへと、大きく変わっていったのである。  フランスにおけるアール・ヌーヴォー、ドイツ、オーストリアにおけるユーゲントシュティル、イギリスにおけるモダン・スタイルなど、いわゆる「世紀末芸術」の名で呼ばれる一連の芸術運動は、その背後にさまざまの原因や衝動を持っているが、絵画の歴史の上から見てみれば、外の自然を再現することから、人間の心の内部の神秘を表現するものへと移り変わっていったその転回点を示すものと言ってよい。ムンク自身、後に芸術についての自己の考えを、次のような言葉で述べている。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「 今日のわれわれの眼から見れば、当時のマティスやヴラマンクの作品がそれほど「野獣的」であるとも思われない。それどころか、逆にきわめて洗練されているようにすら見える。しかしそのことは、とりもなおさず、フォーヴの画家たちの行なった色彩解放の革命が、いかにわれわれの感受性を変えてしまったかを物語るものである。事実フォーヴの画家たちは、画面を単純な二次元の平面に還元すると同時に、現実にはあり得ないような色彩を思い切って使用して、色の持つ表現力を百パーセント利用しようとした。もちろん、色彩の表現力は、フォーヴィスムの登場する以前から、いやもっとはっきり言えば、おそらくは絵画の発生と同時に、画家たちによって本能的に理解されていただろう。少なくとも、「赤と青とによって人間の恐ろしい情念を表現しよう」としたゴッホや、色彩にはそれ自体悲しみや喜びを表現する力のあることに気づいていたスーラは、フォーヴの画家たちよりもずっと前に、カンヴァスの上に華やかな色彩を繰り拡げていた。しかし、例えばゴッホの場合であれば、黄色がほしい時には、「ひまわり」とか「星月夜」のように、画面に黄色を使うことのできるテーマを選んで、それをいわば口実として、自己の内面表現に必要な色彩を利用していた。またゴーギャンは、風景のなかに多少とも緑色がかった部分があれば、思い切って最も美しい緑を使うよう仲間の画家に忠告しているが、それも多少とも現実とのかかわりあいを必要としていたからだと言えよう。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「アンリ・マティス(一八六九─一九五四)は、フランスのノール県のカトーに殻物商の息子として生まれ、最初は法律家を志して、サン・カンタンの弁護士事務所に勤めた。彼が、法律を棄てて絵画の道に進むようになったのは、二十一歳の時、病気をして入院中に、グーピの『絵画論』を読んだのがきっかけだったと言われている。もしこのような偶然がなかったなら、われわれは、二十世紀最大の色彩画家をひとり失い、その代わり、多少とも有能な弁護士がフランスの地方に名を残したという結果になったかもしれない。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「若いピカソが、人生のはかなさを示すこのようなテーマに惹かれたことは少しも驚くにはあたらない。それはある意味で、「青の時代」以来一貫して彼の作品の底を流れる通奏低音でもあった。芸術の都パリを征服しようとしてスペインからやってきたピカソが、世紀の初頭のパリで繰り返し描き続けたのは、老衰、貧困、飢餓など、人生の悲惨な姿であり、明日の希望を知らない暗い世界であった。そこでは、例えばしっかりと抱き合う恋人たちや母と子ですら、あの濃い沈んだ青に彩られて、陰鬱な表情をたたえている。クリーヴランド美術館にあるやはり寓意的意図をもって描かれた名作「人生」(一九〇三年)においては、裸で抱き合う若い男女が、傍らに立つ子供を抱いた母親の方に、脅えたような視線を投げかけている。「アヴィニョンの娘たち」の意図は、少なくとも最初はその「人生」の系列に属するものであった。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「ピカソの多産な生涯のなかでも特に重要な位置を占めるこの二点の大作が、いずれも色彩にはそれほど強い執着を示していないということは、ピカソという彼自身怪物であるかのような天才の造形的資質について、ある程度の暗示を与えてくれる。すなわちピカソは、むろん時に色彩を思い切って大胆に使わないわけではないが、それ以上に形態と形態の変貌とにいっそうの関心を寄せる画家なのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「パブロ・ピカソ(一八八一─一九七三)は、スペインのアンダルシア地方マラガに生まれ、バルセロナで育った。父親は絵の先生で、一家がバルセロナに移ったのも、美術学校で教えるためであった。したがって、ピカソが早くから絵画に興味を持ったのも、少しも不思議ではない。バルセロナの美術学校の入学試験の時には、普通一か月かかって描く課題作をたった一日で仕上げ、しかも、先輩の誰よりも見事な出来栄えで、人びとを驚かせたという話が伝えられている。  一九〇〇年、ちょうど世紀の変わり目の年、十九歳のピカソは、当時の世界中の若い芸術家たちの憧れの土地であったパリに出た。この時は、数か月間滞在してすぐ戻ってきたが、しかしたまたまパリで催されていた万国博覧会を見ることができて、新しい世界に対する眼を開かされた。  その後彼は、何回かパリとバルセロナのあいだを往復するが、一九〇三年頃から、パリを本拠とすることに決め、モンマルトルの薄汚いアトリエで制作に熱中するようになった。「洗濯船」という綽名で知られるこのアトリエのあった建物は、ピカソのみならず、多くの芸術家たちが住みついた記念すべき場所で、今でもパリの名物になっている。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「ピカソ自身は、一九一七年、大戦を逃れてイタリアに渡り、そこで長い歴史を持つ過去の作品に触れて、大きく古典主義的表現に戻る。一九二〇年代のピカソの「新古典主義時代」と呼ばれる時期がそれである。この時代に、ピカソは、古代ローマやルネサンス期の画家たちの表現を、もちろんピカソ特有のやり方によってではあるが、学び、取り入れ、自己の武器とした。このようにしてさまざまな変転を辿って多くの表現手段を身につけたピカソは、その後半生において、誰も真似することのできないあの自由奔放なイメージの世界を展開していくこととなるのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「 当然、そこに描き出されるパリは、現実の観光案内のようなパリではない。赤や、青の華やかな主調色に彩られたパリは、シャガール自身の夢の世界にほかならない。そこでは、エッフェル塔やパンテオンと並んで、空を飛ぶ魚や、巨大な鶏、山羊、牛など、シャガールのお伽噺の国の動物たちもやはり登場してきている。かつて故郷のヴィテプスクの町の上を恋人のベラといっしょに飛んだように、彼は夢のパリを二度目の妻のヴァランティーヌと散策する。古代ギリシアの神話によれば、ミューズの女神は記憶の女神の娘たちであったというが、シャガールにおいても、詩は回想に養われた時、最も鮮やかな映像世界を生み出す。現実と夢とはひとつになって、ほかの誰のものでもないシャガール自身の魂の歌が高らかに歌い上げられるのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「マルク・シャガール(一八八七─一九八五)は、ロシアの貧しい村ヴィテプスクに生まれた。父親は百姓であると同時に職人であり、また農閑期には鰊市場で働く日雇い労働者でもあった。母親は、全然教育のない女であったが、深い信仰と優しい愛情に満ち、この世の神秘に対する素朴な驚きを息子に伝えた。  シャガール自身の回想によれば、「芸術とか芸術家などという言葉を発する者は誰ひとりとしていなかった」。このような田舎の貧しい家に育った彼が、なぜ絵画こそ自己の天職であると信ずるようになったのか、その動機はいまだに謎である。しかしいずれにしても、彼は早くから画家を志し、両親の反対を押し切って、最初はまずヴィテプスクの美術学校で、次いで当時ロシアにおける新しい芸術の中心と考えられていたペテルスブルクの官立美術学校に学んだ。しかし、型にはまった授業しか与えられないこの学校教育は、彼に深い失望を味わわせただけであった。むしろ、当時ペテルスブルクで活躍していたレオン・バクストを通して、フランスの新しい絵画に触れたことが、彼にとって決定的な影響を与えたのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「この「松明」の赤とオレンジをはじめ、背後の建物や人物の服装などに、赤、黄、緑、青などの派手な色彩が登場するが、それらの色彩は、画面全体の骨格を構成する太い輪廓線の黒の支配を受けて、やや抑えつけられたような重々しい音色を響かせる。それは、例えばブラームスのシンフォニーに感じられるような、暗い、内面的な抒情性の表現とも言えるだろうか。マティスの「大きな赤い室内」(第 Ⅹ章)に燃え上がる色彩が、南フランスの明るい太陽の恵みを受けた果物の肌を思わせるとすれば、カンディンスキーの赤は、ほとんど血の色の不気味さを持っているのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著

    「その体験については、カンディンスキー自身が後に『思い出』のなかで、次のように語っている。ある日、物思いにふけりながらスケッチから帰ってきてアトリエの扉をあけた途端、私は突然そこに、何とも言われぬ不思議な美しさに光り輝く一枚の絵を見出した。私は吃驚して足を止め、その絵をじっと見つめた。それはまったく主題のない絵で、一見何だかわからない対象を描いており、全体が明るい色彩の斑点で出来上がっていた。だが、もっと近くに寄ってみて、ようやくそれが何であるかわかった。それは、画架の上に横倒しに立ててあった私自身の絵だったのである……  いったんそうとわかると、最初に感じたあの光り輝く「不思議な美しさ」はもう消えていた。翌日、カンディンスキーは、もう一度その「美しさ」を取り戻そうとしたが、無駄であった。その絵を横倒しにしてみても、逆さに置いてみても、まず描かれているものが眼について、色彩の輝きの持つ不思議な魅力は、もう二度と感じられなかった。前日に感じた「美しさ」は、何が描いてあるかわかるよりも前に、まず「色彩の斑点」が眼についたために、色彩そのものの輝きだけが純粋に彼の眼に訴えてきた結果にほかならなかったのである。  カンディンスキーは、この体験から、「自分の絵にとっては、客観性とか、何かある対象の描写ということは、不必要であるばかりか、むしろ邪魔になるものだ」ということに気づいた。言うまでもなくそれは、画面から対象を消し去ってしまう抽象絵画の出発点であった。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著



    「実を言えば、あの「横倒しの絵」と同じような経験は、十年以上も前にカンディンスキーは一度味わったことがある。それは、一八九五年、彼がまだモスクワにいた頃のことであるが、たまたまフランスの印象派の画家たちの展覧会が開催され、カンディンスキーはそれを見に行った。その時、モネの「積藁」の絵を見て、最初は何を描いているのかまったくわからず、カタログと照らし合わせてみてはじめてそれが「積藁」の絵だということがわかった。このことは、若いカンディンスキーにとって、ひとつの大きなショックであった。しかし、その時は彼は、「絵画がこれほどまで自然を離れ、対象を捨ててしまうことがいったい許されるのだろうか」という疑問を感じ、モネのやり方に強い反発をおぼえたと告白している。  しかし、「積藁」の絵の前で感じた疑問にもかかわらず、その衝撃はカンディンスキーの心のなかで、おそらく彼自身も気がつかないうちに、だんだん大きなものに育っていったと言ってよいであろう。そしてそれが、あの「横倒しの絵」の体験と重ね合わせられた時、彼の内部にひとつのはっきりとした方向が定められたのである。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「それと同時に、伝統的な表現に対して思い切って反逆した多くの先輩や仲間たち、特にフランスのフォーヴィスムやキュビスムの画家たちの先例がカンディンスキーを刺戟したことも否定できない。対象を再現するためというよりも、色彩や形態そのものの表現力を自由に追求した点で、フランスの画家たちは彼には偉大な手本のように思われた。一九一〇年に執筆され、その二年後に刊行された『芸術における精神的なるもの』と題する理論書のなかで、カンディンスキーはフランスの仲間を高く評価し、マティス──色彩。ピカソ──形態。偉大なる目標への偉大なふたつの道しるべと書き記している。」

    —『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著


    「 このような理論にもとづいて、カンディンスキーは、絵画を成立させる霊感源となるものとして、具体的に次の三つの源泉を指摘している。 (1)外部の自然の直接の印象。(これをカンディンスキーは「印象」と名づける) (2)内的性格、非物質的(すなわち精神的)性質を持った大部分無意識的な、偶発的表現。(これを彼は「即興」と呼ぶ) (3)繰り返し、ほとんど学問的に仕上げられ、時間をかけて形づくられた内的感情の表現。(これを彼は「コンポジショ

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    2026年08月05日
  • 芸術空間の系譜

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    古代から現代に至るまでの西洋美術における空間意識=文化を、この密度・満足度・精度で語れるのは尋常じゃないと思う
    書き方があまりにも上手い。私みたいな芸術にそこまで明るくない人間でも知っているような作品・建築が出てきたり、前の章に出てきた議論が別の章で比較対象として出てきたりと、読んでて知的な興奮を刺激することにつけては極上だと思う

    ラスコーに描かれた洞窟壁画に見て取れる古代人の空間意識からギリシア・ローマの空間認識、ゴシック、ルネッサンスと時代順かと思うと、バロックから印象派までの数百年をスキップするという大胆な構成で、著者の領野でもある世紀末に至り、私たちにとって違和感を覚える空間認識のキュビスム・抽象画に終わる

    ホントに全章面白い
    ただ私としては、まだ現代寄りの美術は勉強できていないため、前半部分の方がより面白かった

    「ルネッサンス以来の西欧絵画の最も重要な主題は画家に見られた外の世界ではなく、画面には実際に登場してはこない画家自身であった」とあるように、ルネサンス以後は絵画が、それ以前は彫刻・建築において制作者ひいては彼が属する文化の空間認識が顕著に現れているということがよく分かった
    芸術「空間」という表現から想像する彫刻・建築もたっぷり触れられており(むしろ絵画よりも多いかも)、それについての関心も得られた。特に、絵画があまり残っていないギリシア・ローマについての記述はまさに目が鱗で、テンションが上がりっぱなしだった

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    2026年05月22日

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