木村泰司のレビュー一覧

  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    イギリスは物語絵

    大衆は単純に色彩に魅了されるし、それは俗悪ってなんとなく分かる。ゴッホとかモネの絵は人気だけど正直俗悪だと思うし、あの二人の絵は知性に訴えかけてくるものが無いからそんな好きじゃない。

    バロック画家の王ルーベンス、プッサン、

    木村泰司
    (きむらたいじ)
    西洋美術史家
    西洋美術史家。1966年生まれ。米国カリフォルニア大学バークレー校で美術史学士号を修めた後、ロンドンサザビーズの美術教養講座にてWORKS OF ART修了。 ロンドンでは、歴史的なアート、インテリア、食器等本物に触れながら学ぶ。東京・名古屋・大阪と、企業や自治体向けに年間100回ほどの講演・セミナーを行っている。 『名画の言い分』『巨匠たちの迷宮』『印象派という革命』(以上集英社)、『名画は嘘をつく』シリーズ(大和書房)、『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』(光文社)、『おしゃべりな名画』(ベストセラーズ)、『西洋美術史を変えた名画150』(辰巳出版)など、著書多数。

    「それを象徴するように、紀元前 6世紀末以降、アテネでは守護神アテナに捧げられたパンアテナイア祭の際に、定期的に美男コンテストが開催されていました。美しいということは神に近づくことであり、また神もそれを喜ぶという考え方が浸透していたことがわかります。「美男 =神への捧げもの」という考え方です。「男は顔じゃない」ではなく、美しいか否かが人格までを決めるほど、美しさが重要だったのです。ちなみに、美男コンテストにはシニア部門もあったため、若い男性だけがもてはやされたわけではないことがわかります(ただし、皺は老醜と見なされました)。もうひとつ、ここまで男性の肉体美が称えられた背景として、当時のギリシャの男性に兵役の義務があったことがあげられます。兵役につくことにより選挙権を得ていたのです。古代ギリシャの都市国家スパルタでは、男子は 7歳で家族と離れて兵士として訓練されていました。つまり、体を鍛えることはギリシャ人男性にとって必須であり、その結果、肉体の優秀性を競い合うことになったのでした。それは哲学者といえども同じで、かの哲学者プラトン(紀元前 427頃〜前 347年)の本名はアリストクレスといい、プラトンは「肩幅が広い」というあだ名なのです。こうした背景から、古代ギリシャでは主に男性美を追求したギリシャ彫刻が発展することとなります。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「また、それまで裸体で表現されなかった女神像も、プラクシテレスによって等身大の裸体で表されました。ギリシャでは男性の裸体は賞賛されましたが、女性が裸になることはタブー視されていました。そのタブーを破り、プラクシテレスが制作した「クニドスのアフロディテ」は、当時のギリシャ世界で大センセーションを巻き起こす結果となったのです。もちろん、理由もなく女神を裸にするわけにはいかないため、沐浴するという形をとっています。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ちなみに、現代人からするとクラシック時代のギリシャ彫刻の表情が乏しく映るのは、「感情をあらわにすることは慎むべき」というギリシャ人の意識の表れです。苦しみや悲しみを意味する「パトス」を制御した表情が善とされ、それが悲劇の場面でさえクラシック時代の彫像特有の「パトス」の表情となっているのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ギリシャ彫刻を鑑賞する際に忘れてはならないのは、オリジナルが失われてしまったギリシャ彫刻をローマ人が模刻(コピー)したおかげで後世の私たちはその美を知ることができるという点です。紀元前 146年にギリシャを支配したローマ帝国は、建築や芸術面でギリシャ文明を継承します。そして、ギリシャ人の芸術家たちもローマに移り住みギリシャ美術が多く模刻されました。そのおかげでオリジナルの青銅製のギリシャ美術が失われたにもかかわらず、その姿を現在にまで残すことになったのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「元来は美術を贅沢とし、質実剛健を美徳としていたローマ人でしたが、紀元前 2世紀にヘレニズム時代のギリシャを支配したことで、大量のギリシャ美術が略奪品としてローマにもたらされます。また、ギリシャ人の美術家たちもローマへと移住したことによって、先進的なギリシャ文化がローマを支配することになるのでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「ただし、必ずしもローマ時代のコピーがギリシャのオリジナルの姿に忠実というわけではありません。たとえば、腕や脚のポーズなどに多少の違いがあることがあり、同じオリジナルから制作されていても、コピー同士を比べるとその相違点が際立ちます。こうして、ギリシャ美術における美への追求の成果はローマへと継承されます。そして、これらギリシャ美術、そしてローマの古代美術は美の「規範(古典)」と見なされ現代にまで至ります。したがって、西洋美術史の原点となるのが古代のギリシャ美術なのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「また、ローマ彫刻に裸体像が少ないのは、ローマ人はギリシャ人と違い、全裸で運動競技をする習慣がなかったからです。ただし、身分の高い人物の場合は、神格化もしくは神話の英雄にならって裸体で表されていることもあります。ローマの彫像の写実性は、現存する歴代のローマ皇帝の彫像と、同じ皇帝のコインの肖像を比べてみても、それぞれの容貌の特徴を強く表していることがよくわかります。さらに、同じ皇帝のいくつかの彫像を見比べてみるとわかりますが、ある一定の理想化はしながらも、年齢を重ねていく風貌の変化さえも表しているのです。こうした皇帝の彫像は帝国全土でコピーが作られ、公共の場のみならず私的な空間にも置かれました。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「また、ローマ美術の特徴としてスケールの大きい大規模な公共建築があげられます。たとえば、現在のイタリアの首都ローマを象徴する建物のひとつとして、 80年に完成した円形闘技場コロッセオがあります。 5万人ほどを収容できたコロッセオは、剣闘士試合や時に公開処刑など、見世物(スペクタクルム)で大衆の心を捉える人心操作のために建てられました。この古代ローマ最大の建造物は、ユリウス・クラウディウス朝断絶後にフラウィウィス朝を創始したウェスパシアヌス帝(在位: 69〜 79年)による、ローマ市民たちに対する政治的プロパガンダであり、いわゆる「パンとサーカス」政策のサーカスの部分の会場だったのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「こうした借用以外で、キリスト教独自のイメージも描かれています。たとえば、キリストを象徴する「魚」です。魚がキリストを象徴するのは、「イエス・キリスト、神の子、救世主」の頭文字を組み合わせると魚(ギリシャ語で「イクテュス」)となり、キリスト教が公認されるまでは、魚の図像がキリスト教徒の隠れシンボルとなっていたからです。このように、キリスト教公認以前にも、多数の宗教美術が存在していたのでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「たとえば、ブリューゲル作の「バベルの塔」からは、当時のネーデルラントの混乱が読み解けます。ブリューゲルが生きたスペイン領ネーデルラントは、まさに宗教的・政治的に混乱状態でした。政治的にはスペイン派(王党派)と独立派が対立し、宗教的にもカトリックとプロテスタント、そしてユダヤ人もが同じ地域で暮らしている状況でした。そのうえ、プロテスタントにおいてもカルヴァン派、ルター派、再礼拝派などが混在していたのです。さらには、そこで使われた言葉もさまざまであり、こうした多文化社会が多くの対立の原因になっていました。ブリューゲルの描いた「バベルの塔」からは、まさにこの混乱した状況が読み解けるのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「「バベルの塔」は、元々は旧約聖書が主題であり、人間がさまざまな言語を話すようになった原因が描かれた話です。「ノアの方舟」のノアの曾孫であるニムロド王が、神に対する復讐として再び人類が大洪水に見舞われないよう、神の領域である天まで届く塔を建築しようとします。しかし、人間の不遜や驕りに怒った神により、人間はさまざまな言葉を話すようになり、意思疎通ができなくなった結果、塔の工事は中断されてしまうのです。以後、同じ言葉を話すグループごとに人々は世界各地へと広がっていったという話です。まさに混乱したフランドルの多文化社会を暗示しているようです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「1494〜 95年にかけてイタリアを訪れた若きデューラーは、イタリアで最新のルネサンス美術に触れることになります。さらにデューラーは、イタリアにおける画家や彫刻家たちが「芸術家」として認識されている現状とその地位の高さに驚愕しました。当時、ドイツを含むアルプス以北の地域では、「芸術家」という概念はなく、あくまでも美術家は「職人」という扱いだったため、そのイタリア滞在は衝撃的なものとなったのです。彼の受けた衝撃は、その作品からも読み解けます。たとえば、彼は美術史上で最も早く独立した自画像を描いた画家ですが、「 28歳の自画像」では、自分を職人ではなく芸術家という地位に相応しい貴公子のように描いています。そして、かの有名な「 1500年の自画像」でも、自分をキリストのように正面像で描き、自らをドイツにおける芸術の改革者として描いています。ここからも職人から芸術家へと画家の社会的地位向上に臨む強い意思がうかがえます。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「バロック絵画の王「ルーベンス」バロックは、 17世紀のヨーロッパで、それぞれの国の政治や宗教、そして経済に応じて個性豊かに育っていった点も魅力です。そのため、国ごとに語らなければバロックの芸術性自体が見えにくいのも特徴なのです。バロックの源流となったローマだけではなく、ネーデルラントのオランダやフランドルでも、 17世紀にバロック美術が黄金時代を迎えます。ちなみに、美術史における「フランドル」という名称は、 17世紀のネーデルラントでオランダ独立後にスペイン・ハプスブルク家の支配下に留まった南ネーデルラントを指しています。つまり、美術史における「フランドル」は、現在のベルギー王国ほぼ全域を指しています。そのフランドルの画家で、その名声が国際的に鳴り響いた画家がピーテル・パウル・ルーベンス( 1577〜 1640年)です。北ヨーロッパ最大の巨匠であり、「王たちの画家にして画家たちの王」と称えられたルーベンスは、バロック絵画を象徴する壮麗で躍動感あふれる様式を確立しました。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「ベラスケスの作品に近づくと気が付きますが、彼の作品には後の印象派など近代絵画に見られるような筆使いの荒さがあります。しかし、離れて鑑賞するとその効果が一気に表れ、まるでその瞬間の空気感までもが表現されているようです。肖像画家としても極めて優れていたベラスケスは、卓越した洞察力によりその人物の奥深い内面性を描き出すことができたのです。こうしてベラスケスは、表面的な写実主義だけでなく、絵画を超越したリアリズムに到達した西洋美術史における最高峰の画家の一人となったのでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ちなみに「ジャンルのヒエラルキー(格付)」が確立したのもこの 17世紀でした。最上位には聖書や神話を主題にした歴史画があり、その下に順に人物画(肖像画)、風俗画、風景画、そして一番下位のジャンルとして静物画がありました。歴史画の格が高いとされるのは、画家自身がまず主題を理解しなければならないからです。さらに、画面には複数の人物を配し、相応しいポーズや感情を表現し、適切な背景を描かなければならず、構成力だけでなく古代建築などの考古学的な知識も要求されます。画家も鑑賞者も、教養を持ち合わせないと理解し難いのが歴史画であり、それゆえ格も高いのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「プロテスタント社会のオランダで人気を博したのが、一般市民の日常生活を描いた「風俗画」です。 17世紀オランダ風俗画の多くに、格言や教訓が込められました。正しい信仰生活へ導くための、さまざまな美徳や悪徳が描かれたのです。たとえば、風俗画に多い風景として「飲酒」の場面があります。これは、オランダ人がヨーロッパ一の大酒飲み(主にビール)として知られていたからです。当然、絵画のメッセージは「節制」を促しています。パイプ煙草も頻繁に描かれていますが、これも 17世紀のオランダでパイプ煙草が大流行していたからです。ギャンブル好きな国民性で知られたオランダ人らしく、その戒めとして昼間から居酒屋でトランプ遊びをする人たちが描かれることもありました。そして、オランダ人が好んだ絵画に、馴染みのある風景を描いた「風景画」もあります。この時代は、ヴェルサイユ宮殿の整えられた整形庭園に表れているように、他国では「目の前に広がる現実の風景」を美しいと見なす美意識はありませんでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「17世紀オランダ美術で、別格の存在がレンブラント・ファン・レイン( 1606〜 69年)です。最近の日本では、後に触れるフェルメールのほうが人気が高いようですが、レンブラントこそがオランダ美術史上最大の巨匠なのです。集団肖像画で名声を博した彼の代表作「夜警」は、「光と影の魔術師」と呼ばれる彼らしい劇的な明暗のコントラストが特徴的な作品です。また肖像画以外にも、歴史画を含め、そのジャンルは多岐にわたり、版画家としても名声を誇りました。レンブラントは、自身のイメージ戦略を強く意識した画家でもありました。たとえば、イタリア・ルネサンスの巨匠たちを強く意識した彼は、ルネサンス期のファッションで自画像を残しています。さらに、自身のサインも「レンブラント」とファースト・ネームだけでした。これは、レオナルドやラファエロなどルネサンス三大巨匠やティツィアーノのように、ファースト・ネームで名を残した画家たちに対抗意識を持っていたからです。そのイメージ戦略は見事に成功し、彼は苗字のファン・レインではなく、「レンブラント」として美術史に名を残すことになったのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「フェルメールが残した作品の多くは、市民たちの日常生活を描いた風俗画でした。そしてその作風は、他の地域のものに比べると上品であることが知られています。フェルメールが活躍したデルフトでは、近隣に住む宮廷人たちの注文を受けるため、上品な作風が求められたからです。たとえば、男女の恋愛の駆け引きといった「節制」や「肉欲に対する戒め」を示唆するような、決して内容的には上品ではない風俗画でも、オランダの他の地方の風俗画と比べると、同じ意味を持つとは思えないほど静謐な(静かで落ちついた)世界が広がっています。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「オランダといえばチューリップですが、 1633年から 1637年にかけて、オランダでは「チューリップ・バブル」が起こりました。虚構に対する戒めが強いプロテスタント社会のオランダでは、富裕層もファッションで富を誇示することをよしとしない習わしがあり、節制をよしとするオランダ人は食生活も質素でした。そんな彼らがファッションと美食の代わりに贅沢品として夢中になったのが、邸宅とそこを美しく飾る絵画であり、痩せたオランダの土壌でも栽培可能なチューリップだったのです。郊外に建てられた豪華な別荘の庭園の花壇も、チューリップ・ブームに拍車をかけました。経済がヨーロッパで最も発展したオランダでは、都市貴族や財を成した商人階級の間でチューリップの花は贅沢品となり、愛好家が一気に増えたのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「オランダ人が「黄金の世紀」と呼んだように、フランス人が誇らしげに「偉大なる世紀(グラン・シエクル)」と呼ぶ 17世紀は、フランスが政治的にも、そして文化的にも大きな発展を遂げた時代でした。絵画や建築の分野で「古典(規範)」が確立され、フランス文化の基盤が築かれたのです。 17世紀のヨーロッパ各国を席巻していたのは、劇的でダイナミックなバロック美術でしたが、フランスは独自の「フランス古典主義」を生み出します。文化的先進国だったイタリアの文化をそのまま「輸入」するのではなく、フランス独自の様式を確立したのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著



    「「プッサン知らずして、フランスの美を語るなかれ」 1663年、アカデミーの会長に就任したシャルル・ル・ブラン( 1619〜 90年)の下に確立したのが、ニコラ・プッサン( 1594〜 1665年)の美術理論を基にしたフランス古典主義でした。人生の円熟期のほとんどをローマで過ごしたプッサンでしたが、大勢の知識エリートと見なされた友人や顧客をフランスに持ち、彼らを通じてプッサンの作品はフランスにもたらされました。そして、弟子ル・ブランやプッサンのパリでの修業時代の友人でアカデミーの創設メンバーの一人でもあったフィリップ・ド・シャンパーニュ( 1602〜 74年)などがプッサンの絵画理論をフランスで広めたのです。その結果、「プッサン知らずして、フランスの美を語るなかれ」ともいうべき、ニコラ・プッサンこそがフランス美術の「規範」となったのでした。知識人であり、文人画家であるプッサンの画家としてのあり方、そして彼の哲学性が高い知的な特質を強調した絵画および絵画理論は、自由学芸との同一化を目指すアカデミーにとって、そして同業者組合との差別化を図りたい会員たちにとっての手本となりました。プッサンは、審美眼がなく教養にも欠ける大衆に迎合することをよしとしませんでした。その結果、教会の祭壇画のような公的な仕事をできるだけ避け、裕福で教養のある上流階級の顧客のための私的な作品を制作するようにしました。そのため、単純に眼だけを楽しませるような作品ではなく、知性と理性に訴えることによって感動させる作品を描くことができたのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「プッサンは、審美眼がなく教養にも欠ける大衆に迎合することをよしとしませんでした。その結果、教会の祭壇画のような公的な仕事をできるだけ避け、裕福で教養のある上流階級の顧客のための私的な作品を制作するようにしました。そのため、単純に眼だけを楽しませるような作品ではなく、知性と理性に訴えることによって感動させる作品を描くことができたのです。さらに、主題は高貴でなければならないと考えたプッサンは、大衆は単純に色彩に魅了されると見なし、それすなわち俗悪と考えました。彼は絵画制作において、感覚に訴える色彩ではなく、知性と理性に訴えることができるフォルムと、秩序に基づいた安定した構図を重視したのです。プッサンが友人にあてた手紙から言葉を借りるならば、「知的に絵を読む」ということです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「実はフランスでは、独自の古典主義を確立する以前にも、フランスならではの洗練された宮廷様式が存在していました。この宮廷様式の発展については、フランソワ 1世(在位: 1515〜 47年)を抜きにしては語れません。彼は、レオナルド・ダ・ヴィンチを庇護した、偉大な絵画コレクターとしても知られています。たとえば、あの「モナ・リザ」がフランスにあるのも、フランソワ 1世のおかげなのです。ルーヴル美術館は、フランス革命後に国有化された王室の美術コレクションを一般公開したものですが、そのうちイタリア・ルネサンス絵画の至宝の多くはフランソワ 1世の絵画コレクションなのでした。このフランソワ 1世によって、イタリアより 1世紀ほど遅れてフランスにもルネサンスの風がそよぐことになるのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ルイ 16世(在位: 1774〜 92年)の時代になると、女性の髪型の「高さ競争」が始まりました。髪が高すぎて馬車に乗れない人が現れたほどです。 1778年には、舞台が見えなくなるという理由で、オペラ座に高い髪型で入場することが禁止されています。このことからも、その高さが異様だったことがわかるでしょう。また 18世紀には、男性の化粧も当たり前となります。髪粉を用いた白や灰色のヘアー・スタイルを際立たせるために、頬などに赤い化粧品を使用するほどでした。もちろん、その化粧を台無しにする髭などは論外です。結果、 18世紀のフランスでは男性の顔から髭が消えてしまうのでした。当然、女性の化粧もエスカレートし、白粉でしっかりと顔を塗って赤い顔料で化粧をし、さまざまな形をしたウールや絹製、またはビロード製の「つけぼくろ」を顔に付けて肌の白さを際立たせました。 18世紀の女性の肖像画で、目尻に描かれている黒い斑点を見つけたら、加齢によるシミではなく「つけぼくろ」だと思ってください。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「もちろん、今まで記してきたことは王侯貴族たちに限られたことです。しかし 18世紀という旧体制時代では、文化・流行の潮流を作っていたのは王族であり、その周りにいた上流貴族と彼らに憧れる上層市民たちでした。そのため、建築、絵画、室内装飾もまた、宮廷人たちの好みに合わせ発展していきます。女性的な嗜好を持ち、美の悦びを求めるようになった彼らのために、絵画もまた、理性に訴えるデッサンを重視したものではなく、感覚に訴える色彩が重視されたものが台頭していくのです。これが、「ロココ絵画」時代の到来です。ロココ絵画の芽生えは、 17世紀末にさかのぼります。 17世紀末、王立絵画彫刻アカデミーの会員の間でニコラ・プッサンを規範とするフランス古典主義に異を唱えるグループが出てきました。彼らは「プッサン派」に対して「ルーベンス派」と呼ばれます。ヴェネツィア派の巨匠たちの影響を受け、豊麗な色彩表現で画面を構成した「王たちの画家にして画家たちの王」ことピーテル・パウル・ルーベンスを規範とするグループです。理性に訴えるデッサンのほうが感覚に訴える色彩よりも高尚だとする「プッサン派(デッサン派)」に対して、「ルーベンス派(色彩派)」は自然に忠実な色彩は万人に対して魅力的であると主張しました。「ルーベンス派」は、理性的なデッサンは専門家にしか〝受けない〟と信じたのです。「理性」対「感性」、つまり「デッサン」対「色彩」の戦いの始まりです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ロココ絵画の三大巨匠ロココ絵画の開幕を告げたのは、フランス人ではなくフランドル出身のジャン =アントワーヌ・ヴァトー( 1684〜 1721年)でした。貴族趣味を象徴するようなロココ絵画の生みの親である彼の作品には、彼よりも後に登場するロココ絵画とは違い、ただ享楽的なだけでなく、気品ある叙情性や甘美で繊細な感受性といった魅力があふれています。たとえば、王立絵画彫刻アカデミーへの入会審査作でもある「シテール島への巡礼」では、若い 8組の男女の島での甘美で切ない恋模様を、幻想的な舞台のように描いています。歴史画でもなく風俗画でもないこの作品を、アカデミーは「雅やかな宴」と記録しました。現在の美術史では、これを「雅宴画」と訳すことが多いです。優雅に装った人々が、田園風景の中で楽しむ社交や恋の駆け引きの情景が雅宴画の主題と見なされ、ヴァトーはその先駆者とされました。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「ナポレオン自身は美術愛好家というよりも、美術品が持つ「力」を強く認識していた人物でした。対外戦争の戦利品として美術品を貪欲に持ち帰り、それらをルーヴル宮の自身の名を冠した「ナポレオン美術館」で公開し、その威光を誇示したように、美術品そのものよりもその総合的な力を認識していた人物だったのです。絶対王政を築いたルイ 14世も、自身の威光をフランス古典主義によって視覚化しましたが、ナポレオンも同様に、建築や美術のイメージの力を自分の政権と権力に結びつけ、自分の帝位と帝国のイメージ作りに利用する傾向が顕著でした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」でも、実際の出来事を題材としています。これは、王政復古後のブルボン朝で起きた、シャルル 10世(在位: 1824〜 30年)による言論の自由への規制、選挙権の縮小などの政策に対し、パリ市民たちが立ち上がった「七月革命」をテーマに描いたものです。自由の寓意像は革命の象徴であり、七月革命後に国旗となる三色旗を揚げて民衆を導いています。革命の犠牲者たちを乗り越え進むその雄姿は、いつの時代も観るものを圧倒しその感情を鼓舞させます。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「「私は天使を描くことはできない。なぜなら、私は天使など見たことがないからだ」と語ったとされる彼は、造形的には古典主義やロマン主義とも距離を置いた写実主義(レアリスム)の推進者でもありました。フランス古典主義は伝統的に「理想化 =良い趣味であり、見えるとおりに写してはいけない」という規範がありました。つまり、あるがままに描くのではなく、〝あるべき姿〟で描かなくてはならなかったのです。しかし、写実主義を信条としたクールベは、こうしたフランス古典主義はもちろんのこと、感受性に訴えるロマン主義にも背を向けます。そして、本来なら歴史画にのみ許された大画面に現実的な人々や日常を描き、アカデミーの伝統にも背いたのでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「そしてこのクールベが築いた近代絵画への礎は、伝統的な「見たことのない世界を描く」歴史画的主題から、「自分が見たままの世界を描く」という〝主題の近代化〟でした。自分が見た世界を忠実に描く姿勢は、後に印象派によって引き継がれ、発展していくことになります。そして、賛否両論を巻き起こしたクールベの革新性は、「現代美術 = Pushing the boundaries(垣根を取り払う)」という方程式を確立する結果となり、現在に至るのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「クールベ同様にマネは、美術界の問題児とされてしまいます。彼の輪郭がはっきりしている大胆な筆使いや、平面的で単調な色面や激しい色彩の使い方が、あまりにも「奇妙」に映り、激しい批難にさらされたのです。それは明らかにラファエロ以降の絵画の伝統だった三次元性からの逸脱でした。ちなみに、このマネ特有の造形性には、日本美術収集家だった彼の、浮世絵からの影響も指摘されています。この絵画の二次元性の強調は、近代絵画の定義である「何を描くのか」ではなく「どう描くのか」を探求する新しい造形的アプローチでした。こうして、マネによって近代絵画の定義が方向付けられました。これが、彼が「近代絵画の父」と呼ばれる所以なのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「そして、やはりこの絵についても観客の深読みがありました。しかし、マネは単純に伝統的なヌードを現代風に焼き直しただけで、鑑賞者に対して何か倫理的なメッセージを込めたわけではなく、当時のパリにおける社会の一面を描いただけだったのです。また、この作品はこれまで以上に平坦な描き方と遠近感のなさで絵画の二次元性が強調されています。その結果、マネはルネサンス以降の伝統である「三次元の世界の再現」から逸脱した造形性によっても批判を浴びてしまったのでした。クールベのように、自分の主義主張で物議をかもすことを望んでいたわけでもなく、保守的な上層ブルジョワジー出身で世間的な成功や賞賛を求めていたマネは、自分では傑作と信じていた「オランピア」が、 2年前の「水浴」を上回る世間からの批判と嘲笑を浴びせられたことに深く傷ついてしまいます。そのため、マネは悲しみを癒すため、パリを離れてマドリードへと旅立っていきました。失意の中、初めて訪れたスペインでディエゴ・ベラスケスの作品から影響を受け、翌年に「笛を吹く少年」を描いています。簡素に平面化された広々とした背景にベラスケスの影響が読み取れます。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「また、マネは色彩のコントラストで立体感を表現しました。しかし一方で、抑えられた色調と平坦に描かれた色面、そしてクッキリと描かれた輪郭線は、浮世絵からの影響を感じさせ、より一層絵画の二次元性が強調されています。色数を切りつめているところも浮世絵的です。さらにマネは、死の前年、主題にしてきた「現代生活」の集大成とも言える作品を完成させました。「フォリー =ベルジュール劇場のバー」です。マネは男と会話している虚ろな表情の女の姿を描きました。その女は、まるで周りに置かれた酒や果物のように情感がこもっておらず、彼女自身も売り物のひとつであるようにたたずんでいます。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「西洋美術史を振り返ってみると、イギリス美術は影が薄い印象を受けますが、その背景には主に2つの原因があります。そのひとつが英国国教会の成立です。 1534年、ヘンリー 8世(在位: 1509〜 47年)は「国王至上法」を発布し、ローマ教会(カトリック)から独立した、国家元首が教会の長を兼ねる英国国教会を成立させました。ヘンリー 8世自身はローマ教皇とは絶縁したもののカトリック信仰を生涯守りましたが、英国国教会成立の余波はイングランド国内におけるプロテスタント運動を活性化させることになります。そのため、娘のエリザベス 1世(在位: 1558〜 1603年)が 1559年に国王至上法を再発布し、英国国教会の改革を図ります。カトリックとプロテスタントの融合を図り、礼拝様式などはカトリック的でありながらも、教義的にはプロテスタントであり、そしてローマ教皇ではなく国家元首が教会の主権者であるという中道路線を取りました。そのため、英国国教会はプロテスタントに分類されるのです。しかし、この宗教改革によってイングランドでも聖像破壊運動が激化し、新たな宗教美術の制作が禁じられたどころか、それまでのもの(とくに聖像崇拝に直結しやすい彫像)が破壊されてしまいます。これにより、イギリス美術の多くが失われてしまったのでした。そして、もうひとつ、イギリス美術の影が薄い原因は、 18世紀になるまで大陸の芸術家と肩を並べる「自国の芸術家」が存在しなかったことです。イタリアやフランスに比べると、長年にわたりイギリスは文化的後進国でした。事実、ブリテン島に「ルネサンス」が伝わったのもイタリアから 2世紀遅れ、ライバルのフランスと比べても 1世紀遅れのことだったのです。ロンドンに王立美術院が創立されたのも、フランスの王立絵画彫刻アカデミー創設から 120年遅れた 1768年のことでした。そして、それ自体もフランスのアカデミーを手本にしています。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「イタリアやフランスに比べると、長年にわたりイギリスは文化的後進国でした。事実、ブリテン島に「ルネサンス」が伝わったのもイタリアから 2世紀遅れ、ライバルのフランスと比べても 1世紀遅れのことだったのです。ロンドンに王立美術院が創立されたのも、フランスの王立絵画彫刻アカデミー創設から 120年遅れた 1768年のことでした。そして、それ自体もフランスのアカデミーを手本にしています。宮廷画家も「出稼ぎ外国人」に頼ることが多く、伝統的に文化・芸術は大陸から「輸入」するものであったイングランドが、独自の文化を形成していったのは 18世紀に連合王国(イギリス)となってからのことでした。 18世紀になり、ようやくイギリス人画家たちが自国の美術を牽引するようになったのです。イギリスはそれまでの大陸文化の輸入ではなく、イギリス独自の様式美を生み出していきました。そしてその新たな様式は、庭園や絵画など、さまざまな国の芸術・文化に影響を及ぼすまでになるのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「そして、 17世紀のオランダ人が自分の周りの身近な景色を風景画に求めたように、 19世紀のフランスのブルジョワジーもまた、馴染みのある現実的な風景画を求めるようになります。パリなどの都市部の人口増加の背景には、農村部からの人口流入がありましたが、経済的ゆとりが生まれた彼ら「都会人」にとって、現実的な田園風景こそが自分たちの原風景であり、そこに郷愁や安らぎを覚えたのです。産業革命以降、洋の東西を問わず田園風景を愛でないのは、現実に農村で生活し、農作業の過酷さを知っている農民だけになっていったのでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「このような都市化の時代に登場したのがバルビゾン派です。 1830年代以降、パリの南東約 60キロに位置するフォンテーヌブローの森近くのバルビゾン村やその近くのシャイイ村を訪れ、現実的で平凡な風景を写実的に、もしくは主観的に描いた画家たちのことを指します。バルビゾン派を代表する画家の一人がテオドール・ルソー( 1812〜 67年)です。彼はフランスにおける純粋な「風景画」の創始者でした。 1849年にバルビゾン村に移り住んだ彼は、伝統的なアトリエでの制作ではなく、屋外で写生に基づいた風景画を制作した新しいタイプの画家だったのです。また、カミーユ・コロー( 1796〜 1875年)は、サロン向けには古典主義に則った歴史画的風景画を描いていましたが、世間的に認知された 19世紀半ば頃からは、靄に包まれたような、叙情的で詩情溢れる風景画で人気を博するようになります。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「こうした事情もあり、長年にわたりミレーは、本国フランスに比べアメリカや日本でより高い評価を得ている現実があります。キリスト教精神に則った「祈りと労働」が描かれ、貧しい農民を「英雄化」したミレーの作品は、フランスよりもプロテスタンティズムが強いアメリカ、それもピューリタニズム(清教徒主義)が強いボストンを中心にしたニューイングランド地方で高く評価されたからです。とくに、貧しいながらも勤勉で道徳性の高い農民の姿を描いた「晩鐘」は、敬虔なアメリカ人の琴線に触れ大評判となり、何枚もの複製が作られアメリカの家庭を飾りました。日本でも清貧を是とする国民性があり、その国民の大部分のルーツが農村にあるため、ミレーの人気が高いことも頷けます。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ちなみに、「晩鐘」では貧しい夫婦が収穫物のジャガイモを前に祈りをささげていますが、当時のフランスでは現代と違い食物としてのジャガイモの地位が大変低く、その点からも「絵画は高貴でなくてはならない」という呪縛が強いフランス人には抵抗感があったことは想像に難くないでしょう。一方、異文化で美術の伝統も異なる新興国アメリカでは、そうした偏見はなく、むしろ肯定的に受け入れられたのです。新しいものに対して保守的になりがちなフランスの富裕層に対し、後に印象派に対してもそうだったようにアメリカの富裕層のほうが新しいものに対してより寛容なのです。ミレーの名声が本国フランスでも高まったのは、アメリカより遅く晩年になってからのことでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「こうした社会のブルジョワ化によって、 19世紀のフランス美術界には、ロマン主義やバルビゾン派などの新たな様式が台頭し、受け入れられていきます。しかし一方で、新古典主義を公式の様式とする美術アカデミーの権威は失墜することなく、それどころか歴然とした権力を発揮し続けることになります。フランスは古典主義の伝統が強いうえ、フランスの富裕層の多くも保守的な傾向が強かったからです。台頭したブルジョワジーの多くも、自分の審美眼に自信がなく、美術品に対しても美術アカデミーという「ブランド」を求めました。洗練された趣味や審美眼は、一朝にして成るものではないことを当時のブルジョワジーもよくわかっていたのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「旧体制時代の王侯貴族が芸術家のキャリアと生活を支援することができたのと違い、市民社会においては、よほどの大資産家でもない限りブルジョワジーにそのような支援は不可能です。そのため、 17世紀のオランダ人画家同様に、フランスの芸術家たちも不特定多数の客をつかむ必要が出てきました。しかし、この時代の若い画家たちが置かれていた状況は、現代とは大きく違います。莫大な費用がかかる個展が一般的でない時代だったため、サロンがほぼ唯一の展覧会であり、サロンに入選することが芸術家として生きていくためには不可欠だったのです。昔の演歌歌手にとっての「紅白歌合戦」のようなものです。サロンで入選を重ね名前を売ることによって、公的や私的な制作注文を増やすことができたのです。当時のサロンは入場者数が数十万人におよび、新聞や雑誌がサロンについてくまなく記事を掲載する大イベントでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「そしてマネは、 1868年には印象派の女性画家ベルト・モリゾ( 1841〜 95年)とも知り合います。マネ同様に高級官僚を父に持ち、上層ブルジョワ階級の家庭で育った美しいモリゾは、マネの作品のモデルを務めるようにもなります。さらに、マネ家とモリゾ家との間でも社交的な交流が始まり、モリゾの夫となったのもマネの弟でした。こうしてマネを介して、印象派のメンバーたちの人間関係が構成されていきました。ちなみに、マネは印象派の一人として語られることも多いのですが、実は彼は、後ほど述べる印象派展には参加していません。それどころか、彼は印象派展への出品を断固として拒否し続けていたのです。マネと印象派たちとの密接な人間関係は、彼が印象派の一員だったようなイメージを与えていますが、マネは当時の印象派にとっての「指導者」的存在に過ぎなかったのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「ヨーロッパ人のように古典主義に対する先入観が薄いアメリカ人は、文化的コンプレックスを抱いていたフランスからもたらされる新しい美術を歓迎しました。元来アメリカ人は、新しいものを受け入れる度量がフランスの富裕層よりあるのです。アメリカの富裕層はフランスの場合と違い、そのほとんどがプロテスタントかユダヤ人であったことも、装飾性が強く、聖書など古典絵画的な主題性が強くない印象派を受け入れやすかったと言えるでしょう。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著


    「アメリカン・マネーに支えられたヨーロッパの芸術・文化 19世紀末に経済的に発展を遂げ、 20世紀には世界一の経済大国となったのがアメリカです。 19世紀後半以降のヨーロッパの文化は、芸術、ファッション、そしてワインでさえも、このアメリカ人が有する莫大な富により支えられることになります。それゆえ、近代・現代美術の発展も、アメリカを抜きに語ることはできません。アメリカ人がヨーロッパの美術市場に影響を与え、そして牽引していくようになるのは、印象派が世間を騒がし始める 19世紀後半になってからのことでした。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著

    「女性たちが開拓した現代アートの世界アメリカにおける芸術分野の発展には、ヨーロッパとは比べ物にならないほど女性のパワーと働きも大きく影響しました。 19世紀後半には、アメリカの上流階級の女性たちの間で、美術に対する関心が高まり、美術史の講座に上流婦人たちが集まるようになります。その結果、男性社会的なヨーロッパ美術界と違い、アメリカの上流階級では、美術の面においては女性もイニシアティヴを取るようになっていくのです。男尊女卑の風潮が当たり前だった時代のアメリカでしたが、ヨーロッパに比べるとはるかに女性が主義主張を唱えやすかったことがわかります。当時のヨーロッパ人にとっても、アメリカ人女性の独立心や自由さは目を見張るものがありました。こうしたアメリカの上流婦人たちが、アメリカの美術館文化をより成長させていったのです。」

    —『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村 泰司著









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    2026年08月09日
  • 名画という迷宮

    Posted by ブクログ

    カラヴァッジョはホモ、ルーベンス、プッサン、フェルメール、

    木村泰司
    (きむらたいじ)
    西洋美術史家
    西洋美術史家。1966年生まれ。米国カリフォルニア大学バークレー校で美術史学士号を修めた後、ロンドンサザビーズの美術教養講座にてWORKS OF ART修了。 ロンドンでは、歴史的なアート、インテリア、食器等本物に触れながら学ぶ。東京・名古屋・大阪と、企業や自治体向けに年間100回ほどの講演・セミナーを行っている。 『名画の言い分』『巨匠たちの迷宮』『印象派という革命』(以上集英社)、『名画は嘘をつく』シリーズ(大和書房)、『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』(光文社)、『おしゃべりな名画』(ベストセラーズ)、『西洋美術史を変えた名画150』(辰巳出版)など、著書多数。

    「1545年から 1563年にかけて、イタリアのトレント(ドイツ語名トリエント)で計 25回開催されたこの会議は、開催地の名を冠してトリエント公会議と呼ばれています。このトリエント公会議では、のちに大きな影響を与える決定が下されました。宗教美術は、誰でも一目見れば理解できる「わかりやすさ」と、思わずカトリックに帰依したくなるような「高尚」なものでなければならないと明確に決められたのです。  それまでの 16世紀の宗教美術には、マニエリスム様式という難解な表現が横行していたからです。  では、なぜカトリックは、絵画の力を借りなければならなかったのでしょうか。  当時、カトリックの一般信者のほとんどは、聖書を読みませんでした。ラテン語の聖書を読むのは聖職者の役割であり、一般信者は聖職者からありがたいお説教を聞いて、キリストの教えを理解したのです。  一方プロテスタントは、聖書を語る教皇に権威があるのではなく、権威は聖書そのものにあると考える福音主義です。一般信者も聖書を読めなくてはなりません。  すでに 16世紀後半から印刷技術が発達し、各国語に訳された聖書が数多く出版されていました。その結果、プロテスタントの国では識字率が向上し、資本主義と連動して経済大国となる素地をつくっていくのです。  プロテスタントの勢力に危機感を抱いたカトリックが、宗教美術の力を巧みに利用することを思いついたのは、今でいうメディア戦略なのです。  それまでの「耳で聞く聖書」から、「宗教画 =目で見る聖書」へと展開することによって、よりわかりやすく、より劇的に見る者の心に訴えかけ、信者を獲得しようとしたのでした。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「印象派の画家エドガー・ドガ( 1834 ~ 1917)は、「絵画には少しのミステリーが必要だ」と言いました。私も、皆さんのご想像にお任せしたいと思います。  カラヴァッジョは、バイセクシュアルな性癖があったといわれています。この時期の世俗的な作品を見ると、とても納得させられる話です。若かりし彼のこの時期は、若い男性ばかりがインスピレーションの源だったようです。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「20代半ばまでどん底生活を送っていたカラヴァッジョは、おかげで救われました。デル・モンテ枢機卿のマダーマ宮殿(パラッツォ・マダーマ)に部屋を与えられ、日々の食事と絵を描く自由を提供されることになったのです。パラッツォ・マダーマは、 1871年以降、イタリア国会上院が置かれることになる立派な宮殿です。  ともあれ、裕福で権力をもつパトロンをつかんだカラヴァッジョは、出世の道を駆け上っていきます。デル・モンテ枢機卿は、カラヴァッジョに友人や知人の美術愛好家たちを紹介してくれました。  パラッツォ・マダーマで暮らした 4年間で、カラヴァッジョは世俗的な主題の作品も描いていますが、初めて宗教画にも挑戦しています。デル・モンテ枢機卿と同じ名前の聖人を主題にした、《聖フランチェスコの法悦》【 11】です。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「カラヴァッジョは、聖なる物語を世俗的な空間にもってきて、その辺を歩いている普通の人をモデルに描きました。このカラヴァッジョの革新的な表現のしかたは、デル・モンテ枢機卿のように美術に対して審美眼のある人々や、若い画家たちなどからは絶賛されました。レンブラント( 1606 ~ 69)のような他国の、プロテスタントの画家までもが、後に影響を受けることになるのです。  しかし、多くの一般信者はあまりにも現実的・世俗的すぎると感じました。市井の人々は、自分たちと同じような人物が描かれた宗教画よりも、美しく理想化された宗教画のほうをありがたがったのです。美術館ではなく、教会で鑑賞するとなると、まあ、その気持ちもわからないではありませんね。  カラヴァッジョの聖マタイ伝三連作に関しては、興味深い事実があります。《聖マタイと天使》【 15】の、 1945年に戦火で焼失した第 1バージョン【 16】は、教会に受け取りを拒否されていたのです。  第 1バージョンに描かれたマタイは、農夫を思わせる武骨な姿で、剝き出しになった脚を組んでいました。実際に聖職者がミサを執り行なおうとすれば、マタイの突き出た左脚が、聖職者の頭上にきてしまうのです。そのうえ、市井の少年のように描かれた天使は、あまりにもコケティッシュでなれなれしい態度で描かれていました。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「人間は 30代半ばにもなると、変わろうとしてもなかなか変われないものです。せっかく騎士団に入ることができたカラヴァッジョでしたが、半年もたたないうちに、「堕落した、辱める団員」として騎士団から除名されてしまいます。そして、逮捕され牢獄につながれてしまったのです。  当時の起訴状が記録に残っていないため、カラヴァッジョが何をしたのか、様々な憶測があります。彼に好意的でない歴史家たちは、例の美しい小姓との不適切な関係が原因などとしています。  また、ローマでの殺人事件を騎士団に隠していたのが発覚したのだとする説もあります。でも、今のところ、ある騎士との喧嘩が原因だったとする説が有力です。いつまでたっても学習しない、カラヴァッジョだったのです。  絶体絶命のカラヴァッジョに残された道は、もう脱獄しかありませんでした。犯した罪が、規律を重んじる騎士団では、許されそうもない行為だったからです。  脱獄は幸運なことに成功し、カラヴァッジョはシチリア島にたどり着きました。しかし、どうもこの頃から精神のバランスを崩しはじめていたようです。彼は、死刑執行に対する恐怖におびえながら、日々を過ごすようになっていました。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「 この苦渋のジーゲン時代に、後世の美術史家たちから「バロック絵画の王」と呼ばれることになるピーテル・パウル・ルーベンスが誕生したのです。 1577年6月 28日のことでした。ところが、ルーベンスは自らをケルン生まれと称しています。おそらく、ルーベンス一家のスキャンダルと結びつく街ジーゲンを、自身の人生から消し去りたかったのでしょう。  翌年、父ヤンは最終的に赦免されてケルンに移り住み、法律家の仕事に戻ることができました。幼いルーベンスはケルンの家で、父親からは人文主義的教養、母親からは厳しい躾を受けます。高学歴の父の教育方針でケルンでは学校に通い、恵まれた素養を伸ばすことができたようです。ちなみに 3歳年上の兄のフィリップスは後に高名な古典学者になる人物です。後年、古典的教養を要する寓意を駆使して大量に作品を制作することができたのは、こうした教育や兄の影響が大きかったといわれています。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「そんなルーベンス一家の転機となったのは、 1587年3月、父ヤンの死去でした。夫亡き後、マリアは一家で故郷アントウェルペンに戻ることを決意します。それに伴い、一家はカトリックに改宗します。  ルーベンスは 10歳くらいまではドイツ・ケルンでプロテスタント教徒として育ち、以後は敬虔なカトリック教徒として両親の故郷アントウェルペンで成長しました。若きルーベンスの青春の始まりでもありました。  アントウェルペンでルーベンスは、兄フィリップとともにラテン語学校に通いはじめます。この学校で流暢なラテン語を身につけ、上流階級の必須の教養であったウェルギリウスなどの古典文学や、古代人の著書を学んだことは、彼の膨大な作品群における主題や寓意の豊富さのバックグラウンドになりました。  当時、ヨーロッパのほとんどの地域では、まだ画家は芸術家ではなく、職人と見なされていました。その時代に、ルーベンスが上流階級の少年にふさわしい教育を受けたことは、彼にとって大きな意味がありました。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「しばらく平穏だった一家でしたが、経済的な問題でルーベンス兄弟は学業を続けることが困難になりました。姉ブランディーナの結婚の持参金を工面したため、一家の家計が苦しくなったのです。   13歳のルーベンスは、ラレング伯爵の未亡人マルグレーテ・ド・リーニュの小姓に召し上げられました。小姓勤めは、良家出身で教養はあっても資産がない若者の出世コースです。母マリアは、息子に宮廷人としての道を歩ませたかったのでした。  しかし母の期待をよそに、宮廷勤めは長く続かず、翌年 14歳になったルーベンス少年は、遠い親戚にあたる地元の風景画家トビアス・フェルハーフト( 1561 ~ 1631)に弟子入りし、画家の修業を始めました。   1592年からはアダム・ファン・ノールト( 1562 ~ 1641)の工房に移り、次いで、洗練された教養と高い知性の持ち主であった画家オットー・ファン・フェーン( 1556 ~ 1629)の工房に勤め、画家としてのみならず学者としての彼からも大きく影響を受けたのです。  そして 7年間の修業を終えたルーベンスは、 21歳で聖ルカ組合(画家中心のギルド)に登録されました。親方画家として独立し、弟子を取ることもできるようになったのです。  しかし、それだけで満足するようなルーベンスではありませんでした。彼は他の北ヨーロッパの画家たちのように、イタリア旅行を夢見るようになります。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    プッサンは非常に研究熱心な画家であり、様々な知識を多くの人たちから学びとっていきました。そうして若いときから、独自の絵画理論を探求していました。  例えば、バルベリーニ家との縁で、バルベリーニ文庫の秘書官カシアーノ・デル・ポッツォ(1588~1657)と知り合ったプッサンは、古物研究家の彼が所蔵する文献やスケッチを自由に研究する機会を与えられました。古代の風俗描写をする場合、正確な時代考証を心がけていたプッサンには知識の宝庫で、大きな収穫がありました。熱心な美術収集家でもあったポッツォは、プッサンのパトロンの一人となっただけでなく、ともにローマ古代史を研究する者として長年、友情を育むことになるのです。  プッサンはまた、古代彫刻も熱心に研究しました。フランドル人の彫刻家フランソワ・デュケノワ(1597~1643)と同居し、デュケノワと親しくつき合いながら、彫刻に対する見識を深めていきました。古代彫刻を通じて、人体美の理想を把握していっただけではありません。人間の理念や感情が、表情やポーズ、そして動作にどう表われるのかという古代彫刻の根本にも近づいていったのです。プッサンの作品からは、彼が研究していた古代彫刻のポーズの名残を、いくつも見ることができるのです。  フランス時代からプッサンは人体解剖学を学んでいましたが、ローマでも引き続き解剖学書で学び、専門家の講義や指導も受けています。さらに、主題(人間)と自然や建物とのバランスをより正確に描写するために、幾何学や光学といった分野にも研究の手を伸ばしています。  プッサンは読書家であり、ルネサンスを代表する万能の人レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404~72)の『絵画論』(1435)を愛読し、アルブレヒト・デューラー(1471~1528)の著書からは比例について学びました。様々な教養を身につけたプッサンは、1651年に刊行されたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の『絵画論』(1498)の解説もしています。

    「文学も好きで、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』や、悲劇の天才詩人トルクァート・タソ( 1544 ~ 95)の叙事詩まで読破し、多大なインスピレーションを受けました。こうした努力と研究を重ねていくことで、プッサンは理性美に基づいた人間の精神の理想を、絵画の中で表現できるようになっていくのです。  絵画の研究に惜しみなく情熱を注いできたプッサンに、ちょっとした災難が振りかかります。プッサンがサン・ピエトロ大聖堂の祭壇画を制作していた頃のことだったようですが、彼と友人たちは突然ローマの街角で、イタリア人の兵士に襲撃されたのです。間一髪でプッサンは危機を免れましたが、同行していた友人は右手の中指を斬られてしまったのです。もしこれがプッサン自身だったら、画家としては致命傷になっていたかもしれません。三十年戦争( 1618 ~ 48)でフランスの外交がプロテスタント寄りになったことで、ローマ教皇庁とローマのカトリック教徒が激怒し、反フランスのムードが高まっていたのです。以来、「郷に入れば郷に従え( When in Rome, do as the Romans do)」のたとえどおり、プッサンはイタリアではフランス人風ではなく常にローマの紳士の装いに徹するようになりました。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「  1657年、プッサンはローマの聖ルカ・アカデミーから会長になることを請われますが、なぜか画家としての最大級の栄誉を丁重に断ってしまうのです。晩年のプッサンは、美術界周辺に渦巻く権力や虚飾にうんざりしていたのでしょうか。 60歳を超えたプッサンは、何よりも自由でいることと心の平穏を大切にしていたのです。  この頃のプッサンの息抜きは、朝早く起きて 1 ~ 2時間ほどローマのピンチョの丘で自然や街を眺め、よき友人たちと美術などの知的な会話を楽しむことでした。そして、夜になると今度はスペイン広場に出向き、友人たちと群集に交じって散歩を楽しみました。世俗的なことに惑わされることを嫌い、ごく親しい友人としかつき合わなかったのです。巨匠プッサンのありがたい言葉を拝聴したがる画家や知識人は多くいましたが、彼は尊大な態度をとるようなことは決してありませんでした。その穏やかで謙虚、敬虔で家族思いの人柄は、多くの人の尊敬を集めたようです。  また、プッサンは決してフランスを捨てたわけではなく、故国の政治や社会情勢に常に思いを馳せていた愛国者でもありました。彼の作品をたどると、その年齢相応の精神性がうかがえます。壮年時代の作品には、思いやりや慈悲といった彼の倫理観や死生観が強調されています。 1658年以降になると、プッサンは手の痛みに悩まされるようになりましたが、そうした肉体的な困難が、晩年の神話画や連作《四季》【 55】【 56】などに新たな画風と重厚感を生み出していきます。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「レンブラントは 7歳の頃、ラテン語学校に入学します。彼の両親が他の兄弟には教育を重視しなかったのに比べ、この 8番目の子どもレンブラントに対して、上流階級の子どもと同じような教育を与えたのは、製粉業以上のキャリアに進むことを願ったからでした。そして、レンブラントにはその可能性があると、両親は見込んでいたのでしょう。  両親の期待を背負ったレンブラントは、 14歳の誕生日を迎える前にライデン大学に入学します。しかし、学生生活は長くは続かず、彼は画業の道へ向かいました。画業によって商業的な成功を収めたいという、当時の多くの若者が抱いていた夢を、彼もまた見ていたのです。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「当時のアムステルダムは、文化的にも経済的にも繁栄の絶頂を誇る国際都市であり、世界中から商品が集まってくる活気あふれる商都でした。港には世界の海を航海する帆船がひしめき合っていました。レンブラントも、長崎の出島から輸出された和紙で版画を制作しただけでなく、日本の鎧など様々なものを収集しています。   17世紀前半のオランダ社会は、まるで日本のバブル経済時代のようでした。人々は収集熱や投機熱に浮かされ、チューリップの球根さえ投機対象となりました。そして日本がかつてそうだったように、絵画も投機対象となり、大絵画ブームとなったのです。   17世紀のオランダでは、様々な主題の絵画が制作され、百花繚乱のごとく画家たちが才能を開花させていったのです。オランダ絵画の黄金時代でした。絵画ブームにより大量の絵画が制作されたため、ジャンルによる分業化がよりいっそう進みました。風景画は風景画家に、静物画なら静物画家に、というように効率的に絵画が制作されたのです。その中で、レンブラントが枚数の多寡はあれ、ほとんどすべてのジャンルにおいて作品を描いているのは、他に類を見ないことといえます。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「フェルメールが描いた風俗画は、日常生活のワンシーンを描いているだけではありません。プロテスタントを主流とするオランダ社会らしく、他の画家の風俗画と同様に、信仰への導きがこめられています。フェルメールはそれを卓越した筆致によって静かに慎ましく、そしてエレガントに描いているのです。例えば有名な《牛乳を注ぐ女》【 66】では、古くなったパンを牛乳で煮るために、使用人が真剣に牛乳を陶製の鍋に注いでいる場面を描いています。しかしその光景には、使用人をきちんと監督している女主人の美徳を称える意味が隠されているのです。  では、娼家の光景を描いた《取り持ち女》【 64】はどうでしょう。厳格なプロテスタント社会ではあえてこうした絵を飾り、このようなことをしてはならないという戒めにしたのです。  そして、フェルメールといえば忘れてはならないのが、「フェルメールの青」です。当時、純金と同じくらい高価であったラピスラズリを原料とする顔料ウルトラマリンを、彼は惜しげもなく作品に用いています。それは、パトロンのおかげもあったでしょう。副業の収入も助けとなったと思います。また、義母マーリアがたいへん裕福だったことも幸いしたようです。  また、フェルメールはカメラ・オブスクラを制作に用いたといわれています。これはピンホールカメラと同じ仕組みの装置で、レンズを通してカメラの中に取り込んだ像を、画家が上からなぞって紙に写し取ることができました。こうした装置は遠近法の表現や細部の描写などに役立ち、多くの画家が利用したといわれています。彼は《デルフトの眺望》【 67】を描くのにこの装置を使ったという説がありますが、真偽は確かめられていません。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「フェルメールは、非常に寡作の画家としても知られています。現存作品が 35点ほどで、当時の画家としては不思議なくらいの少なさです。これはフェルメールが、一般の美術市場向けに描くのはまれで、特定のパトロンたちのために制作していたことも一因でしょう。  フェルメールは 1657年から、デルフトの醸造業者で投資家のピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンというよきパトロンに恵まれました。彼はフェルメールを支え続け、 20点ものフェルメール作品を所有していました。彼の援助があったからこそ、フェルメールはじっくりと丁寧な仕事をすることができたのです。  当時、フェルメールの名は地元ではよく知られ、デルフトの美術市場では高値がつきました。彼自身も、高価な顔料を使い、制作に長々と時間を費やした自分の作品の価格を決して下げることはなかったそうです。彼の立場は社会的にも認められ、 1662年から 2年間、最年少で聖ルカ組合長を務め、 1670年から 2年間、再び組合長に選ばれており、二度もこういう役職を務めることはとても珍しいことでした。  フェルメールは、同じくデルフトで活躍したピーテル・デ・ホーホ( 1629 ~ 83)とともに、後に「デルフト派」と呼ばれるようになります。二人とも、洗練された画風の静寂な作品を描きました。他のオランダの都市に比べ、この時代のデルフトの美術品や工芸品はよりエレガントな傾向があるとされます。それは、デルフトの上品な顧客層だけでなく、オランダ総督を務めたオラニエ・ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客層の好みが作風に反映されていたからです。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「カタリーナはパン店の経営者に滞納した借金のカタとして、夫の作品 2点を担保に毎月 50ギルダーを 12年にわたって支払う取り決めをしましたが、それも果たせず、結局この作品 2点を引き渡しています。  頼りの母マーリアは、 1680年に 87歳で亡くなりました。マーリアは娘夫婦の債務から孫たちを守ろうとして、遺産を孫たちに直接遺したため、カタリナの過酷な生活を救うことはありませんでした。こうして、カタリーナは夫亡き後の 12年間、非常に貧しく過酷な日々を過ごし、 1687年に 56歳で亡くなりました。《真珠の耳飾りの少女》【 65】のモデルは妻カタリーナではないかとする説がありますが、定かではありません。極貧の中でフェルメールが亡くなったとき、手元に残された自作の 4点のうちの一つであったというのが、その論拠のようです。作品が描かれたときカタリーナは 33歳でしたが、絵の中の女性はもっと若く見えます。カタリーナの晩年の苦労を知る由もなく、絵の中の女性は永遠に若々しく輝いているのです。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「偉大な画家には、後世の人々によって紡ぎ出される伝説が付き物です。例えば《夜警》【 59】を境に、一気に人気が凋落したとされるレンブラントの話があります。また、フランソワ 1世の腕の中で息を引き取ったとされるレオナルド・ダ・ヴィンチしかり。そうした逸話のほうが、学術的な美術史のアプローチよりも人々を魅了するのでしょう。  フェルメールもまた、生前は誰からも理解されずに、死後 200年近くたって再発見された静かなる天才画家!  とドラマチックに語られることがあります。  しかし、美術史と伝説は違います。フェルメールの作品は死後 20年以上たった 1696年の競売でも高額で取引されていて、当時でもかなり評価されていたことがわかります。  ただ、 18世紀に入ると、確かにフェルメールは美術史から忘れられていきます。それは、彼が遺した作品があまりにも少なかったことと、それらが個人コレクションだったために公開されなかったからです。当時のヨーロッパ社会は、まだ美術館の時代ではありませんでした。  また、芸術アカデミーの影響で、フェルメールのように筆触が目に見えるような画風ではなく、表面を滑らかに仕上げることをよしとする風潮がありました。彼のおもだった主題が格の高い歴史画ではなく風俗画であったことも、人々の記憶の彼方に追いやられてしまった原因になりました。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「  19世紀、フランス大革命以降のこの国では、ブルジョワジーの台頭とともに民主主義が発達していきました。それまでの旧体制時代と違い、ブルジョワジーが社会の中心になっていったのです。それは、ちょうど 17世紀のオランダ社会と同じでした。  絵画の世界でも、 17世紀オランダ絵画のような写実主義が進んでいきました。民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベ( 1819 ~ 77)や、農民の真摯に生きる姿を叙情的にとらえるジャン・フランソワ・ミレー( 1814 ~ 75)などが、 19世紀に現れます。彼らはフランスの画壇に根強くあったアカデミズムに反旗を翻したのです。  写実主義と日常の生活という、現代のスタンダードから見れば別に珍しくもないことが、この時代のフランス画壇においては非常に革新的なことでした。芸術アカデミーには、絵画は理想的に描くもの、そして絵画とは非日常的なものという考え方があったからでした。この新しい絵画の潮流は、写真の登場とも相まって印象派の誕生へとつながっていったのです。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「そうした時代背景の中で、写実主義を基本とした 17世紀のオランダ絵画がフランスで人気を得ます。美術コレクターや美術史家、同郷のオランダ人画家たちがフェルメールを評価するようになっていきました。そして、 1866年、ついにフェルメール復活の年が訪れました。フランスの著述家・批評家のテオフィル・トレ・ビュルガー( 1807 ~ 69)が、フランスの美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」にフェルメールに関する論文を掲載しました。この論文によって、彼はフェルメールを「再発見」した男となったのです。  これ以降、フェルメールに対する賞賛は、今にいたるまで絶えることがありません。美術史からも無視されることはなくなり、研究も進んでいきました。そして、現在では「 17世紀オランダ絵画の黄金時代」を代表する画家の一人となったのです。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

    「 私は、世界中でこれほど〝マニア〟が多い画家を他に知りません。日本でも頻繁にフェルメールの名前を冠した展覧会が開催され、そのたびに大盛況です。  フェルメールが描いた世界は、その卓越した技法によって、単なる風俗画の域を超えています。市民階級を描いているのに品格を感じさせる温かみのある筆触は、彼独特の持ち味です。そんなところに世界中の多くの人が魅了されるのでしょう。」

    —『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著

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    2026年07月13日
  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    ファッションが好きから入って、美しいもの全般に興味を持つようになり、世界史でなんとなく文化史としてふれつつも、
    美術が存在するようになった歴史とか表しているものとか、そういう内容について学ぶ教育が日本では少ないから、ただの娯楽やと思ってて、
    でも宗教や社会情勢や思想やいろんなものと結びついて、当時のメディアとして機能してるっていうことを知るようになってから、もっと深く学びたいー!と思うようになった。

    あとは、高校か大1くらい?にアンディウォーホルに衝撃を受けて、そこから現代アートに興味を持つようになった。

    でも、美術展とかいっても、何を表してるんだろうっていうことが結局体系的な知識がないと理解しきれなくて、ずっとモヤモヤしてて、けどこの本でめっちゃざっくりやけど理解できた!!

    世界史が、美術の視点から自分の中で再構築されるのも面白かった。

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    2026年04月06日
  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    元々美術館巡りは好きで色々な絵画を見ていた。
    ただその絵画の背景や歴史、作者の人生など知れることでもっと深く理解したいと思い本書を購入。

    結果的にはとても良かった。
    アート全体の歴史知識が浅い自分からすると網羅的、かつわかりやすく(特にも実際の絵画画像も含め)理解できた。
    これを機に個人的に好きなルノワールなどの画家の歴史や背景なども深く探索したいと思った。

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    2026年01月23日
  • ゴッホとゴーギャン ──近代絵画の軌跡

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    前半は副題の「近代絵画の軌跡」のほうが内容を表していたように感じる。印象派が当時の保守的なアカデミーの芸術観に対して何がすごくて、浮世絵とかのジャポニスムもどう影響を与えたのかという初歩的なことからピサロらをはじめとした個別の画家をテンポよく紹介して印象派入門としても使える。

    中盤以降はゴッホとゴーギャンの関係を軸に2人の伝記パートで、作品解説は少ないが短いコメントも的確で満足できる。最初期のバロック的なゴッホの作品や象徴主義とゴーギャンの関係なんかは知らなかったので勉強になった。いわゆる日本人のイメージする近代絵画史のトロの部分を味わえる本。

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    2025年10月28日
  • 人騒がせな名画たち

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    子供の頃から絵画は好きで美術館へ行ったり、本で眺めたりしていました。
    この本で「絵をよむ」という発想を得て、見方がガラリと音を立てて変わりました。
    更に絵画に興味が湧き、少し知識を入れてから美術館へいくと今までとは違った感動を得ることができました。

    子供にも読んでほしいと思う本です。

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    2025年10月14日
  • 名画の読み方―――世界のビジネスエリートが身につける教養

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    聖書と神話、歴史を勉強した上で、その背景を汲みながら観るだけでなく読む絵画は奥深く面白い。
    王立アカデミーで決められたヒエラルキーにおいて歴史画が最高位に来るのも頷ける。
    特に寓意画をアトリビュートなどを頼りに読み解いた当時の識者達はさぞ楽しかったんだろうなと。

    ルネサンス
    バロック
    ロココ
    新古典派
    写実主義
    印象派

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    2025年01月07日
  • ゴッホとゴーギャン ──近代絵画の軌跡

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    絵は知ってたけどどういう人生歩んでたとかどんな人だったのか知らなかったし、
    当時の情勢も分かって面白かった

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    2024年06月25日
  • ゴッホ

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    ゴッホの激動の人生が見える伝記

    最愛の弟、テオとの関係に時折涙が出そうになった。
    癇癪持ちで、家族から距離を置かれてしまうようになっても兄を支え続けるテオとそれに答えようと悶えるゴッホ..
    最期に弟を想い、自ら命をたった兄。
    それに続くように亡くなる弟。
    有名で精緻な表現をする偉人な反面、不器用なゴッホに同情せざるを得なかった。

    家族構成や実は同じ誕生日、同じ名前の兄がいた事も衝撃。


    たとえ僕の人生が負け戦であっても、僕は最期まで戦いたいんだ。

    虫だって光が好きなのと嫌いなのと2通りあるんだ。人間だって同じだよ。

    考えれば考えるほど、人を愛すること以上に芸術的なものはないということに気づく。

    直感力違と想像力を抑え込んではいけない。

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    2023年12月19日
  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    美術の知識がない私からすると、あまりお目にかかったことのない作品の解説が多かったのですが、その背景にある歴史が自身の知っている教養と結びついたことで絵の捉え方が変わりました。

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    2023年02月25日
  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    美術史の概要を把握できた。これから美術館や展示に足を運ぶ際、どのように鑑賞すればいいかが少しわかり、一つステップアップした感覚だ。

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    2023年01月18日
  • 人騒がせな名画たち

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    美術が万年3の私でも楽しく読めました!

    教養として絵画を学びたくて手に取ったのですが、美術館などに行きたいと思うきっかけになりました!
    絵画をまだ何も知らない人、あまり興味ない人にオススメです

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    2022年09月09日
  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    古代ギリシャの時代から20世紀初頭まで、歴史をたどりながらその様式が広まり、受け入れられるようになったあらましが浅く広く記されている。
    前書きの鼻につく感じで若干身構えたが、本編は流れも整理されていて理解しやすかった。
    現代美術が扱われていないことと、文中に出てくる作品の一部が収録されているもののモノクロだったのが少し残念。

    芸術はやはり歴史、宗教の大きな流れとは切っても切れない関係なのだなぁ。

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    2021年10月09日
  • 名画の読み方―――世界のビジネスエリートが身につける教養

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    まさかのフルカラー。絵はすべて高画質で印刷されており、目を近づけて見ても細部までじっくり観察することができる。ページをまたいで絵が印刷されている箇所も多いが、本を十分に開いて鑑賞できるよう製本されているのも好印象である。著者の木村氏の上品で明快な文章に加え、細々とした内容(アトリビュート等)は表にまとめられており解りやすい。さらに各章毎の見開きがかっこいいのだ。本書は知性とセンスに溢れ、絵画鑑賞の楽しみ方を教えてくれる良書である。

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    2021年04月13日
  • 世界のビジネスエリートは知っている ルーヴルに学ぶ美術の教養

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    絵画の「見方」「感じ方」ではなく「読み方」を解説した一冊

    作品からさまざまなメッセージや背景を読み取るにはもっと勉強が必要だなと感じた

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    2020年08月02日
  • 名画の読み方―――世界のビジネスエリートが身につける教養

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    古典的美術(宗教画、寓意画、神話画、風俗画、風景画、静物画)の見方が一気に変わりました。今までは、味わうという感覚でしたが、実は理解する、ものであるという面白さを知りました。
    また、一枚の紙にどういった登場人物、物、風景をどういう論理で収めていくか、どうか見合わせるか、ストーリーを構築するか、等、ビジネスの思考にも通ずるところを強く感じました。

    久しぶりに何度も読み返して”覚えたい”本です。

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    2020年07月03日
  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    「美術は見るものではなく読むもの」

    西洋美術の変遷を時代ごとに追いながら
    その様式の特徴だけではなく時代背景や人物像を
    紹介してくれるおかげで多くの学びがある一冊。

    芸術好きなら聞いたことのあるアーティストの名前が沢山でてくるが、一人ひとりポイントを抑えて簡潔に説明してくれるおかげで、自分の知識が浅かった部分が可視化される。

    "18世期の女性の肖像画で、目尻に描かれている黒い斑点を見つけたら、加齢によるシミではなく「つけぼくろ」だと思ってください"

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    2020年04月12日
  • 世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」

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    絵画を「読む」という観点で書かれた本。
    当時の出来事、政治、経済、人々の傾向など社会と関連させて絵画作品や画家についての知識が得られる一冊である。
    絵画作品は宗教との繋がりもあるため、当時の宗教的な情勢も含めて知識が得られた。
    ただ作品について知るのではなく、当時の社会背景も知ることで今後より深く絵画を見ることが出来ると思われる。
    個人的にはとてもためになる本だった。

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    2020年02月14日
  • 人騒がせな名画たち

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    なんと言っても、名画がカラーで載っている! これだけで買い。
    西洋絵画の見方をやさしく教えてくれる。まず、絵画ジャンルのヒエラルキー。
    歴史画>肖像画>風俗画>風景画>静物画

    この歴史画の中に、宗教画と神話画・寓意画が含まれていて、2章を割いて解説がある。
    この本を読む前に、古事記の本や神話についての本を読んでいたので、非常に興味深く読む事が出来た。

    「モナ・リザはなぜ斜め前を向いているのか?」では、15世紀より前のイタリアでは、横向きの「側面像」が古代ローマを起源とする伝統的な描き方だったものが、経済発展でネーデルラントで起こった肖像画文化により「四分の三正面像」が生まれ、これがレオナルド・ダ・ヴィンチに影響を与えているというのも、平行でレオナルド・ダ・ヴィンチ本を読んでいると倍楽しめる。

    この本は、色々な他の本と組み合わせて読むと楽しい。 別の本を読んで再読しても新鮮な感じを受ける事ができる点で良い本。

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    2019年09月18日
  • 名画の読み方―――世界のビジネスエリートが身につける教養

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    名画をより深く観たり鑑賞するために、その名画を「読む」必要があると言う。時代背景や書かれているものの意味など、知ると数倍楽しくなりそうです。特に近代絵画以前の絵画鑑賞の見方がガラリと変ります。お勧めの1冊です。あとがきで「後期印象派以降の近代美術と現代美術に関しては、その基礎である古典芸術を把握したうえで、別のアプローチ」が必要と書かれていて、そちらもぜひ読んでみたいものです。

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    2019年06月23日