あらすじ
本書は,西洋美術鑑賞の懇切な手引きとして好評の『名画を見る眼』のカラー版である.モネに始まる近代の名画14点,そして同時に鑑賞したい絵画を多数収載.題材や技術だけでなく歴史的・思想的背景,くわえて画家の個性が感じられるエピソードを交えながら解説した.刊行より半世紀を超え,著者監修の決定版をお届けする.
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1364円
262P
★再読
確かにピカソって色彩に全く執着を感じない。今ピカソ作品20作ぐらい模写したけど、ただひたすら造形の探究をしてる人って感じがする。
フィレンツェとピカソが造形、ヴェネツィアとマティスが色彩を探究してるけど、私は建築に対する興味は構造的な部分が強かったから圧倒的に、フィレンツェとピカソ派なんだよね。人の感覚はそれぞれだけど。
ルソーの絵は美術史の系譜の中で宇宙から来た絵って面白い
ゴッホを否定するならゴッホの絵は知性を感じられないんだよね。凄く馬鹿そうなのが絵に出てて苦手。
Ⅰ モネ「パラソルをさす女」──光への渇望
Ⅱ ルノワール「ピアノの前の少女たち」──色彩のハーモニー
Ⅲ セザンヌ「温室のなかのセザンヌ夫人」──造形のドラマ
Ⅳ ファン・ゴッホ「アルルの寝室」──不気味な内面世界
Ⅴ ゴーギャン「イア・オラナ・マリア」──異国的幻想
Ⅵ スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」──静謐な詩情
Ⅶ ロートレック「ムーラン・ルージュのポスター」──世紀末の哀愁
Ⅷ ルソー「眠るジプシー女」──素朴派の夢
Ⅸ ムンク「叫び」──不安と恐れ
Ⅹ マティス「大きな赤い室内」──単純化された色面
Ⅺ ピカソ「アヴィニョンの娘たち」──キュビスムの誕生
Ⅻ シャガール「私と村」──回想の芸術 カンディンスキー「印象・第四番」──抽象絵画への道 モンドリアン「ブロードウェイ・ブギウギ」──大都会の造形詩あとがき『カラー版名画を見る眼 Ⅱ』
この印象派に対する批判分かる。確かに印象派は頭使ってない感がある。印象派って知性を感じられないよね。
中野京子さん高階秀爾さんのファンだったからか、話の持って行き方がなんとなく似てる気がする。アーティストをオムニバス的に紹介していく感じというか。一人の画家を徹底的に掘るというか、複数の画家とか作品を横断しながら、美術全体の見取り図を作っていくタイプの書き方だよね。
高階 秀爾
(たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 2024年10月17日)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位。東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。1932年、東京で生まれた。父は哲学者・高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った[1]。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹、平川祐弘、石井進、平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1944年9月から1946年9月まで、父親の出身地である秋田県(大曲町)に疎開し、旧制角館中学で学んだ。1948年、四修で旧制第一高等学校に入学。1年修了で翌年新制東京大学に入学。在学中に矢代幸雄の『世界に於ける日本美術の位置』を読み、西洋美術史研究を志す。1953年、東京大学教養学部教養学科を卒業。東京大学大学院に進み、在学中の1954年から1959年まで、フランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学付属美術研究所およびルーブル学院で西洋近代美術史を専攻し、展覧会の運営など美術行政についても学んだ。帰国後、国立西洋美術館主任研究官に就いた。美術館勤務の一方で評論活動も開始し、1967年には遠山一行、江藤淳と雑誌『季刊藝術』を創刊。編集長は古山高麗雄で1979年まで計50号発行した。学界では、1968年に発足した日本文化会議に参画(1994年に解散)。1971年、東京大学文学部美術史科助教授に就いた。1979年に同教授昇格。1992年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。同1992年4月、国立西洋美術館館長に就任。2000年まで務めた。1997年、パリ第一大学より名誉教授を授与された。2002年4月~2023年6月、大原美術館館長[2]。2004年、京都造形芸術大学大学院長となり、同比較藝術学研究センター所長も兼ねた。2008年、京都造形芸術大学を退職。2015年、日本芸術院会員に選出された。2020年10月~2023年9月まで日本芸術院長を務めた[3]。2024年4月に発足された大原芸術研究所の所長に就任[4][5][6]。運営財団の理事も兼務していた[7]。2024年10月17日、心不全のため、死去[8]。92歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]。西洋美術館研究官、東京大学の美術史教授として、1963年の『世紀末芸術』を始め数多くの著作があり、啓蒙的役割を果した。ルネサンス期以降の西洋美術を専門としながら、日本近代美術にも造詣が深くその方面の著作、画集編集もある。
同じ東京大学比較文学教授を務め、京都造形芸術大学名誉学長である芳賀徹とは小学校時代からの友人。『名画を見る眼』正・続(岩波新書)は、半世紀重版され計・82万部出された(新版の紹介より)。
家族・親族
父:高階順治は哲学者。
母:佐々木信。
祖父(母方):佐々木秀一。
妻:舞台女優・エッセイストの高階菖子(しょうこ)
娘:京都大学人文科学研究所教授で美術史学者の高階絵里加。
「 クロード・モネ(一八四〇─一九二六)は、パリの下町の食料品店の息子として生まれた。しかし、彼が五歳の時、一家がノルマンディ地方の港町ル・アーヴルに移ったので、モネの少年時代は、主として英仏海峡に面した海辺の町で過ごされた。遠く拡がる空と水の世界に対する彼の鋭敏な感受性は、この時代に養われたと言ってよい。 このル・アーヴルの町で、少年モネは、ボードレールを驚嘆させた海景画家ウジェーヌ・ブーダンと知るようになった。モネが画家を志すようになったのは、もっぱらブーダンの導きによるものである。十八歳の時、父親の反対を押し切ってパリに出たモネは、それ以後、ほとんど独力で自己の道を切り開いていかねばならなかった。パリの画塾で知り合ったルノワールやピサロなどと「印象派」のグループを結成し、近代絵画の歴史を大きく変えるのに貢献しながら、彼はあくまでも自己の固有のヴィジョンをカンヴァスの上に展開していったのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「 たしかに、印象主義の体験は、ルノワールにとって大きな意味を持っていた。「ピアノの前の少女たち」に見られたような補色の効果の利用や、形態の輪廓線にとらわれない自在なタッチは、印象派時代に体得したものである。しかし、一八七〇年代の代表作である「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や、同じ年の「ぶらんこ」(オルセー美術館所蔵)に見られるように、明るい太陽に照らし出された戸外の風景という印象派特有の主題を取り上げる時にも、ルノワールはもっぱらそこに人物を配置することを好んだ。印象派時代には、モネやシスレーにならって、人物のまったくいない風景画ももちろん描いているが、艶やかな肌の下に暖かい生命の流れの脈打っている女性美をこよなく愛したルノワールは、彼自身、後に告白しているように、本質的に人物画家であった。そしてそこに、遅かれ早かれ彼が印象主義と訣別しなければならない根本的な理由があったのである。 晩年になってから、ルノワールは、友人の画商ヴォラールに向かって、一八八三年頃、私の仕事にひとつの断絶が訪れた。印象主義をとことんまで追いつめていった結果、自分はもう絵を描くこともデッサンすることもできないのではないかという結論に達した。つまりひと口に言えば、私は袋小路にはいってしまったのだ……と語っている。印象派の仲間たちのなかでも最も多作家であり、ただ絵を描くためだけに生まれてきたようなルノワールが「絵を描くこともデッサンすることもできないのではないか」と思ったというのは、よくよくのことである。この頃、ルノワールは、彼の長い生涯のなかで唯一の芸術上の危機を迎えたのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「ルノワールが四歳の時、一家はパリに移ったが、生活は依然貧しかったので、ルノワールは、十三歳の時から、陶磁器の絵付職人として働くようになった。晩年、功成り名遂げてから、彼はふたたび焼物の世界を楽しむようになるが、おそらくその時には、苦しかった少年の頃を懐かしく思い出していたに違いない。 彼の勤めていた陶器工場が、機械による大量生産商品の登場によって潰れると、ルノワールは、扇子の絵付けや、窓のブラインドのペンキ塗りのような仕事までしなければならなかったという。 画家としてのルノワールの修業は、一八六二年、二十一歳の時にパリ国立美術学校のグレールのアトリエに学ぶようになった時から始まる。このグレールの許での二年間の勉強は、直接には彼の様式に何の成果ももたらさなかったが、そこでモネ、シスレー、バジールなど後の印象派の仲間たちと知り合ったことは、大きな収穫であった。このグレールのアトリエの仲間たちが印象派運動のひとつの中心になるのは、広く知られている通りである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「一八七〇年代、印象派の技法に深く浸されていた時代のルノワールは、清潔な明るい色彩で数多くの名品を残したが、一八八〇年代にはいって印象主義に疑問を抱くようになり、やがて後半生の独自な豊麗な様式に移っていく。この様式の転換には、一八八一年から八二年にかけてアルジェリア、イタリアを旅行し、地中海の明るい太陽とルネサンス期の古典作品に触れたことが、大きな役割を果たしたに相違ない。そして晩年には、パリよりも地中海の明るく暖かい風土を愛してしばしば南フランスを訪れたが、一九〇三年以降、青い海を見下ろすカーニュに住むようになり、一九一九年、最後まで制作を続けながら世を去った。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「だが、ということは、セザンヌの作品が、時に誤ってそう言われるように、もっぱら色と形の構成だということではない。彼は友人のジョアシャン・ガスケに宛てて、モデルを読み取ることと、それを実現することは、大変に時間のかかる仕事だ。という意味のことを書き送っている。つまり彼はモデルの持っているすべての本質をまず「読み取」って、しかる後にそれを画面に「実現する」という二段階の操作を経て、肖像画を作り上げるのである。だが、もしそうだとしたら、逸話的なポーズや、心理的表現や、社会的道具立てにおよそ関心のなかったセザンヌは、モデルからいったい何を「読み取」ろうとしたのだろうか。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「オルタンスがセザンヌと知り合ったのは、おそらく一八六九年のことである。一八五〇年生まれの彼女は、当時ようやく十九歳で、それに対し、セザンヌの方はすでに三十歳に達していた。一説には、その頃彼女は、家計を助けるためにモデルをしており、それでセザンヌを知るようになったと言われているが、はたしてその通りであったかどうか確証はない。むしろそれは、およそ非社交的で、特に異性に対しては並はずれて臆病であったセザンヌが若い女性と知り合うとすればほかの事情は考えられないというところから生まれた伝説のように思われる。 しかし、いずれにしても二人は相知るようになり、そして結ばれた。三年後には二人のあいだに息子が生まれ、セザンヌと同じくポールと名づけられた。セザンヌは、この息子をちゃんと自分の籍に入れているが、その母親の方はずっと後まで、正式に入籍はしなかった。オルタンスが正式にセザンヌ夫人になるのは、一八八六年四月、つまり二人が知り合ってから実に十七年後のことである。その時、息子はすでに十四歳になっていた。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「二人の結婚がそんなにも遅れたのは、何よりもセザンヌが、オルタンスのことを自分の家族に、特に父親にひた隠しに隠していたからである。その頃までのセザンヌの生活は、両親のいる南フランスのエクス゠アン゠プロヴァンスとパリとの間を行ったり来たりするものであったが、両親の許へ帰る時は、オルタンスと息子をマルセイユまで連れてきてひそかにそこに住まわせ、父親の眼を盗んで時々会いにいくという有様であった。ある時などは、マルセイユから帰る時つい汽車に乗り遅れてしまい、夕食の時間に遅れて父親に怒られてはならないと、三〇キロ近い道を大急ぎで歩いて帰ってきたという話まで伝えられている。 セザンヌがそれほどまで父親に気を使っていたのは、彼の生活が完全に父親に依存していたからである。絵画の歴史を大きく変えてしまったこの稀有の天才も、こと生活に関してはまったくの無能者であった。もちろん作品は一点も売れなかったし、絵を描くこと以外、彼には何の才覚もなかった。したがって、彼(およびオルタンスと息子)にとっては、毎月父親から渡される二〇〇フランが、唯一の生活の支えであった。そして、息子が自分の跡を継がずに画家になったことに対してさえ強い不満を持っていた専制的な父親のことであるから、息子が勝手に結婚したなどということを知ったら、生活費の支給すら打ち切ってしまうのではないかとセザンヌは虞れていたのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「 セザンヌの作品の主要なテーマは、ごく初期のロマン派風の物語的主題を別にすれば、ほとんど風景、静物、肖像の三つに尽きると言ってよい。そのうち、風景と静物は、彼の身のまわりに、いつでもあった。だが人物は、かならずしもそうではなかった。セザンヌが描きたい時に、いつも肖像のモデルがいるというわけではなかった。それは、彼の芸術がおよそつまらないものと思われていたから誰も彼に肖像を描いてもらいたいなどと考えなかったばかりではなく、彼のモデルとなることは、大変な苦労を伴うことだったからである。 セザンヌの作品の最初の理解者のひとりである画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、その苦労を、おそらくはいささか誇張をまじえながらではあろうが、生き生きとした筆致で語っている。モデルとなるヴォラールがポーズするために、セザンヌが特に用意したのは、細い四本の支柱の上に木箱を載せ、その上にさらに椅子を置いたはなはだ不安定なものであった。その椅子に座ったまま、ヴォラールは絶対に動いてはいけないと命じられた。ところが、じっと座っているうちにいつしか眠くなり、思わずこっくりした途端、彼は椅子もろとも床の上に落っこちてしまった。それを見たセザンヌは、大声で怒鳴った。 「何てことだ! 君はポーズを滅茶滅茶にしてしまった。だから言ったじゃないか。林檎のようにじっとしていなければいけないって。いったい林檎が動くかね」。 そこで次の日からは、ヴォラールはセザンヌのアトリエに出かける前に、濃いコーヒーをたっぷり飲んでいくことにした。「林檎のようにじっとして」いる苦行は、毎日朝の八時から十一時半まで、三時間半も続いた。ヴォラールがその苦行を百十五回も繰り返したところで、セザンヌはエクスに帰らなければならなくなって、作品は中断された。その時セザンヌは、「シャツの前のところだけはどうにか出来た」と語ったという。もしエクスに帰るという事態が起こらなければ、制作はあとどのくらい続いたかわからない。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「このような苦労をしてまで、無名の画家のモデルになろうという奇特な人はそういない。セザンヌが繰り返し自分自身の肖像を描いたのは、理由のないことではない。だが、その自画像よりも数の上でもっと多いのが、オルタンスの肖像である。セザンヌの友人たちが言うように、彼女は夫の芸術をおよそ理解しなかったかもしれないが、少なくともモデルになるということがどういうことであるかは理解していたに違いない。そしてその点だけについても、われわれは、セザンヌとともに彼女に感謝しなければならないのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「すでに引いた彼のガスケへの手紙の一節からも明らかな通り、彼はまずモデルを「見て」いた。彼は自分の眼を通して、眼の前の対象のすべてを「読み取ろう」としていた。しかし彼が「温室のなかのセザンヌ夫人」の姿に見ていたものは、モネが見たような、すべてが魅惑的な光の波に覆われる世界でもなければ、ルノワールが見ていたあの熟れた果実のように暖かくみずみずしい肌の魅力でもなかった。彼が求めたものは、眼の前の対象を形づくる本質的な構造であった。すべてが一様な光の波に還元されてしまう印象派の世界のなかから、セザンヌは、対象を周囲の世界から区別する基本的な形態を求めた。そして、そのような確固とした形態を求めるということは、もはや単に視神経だけの問題ではない。それは後にブラックが、「眼は形態を歪め、精神は形態を作る」という簡潔な言葉で表現したように、自然のなかにひとつの秩序をうち立てようという精神の働きである。セザンヌが友人のモネについて、彼はひとつの眼に過ぎない、だが何と素晴らしい眼だろう。と語ったという話は有名であるが、この一句にはモネの精緻な感覚に対する賛嘆と同時に、ひそかな批判をも読み取ることができる。形態を把握するものは、単なる「眼」ではなく、究極的には幾何学の世界と相通ずる知的な精神の作用である。セザンヌが若い友人のベルナールに向かって「自然を円錐と、円筒と、球体で捉えること」と教えたのも、実はその意味にほかならない。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「*セザンヌは「自然を円錐と、円筒と、球体で捉える」という有名な一節にすぐ続けて、「自然はわれわれ人間にとっては、表面であるよりも奥行きとして存在している。それ故、赤や黄色によって表現される光の震えのなかに、空気の印象を与えるため充分な青を導入しなければならない」と述べている。セザンヌの画面で青が強調されるのはそのためである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「この手紙にも語られているように、「アルルの寝室」を描いた頃、ゴッホはゴーギャンのやってくるのを待ち望んでいた。もともとその年の春早く、南フランスの明るい太陽に憧れてアルルにやってきた時、ゴッホはひとつの遠大な計画を抱いていた。いや、計画というよりもむしろ夢と言った方がよいかもしれない。それは、アルルの町にパリの友人の画家たちを呼び集めて、共同生活をしながらいっしょに芸術制作に励むという企てである。ゴッホはこの夢のような計画を本気になって考え、アルルに着くと、そのためのアトリエを探し、それを「南仏のアトリエ」と名づけて、パリにいる友人たちに、この共同生活に参加するよう、勧誘の手紙を書き送った。しかし、ゴッホの熱心なすすめにもかかわらず、彼の呼びかけに答えてわざわざアルルまでやって来ることになったのは、ゴーギャンただひとりであった。ゴーギャンは、ゴッホがパリにいた頃から深く尊敬していた友人であったばかりでなく、もしそのゴーギャンまで来ないということになれば、「南仏のアトリエ」の夢は空しく潰れてしまうことになるので、ゴッホがいかにこの友人の来訪を待ち望んでいたか、容易に想像されるところであろう。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「それのみならず、さらに色彩についての考え方にも、ゴーギャンの影響が見られる、いやそれは、影響というよりも、むしろスーラやルドンなどまで含めて、印象派に飽き足らなかった当時の創造的芸術家たちの間に見られる共通の信念とも言うべきものであった。それは、色彩というのは、単に光に照らし出された外の世界をカンヴァスの上に再現するためだけのものではなく、それ自身ある精神的、心理的内容を表現するという考え方である。 事実、先に引いたゴーギャン宛の手紙のなかで、ゴッホははっきりと、多くの色によって「絶対的な休息を表現しようとし」たと述べていた。また、同じ頃、やはりこの作品について語った弟のテオ宛の手紙のなかでも、「ここで大切なのは色彩であり、色彩は単純化によってものにいっそう大きな様式を与えると同時に、ここでは、一般に休息、ないしは睡眠を暗示するものだ」と書いている。つまりゴッホは、色彩に単に外界の再現以上の役割を求めていたのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「 ゴッホがきわめて激しやすく、興奮しやすい性格の持ち主であったことは広く知られている。それと同時に、彼はひとつのことを思いつめると、病的なまでそれに熱中するところがあった。「南仏のアトリエ」は、まさにそのような彼の「夢」であった。その「夢」がもう間もなく実現しようという時、彼は不安と期待に満ちた昂揚した心理状態にあったはずである。当時書かれた彼の手紙は、よくその興奮した心理を伝えてくれる。そして、「アルルの寝室」も、やはり同じようにはっきりと彼の当時の不安定な、昂揚した精神を反映しているのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「ゴーギャンは、印象派が「眼の周囲ばかりに気を使っていて、少しも頭を使おうとしない」のを不満に思っていた。彼にとっては、絵画とは単に外の世界を忠実に写し出せばそれですむものではなく、さらにそこに想像力や知性の働きがなければならないものであった。印象派はあまりにも「感覚」に頼り過ぎているので、彼はそこに「精神」の権威を復活しようとしたのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「 とすれば、すべてをタッチに──そしてやがては点に──分解しようとする印象派の「分割主義」に対し、形態をひとつの大きな塊として把握しようとするゴーギャンのこの手法が「綜合主義」と呼ばれたとしても、少しも驚くにはあたらないであろう。印象派の画家たちにとって「分割」が合言葉であったように、ゴーギャンおよびその仲間の画家たちにとっては、「綜合」が合言葉であった。そして事実、一八八九年、パリで万国博覧会の開かれた年、ゴーギャンが中心となってカフェ・ヴォルピーニで開かれたあの記念すべき展覧会は、「印象主義ならびに綜合主義の展覧会」と名乗ったのであった。 もちろん、この作品に見られるようなはっきりした輪廓線は自然のなかには存在しないという意味で、「綜合」もひとつの虚構に過ぎない。それは現実の対象を写し出すものではなくて、現実の対象についての抽象化されたイメージを与えてくれるものである。そう言えば、印象派の「色彩分割」にしてもひとつの虚構であった。ただモネは、その虚構によって現実のありのままの姿を捉え得ると信じていた。それに対し、ゴーギャンは、「綜合」が現実世界を離れて抽象化の方向に向かうものであることを知っていた。それを知っていながら──いや、それを知っていたからこそなお──ゴーギャンは、自己の画面に、自然とは別の、新しい知的秩序を与えようとしたのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「しかし、タヒチ島がゴーギャンの作品に及ぼした第三の、そして何よりも重要な影響は、新しい人間像の発見であろう。一八八〇年代の後半においてすでに、彼は、白いヴェールで頭を覆ったブルターニュ地方特有の民族衣裳に惹かれ、「説教の後の幻影」などに見られるように「綜合主義」の実践にあたってそのモティーフをフルに利用している。しかし、ブルターニュにおいては、民族的なものは、もっぱらそのモティーフとしての価値の故に取り上げられた。タヒチでは、ゴーギャンは新しい人間を見出したのである。 もちろん、眼鼻だちの大きい、褐色の肌に輝くたくましい体つきのマオリの男女は、「綜合主義」のモティーフとしても適切なものであったろう。しかし同時に、異教の神像を思わせるその不気味なほど強烈な相貌は、彼の画面に新しい心理的次元をもつけ加えるものであった。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「モネやシスレーのような印象派の画家たちが、何よりも現場での直接の「印象」を重んじて、戸外にカンヴァスを立てて制作したのに対し、スーラは、毎日のようにスケッチに出かけながら、その油絵作品はアトリエで丹念に仕上げていった。午前中に実際に現場で写し取ってきたスケッチをもとに、午後には彼は、独りアトリエにこもって、それらの材料を最終的にどのような構図にまとめ上げるか、徹底的に追求するのである。 最初の大作「アニエールの水浴」には、このようにして構図の研究のために描かれた油絵の習作が十四点残されている。この「グランド・ジャット島」の場合は、さらに多く、個々の部分のための習作や全体の構図の研究などを合わせて、三十点以上の油絵習作が伝えられている。もちろん、いずれの場合でも、その他に白黒のデッサンは、さらに多く作られた。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「事実、スーラは、この静謐な風景のなかに、彼自身実際に観察して得たさまざまな人物モティーフをはめこんでいく。優れた詩人の魂の持ち主でありながら、スーラは人物でも風景でも、自分の想像力のみによって形態を生み出すことをせず、かならず実際に見た光景や、現実のモデルを写し出した姿を利用した。ただ、それらの人物や光景は、現実の世界からスーラの画面に移される時、現実の不純物をすっかり失って、清潔な造形要素に変貌しているのである。 例えば、画面左端で立ったまま釣りをしている女性は、最初は、ごく当たり前の釣りする男のスケッチとして描かれた。それは、スーラ自身が、ある日グランド・ジャット島で実際に見た男の姿に違いない。それは、やや斜め後ろの方から見た自然なポーズで、どちらかと言えばスナップ写真に近いものである。しかし最終作品では、その斜め後ろから見た男は、まるで古代の彫像のように厳しい輪廓線を持った女性の横向きの姿に変えられてしまった。それはもちろん、画面右手を大きく占めるパラソルをさした婦人の横向きの姿と相呼応するリズムを作り出すためであろう。事実二人の横向きの姿は、腰のところを大きくふくらました当時流行の衣裳をつけて、まるで主旋律とその変奏のように、画面に造形的なリズムを与えているのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「構図と同様に、色彩表現においても、スーラはきわめて合理的であり、理知的であった。彼は、ある日たまたま町を歩いていた時、画商の店にドラクロワの「タンジールの狂信者たち」が並べられているのを見て、その色彩の使い方、特に赤と緑、オレンジと青などの補色の効果を丹念にメモに書き残した。また、シュヴルールやルードなどの光学理論にも強く惹かれ、まるで科学者のように冷静にその理論を実際に適用しようと試みた。なかでも、ドラクロワや印象派に大きな影響を与えたシュヴルールは、ちょうどこの「グランド・ジャット島」が描かれていた頃は、すでに九十八歳という高齢であったが、スーラはシニャックとともにわざわざその研究室を訪れて、いろいろ教えを受けている。そのような研究を重ねた結果、彼は物体の持つ「色」を、次の五つの種類に分析した。 (1)白色光線のなかで物体の示す色、すなわち物体固有色 (2)物体の上に落ちる光の色、すなわちもし太陽の光に照らされているのなら暖かい黄色 (3)物体にあたる光がその物体固有色によって変化させられて生じた色 (4)近くにある他の物体の色から反射してくる光の色 (5)隣接する他の物体との影響関係によって感じ取られる色。例えば、青い空を背景とする物体は、青の補色であるオレンジ色を帯びる」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「しかしながら、今日のわれわれの眼から見る時、「グランド・ジャット島」は、その幾何学的な構図や色彩理論の故ではなく、そこにこめられた詩情の故に、われわれを感動させる。余計な細部を切り棄て、対象を単純な幾何学的形態に還元して、知的な造形表現を求めた画家としては、例えばスーラ以前ではルネサンス期にピエロ・デラ・フランチェスカがいたし、スーラと同時代にはセザンヌが、スーラ以後にはキュビスムの画家たちがいた。わずか三十一年の短い生涯しか生きなかったスーラは、一度もイタリアに行ったことはなかったが、ちょうど彼が美術学校に学ぶ直前、一八七四年に、アレッツォのピエロ・デラ・フランチェスカの有名な壁画「聖十字架の伝説」の模写がパリの国立美術学校に収められ、研究熱心なスーラはおそらくそれから多くのことを学び取ったに違いないと思われる。またセザンヌとは言うまでもなく同じ時代の空気を吸っていたし、そのセザンヌとスーラは、キュビスムの誕生に大きな影響を与えている。したがって、スーラの仕事を歴史の流れのなかに位置づけることは、それなりに可能である。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「ジョルジュ・ピエール・スーラ(一八五九─九一)は、パリの比較的富裕な家に生まれた。父親は退職した官吏で、田園生活を好み、もっぱら田舎で暮らしていたので、スーラは主として母親の手で育てられた。一八七五年、十六歳の時、パリ市立デッサン学校に入り、そこで三年ほど学んでから、国立美術学校でアンリ・レーマンの許に学んだ。レーマンはアングルの弟子であったので、その教え方も、アングル風の様式によるものであったらしい。少なくとも現在残っているスーラの学校時代のデッサンなどを見ると、厳しい古典主義的な画風で、彼自身アングル的なものに憧れていたことをよく物語っている。 このような伝統的なアカデミズムの画風から、スーラが独自な様式を確立するためには、一八八〇年頃からほぼ二年間にわたる熱心なデッサン修業の時期が必要であった。この時期に、スーラは、アングル風の硬い描線を棄てて、明暗の調子によって対象の実在感を確実に捉える技術を身につけた。そして、その後ではじめて大画面と取り組んだのが「アニエールの水浴」であり、その次に描かれたのがこの「グランド・ジャット島」である。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「しかし、いかにデッサンがそのまま再現されるといっても、やはり版画として種々の制約があることは言うまでもない。例えば、色数は版を刷り重ねることによって増やすことができるが、しかしひとつひとつの色は一様な平坦な色面で、微妙な調子の変化などは望むべくもない。また油絵に見られるような重みのあるタッチの質感も再現できない。したがって、デッサンのアラベスクなどは容易に再現できるが、色彩に関して言えば、微妙なニュアンスの差異や濃淡の調子よりも、平坦な色面の並列によって効果をあげる方が石版画の特質にかなっているのである。 「ムーラン・ルージュ」のポスターの注文を受ける以前に、ロートレックはすでにいくつか石版画を試みている。彼の最初の石版の試みは、一八八六年頃と思われるが、しかしそれらは、多くは新聞の挿絵などに使われたもので、おそらく直接彼が原版の制作にあたったものではない。したがって、このポスターは、版画家としてのロートレックの最初の重要な作品と言ってよいものである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「ロートレックが優れたデッサン家であったことは広く知られている。彼は「ムーラン・ルージュ」のテーブルに座ってアルコールに陶酔している時でも、鉛筆を持つ手だけは休めず、手あたり次第に眼に映る観客や踊り子の姿を紙の上に写し出していたという。今日残っている彼の多くのデッサンは、この言い伝えが単なる伝説ではなくて実際にそうだったことを証明している。特に彼は、時に誇張とも思われるようなどぎつい表現で、モデルの人物の個性的特徴を的確に捉える腕前に長じていた。石版画のように陰影や濃淡が自由に使えないとなると、その対象表現は、何よりも正確な輪廓線を見つけることにかかってくる。このポスターの前景に大きく立ちはだかる「骨なしヴァランタン」の姿が、彼を実際に一度も見たことのないわれわれにまでいかにもその人物を髣髴させるように生き生きと描かれているのは、もっぱらその鋭いデッサンの故である。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「絵画の歴史には、時に奇蹟としか言いようのない不思議が起こることがある。様式の発展とか、時代の動きなどというものとはまったく無関係に、思いがけない傑作が、まるで別の星の世界から突然やってきたかのように、われわれの眼の前に出現する場合がある。一八九七年のパリのサロン・デザンデパンダン(アンデパンダン展)に並べられたルソーの「眠るジプシー女」の場合がそれであった。 もちろん、現在の時点から振り返ってみて、ルソーを「歴史的」に当時の流れのなかに位置づけることはできないことではない。歴史家は、ルソーに「素朴派」という分類を与え、さらにこの「眠るジプシー女」におそらく直接ヒントを与えたと思われる先例すら探し出してきた。しかし、この絵の前に立つと、そのような種類の説明は、まったく無力に思われてくる。われわれはただ、夢とも現実ともつかぬ妖しい世界に引きこまれて、平素の日常的感覚はすっかり沈黙させられてしまう。優れた芸術作品というものは、多かれ少なかれそのような効果を見る者に与えるものだが、しかしそれにしても、この絵から受ける印象は、あまりに現実離れをしていて、しかも異様なまでになまなましい。この絵の前に佇んでその魔力に浸った後では、周囲の現実世界の方がかえって空々しいものにさえ思われてくるほどなのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「しかしその「夢」は、彼にとっては日常の現実以上になまなましい現実性を持った夢であった。この「ヤドヴィガの夢」について、ある批評家がルソーに、なぜジャングルの真ん中にこんな立派な長椅子が置いてあるのかと尋ねたところ、ルソーは早速その批評家に手紙を送って、「それはこの女が長椅子の上で眠っていて、密林に運ばれた夢を見ているところだから」と答えた。つまり、画面いっぱいに丹念に描き出された花や、動物や、笛を吹く女など、皆この少女ヤドヴィガの夢の中のイメージだというのである。 ジャン・コクトーは、上に引いた文章の中で、ライオンや河はジプシー女の夢に出てくるものだと書いた時、もしかしたらこのエピソードを思い出していたのかもしれない。あるいは、この話は知らずに、詩人の鋭い直観でルソーの作品の本質を言いあてたのだろうか。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「しかしその「夢」は、彼にとっては日常の現実以上になまなましい現実性を持った夢であった。この「ヤドヴィガの夢」について、ある批評家がルソーに、なぜジャングルの真ん中にこんな立派な長椅子が置いてあるのかと尋ねたところ、ルソーは早速その批評家に手紙を送って、「それはこの女が長椅子の上で眠っていて、密林に運ばれた夢を見ているところだから」と答えた。つまり、画面いっぱいに丹念に描き出された花や、動物や、笛を吹く女など、皆この少女ヤドヴィガの夢の中のイメージだというのである。 ジャン・コクトーは、上に引いた文章の中で、ライオンや河はジプシー女の夢に出てくるものだと書いた時、もしかしたらこのエピソードを思い出していたのかもしれない。あるいは、この話は知らずに、詩人の鋭い直観でルソーの作品の本質を言いあてたのだろうか。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「もともと、西欧においては、自然が独立した存在として絵画の対象となったのは、そう古いことではない。早くから自然の美しさに気づいて、風景画を発達させてきた東洋の場合と違って、ヨーロッパにおいてはっきり「風景画」というジャンルが成立するのは、やっと十七世紀になってからのことである。 もちろん、それ以前に、自然の姿を写し出した絵画作品がまったくないというのではない。花や、木や、山は、中世の美術においても、あるいは物語の背景として、あるいは宗教的象徴として、あるいは単に装飾的モティーフとして、しばしば登場してくる。そして、ルネサンス期になると、自然はいっそう現実に近いかたちで、画面を豊かに飾り立てるようになる。ボッティチェルリの「春」の画面に咲き乱れる多彩な花々や、ヴェネツィア派の宗教画や寓意画の背後に拡がる野山は、たしかにルネサンス時代の人びとが自然の持つ美しさに気づいていたことを物語っている。しかしながら、それらはいずれも、ある物語的内容、または宗教的内容を持った中心テーマの背景として考えられているに過ぎず、それ自身が独立した絵画の主題となることはなかった。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「それは、強いて言うなら、ムンク自身の心のなかにあった不安としか言いようがない。一八九〇年代のムンクの作品を見ると、そこに一貫して、同じような説明し難い不安感が流れていることに気がつく。星の明るい夜、閉ざされた家のなかで男女のひそかな出会いの行なわれている場面を外から描き出した抒情的な「星月夜」(一八九三年頃)ですら、青く拡がる空と海を背景として、その前に巨大な細胞のように黒く不規則な形を示す岬や丘は、何か不吉なものを感じさせる。あるいは、一八九〇年代の末に描かれた、あの月の夜の海岸で踊る若い男女の群れを描き出した「生命のダンス」を思い出していただいてもよい。「生命のダンス」とは言いながら、そこに展開されているのは、まるで葬式の夜のように陰鬱でもの淋しい世界である。事実、その画面で、不吉な黒い衣裳を身にまとって両手を組んだまま踊ろうともせずじっと立つ女の姿は、数年前に作られた石版画「臨終の床で」に登場する女と、服装も、ポーズも、そっくりそのままなのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「精神的には写実主義者クールベの嫡子である印象派の画家たちにとって、自然は、捉え難い時々刻々の変化を見せるものではあっても、不安を感じさせるものではなかった。彼らは、自然をあくまでも外側から眺め、その正確な相貌をカンヴァスの上に再現しようとした。そこでは人間は、モネについてセザンヌがいみじくも喝破したように、「ひとつの眼」に還元される。しかしながら、印象派のすぐ後に続いて登場した世代は、ゴッホや、ゴーギャンや、ルドンなどの例に明らかに見られるように、眼には見えない別の世界を求めた。一八八〇年代の後半から九〇年代にかけて、ヨーロッパの絵画は、眼に見える外の世界を写し出すことから、眼に見えない心の内部を表現することへと、大きく変わっていったのである。 フランスにおけるアール・ヌーヴォー、ドイツ、オーストリアにおけるユーゲントシュティル、イギリスにおけるモダン・スタイルなど、いわゆる「世紀末芸術」の名で呼ばれる一連の芸術運動は、その背後にさまざまの原因や衝動を持っているが、絵画の歴史の上から見てみれば、外の自然を再現することから、人間の心の内部の神秘を表現するものへと移り変わっていったその転回点を示すものと言ってよい。ムンク自身、後に芸術についての自己の考えを、次のような言葉で述べている。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「 今日のわれわれの眼から見れば、当時のマティスやヴラマンクの作品がそれほど「野獣的」であるとも思われない。それどころか、逆にきわめて洗練されているようにすら見える。しかしそのことは、とりもなおさず、フォーヴの画家たちの行なった色彩解放の革命が、いかにわれわれの感受性を変えてしまったかを物語るものである。事実フォーヴの画家たちは、画面を単純な二次元の平面に還元すると同時に、現実にはあり得ないような色彩を思い切って使用して、色の持つ表現力を百パーセント利用しようとした。もちろん、色彩の表現力は、フォーヴィスムの登場する以前から、いやもっとはっきり言えば、おそらくは絵画の発生と同時に、画家たちによって本能的に理解されていただろう。少なくとも、「赤と青とによって人間の恐ろしい情念を表現しよう」としたゴッホや、色彩にはそれ自体悲しみや喜びを表現する力のあることに気づいていたスーラは、フォーヴの画家たちよりもずっと前に、カンヴァスの上に華やかな色彩を繰り拡げていた。しかし、例えばゴッホの場合であれば、黄色がほしい時には、「ひまわり」とか「星月夜」のように、画面に黄色を使うことのできるテーマを選んで、それをいわば口実として、自己の内面表現に必要な色彩を利用していた。またゴーギャンは、風景のなかに多少とも緑色がかった部分があれば、思い切って最も美しい緑を使うよう仲間の画家に忠告しているが、それも多少とも現実とのかかわりあいを必要としていたからだと言えよう。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「アンリ・マティス(一八六九─一九五四)は、フランスのノール県のカトーに殻物商の息子として生まれ、最初は法律家を志して、サン・カンタンの弁護士事務所に勤めた。彼が、法律を棄てて絵画の道に進むようになったのは、二十一歳の時、病気をして入院中に、グーピの『絵画論』を読んだのがきっかけだったと言われている。もしこのような偶然がなかったなら、われわれは、二十世紀最大の色彩画家をひとり失い、その代わり、多少とも有能な弁護士がフランスの地方に名を残したという結果になったかもしれない。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「若いピカソが、人生のはかなさを示すこのようなテーマに惹かれたことは少しも驚くにはあたらない。それはある意味で、「青の時代」以来一貫して彼の作品の底を流れる通奏低音でもあった。芸術の都パリを征服しようとしてスペインからやってきたピカソが、世紀の初頭のパリで繰り返し描き続けたのは、老衰、貧困、飢餓など、人生の悲惨な姿であり、明日の希望を知らない暗い世界であった。そこでは、例えばしっかりと抱き合う恋人たちや母と子ですら、あの濃い沈んだ青に彩られて、陰鬱な表情をたたえている。クリーヴランド美術館にあるやはり寓意的意図をもって描かれた名作「人生」(一九〇三年)においては、裸で抱き合う若い男女が、傍らに立つ子供を抱いた母親の方に、脅えたような視線を投げかけている。「アヴィニョンの娘たち」の意図は、少なくとも最初はその「人生」の系列に属するものであった。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「ピカソの多産な生涯のなかでも特に重要な位置を占めるこの二点の大作が、いずれも色彩にはそれほど強い執着を示していないということは、ピカソという彼自身怪物であるかのような天才の造形的資質について、ある程度の暗示を与えてくれる。すなわちピカソは、むろん時に色彩を思い切って大胆に使わないわけではないが、それ以上に形態と形態の変貌とにいっそうの関心を寄せる画家なのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「パブロ・ピカソ(一八八一─一九七三)は、スペインのアンダルシア地方マラガに生まれ、バルセロナで育った。父親は絵の先生で、一家がバルセロナに移ったのも、美術学校で教えるためであった。したがって、ピカソが早くから絵画に興味を持ったのも、少しも不思議ではない。バルセロナの美術学校の入学試験の時には、普通一か月かかって描く課題作をたった一日で仕上げ、しかも、先輩の誰よりも見事な出来栄えで、人びとを驚かせたという話が伝えられている。 一九〇〇年、ちょうど世紀の変わり目の年、十九歳のピカソは、当時の世界中の若い芸術家たちの憧れの土地であったパリに出た。この時は、数か月間滞在してすぐ戻ってきたが、しかしたまたまパリで催されていた万国博覧会を見ることができて、新しい世界に対する眼を開かされた。 その後彼は、何回かパリとバルセロナのあいだを往復するが、一九〇三年頃から、パリを本拠とすることに決め、モンマルトルの薄汚いアトリエで制作に熱中するようになった。「洗濯船」という綽名で知られるこのアトリエのあった建物は、ピカソのみならず、多くの芸術家たちが住みついた記念すべき場所で、今でもパリの名物になっている。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「ピカソ自身は、一九一七年、大戦を逃れてイタリアに渡り、そこで長い歴史を持つ過去の作品に触れて、大きく古典主義的表現に戻る。一九二〇年代のピカソの「新古典主義時代」と呼ばれる時期がそれである。この時代に、ピカソは、古代ローマやルネサンス期の画家たちの表現を、もちろんピカソ特有のやり方によってではあるが、学び、取り入れ、自己の武器とした。このようにしてさまざまな変転を辿って多くの表現手段を身につけたピカソは、その後半生において、誰も真似することのできないあの自由奔放なイメージの世界を展開していくこととなるのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「 当然、そこに描き出されるパリは、現実の観光案内のようなパリではない。赤や、青の華やかな主調色に彩られたパリは、シャガール自身の夢の世界にほかならない。そこでは、エッフェル塔やパンテオンと並んで、空を飛ぶ魚や、巨大な鶏、山羊、牛など、シャガールのお伽噺の国の動物たちもやはり登場してきている。かつて故郷のヴィテプスクの町の上を恋人のベラといっしょに飛んだように、彼は夢のパリを二度目の妻のヴァランティーヌと散策する。古代ギリシアの神話によれば、ミューズの女神は記憶の女神の娘たちであったというが、シャガールにおいても、詩は回想に養われた時、最も鮮やかな映像世界を生み出す。現実と夢とはひとつになって、ほかの誰のものでもないシャガール自身の魂の歌が高らかに歌い上げられるのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「マルク・シャガール(一八八七─一九八五)は、ロシアの貧しい村ヴィテプスクに生まれた。父親は百姓であると同時に職人であり、また農閑期には鰊市場で働く日雇い労働者でもあった。母親は、全然教育のない女であったが、深い信仰と優しい愛情に満ち、この世の神秘に対する素朴な驚きを息子に伝えた。 シャガール自身の回想によれば、「芸術とか芸術家などという言葉を発する者は誰ひとりとしていなかった」。このような田舎の貧しい家に育った彼が、なぜ絵画こそ自己の天職であると信ずるようになったのか、その動機はいまだに謎である。しかしいずれにしても、彼は早くから画家を志し、両親の反対を押し切って、最初はまずヴィテプスクの美術学校で、次いで当時ロシアにおける新しい芸術の中心と考えられていたペテルスブルクの官立美術学校に学んだ。しかし、型にはまった授業しか与えられないこの学校教育は、彼に深い失望を味わわせただけであった。むしろ、当時ペテルスブルクで活躍していたレオン・バクストを通して、フランスの新しい絵画に触れたことが、彼にとって決定的な影響を与えたのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「この「松明」の赤とオレンジをはじめ、背後の建物や人物の服装などに、赤、黄、緑、青などの派手な色彩が登場するが、それらの色彩は、画面全体の骨格を構成する太い輪廓線の黒の支配を受けて、やや抑えつけられたような重々しい音色を響かせる。それは、例えばブラームスのシンフォニーに感じられるような、暗い、内面的な抒情性の表現とも言えるだろうか。マティスの「大きな赤い室内」(第 Ⅹ章)に燃え上がる色彩が、南フランスの明るい太陽の恵みを受けた果物の肌を思わせるとすれば、カンディンスキーの赤は、ほとんど血の色の不気味さを持っているのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「その体験については、カンディンスキー自身が後に『思い出』のなかで、次のように語っている。ある日、物思いにふけりながらスケッチから帰ってきてアトリエの扉をあけた途端、私は突然そこに、何とも言われぬ不思議な美しさに光り輝く一枚の絵を見出した。私は吃驚して足を止め、その絵をじっと見つめた。それはまったく主題のない絵で、一見何だかわからない対象を描いており、全体が明るい色彩の斑点で出来上がっていた。だが、もっと近くに寄ってみて、ようやくそれが何であるかわかった。それは、画架の上に横倒しに立ててあった私自身の絵だったのである…… いったんそうとわかると、最初に感じたあの光り輝く「不思議な美しさ」はもう消えていた。翌日、カンディンスキーは、もう一度その「美しさ」を取り戻そうとしたが、無駄であった。その絵を横倒しにしてみても、逆さに置いてみても、まず描かれているものが眼について、色彩の輝きの持つ不思議な魅力は、もう二度と感じられなかった。前日に感じた「美しさ」は、何が描いてあるかわかるよりも前に、まず「色彩の斑点」が眼についたために、色彩そのものの輝きだけが純粋に彼の眼に訴えてきた結果にほかならなかったのである。 カンディンスキーは、この体験から、「自分の絵にとっては、客観性とか、何かある対象の描写ということは、不必要であるばかりか、むしろ邪魔になるものだ」ということに気づいた。言うまでもなくそれは、画面から対象を消し去ってしまう抽象絵画の出発点であった。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「実を言えば、あの「横倒しの絵」と同じような経験は、十年以上も前にカンディンスキーは一度味わったことがある。それは、一八九五年、彼がまだモスクワにいた頃のことであるが、たまたまフランスの印象派の画家たちの展覧会が開催され、カンディンスキーはそれを見に行った。その時、モネの「積藁」の絵を見て、最初は何を描いているのかまったくわからず、カタログと照らし合わせてみてはじめてそれが「積藁」の絵だということがわかった。このことは、若いカンディンスキーにとって、ひとつの大きなショックであった。しかし、その時は彼は、「絵画がこれほどまで自然を離れ、対象を捨ててしまうことがいったい許されるのだろうか」という疑問を感じ、モネのやり方に強い反発をおぼえたと告白している。 しかし、「積藁」の絵の前で感じた疑問にもかかわらず、その衝撃はカンディンスキーの心のなかで、おそらく彼自身も気がつかないうちに、だんだん大きなものに育っていったと言ってよいであろう。そしてそれが、あの「横倒しの絵」の体験と重ね合わせられた時、彼の内部にひとつのはっきりとした方向が定められたのである。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「それと同時に、伝統的な表現に対して思い切って反逆した多くの先輩や仲間たち、特にフランスのフォーヴィスムやキュビスムの画家たちの先例がカンディンスキーを刺戟したことも否定できない。対象を再現するためというよりも、色彩や形態そのものの表現力を自由に追求した点で、フランスの画家たちは彼には偉大な手本のように思われた。一九一〇年に執筆され、その二年後に刊行された『芸術における精神的なるもの』と題する理論書のなかで、カンディンスキーはフランスの仲間を高く評価し、マティス──色彩。ピカソ──形態。偉大なる目標への偉大なふたつの道しるべと書き記している。」
—『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで (岩波新書)』高階 秀爾著
「 このような理論にもとづいて、カンディンスキーは、絵画を成立させる霊感源となるものとして、具体的に次の三つの源泉を指摘している。 (1)外部の自然の直接の印象。(これをカンディンスキーは「印象」と名づける) (2)内的性格、非物質的(すなわち精神的)性質を持った大部分無意識的な、偶発的表現。(これを彼は「即興」と呼ぶ) (3)繰り返し、ほとんど学問的に仕上げられ、時間をかけて形づくられた内的感情の表現。(これを彼は「コンポジショ
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美術館には時々行くが、理屈は分からなくても、美しいとか、凄いとか、素敵とか、この絵は好きだが、こちらはそれほどでもとか、自分の感性で鑑賞できたらそれでいいじゃないか?と思っていた。
この「名画を見る眼」の1、2を読んで、改めて時代や、画家の心情、絵に対する拘り等々、背景を知ることで、俄然絵に対する興味や面白さ、他の画家や絵への広がりを感じるものだと認識した。
印象派ばかりを好んで見に行っていたが、他の時代の絵画も積極的に見たいと思う。
特に抽象絵画に対する見方が変わった。
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前巻から続いて文章がよい。
適切な箇所に適切なワードが配されていて密度が濃い。
「モネにおいては、影ですら光を孕んでいるのである。」
というフレーズなど、ともすれば振りかぶった決め台詞のようになってしまうが、その前段までの説明が適切なので力の抜けた「そこにあって当然のフレーズ」になる。
前巻と同じ感想になってしまうが、絵自体を読み取って説明する姿勢が明瞭で、格調高いと思う。
今作では印象派から始まって、その影響によって生まれたフォービズム、キュビズム、抽象絵画が取り上げられている。が、まず前提として「取り上げた絵そのもの」について語った後でそれらの「イズム」に話が展開する。帰納的な語り方はしない。そこに著者のこだわり、美意識を感じる。
…と書いてきたが、各章の末尾に「歴史的背景」として画家の経歴などを書いているのは定型的に感じられて前巻よりも美しくない。
ただ、印象派以降の画家たちについては本人が書き残した文章、書簡などの情報が多すぎるのでそれを「絵自体についての説明」から切り離すためには仕方ないのかもしれない。
なにしろ、本書(の最初の版)を書いた時点で、ピカソやシャガールはまだ生きていたのだし。
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2巻では印象派から抽象絵画までを扱っている。開幕がモネの「パラソルをさす女」といきなりご機嫌な名作のエントリーで解説も全体的に軽やか。色彩と形象を拡張、開放していった、絵画史の一番面白い時期をメインにしているが、むしれ目を引かれるのは美術史の流れと背景に目を配りながらも根本的には作品と作者の固有性に目を向けているところだろう。
どうしても印象派や抽象絵画やキュビズムと言った場合その言葉と歴史そのもののインパクトに流されて、作品を歴史を勉強、再確認するためだけに流してしまうことがよくある。スーラの絵画を見て点描法や後期印象派の作風を語ったところで、それは既に書かれた教本の追認に過ぎない。作者はそこで個々の絵画の詩情や美しさにも筆を及ぼすことでただの硬い解説本ではない広がりを実現できている。
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西洋絵画の入門書を読みました。多くの方と同じかと思いますが、山田五郎さんのYouTubeを見て、西洋絵画に興味を持ったからです。
モネからモンドリアンまでの14人の画家の解説です。筆者が代表作を紹介し、その背景や画家の説明もあります。
とても簡潔ですが、作品の生まれた背景まで、端的に書いています。
カンディンスキーとモンドリアンは、とても抽象的で、なんだろうと思っていました。この本で、画家の考えていた定義みたいなものも書かれてました。完全に理解するのは難しいけど、なんとなくわかる気がしました。
Iも読んでみたいと思います。
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美術史を体系立ててまとめた良書。印象派から抽象絵画へのつながりがよく分かった。やはり印象派が絵画に与えた影響は計り知れないと改めて思った。三菱一号館のルノワールセザンヌ展に行ったばかりだったので2,3章はかなり面白く読めた。行って良かった。
今まで名前だけ知っていたゴーギャン、シャガールの絵がなぜ革命的だったのかよく分かった。
美術館に行きたくなる本。
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モネ、ルノワールをはじめとする印象派からピカソ、シャガール、モンドリアンに至るまで、美術史の中で、大きな変革の時代を生きたアーティスト達の作品を読み解くポイントを紹介してくれる良書。
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Ⅰに比べて、著者の美術史観が確固としている。
特に印象派の影響を受けた画家たちの足跡の描き方が冴えている。
個別の画家では、スーラとモンドリアンの項がすごい。
自己の理念を越えて、アートを成し遂げた様を描ききっている。
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印象派のモネ、ルノアールを皮切りに、難解とされる抽象絵画を分かりやすい言葉で解説している好著だ.ムンクくらいまでは記憶のある絵が出てきたが、マティス、カンディンスキー、モンドリアンになると初見のものばかりだった.絵画を全般的に把握してる著者ならではの言葉遣いで、丹念に、しかも的確な説明は非常に感銘を受けた.抽象画を手掛けた画家たちの内面に触れるコメントも多数で、絵画史の荒波を突き進んでいく快感が味わえた.
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第I巻の15作品は、1434年のヤン・ファン・アイクの作品から1863年のエドゥアール・マネまでの約400年を駆け抜けてきたのに対し、第II巻の14作品は、印象派のモネから始まって造形主義や抽象画に大きく移り変わっていく、わずか100年足らずの絵画の変遷を追っています。
現代人の多くにとって魅力的で絵画として「完成」しているように感じる印象主義が、絵画としてどのような限界を抱えているのか、そして画家たちがそこからどう脱却して(あるいはそれを極めて)いったのかが分かりやすく解説されています。以前、国立西洋美術館で開催されていた「キュビズム展」と扱われている時代が同じで、おさらいする気分で読むことができました。
まるで小説を読んでいるような、筆者の豊かな表現力はこの第II巻でも健在です。
―モネの「パラソルをさす女」は、印象派の技法による人物表現のいわばぎりぎりの限界であった。色彩分割をさらにおし進めていけば、モネの人物は光の波に溺れて溶解してしまうであろう。
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第Ⅱ作はモネの「パラソルをさす女」からモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」まで。驚いちゃうのはこの間が60年しかないこと。この短期間で印象派から抽象絵画まで遷移している。抽象絵画といえども突然変異で生まれてきたわけでは無いことがよく分かる。
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モネの「パラソルをさす女」からモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」まで年代順に14の絵の解説です。
この他、関連する絵も一つの作品につき、2,3点全てカラーで印刷されています。
これを新書(の値段)で見ることができるのはお得感たっぷりでした。
私は、やっぱりモネの絵がいちばん好きでした。
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古い版から文章はほとんど変更していないそうだが、ごもっともです。
修正する隙のない名文です。
日本人の大好きな印象派を抑えるうえで必読の文献。
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名画を見る眼Iの続編、名画を見る眼II。
前作のIが、マネまでであったので、IIのモネからが楽しみで読みました。
モネを数多く所蔵している西洋美術館にいらした高階さん。この人ならではの表現があり、次にモネを見るときにはその視点で見ようと思えるヒントがあったら。
パラソルの女性も作品がいくつか存在すると知れた。
出会っていなかった画家も掲載されており、新しいトキメキがありました。
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美術館に何気なく絵画を見に行くのが好きで、この本を読む前は絵画をなんとなく見て自分で咀嚼するだけで満足していた。
ふと、作者の背景や意図を知りたくなり、この本を手に取った。
印象派と呼ばれる作者から始まり、それぞれの歴史、背景、絵画の捉え方に時代の流れを感じることができ、より一層絵画を楽しむことができそうだと思えた。
教養として知るもよし、シンプルに楽しむもよしで、いい本だった。
が、淡々と読む本ではありながら参考書を読むような感覚があり、少し退屈だった。
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Ⅱは印象派以降の14人の巨匠、14点。
高階先生の授業を直接聴かせて頂いているような語り口。
各章の絵画だけではなく、その周辺の作品の解説も語られているので個々にストーリー、歴史があることがよくわかります。
美術史という学問は近代を理解するための学問の1つなのだと思いました。
Ⅰの15点も含めて自分で直接見る機会がある絵画があと何点あるのかわからないが
その際にはこの本を必ず読み返すでしょう。
〇モネ 「パラソルをさす女」
〇ルノワール 「ピアノの前の少女たち」
〇セザンヌ 「温室のなかのセザンヌ夫人」
〇ゴッフォ 「アルルの寝室」
〇ゴーギャン 「イア・オラナ・マリア」
〇スーラ 「グランド・ジェット島の日曜日の午後」
〇ロートレック 「ムーラン・ルージュのポスター」
〇ルソー 「眠るジプシー女」
〇ムンク 「叫び」
〇マティス 「大きな赤い室内」
〇ピカソ 「アヴィニョンの娘たち」
〇ジャガール 「私と村」
〇カディンスキー「印象・第4番」
〇モンドリアン 「ブロードウェイ・ブギウギ」
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Ⅰを読んだならばⅡも読まねばと、早速ひもときました。
Ⅰは歴史、美術史の解説なども含まれていましたが、Ⅱは美術史上の年表幅が少ないらしく(さくっと100年くらい)そのせいなのか、あまり細かな歴史的背景には言及せず、画家本人の略歴や手法などの解説が細やかに書かれている。
馴染みのある画家名も多く『これ見たことがある』というものが多いので、読んでいて飽きない。その反面、いわゆる抽象画も多いので、解説を読んでも分かったよーな分からないよーな、そんな気持ちになることもしばしば……
別の本に出ていた名前をここで見つけて、作中に出ていた店名はこの画家からとったのかと妙に納得したりして、楽しく読めた。
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印象派の代表的な存在であり、睡蓮やパラソルをさす女で有名なモネ。
なるべく絵具を混ぜ合わせないで、純粋に使うことを考えた。
理由は、「絵具を混ぜ合わせると明るさが失われる」ため。
モネの作品が明るいものが多いのは、絵の具の使い方の革新にあった。
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外界を見る人間の眼は、習慣や約束に規制されているが、画家はこれにとらわれない新しい感覚を拓く。
まず絵画を見て読み進め、改めて観ると新しい感想を覚える新鮮な鑑賞体験。実物を見たい。
絵のリアルとは。これまでの系譜。
現実を追求した印象派が色彩分離により平面化していき、キュビズム、フォーヴィズムを経て抽象画に繋がる。色彩と造形。
Posted by ブクログ
しかし、だからと言って、印象派 絵画がチューブ入り絵具から生まれたと言うことはむろんできない。 戸外における現場での制作は、すでに一八三〇年代のバルビゾンの画家たちの時代から、絵画の野望のひとつであった。持ち運びのできる便利な絵具の発明は、それまできわめて困難であったことを容易に実現させてくれるという便利さをもたらしたに過ぎない。ただ、それによって思いのままに戸外で制作できるようになった七〇年代の若い画家たちが、眼の前の自然のな かに、それまでの絵画の知らなかった新しい世界を発見したことは事実である
ところが、モネたちは、太陽の光の下では、自然のなかのものは固有の色を持っていないということを見出した。緑の草も、時には夕陽の照り返しを受けて赤く輝くこともあれば、青い衣裳の上にオレンジ色の陽の光がこぼれ落ちることもある。それは言うまでもなく「光」の作 ちゅうちょ 用であるが、モネたちは、その「光」の作用を、躊躇なく「色」の世界に置き換えた。 例えば、この「パラソルをさす女」は、白いドレスを身にまとっている。そのドレスに、青い空や赤い野の花の輝きが微妙に反映している。そこでモネは、白い衣裳の上に、薄い青やピンクのタッチを加えるのである。
このようなことは、白い衣裳はあくまでも白いものだと信じていた当時の人びとには、容易 に理解されるものではなかった。
彼(セザンヌ)が求めたものは、眼の前の対象を形づくる本質的な構造であった。すべてが一様な光の波に還元されてしまう印象派の世界のなかから、セザンヌは、 対象を周囲の世界から区別する基本的な形態を求めた。そして、そのような確固とした形態を求めるということは、もはや単に視神経だけの問題ではない。それは後にブラックが、「眼は 形態を歪め、精神は形態を作る」という簡潔な言葉で表現したように、自然のなかにひとつの 秩序をうち立てようという精神の働きである。 セザンヌが友人のモネについて、
彼はひとつの眼に過ぎない、だが何と素晴らしい眼だろう。
と語ったという話は有名であるが、この一句にはモネの精緻な感覚に対する賛嘆と同時に、ひそかな批判をも読み取ることができる。