武田勝頼の検索結果
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武田勝頼 宿命と闘い続けた若き勇将
1573年、甲斐の虎・武田信玄が上洛の志半ばで死去した。このとき勝頼28歳。信玄の四男であった彼は、兄達の自害や病死によって正式な後継指名を受けないまま家督を継ぐこととなった。もともと母系諏訪家の名跡を継ぐ予定だった勝頼には、強力な後ろ盾がいない。そのため家臣団に抑えがきかず亀裂が生じようとしていた。さらに急激に勢力を増してきた織田・徳川連合が、武田家の領地を脅かそうと何かとちょっかいをだしてくる。勝頼を取り巻く事態は予断を許さない状況にあった。そんな中、勝頼は巻き返しを図るべく高天神城を包囲する。父信玄さえも攻略できなかった難攻不落の城。これを落とせば綻(ほころ)び始めた家臣団が再び結束するかもしれない。そんな思いを胸に戦場に向かった勝頼は、怒涛の如く攻め立て見事攻略するのだった。名将信玄の跡を継ぐという宿命ともいうべき重責を担った若き武将の光と影を描く人物小説。 -
<武田勝頼と戦国時代>武田勝頼の数奇な運命
一族の通字「信」の字を与えられなかった勝頼が、武田家を継ぐことになるとは誰も思わなかっただろう。まして、最後の当主になろうとは…。 数々の合戦で培われた勇猛すぎる気性は、指導者としての勝頼の人生を狂わせていく。その数奇な運命の軌跡をたどる。 -
武田勝頼の滅亡は武田信玄の残したリソースを有効活用できなかったことに尽きる
はじめに 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」 戦国時代の雄・武田信玄の言葉である。 この言葉が示す通り、信玄は人を大切に扱った。人こそが城となり、石垣となり、堀となって守ってくれるものだと信じていた。 現代のビジネスでは、ヒト・モノ・カネ・情報が重要なリソースであると言われる。 リソースを列挙する際にもヒトが最初にあるように、ヒトは最も大切にするべきリソースだ。なぜなら、他のリソースと違い、ヒトは失ったら二度と取り戻すことは不可能な場合が多いからである。 信玄はそれを理解し、実践していた。 対して、後を継いだ勝頼は父・信玄の残したリソースを有効活用するどころか、自ら手放していったと言える。 武田家当主となって以降の勝頼の生涯を、リソースをどのように扱っていったのかということを現代のビジネスの観点から見てみよう。 -
徳川家康と武田勝頼
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」時代考証者による徹底解説! 家康の生涯における最強の宿敵・武田勝頼。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及んだ。その間の幾多の合戦や陰謀、家族・家臣たちとの軋轢から起きた事件には、最新研究によって知られざる側面が次々と明らかになってきた。長篠合戦の勝敗を分けた「意外な要因」とは? 家康の正室・築山殿と嫡男・信康の「死の真相」とは? 勝頼を滅亡に追い込んだ家康の「深慮遠謀な戦略」とは? 本書では武田氏研究の第一人者が、家康と戦国最強軍団との死闘の真実に迫る! -
信長と濃姫外伝4 二人の御曹司
【書籍説明】 天下一統を志す織田信長の嫡男勘九郎信忠は幼い時から利発な子供だった。 信長の正室美濃御前(濃姫)の養子となり、天下人の後嗣となるべく教育された。 ただ、信長は生来の自由人・革命家だったので、信忠をあまり束縛しなかった。 稀代の英雄武田信玄も上洛して天下一統を志したが、跡継に恵まれなかった。 嫡男は父信玄に反旗を翻して自刃し、次男は盲目、三男は夭逝したため、四男四郎勝頼を後嗣にするしかなかった。 信玄は上洛途上、勝利を収めながらも病死した。 信玄は自分の死を秘すように遺言した。 勝頼の肩には「名将信玄の跡継」の責任が重くのしかかった。 勝頼は父以上に好戦的になり、領土拡大に熱を入れた。 織田信忠は父信長とともに各地に出陣し、戦場経験を積んで行った。 長篠の戦いで、織田軍が大勝利を収め、武田軍は大敗した。 信忠は父信長から家督を譲り受け、勝頼は武田軍の威信回復に猛進した。 信忠は勝頼の人質となっている異母弟とかつての婚約者松姫の救出に甲斐に忍び入った。 優秀過ぎる父を持つ二人の御曹司の生き方は?