【感想・ネタバレ】カラー版 近代絵画史 増補版(下) 世紀末絵画、ピカソ、シュルレアリスムのレビュー

あらすじ

二十世紀の美術は、思いがけない多面的展開によって私たちを驚かす。しかし、抽象絵画やシュルレアリスムの作品は、決して画家の気まぐれや偶然の産物ではない。それぞれの美術運動は、印象派で頂点を極めた写実主義を想像力で乗り越えようとするものであった。本書は、十九世紀前半から第二次世界大戦にいたる一五〇年間の西洋絵画を概観。下巻は、世紀末絵画から抽象絵画まで。増補にあたり、あとがきを新規に収載。

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ルドン、

第 13章  世紀末絵画ドニの《セザンヌ礼讃》幻想世界への招待国際的な拡がり

第 14章  ドイツ表現主義歴史と時代ノルデとベックマンキルヒナーと「ブリュッケ」の画家たち「青騎士」のグループミュンヘンのカンディンスキー

第 15章  マティスとフォーヴィスムフランスにおける表現主義的傾向一九〇五年のサロン・ドートンヌフォーヴィスムのグループフォーヴ時代のマティス

第 16章  フォーヴの画家たちマティス芸術の展開ヴラマンクとドランその他のフォーヴの画家たちルオーと宗教絵画

第 17章  ピカソとキュビスムキュビスム以前のピカソ《アヴィニョンの娘たち》キュビスムとその後の展開ピカソ変貌の意味

第 18章  キュビスムの画家たちキュビスムの登場分析から綜合へブラックレジェとグリス

第 19章  幻想の系譜素朴派の画家たちアンリ・ルソーマルク・シャガール

第 20章  エコール・ド・パリエコール・ド・パリの形成ヴァラドンとユトリロモディリアーニとスーティンパスキンとキスリング

第 21章  機械文明への讃美と反撥未来派キリコと形而上派ダダの運動の発端ピカビアとデュシャン

第 22章  シュルレアリスムダダからシュルレアリスムへシュルレアリスムの美学エルンストダ  リマグリットとデルヴォーホアン・ミロ

第 23章  バウハウスとその周辺バウハウスの画家たち第一次大戦後のカンディンスキーパウル・クレー

第 24章  抽象絵画への道抽象への志向マレーヴィッチとスプレマティスムドローネとオルフィスムモンドリアンと新造形主義

高階 秀爾
(たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 2024年10月17日)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位。東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。1932年、東京で生まれた。父は哲学者・高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った[1]。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹、平川祐弘、石井進、平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。1944年9月から1946年9月まで、父親の出身地である秋田県(大曲町)に疎開し、旧制角館中学で学んだ。1948年、四修で旧制第一高等学校に入学。1年修了で翌年新制東京大学に入学。在学中に矢代幸雄の『世界に於ける日本美術の位置』を読み、西洋美術史研究を志す。1953年、東京大学教養学部教養学科を卒業。東京大学大学院に進み、在学中の1954年から1959年まで、フランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学付属美術研究所およびルーブル学院で西洋近代美術史を専攻し、展覧会の運営など美術行政についても学んだ。帰国後、国立西洋美術館主任研究官に就いた。美術館勤務の一方で評論活動も開始し、1967年には遠山一行、江藤淳と雑誌『季刊藝術』を創刊。編集長は古山高麗雄で1979年まで計50号発行した。学界では、1968年に発足した日本文化会議に参画(1994年に解散)。1971年、東京大学文学部美術史科助教授に就いた。1979年に同教授昇格。1992年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。同1992年4月、国立西洋美術館館長に就任。2000年まで務めた。1997年、パリ第一大学より名誉教授を授与された。2002年4月~2023年6月、大原美術館館長[2]。2004年、京都造形芸術大学大学院長となり、同比較藝術学研究センター所長も兼ねた。2008年、京都造形芸術大学を退職。2015年、日本芸術院会員に選出された。2020年10月~2023年9月まで日本芸術院長を務めた[3]。2024年4月に発足された大原芸術研究所の所長に就任[4][5][6]。運営財団の理事も兼務していた[7]。2024年10月17日、心不全のため、死去[8]。92歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]。西洋美術館研究官、東京大学の美術史教授として、1963年の『世紀末芸術』を始め数多くの著作があり、啓蒙的役割を果した。ルネサンス期以降の西洋美術を専門としながら、日本近代美術にも造詣が深くその方面の著作、画集編集もある。
同じ東京大学比較文学教授を務め、京都造形芸術大学名誉学長である芳賀徹とは小学校時代からの友人。『名画を見る眼』正・続(岩波新書)は、半世紀重版され計・82万部出された(新版の紹介より)。
家族・親族
父:高階順治は哲学者。
母:佐々木信。
祖父(母方):佐々木秀一。
妻:舞台女優・エッセイストの高階菖子(しょうこ)
娘:京都大学人文科学研究所教授で美術史学者の高階絵里加。


「ルドンは、たしかに、世紀末の時代における最も優れた「魂の画家」であったと言ってよいが、しかし、もちろん、「魂の神秘の扉口」をのぞきこんだのは、ルドンひとりではなかった。近代科学思想と実証主義を背景にあくまでも眼に見える現実の世界の再現を目ざした写実主義──印象派をも含めて──全盛の時代に、あえて人間の心の奥底に探求の眼を向けた人々はほかにもいた。ルドンの先輩にあたる版画家のロドルフ・ブレダン(一八二二-一八八五)や、晩年美術学校の教授となってマティスやルオーなどフォーヴの画家たちを育て上げた教育者としてよく知られているギュスターヴ・モロー(一八二六-一八九八)、リヨン出身で、十九世紀後半の最大の壁画家として、パンテオンをはじめ、ソルボンヌ大学講堂、パリ市庁舎など、多くの装飾作品を残したピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(一八二四-一八九八)、印象派とほぼ同じ世代で、薄明のなかから浮かび出てくるような抒情的な色調のなかに母性愛や家族への親愛など、人間の情愛を柔らかく歌い上げたウジェーヌ・カリエール(一八四九-一九〇六)などがそうである。彼らは、それぞれ異なった個性の持主であるが、いずれも単に眼に見える世界の奥に、感覚だけでは捉えることのできないもうひとつ別の世界がたしかに存在していることを信じている点で、幻視者と呼ぶにふさわしい人々である。「私は眼に見えるものも手に触れるものも信じない。見えないもの、ただ感じるものだけを信ずる」というモローの信念は、そのまま、これら象徴派の画家たち全部のものであったろう。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「長い歴史を持つゲルマンの民族的特質と、時代の精神的雰囲気に培われたこの表現主義の絵画は、ドイツにおける印象主義の代表者であるマックス・リーバーマン(一八四七-一九三五)や、ベルリンの分離派展に参加してはいるものの、その挿絵的な物語趣味や心理的洞察に満ちた肖像画によって人々のあいだに人気を得ていたロヴィス・コリント(一八五八-一九二五)などの折衷的な様式が支配的であった二十世紀初頭のドイツ絵画界に、まったく新しい衝撃と活力とをもたらした。すでに、前世紀末の九〇年代に、ドイツの各地における革新の気運は明らかである。一八九二年には、ミュンヘンの分離派、一八九七年にはウィーンの分離派が結成され、引き続きベルリンにおいても、きわめて影響力の強い分離派の運動が一八九八年に始まった。すべての文化的活動がパリに集中されるフランスの場合と違って、それぞれの地方が独自の伝統にもとづく創造的エネルギーを保ち続けていたドイツにおいては、この革新の動きは、それだけいっそう多様なものであった。しかも、外界の「再現」よりも自己の内部の「表現」を重視した新しい画家たちは、それゆえに、統一的な美学よりも自己の個性を重んじ、それがまた、表現主義の多様性をもたらすこととなった。事実、表現主義のグループは、「ブリュッケ」にしても「青騎士」にしても、多様な個性の集まりであるだけに長くは続かず、しばしば離合集散を繰り返すこととなるし、またノルデやベックマンのように、どのグループにも属さない孤独な芸術家が登場してくることにもなるのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「この点、フォーヴの画家たち、ことにその中心的存在であるマティスにとって、セザンヌと新印象主義とが決定的な役割を演じたという事実は、はなはだ暗示的である。実際、マティスによる色彩の表現力の発見は、たとえば一九〇四年に南フランスで描かれた《豪奢・静寂・逸楽》(パリ  個人蔵)の画面にはっきりとうかがわれるように、新印象主義の色彩分割の技法に直接由来するものであるし、《サント・ヴィクトワール山》の画家について言えば、マティスはすでに一八九〇年代から、他の印象派の画家たちとは違うセザンヌの歴史的意味を、はっきりと見抜いていた。後にマティス自身がパリのプティ・パレ美術館に寄贈したセザンヌの《三人の浴女》を一八九九年にヴォラールの店で見つけて買い求めて以来、長いこと手もとにおいて大切にしていたという事実は、「セザンヌはわれわれすべての師だ」という彼の有名な一句とともに、セザンヌへのマティスの傾倒をよく物語るものであろう。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「マティスは、フランス、ノール県のカトー =カンブレジーに生まれ、サン =カンタンで中等教育を終えてからパリに出て、法律を学んだ。一八八八年、司法生としての資格試験に合格すると、翌年サン =カンタンに戻ってある弁護士の事務所の見習書記となった。もしさらにその翌年、彼が盲腸炎をこじらせてほとんど一年近くのあいだ、病床につくという偶然がなかったなら、われわれは《豪奢・静寂・逸楽》の画家を持つことができなかったかもしれない。マティスが画家としての天職に目覚めるのは、恢復期の徒然を紛らせるためにグーピルの『絵画論』を読んだことと、母親から贈られた絵具箱を使ってみたことがそのきっかけとなったからである。  健康を取り戻した彼は、一八九一年、ふたたびパリに出てアカデミー・ジュリアンに学び、翌年国立美術学校に入学した。美術学校在学中は、ギュスターヴ・モローの指導のもとに、まず画家としての基礎的な技術の習得に努め、ルーヴル美術館に通って、ラファエㇽロやシャルダンを模写した。つまりマティスは、画家としての出発点においては、むしろ伝統的な様式の信奉者であった。そのことは、すでに一八九六年に、彼がサロンに入選していることからも明らかと言えよう。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「まとまった運動としてのフォーヴィスムは、一九〇五年、〇六年を絶頂として、急速に衰えていった。多くの仲間たちは、あるいは禁欲的な渋い色調による構成的方向に進み、あるいはもっとはっきりと伝統的な古典世界へ復帰して、かつての鮮烈な色彩表現はすっかり忘れ去ったかのように思われるまでにいたったが、そのなかで、最初からフォーヴィスムの中心人物であったマティスだけは、あくまでも平坦な色面の持つ豊かな表現力を保ち続け、晩年にいたるまでフォーヴィスムのなしとげた革命の成果を自己の様式の基本として、決して見失うことがなかった。おそらくそれは、もともとマティスが鋭敏な感覚の持主であると同時にきわめて理知的な性格でもあり、フォーヴの混乱の時期においてもつねに画面の秩序と構成ということを忘れなかったためであったろう。そして、一九一〇年、友人のマルケといっしょにミュンヘンに旅行して、そこで開かれていたペルシアのミニアチュアの展覧会を訪れたことは、平坦な色面構成の持つ表現力というものをあらためてマティスに確認させることとなった。事実、その直後、一九一一年から一二年にかけてモロッコに滞在した時にマティスが描いた作品は、豊かなアラベスクの効果と強烈な色面構成によって、依然としてマティスがフォーヴィスムの原理に忠実であったことを、はっきりと示している。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著



「美術学校においてやはりギュスターヴ・モローのアトリエに学び、モローからとくに愛されてその死後モロー美術館の初代館長にまでなったルオーは、マティスやマルケとの交友関係から言っても、また、人間の醜さを思いきって強く告発するようなその激しい表現力から言っても、フォーヴの仲間たちと深い関係にあり、事実、一九〇五年のサロン・ドートンヌにおいては、あの「野獣の部屋」で最も注目されたひとりであった。とくに、フォーヴィスム運動を二十世紀初頭のヨーロッパ全体に見られた表現主義的傾向の一環として捉えるなら、おそらく仲間の誰よりも表現主義者であったルオーは、最もフォーヴ的な画家とさえ言うことができるかもしれない。しかし、ルオーの表現主義は、単に技術上の問題ではなく、時代の雰囲気の反映ばかりでもなく、より深く人間の本性に対する鋭い洞察に根ざしており、時代を越えた魂の表現となっているがゆえに、歴史的な枠組のなかに収まりきらないものを持っている。少なくともフォーヴィスムがもっぱら造形上の革命であるかぎり、ルオーのなしとげたことはフォーヴィスムの枠を大きくはみ出していると言わざるをえないであろう。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


「この時のサロン・ドートンヌの審査会の席上、マティスは、ブラックの作品をすべて「キューブ」(立方体)で構成されていると批評した。かつて「フォーヴィスム」という名称を生み出した批評家のルイ・ヴォークセルは、さっそくマティスのこの言葉を利用して、カーンウェイレル画廊でのブラック展の批評に、ブラックは、「風景も、人物も、家も、すべてのものを幾何学的図形に、立方体に還元する」と書いた。さらにその翌年、今度はサロン・デ・ザンデパンダンに出品したブラックの作品について、ヴォークセルは同じように、「奇妙な立方体の遊び」と批評した。  ヴォークセルのこの批評は、かつての「フォーヴ」の時と同様に、なかば嘲笑の意味をこめたジャーナリスティックなものであったろう。考えてみれば「印象派」以来、近代絵画はずいぶん悪口によって色どりを与えられてきた。「キュビスム」もそのひとつで、あらゆる前衛的なものに強い興味を示した詩人のギヨーム・アポリネールは、早くも一九一一年の講演で、」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「キュビスムの美学の形成にあたって、ピカソと同じくらい、いやもしかしたらある面ではピカソ以上に重要な役割を果たしたのは、ジョルジュ・ブラック(一八八二-一九六三)であった。彼は、印象派の思い出に満ちたセーヌ河畔の町アルジャントゥイユに生まれ、父親の仕事の都合でル・アーヴルで育ったが、早くから絵画に惹かれ、一九〇〇年にパリにやって来た。最初印象派風の画風から出発する彼が、パリにやって来てから、短期間ながら驚くべき豊かな色彩感覚を示すフォーヴ時代を過ごすことは、すでに見たとおりである。  しかし、ブラックは、生来、たとえばヴラマンクのように感覚的なものに溺れきってしまうことのできない知的な性格を強く持っていた。もっぱら色彩の輝きを追求したフォーヴ時代の作品ですら、彼の場合は、そのずば抜けた構成力によって、他のフォーヴの画家たちと大きく異なっている。間もなく彼が、ピカソとセザンヌの先例に触れて、急速にキュビスムの世界にはいりこんでいくのも、あるいは当然のことであったかもしれない。事実、一九〇七年から第一次世界大戦の始まる一九一四年まで、彼はピカソとほとんど一体になってキュビスムの探求にすべてを捧げるが、この時代のキュビスムの持つ厳しい知的な構成は、ピカソ以上にむしろブラックの気質に似つかわしいものであった。もっとも、この時期のふたりの活動は、きわめて密接に結びついており、「コラージュ」の利用などもふたりの作品に相前後して登場してくるので、キュビスムの美学への寄与においてどちらがいっそう大きな役割を果たしたかは、容易に決定しがたい。むしろ奔放で情熱的なピカソと、冷静で理知的なブラックとの文字どおりの協力によって、あの革命的な事業がなしとげられたと言うべきであろう。このふたりの天才の協力は、第一次大戦の勃発によって永遠に中断されることになるが、その時にはキュビスムの主要な仕事は、すべて果たされていたのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著




「「対象となるものは私にとってもはや存在しない。あるのはもの同士のあいだと、ものと私とのあいだの調和のとれた関係だけだ。この調和に達すると、人は一種の知的〈無〉の世界に達する。そうすればすべては可能となり、すべては適切なものとなる。つまり人生は永遠の啓示となるのだ。これこそが真の詩というものだ……」という彼の言葉は、まぎれもなくひとりの詩人の存在を物語っている。そして、ブラックの作品は、一見もの静かな渋い表現の奥で、つねに力強く、自己の「詩」を歌い続けているのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「 フェルナン・レジェ(一八八一-一九五五)は、アルジャンタンに生まれ、十六歳の時からノルマンディ地方のある建築家の事務所で見習いとして勤め、その後一九〇〇年ごろパリに出てからも、しばらくのあいだは、建築の勉強を続けた。彼は、もともと絵画に強い興味をいだいており、建築の勉強も、母親と叔父の意志によって、いわばいやいやながら学ばせられたのであるが、しかし、彼の作品に一貫して認められる構築的性格や、あるいは晩年の《建設者》のシリーズなどを考える時、彼のその若いころの修業も決して無駄なことではなかったと言えるであろう。  絵画に身を捧げるようになってから、レジェがまず影響を受けたのは、印象派の明るい色彩であった。レジェの作品は、キュビスムの時代のものでさえ、鮮やかな色彩の対照を見せており、その点「まるで蜘蛛の巣のようだ」と言われたピカソやブラックの作品と大きく違っているのであるが、彼は、印象派の作品から受けたこの原色の教えを、生涯忘れることがなかったのである。続いて、一九〇七年以降、ピカソやブラックの場合と同じように、セザンヌの強い影響を受ける時期が来る。何よりも、エクスの巨匠の持つ構成的世界の厳しさが、彼を圧倒したようである。「私はセザンヌの影響を追いはらうのに三年かかった。そのために私は、ほとんど抽象の世界にまで行ったのだ」という彼自身の告白は、おそらく正直なところであったろう。そして、そのことは同時に、セザンヌからキュビスムを経て抽象絵画へと向かう道程が、モンドリアンの場合ばかりではなく、レジェにおいても暗示されている点で、われわれにとってきわめて興味深い。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「しかしそれは、ひとつの条件ではあっても、それだけで十分というわけにはいかない。たしかに、写実主義の美学が支配的であるあいだは、「素朴派」の登場する可能性はほとんどなかった。しかし、第一次大戦以後、今日にいたるまでずっと続いている「素朴派」への関心は、やはり同時代の美意識と密接に関係があるように思われる。その点でとくに重要なのは、第一次大戦前後に支配的であった表現主義とキュビスムの美学である。「素朴派」の画家たちは、グループとしての活動もせず、そのような意識もなかったため、いったい誰がそのメンバーであるか──と言うよりも、誰をメンバーと見なすべきか──についても、かならずしも批評家のあいだで意見の統一が見られない。しかし、メンバーが誰であるにせよ、「素朴派」の画家たちに多かれ少なかれ表現主義的傾向が見られることは、彼らの作品が基本的に反写実主義的であることからも、明らかであると言える。ちょうど子供たちの作品がそうであるように、「素朴派」の表現は、画家自身が厳密に写実的であろうと意図している時でも、自分にとっていっそう重要であると思われるものを、ほとんど本能的に強調する傾向がある。アンリ・ルソーが、実際にはそう見えるはずがないジャングルの木の葉を一枚一枚丹念に描き出す時、彼は自分の眼以上に自分の心情に対して忠実なのであり、したがってその結果は、彼が写し出そうとした「現実」以上に、彼自身の心の状態を反映することになる。子供の絵に対してまじめな関心を示した最初の一人であるフランツ・マルクがルソーに対しても強い関心を寄せ、ドイツ表現主義のマニフェストとも言うべき『青騎士年鑑』が多くのページ数を使ってルソーを紹介したのも、その意味では当然と言ってよいのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「もっとも、アンリ・ルソー(一八四四-一九一〇)をはたして「素朴派」と考えてよいかどうかについては、いろいろ問題が残る。「素朴派」が、印象派のようなまとまった芸術運動でない以上、歴史上の分類にはどうしても無理がつきまとうが、ルソーに関しても、一方では、彼の「子供のような」無邪気な性格と伝統的技法をまったく無視したような「素朴な」表現が強調される反面、他方ではことに近年になって、ルソーはかならずしもそれほど「素朴」ではなく、彼の性格にまつわるエピソードには、根拠のない伝説が多いということも指摘され、あらためてルソーの人間像が見直されようとしている。しかしながら、彼自身の性格が「素朴」であったかどうかは別として、彼の作品が従来の伝統的表現と比べてみればもちろんのこと、フォーヴィスムからキュビスムにいたる「革新的」な絵画と比べてみてもはっきりと違ったものを持っており、それゆえに強烈な衝撃力をそなえていたことは否定できない。考えてみれば、いかに晩学とは言え、印象派と同世代の画家がピカソやブラックに新鮮なショックを与えたということ自体、驚異と言ってよいであろう。かつてルソーがピカソに向かって、「現在、本当に優れた画家は君と僕のふたりしかいないね。もっとも君は様式的にはエジプト風で、僕は現代風だけどね」と語ったという有名なエピソードも、単なる「素朴」な自慢話とのみは言えない一面の真実を物語っていたとも言えるのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「考えてみれば、いかに晩学とは言え、印象派と同世代の画家がピカソやブラックに新鮮なショックを与えたということ自体、驚異と言ってよいであろう。かつてルソーがピカソに向かって、「現在、本当に優れた画家は君と僕のふたりしかいないね。もっとも君は様式的にはエジプト風で、僕は現代風だけどね」と語ったという有名なエピソードも、単なる「素朴」な自慢話とのみは言えない一面の真実を物語っていたとも言えるのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「もっとも、正式の地位から言えば、彼は勤めをやめるまで、単なる収税吏であって、税関吏であったことはない。それにもかかわらず「税関吏ルソー」の名前が早くから定着してしまったのは、ルソー自身にも多少責任があるらしく、その点が彼が「素朴」ではないという論拠のひとつにしばしば指摘されている。事実ルソーには、どちらかと言えばかなり平凡な自分の生涯を、劇的に飾り立てようとする傾向があった。「税関吏」はその一例であるが、ほかにもたとえば、晩年になってからしきりに、テーマとして取り上げるようになる《蛇使いの女》(パリ  オルセー美術館蔵)や《夢》(ニューヨーク  近代美術館蔵)のような熱帯風景のモティーフは、軍隊時代のメキシコ遠征の思い出にもとづくものだと人に思いこませたり、その《夢》に登場する少女を、ポーランド出身のエキゾティックな女に仕立て上げたりしている。実を言えば、彼の属していた軍隊は一度もメキシコ戦役に加わったことはないし、ヤドヴィガという異国的な名で呼んだ女は、パリの郊外に生まれた彼自身の妻にほかならなかった。おそらくルソーは、あまりにも生き生きとした想像力に恵まれていたので、自分自身の幻想の世界と現実との区別がつかなくなってしまっていたのであろう。詩人のジャン・コクトーは、一八九七年のアンデパンダン展に出品された《眠るジプシー女》(ニューヨーク  近代美術館蔵)について、この画面に登場するライオンや河は、眠っているジプシーの夢に出てくるものであろうと述べているが、それ以上に、この画面が、そしてルソーの描き出す映像世界のすべてが、現実以上に強烈な彼の夢にほかならなかったのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


「シャガールがパリにやって来た一九一〇年前後というのは、現代美術の歴史の上で、パリが「芸術の都」として世界中の若い芸術家たちを惹きつけ、夜空の華麗な花火のように「良き時代」の最後の輝きを見せている時代であった。やがて始まる第一次世界大戦は、もちろんこの「芸術の都」に住む若者たちをも捲きこんでしまうが、その暗い戦乱の時代をはさんで、パリはかつてないほど賑やかで、国際的で、豊かな創造の場となったのである。  西欧の数多い都会のなかでも、なぜパリがとくに、この時期において、芸術に憧れる若い魂をこれほどまで惹きつけたのかということは、なぜスペインのアンダルシア地方の港町に二十世紀を代表する革命的天才が生まれ、なぜロシアの貧しい片田舎に生まれた職人の子が現代の最も優れた幻想画家のひとりになったかというのと同じくらい謎である。おそらく、十七世紀以来、ヨーロッパの文化的中心であり続けたパリの伝統が、ちょうど長い歳月のあいだに葡萄酒がいよいよ芳醇な香りを放つようになるのと同様に、豊かな芸術的香気を発するようになって、世界中の敏感な若い魂に語りかけたのであろう。また、フランスは西欧諸国のなかでも最も早く近代統一国家としての体制を整え、しかも王権が強大であったため、地方の諸都市に比べてパリがずばぬけて重要な位置を占めるようになったという社会的、政治的事情もそれなりの役割を果たしたかもしれない。いずれにしても、十九世紀以来パリはヨーロッパの芸術の中心として自他ともに認める不動の地位を築き上げ、それが今世紀の初頭に華やかな実りをもたらしたのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「事実、シャガールと相前後してパリにやって来た異邦人芸術家は、歴史に名を残すほどの大家たちだけにかぎってみても、同じロシアからやって来たスーティンをはじめ、オランダのモンドリアン、イタリアのモディリアーニ、ブルガリアのパスキン、ポーランドのキスリング、チェコのクプカ、日本の藤田嗣治などを挙げることができる。もちろん、もう少し視野を拡げるなら、フォーヴの仲間のヴァン・ドンゲン、キュビスム運動の中心にいたピカソとグリス、未来派のセヴェリーニなどの名前も、当然同じような「異邦人画家」として、そのリストに加えることができるであろう。さらに、彫刻家として、アルキペンコ、リプシッツ、ブランクーシ、ゴンザレスなどがいた。これら世界の各地からセーヌ河畔の芸術の都にやって来た若者たちは、かならずしもこの町が提供する美術教育の機関や施設を求めて来たのではなかった。多くの場合、彼らは美術学校に学んだり画塾に通ったりすることはせず、町の画廊で発表されるさまざまの新しい試みを熱心に見て回ったり、仲間の芸術家たちと議論を闘わせたりしながら、自由に自分の表現世界を追求していった。つまり彼らは、何よりもパリという町の芸術的、創造的な雰囲気を求めたのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「そして事実、そのパリは、鋭敏で意欲的な若者たちを惹きつけるだけの芸術的な刺戟に欠けてはいなかった。審査制度も賞もなく、文字どおり誰でも自由に出品できるというサロン・デ・ザンデパンダンのような展覧会を持っていたのは、当時の世界においてはパリだけであったし、フォーヴィスムやキュビスムのような大胆な実験がつぎつぎと展開されていったのも、パリにおいてであった。その上、この町には、同じように清新な意欲に燃えた優れた若者たちが集まっていて、おたがいに自己の個性を主張しながら、創造的な気迫に満ちた熱っぽい雰囲気を作り出していた。実際彼らは、新しい試みに理解を示すいくつかの前衛的画廊やなじみのカフェで始終出会って刺戟を与え合っていたのみならず、しばしば同じ建物に住み、時には共同のアトリエを利用したりしながら、誰にも制約されない自由な芸術の王国を作っていた。そこには、世界の最も遠い所からやって来た若い画家や彫刻家のみならず、詩人や、音楽家や、批評家や、画商たちが出入りし、夜を徹して議論を交わしたり馬鹿騒ぎをしたりしながら、青春の生命を燃焼させていたのである。ピカソやグリスの住んでいたモンマルトルの「バトー・ラヴォワール」(洗濯船)や、シャガールの根城であったモンパルナスの「蜂の巣」など、まさにこの時代の象徴的な存在だったと言ってもよいであろう。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


「このようにして、後に「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の芸術家たちのグループが形成されることになった。この名称は、「素朴派」の場合と同じように、歴史家たちによって与えられたもので、芸術家たち自身によって選ばれたものではない。したがって、「エコール」(流派)と言っても、それは何か明確な美学や主義主張を持っているわけではなく、ただ漠然と、第一次大戦前後にパリに集まってきた芸術家たちのことを、一種のノスタルジーをこめて呼ぶ言葉であったにすぎない。「エコール・ド・パリ」は、「エコール」の厳しさや体系よりも「パリ」の懐しさをいっそう強く思い出させる名称なのである。  もちろん、ただパリに住んでいた画家ということになれば、美術学校を目ざして勉強している画学生まで含めて、厖大な数にのぼることであろう。しかし、「エコール・ド・パリ」の画家たちは、美術学校とか、ローマ賞とか、おおやけのサロンでの受賞などということはおよそ考えず、むしろそのような伝統的な制度を無視して、自由奔放な生活を送り、それぞれ自己の気質に最も適した表現手段によって、他の誰のものでもない自分本来の造形世界を創り出そうとした。「エコール・ド・パリ」という名前からわれわれが連想するものは、時にその日の食事にもこと欠くような貧しい生活と、そのような貧しさにもかかわらず自己の夢を追い続けるボヘミアン芸術家の姿なのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


「 ユトリロのこのように異常なアルコールへの執着がどのような遺伝的特性に由来するものか、明らかではない。それどころか、彼の場合──実はシュザンヌ・ヴァラドン自身もそうなのであるが──父親が誰であるか、はっきりしたことはわかっていない。いちばん広く認められている説は、当時モンマルトルをうろついていたボワシーという酔いどれの放浪者が実の父で、彼の酒好きはこの父親から受け継いだというものである。しかし、それには何の記録も証拠もない。のみならず、彼の父親については、シュザンヌが最初にそのモデルとなったピュヴィス・ド・シャヴァンヌがそうであるとか、シュザンヌが「私生児」モーリスをかかえて困っていた時、義俠心から彼を自分の息子だと認知したスペイン人の画家ミゲル・ユトリロが実際にも父親だったとか、いろいろ説があって、しかもどれも決定的ではない。ユトリロという名前は、ミゲルが認知した時、正式にモーリスのものとなったが、それ以上のことは現在ではもはや何もはっきりとはわからないのである。  いずれにしても、ユトリロは、生まれながらにして、父無し子という不幸な運命と飲酒の悪習を背負わされていた。それと同時に、彼の優れた絵画の才も天賦のものであったが、初めのうちは誰も、母親でさえも、それには気づかなかった。ただ、何とか気を紛らせるためにという母親の思いつきが、思いもかけず彼のなかの画家を目覚めさせたのである。その母親も、彼を絵画の世界に導きはしたものの、何ら具体的な技法のことを教えてくれたわけではなく、まして他の誰からも正規の指導を受けたこともなかったのに、ユトリロは最初から、表現に素朴なぎこちなさを残しながらも、すでに完成された自己の世界を持っていた。絵を描きはじめてから最初の五、六年間の「モンマニー時代」は、それなりに彼の修業時代であったとしても、一九〇六年ごろから第一次大戦勃発の時期までのいわゆる「白の時代」においては、ユトリロは、自己の最高の表現を達成したのみならず、二十世紀の風景画のなかでも最も優れた傑作のいくつかを生み出したのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「もっとも、風景画といっても、ユトリロの場合は、印象派の画家たちが追求したような田園の自然、または水と空の自然の風景を主題としているわけではない。シュザンヌ・ヴァラドンが生涯ほとんど人物画しか描かなかったように、ユトリロはほんのわずかの例外を除いてもっぱら風景画ばかり描いていたが、そのほとんどは、家、建物、街路等をモティーフとした都会風景であり、それも貧しい、うらぶれた生活の匂いのしみこんだような裏町の風景である。ユトリロにとっては、風景とは人間のいない自然ではなく、逆に最も人間臭い、毎日の生活に直結したものであった。むろんそれは、とりもなおさず彼自身が毎日眼にしている身近な対象であり、彼自身がそのなかで生きている世界であった。彼は、その世界の持つなまなましい特徴を大胆に抉り出して、そのまま画面に定着しようとした。絵具だけで壁の白さが十分に表現できない時は、絵具に石膏を混ぜるという思いきった試みさえ辞さなかった。つまりユトリロは、人間臭い街頭風景のその個性的相貌を、直截に捉えようとした。その意味では、彼は、裸婦のモデルを見つめる母親と同じ眼で、古びた白い壁を見ていたのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「事実モディリアーニは、画家であるとともに彫刻家でもあり、一九〇九年にパリでブランクーシと知り合いになってから数年のあいだは、もっぱら直彫りの頭像に熱中していた。たしかに、絵画においても、彼の対象の捉え方には、余計な部分を取り除いていって本質的な量塊を端的につかみ出してくる彫刻家的特色が見られる。おそらく彼は、自分でも語っているように、もし事情が許せば彫刻家になりたかったにちがいない。彼がモティーフとして人物以外にほとんど興味を示さなかったということも、そのこととあるいは無関係でないかもしれないし、少なくともたとえばカリアティードのように、本来彫刻のための主題にあれほどまで執着したという事実は、彼の本質を理解するひとつの鍵であると言えるであろう。だが、結核に蝕まれた身体には、重い鑿と槌を振るうという仕事はきわめて辛いものであったし、何よりも彫刻は、絵画よりも出費は大きくて、しかも容易に売れないという実際上の難点があった。そのため、最終的には彼は画家としての道を選んだわけだが、しかしそれにしても、ふたたび絵画に専念するようになってから彼に残された生涯は、わずか数年にすぎなかったのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著


「そのモディリアーニと、モンパルナスにおいて友人であったシャイム・スーティン(一八九三-一九四三)は、もうひとりの典型的なエコール・ド・パリの画家である。ロシア領リトアニアのスモレンスク近くの貧しい村に生まれた彼は、一九一三年にパリに出てきてから、他の多くの仲間の画家たちと同じように、最初のうちは貧しい放浪の生活を送っていたが、モディリアーニが最後まで貧困に苦しめられたのに対し、この友人の死後間もなく、アメリカの大収集家バーンズ博士に認められて、一転して華やかな名声と経済的安定を得るというドラマティックな生涯を送った。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「そのモディリアーニと、モンパルナスにおいて友人であったシャイム・スーティン(一八九三-一九四三)は、もうひとりの典型的なエコール・ド・パリの画家である。ロシア領リトアニアのスモレンスク近くの貧しい村に生まれた彼は、一九一三年にパリに出てきてから、他の多くの仲間の画家たちと同じように、最初のうちは貧しい放浪の生活を送っていたが、モディリアーニが最後まで貧困に苦しめられたのに対し、この友人の死後間もなく、アメリカの大収集家バーンズ博士に認められて、一転して華やかな名声と経済的安定を得るというドラマティックな生涯を送った。  このような波瀾と変化に富んだ生涯自体、多かれ少なかれこの時代にパリにやって来た若者たちと共通するものを持っているが、そのような状況とは別に、表現様式の上でも、スーティンの作品には、パリの空気に触れて燃え上がった強烈な色彩と激しい筆遣いが、はっきりと認められる。たとえばスーティン自身は、ゴッホに対して、むしろ反撥するような感想を洩らしているが、彼の画面に見られる青、赤、黄、緑のなまなましい原色表現と、風景画においてさえ斜めの線を主体としたダイナミックなうねるようなタッチは、オーヴェールの画家の持つ劇的表現を受け継いで、いっそうそれを強調したものと言ってよい。スーティンは、モディリアーニとは違って、人物のみならず静物や風景にも優れた作品を残しているが、そのいずれにおいても、ドラマティックなものを極点にまでおし進めた表現主義の最も激越な現われを見て取ることができるのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「ダダの運動の発端  キリコにおいて、きわめて詩的な喚起力を持つイメージに結晶していた現代的な不安を、いっそう急進的なかたちで行動に実現させたのが、ダダの運動であった。いや、正確には、いくつかのダダの運動、と複数で呼ぶべきであるかもしれない。というのは、ダダは、ヨーロッパおよびアメリカのいくつかの都市で、ほとんど同じ時期に発生し、平行して発展していったからである。もちろん、その発展の過程において、主として中心になる芸術家の往来を通じて、それぞれの都市のダダの動きのあいだに、当然さまざまの関係があったが、しかし少なくとも、最も早くその運動の烽火をあげたニューヨークとチューリヒのふたつの中心地は、最初は直接おたがいのあいだの結びつきなしに本質的に同じ意味を持つ芸術運動──ないしは反芸術運動──を展開していったのである。そのことは、これらのダダの運動が、決して単に二、三の芸術家の気まぐれだけに由来するものでなく、もっと密接に時代の雰囲気と関連していたことを物語るものであろう。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「ダ  リ  しかし、多くの人々にとっては、シュルレアリスム絵画と最も密接に結びついている名前は、エルンストよりも、むしろスペインのカタロニア地方フィゲラスに生まれたサルヴァドル・ダリ(一九〇四-一九八九)であるかもしれない。マドリッドの美術学校に学び、日曜日ごとにプラド美術館に通って古典的作品の模写をするというきわめて正統的な絵画修業を経て画家となったダリは、ほとんど職人的と言ってもよいその堅実な技術を、「偏執狂的批判的方法」によって生み出された大胆な、しばしば血なまぐさい、時には官能的な風変りなイメージの表現に適用することによって、彼特有の複雑な白昼夢の世界を作り上げた。ダリの名前とともに名高いその「偏執狂的批判的方法」というのは、本質的には、たとえばオートマティスムのような「受動的」方法によって無意識の神秘を探ろうとする初期のシュルレアリストたちのやり方とは逆に、もっと積極的に想像力に働きかけることによって、個人の心の最も奥底の部分に眠っているイメージを甦らせようとするものである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「現代絵画の歴史におけるパウル・クレー(一八七九-一九四〇)の位置とその役割とは、バウハウスのプログラムの枠をはるかに越えるものではあるが、しかし、一九二〇年から三一年まで(実際にはワイマールに移ったのは一九二一年)、カンディンスキーとほぼ相前後してバウハウスの仲間に加わったことは、バウハウスの名誉を高めるものであったと同時に、クレー自身にとっても、重要な意味を持つものであった。事実クレーは、バウハウス滞在中に絵画造形についての思索を深め、自己の創造の根源を探ることができたからである。彼のその思索の成果は、バウハウス叢書の一冊として刊行された『教育的スケッチブック』(一九二五年)と、バウハウスでの講義ノートおよびその他の論文を合わせて彼の死後編纂された『造形思考』(一九五六年)のなかにまとめられている。ある意味ではクレーは、バウハウスでの教育の体験を通して、その溢れるような自由な想像力を他の誰も真似することのできない独自の形態のなかに定着していく術を体得していったと言ってもよいのである。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著

「そのような天使の世界を画面の上に実現するにあたって、きわめて重要な手段である色彩表現をクレーに教えたのは、一九一四年のチュニジア旅行であった。かつてドラクロワがモロッコ旅行によってはじめて真の色彩画家となったように、クレーも北アフリカの強烈な太陽の輝きに触れてはじめて色彩に開眼した。「私と色彩とはもう一体だ。私は画家なのだ」という『日記』のなかの一句は、この時のクレーの感激をなまなましく伝えている。そして事実、たとえば《カイルアンの城門の前で》(ベルン  クレー財団蔵)のような水彩画を、それ以前のデッサンとくらべて見れば、クレーがチュニジア旅行から得たものが何であったか、容易に推察することができるであろう。」

—『カラー版 近代絵画史 増補版(合本) (中公新書)』高階秀爾著



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2026年08月06日

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ネタバレ

印象派を最後に写実主義はその限界を迎え、その反動によって抽象の時代に突入する。ナビ派・ドイツ表現主義・フォービズムは自己の内面に重心を置き、その表現方法として色彩・構成等の造形に関する試作を深めていく。対象の解体と再構築を行なったキュビズムはその最たるものである。また本能的な素朴派や放浪のエコール・ド・パリもその試作に挙げられる。その後機械文明に感化された未来派やその逆とも言えるダダが生まれ、界隈を更地にした。しかしその更地を土台に意外性を重視したシュルレアリスムや統合・体系化を志すバウハウスが生まれた。

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2026年05月15日

Posted by ブクログ

上巻に引き続いて読みました。いやーこの辺りまで来ると抽象度が上がるのもあって、まとまりがあるのやらないのやら……。とはいえ、三次元の世の中を二次元の紙に描くときに、何を引き算するのか。印象派は色彩を残すために形ぼやかしてしまい、ピカソは立体を残すためにあらゆる視点を描きこんで形が支離滅裂になるというあたり、今まで考えたことのなかった視点で面白かったです。

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2022年02月27日

Posted by ブクログ

やはり図版不足のそしりは免れない。「世界の名画」全24巻のそれぞれの解説文として書かれたものをまとめたからだろう。図版を加えるだけで大著として成り立つので、再増補をぜひとも望みたい。

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2024年10月02日

Posted by ブクログ

ジョルジュ・ブラック
「感覚はdéformer(歪形)し、精神はフォルメ(形成)する」

Bauhaus

パウル・クレーとサルトル

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2022年10月28日

Posted by ブクログ

2020.08.23 19世紀末から二次大戦前までの絵画の約50年の歴史を知ることができた。しかし、(上)より(下)は複雑で、少し難しかったが、写実から抽象への流れがなんとなくわかりました。

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2020年08月23日

Posted by ブクログ

表紙のモンドリアンの絵が少しは理解できるかと思ったが、叶わなかった。絵画をたくさん紹介しているが、実際の絵が見えないだけに理解が追いつかなかった。

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2017年10月29日

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