カラヴァッジョはホモ、ルーベンス、プッサン、フェルメール、
木村泰司
(きむらたいじ)
西洋美術史家
西洋美術史家。1966年生まれ。米国カリフォルニア大学バークレー校で美術史学士号を修めた後、ロンドンサザビーズの美術教養講座にてWORKS OF ART修了。 ロンドンでは、歴史的なアート、インテリア、食器等本物に触れながら学ぶ。東京・名古屋・大阪と、企業や自治体向けに年間100回ほどの講演・セミナーを行っている。 『名画の言い分』『巨匠たちの迷宮』『印象派という革命』(以上集英社)、『名画は嘘をつく』シリーズ(大和書房)、『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』(光文社)、『おしゃべりな名画...続きを読む 』(ベストセラーズ)、『西洋美術史を変えた名画150』(辰巳出版)など、著書多数。
「1545年から 1563年にかけて、イタリアのトレント(ドイツ語名トリエント)で計 25回開催されたこの会議は、開催地の名を冠してトリエント公会議と呼ばれています。このトリエント公会議では、のちに大きな影響を与える決定が下されました。宗教美術は、誰でも一目見れば理解できる「わかりやすさ」と、思わずカトリックに帰依したくなるような「高尚」なものでなければならないと明確に決められたのです。 それまでの 16世紀の宗教美術には、マニエリスム様式という難解な表現が横行していたからです。 では、なぜカトリックは、絵画の力を借りなければならなかったのでしょうか。 当時、カトリックの一般信者のほとんどは、聖書を読みませんでした。ラテン語の聖書を読むのは聖職者の役割であり、一般信者は聖職者からありがたいお説教を聞いて、キリストの教えを理解したのです。 一方プロテスタントは、聖書を語る教皇に権威があるのではなく、権威は聖書そのものにあると考える福音主義です。一般信者も聖書を読めなくてはなりません。 すでに 16世紀後半から印刷技術が発達し、各国語に訳された聖書が数多く出版されていました。その結果、プロテスタントの国では識字率が向上し、資本主義と連動して経済大国となる素地をつくっていくのです。 プロテスタントの勢力に危機感を抱いたカトリックが、宗教美術の力を巧みに利用することを思いついたのは、今でいうメディア戦略なのです。 それまでの「耳で聞く聖書」から、「宗教画 =目で見る聖書」へと展開することによって、よりわかりやすく、より劇的に見る者の心に訴えかけ、信者を獲得しようとしたのでした。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「印象派の画家エドガー・ドガ( 1834 ~ 1917)は、「絵画には少しのミステリーが必要だ」と言いました。私も、皆さんのご想像にお任せしたいと思います。 カラヴァッジョは、バイセクシュアルな性癖があったといわれています。この時期の世俗的な作品を見ると、とても納得させられる話です。若かりし彼のこの時期は、若い男性ばかりがインスピレーションの源だったようです。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「20代半ばまでどん底生活を送っていたカラヴァッジョは、おかげで救われました。デル・モンテ枢機卿のマダーマ宮殿(パラッツォ・マダーマ)に部屋を与えられ、日々の食事と絵を描く自由を提供されることになったのです。パラッツォ・マダーマは、 1871年以降、イタリア国会上院が置かれることになる立派な宮殿です。 ともあれ、裕福で権力をもつパトロンをつかんだカラヴァッジョは、出世の道を駆け上っていきます。デル・モンテ枢機卿は、カラヴァッジョに友人や知人の美術愛好家たちを紹介してくれました。 パラッツォ・マダーマで暮らした 4年間で、カラヴァッジョは世俗的な主題の作品も描いていますが、初めて宗教画にも挑戦しています。デル・モンテ枢機卿と同じ名前の聖人を主題にした、《聖フランチェスコの法悦》【 11】です。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「カラヴァッジョは、聖なる物語を世俗的な空間にもってきて、その辺を歩いている普通の人をモデルに描きました。このカラヴァッジョの革新的な表現のしかたは、デル・モンテ枢機卿のように美術に対して審美眼のある人々や、若い画家たちなどからは絶賛されました。レンブラント( 1606 ~ 69)のような他国の、プロテスタントの画家までもが、後に影響を受けることになるのです。 しかし、多くの一般信者はあまりにも現実的・世俗的すぎると感じました。市井の人々は、自分たちと同じような人物が描かれた宗教画よりも、美しく理想化された宗教画のほうをありがたがったのです。美術館ではなく、教会で鑑賞するとなると、まあ、その気持ちもわからないではありませんね。 カラヴァッジョの聖マタイ伝三連作に関しては、興味深い事実があります。《聖マタイと天使》【 15】の、 1945年に戦火で焼失した第 1バージョン【 16】は、教会に受け取りを拒否されていたのです。 第 1バージョンに描かれたマタイは、農夫を思わせる武骨な姿で、剝き出しになった脚を組んでいました。実際に聖職者がミサを執り行なおうとすれば、マタイの突き出た左脚が、聖職者の頭上にきてしまうのです。そのうえ、市井の少年のように描かれた天使は、あまりにもコケティッシュでなれなれしい態度で描かれていました。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「人間は 30代半ばにもなると、変わろうとしてもなかなか変われないものです。せっかく騎士団に入ることができたカラヴァッジョでしたが、半年もたたないうちに、「堕落した、辱める団員」として騎士団から除名されてしまいます。そして、逮捕され牢獄につながれてしまったのです。 当時の起訴状が記録に残っていないため、カラヴァッジョが何をしたのか、様々な憶測があります。彼に好意的でない歴史家たちは、例の美しい小姓との不適切な関係が原因などとしています。 また、ローマでの殺人事件を騎士団に隠していたのが発覚したのだとする説もあります。でも、今のところ、ある騎士との喧嘩が原因だったとする説が有力です。いつまでたっても学習しない、カラヴァッジョだったのです。 絶体絶命のカラヴァッジョに残された道は、もう脱獄しかありませんでした。犯した罪が、規律を重んじる騎士団では、許されそうもない行為だったからです。 脱獄は幸運なことに成功し、カラヴァッジョはシチリア島にたどり着きました。しかし、どうもこの頃から精神のバランスを崩しはじめていたようです。彼は、死刑執行に対する恐怖におびえながら、日々を過ごすようになっていました。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「 この苦渋のジーゲン時代に、後世の美術史家たちから「バロック絵画の王」と呼ばれることになるピーテル・パウル・ルーベンスが誕生したのです。 1577年6月 28日のことでした。ところが、ルーベンスは自らをケルン生まれと称しています。おそらく、ルーベンス一家のスキャンダルと結びつく街ジーゲンを、自身の人生から消し去りたかったのでしょう。 翌年、父ヤンは最終的に赦免されてケルンに移り住み、法律家の仕事に戻ることができました。幼いルーベンスはケルンの家で、父親からは人文主義的教養、母親からは厳しい躾を受けます。高学歴の父の教育方針でケルンでは学校に通い、恵まれた素養を伸ばすことができたようです。ちなみに 3歳年上の兄のフィリップスは後に高名な古典学者になる人物です。後年、古典的教養を要する寓意を駆使して大量に作品を制作することができたのは、こうした教育や兄の影響が大きかったといわれています。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「そんなルーベンス一家の転機となったのは、 1587年3月、父ヤンの死去でした。夫亡き後、マリアは一家で故郷アントウェルペンに戻ることを決意します。それに伴い、一家はカトリックに改宗します。 ルーベンスは 10歳くらいまではドイツ・ケルンでプロテスタント教徒として育ち、以後は敬虔なカトリック教徒として両親の故郷アントウェルペンで成長しました。若きルーベンスの青春の始まりでもありました。 アントウェルペンでルーベンスは、兄フィリップとともにラテン語学校に通いはじめます。この学校で流暢なラテン語を身につけ、上流階級の必須の教養であったウェルギリウスなどの古典文学や、古代人の著書を学んだことは、彼の膨大な作品群における主題や寓意の豊富さのバックグラウンドになりました。 当時、ヨーロッパのほとんどの地域では、まだ画家は芸術家ではなく、職人と見なされていました。その時代に、ルーベンスが上流階級の少年にふさわしい教育を受けたことは、彼にとって大きな意味がありました。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「しばらく平穏だった一家でしたが、経済的な問題でルーベンス兄弟は学業を続けることが困難になりました。姉ブランディーナの結婚の持参金を工面したため、一家の家計が苦しくなったのです。 13歳のルーベンスは、ラレング伯爵の未亡人マルグレーテ・ド・リーニュの小姓に召し上げられました。小姓勤めは、良家出身で教養はあっても資産がない若者の出世コースです。母マリアは、息子に宮廷人としての道を歩ませたかったのでした。 しかし母の期待をよそに、宮廷勤めは長く続かず、翌年 14歳になったルーベンス少年は、遠い親戚にあたる地元の風景画家トビアス・フェルハーフト( 1561 ~ 1631)に弟子入りし、画家の修業を始めました。 1592年からはアダム・ファン・ノールト( 1562 ~ 1641)の工房に移り、次いで、洗練された教養と高い知性の持ち主であった画家オットー・ファン・フェーン( 1556 ~ 1629)の工房に勤め、画家としてのみならず学者としての彼からも大きく影響を受けたのです。 そして 7年間の修業を終えたルーベンスは、 21歳で聖ルカ組合(画家中心のギルド)に登録されました。親方画家として独立し、弟子を取ることもできるようになったのです。 しかし、それだけで満足するようなルーベンスではありませんでした。彼は他の北ヨーロッパの画家たちのように、イタリア旅行を夢見るようになります。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
プッサンは非常に研究熱心な画家であり、様々な知識を多くの人たちから学びとっていきました。そうして若いときから、独自の絵画理論を探求していました。 例えば、バルベリーニ家との縁で、バルベリーニ文庫の秘書官カシアーノ・デル・ポッツォ(1588~1657)と知り合ったプッサンは、古物研究家の彼が所蔵する文献やスケッチを自由に研究する機会を与えられました。古代の風俗描写をする場合、正確な時代考証を心がけていたプッサンには知識の宝庫で、大きな収穫がありました。熱心な美術収集家でもあったポッツォは、プッサンのパトロンの一人となっただけでなく、ともにローマ古代史を研究する者として長年、友情を育むことになるのです。 プッサンはまた、古代彫刻も熱心に研究しました。フランドル人の彫刻家フランソワ・デュケノワ(1597~1643)と同居し、デュケノワと親しくつき合いながら、彫刻に対する見識を深めていきました。古代彫刻を通じて、人体美の理想を把握していっただけではありません。人間の理念や感情が、表情やポーズ、そして動作にどう表われるのかという古代彫刻の根本にも近づいていったのです。プッサンの作品からは、彼が研究していた古代彫刻のポーズの名残を、いくつも見ることができるのです。 フランス時代からプッサンは人体解剖学を学んでいましたが、ローマでも引き続き解剖学書で学び、専門家の講義や指導も受けています。さらに、主題(人間)と自然や建物とのバランスをより正確に描写するために、幾何学や光学といった分野にも研究の手を伸ばしています。 プッサンは読書家であり、ルネサンスを代表する万能の人レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404~72)の『絵画論』(1435)を愛読し、アルブレヒト・デューラー(1471~1528)の著書からは比例について学びました。様々な教養を身につけたプッサンは、1651年に刊行されたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の『絵画論』(1498)の解説もしています。
「文学も好きで、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』や、悲劇の天才詩人トルクァート・タソ( 1544 ~ 95)の叙事詩まで読破し、多大なインスピレーションを受けました。こうした努力と研究を重ねていくことで、プッサンは理性美に基づいた人間の精神の理想を、絵画の中で表現できるようになっていくのです。 絵画の研究に惜しみなく情熱を注いできたプッサンに、ちょっとした災難が振りかかります。プッサンがサン・ピエトロ大聖堂の祭壇画を制作していた頃のことだったようですが、彼と友人たちは突然ローマの街角で、イタリア人の兵士に襲撃されたのです。間一髪でプッサンは危機を免れましたが、同行していた友人は右手の中指を斬られてしまったのです。もしこれがプッサン自身だったら、画家としては致命傷になっていたかもしれません。三十年戦争( 1618 ~ 48)でフランスの外交がプロテスタント寄りになったことで、ローマ教皇庁とローマのカトリック教徒が激怒し、反フランスのムードが高まっていたのです。以来、「郷に入れば郷に従え( When in Rome, do as the Romans do)」のたとえどおり、プッサンはイタリアではフランス人風ではなく常にローマの紳士の装いに徹するようになりました。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「 1657年、プッサンはローマの聖ルカ・アカデミーから会長になることを請われますが、なぜか画家としての最大級の栄誉を丁重に断ってしまうのです。晩年のプッサンは、美術界周辺に渦巻く権力や虚飾にうんざりしていたのでしょうか。 60歳を超えたプッサンは、何よりも自由でいることと心の平穏を大切にしていたのです。 この頃のプッサンの息抜きは、朝早く起きて 1 ~ 2時間ほどローマのピンチョの丘で自然や街を眺め、よき友人たちと美術などの知的な会話を楽しむことでした。そして、夜になると今度はスペイン広場に出向き、友人たちと群集に交じって散歩を楽しみました。世俗的なことに惑わされることを嫌い、ごく親しい友人としかつき合わなかったのです。巨匠プッサンのありがたい言葉を拝聴したがる画家や知識人は多くいましたが、彼は尊大な態度をとるようなことは決してありませんでした。その穏やかで謙虚、敬虔で家族思いの人柄は、多くの人の尊敬を集めたようです。 また、プッサンは決してフランスを捨てたわけではなく、故国の政治や社会情勢に常に思いを馳せていた愛国者でもありました。彼の作品をたどると、その年齢相応の精神性がうかがえます。壮年時代の作品には、思いやりや慈悲といった彼の倫理観や死生観が強調されています。 1658年以降になると、プッサンは手の痛みに悩まされるようになりましたが、そうした肉体的な困難が、晩年の神話画や連作《四季》【 55】【 56】などに新たな画風と重厚感を生み出していきます。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「レンブラントは 7歳の頃、ラテン語学校に入学します。彼の両親が他の兄弟には教育を重視しなかったのに比べ、この 8番目の子どもレンブラントに対して、上流階級の子どもと同じような教育を与えたのは、製粉業以上のキャリアに進むことを願ったからでした。そして、レンブラントにはその可能性があると、両親は見込んでいたのでしょう。 両親の期待を背負ったレンブラントは、 14歳の誕生日を迎える前にライデン大学に入学します。しかし、学生生活は長くは続かず、彼は画業の道へ向かいました。画業によって商業的な成功を収めたいという、当時の多くの若者が抱いていた夢を、彼もまた見ていたのです。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「当時のアムステルダムは、文化的にも経済的にも繁栄の絶頂を誇る国際都市であり、世界中から商品が集まってくる活気あふれる商都でした。港には世界の海を航海する帆船がひしめき合っていました。レンブラントも、長崎の出島から輸出された和紙で版画を制作しただけでなく、日本の鎧など様々なものを収集しています。 17世紀前半のオランダ社会は、まるで日本のバブル経済時代のようでした。人々は収集熱や投機熱に浮かされ、チューリップの球根さえ投機対象となりました。そして日本がかつてそうだったように、絵画も投機対象となり、大絵画ブームとなったのです。 17世紀のオランダでは、様々な主題の絵画が制作され、百花繚乱のごとく画家たちが才能を開花させていったのです。オランダ絵画の黄金時代でした。絵画ブームにより大量の絵画が制作されたため、ジャンルによる分業化がよりいっそう進みました。風景画は風景画家に、静物画なら静物画家に、というように効率的に絵画が制作されたのです。その中で、レンブラントが枚数の多寡はあれ、ほとんどすべてのジャンルにおいて作品を描いているのは、他に類を見ないことといえます。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「フェルメールが描いた風俗画は、日常生活のワンシーンを描いているだけではありません。プロテスタントを主流とするオランダ社会らしく、他の画家の風俗画と同様に、信仰への導きがこめられています。フェルメールはそれを卓越した筆致によって静かに慎ましく、そしてエレガントに描いているのです。例えば有名な《牛乳を注ぐ女》【 66】では、古くなったパンを牛乳で煮るために、使用人が真剣に牛乳を陶製の鍋に注いでいる場面を描いています。しかしその光景には、使用人をきちんと監督している女主人の美徳を称える意味が隠されているのです。 では、娼家の光景を描いた《取り持ち女》【 64】はどうでしょう。厳格なプロテスタント社会ではあえてこうした絵を飾り、このようなことをしてはならないという戒めにしたのです。 そして、フェルメールといえば忘れてはならないのが、「フェルメールの青」です。当時、純金と同じくらい高価であったラピスラズリを原料とする顔料ウルトラマリンを、彼は惜しげもなく作品に用いています。それは、パトロンのおかげもあったでしょう。副業の収入も助けとなったと思います。また、義母マーリアがたいへん裕福だったことも幸いしたようです。 また、フェルメールはカメラ・オブスクラを制作に用いたといわれています。これはピンホールカメラと同じ仕組みの装置で、レンズを通してカメラの中に取り込んだ像を、画家が上からなぞって紙に写し取ることができました。こうした装置は遠近法の表現や細部の描写などに役立ち、多くの画家が利用したといわれています。彼は《デルフトの眺望》【 67】を描くのにこの装置を使ったという説がありますが、真偽は確かめられていません。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「フェルメールは、非常に寡作の画家としても知られています。現存作品が 35点ほどで、当時の画家としては不思議なくらいの少なさです。これはフェルメールが、一般の美術市場向けに描くのはまれで、特定のパトロンたちのために制作していたことも一因でしょう。 フェルメールは 1657年から、デルフトの醸造業者で投資家のピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンというよきパトロンに恵まれました。彼はフェルメールを支え続け、 20点ものフェルメール作品を所有していました。彼の援助があったからこそ、フェルメールはじっくりと丁寧な仕事をすることができたのです。 当時、フェルメールの名は地元ではよく知られ、デルフトの美術市場では高値がつきました。彼自身も、高価な顔料を使い、制作に長々と時間を費やした自分の作品の価格を決して下げることはなかったそうです。彼の立場は社会的にも認められ、 1662年から 2年間、最年少で聖ルカ組合長を務め、 1670年から 2年間、再び組合長に選ばれており、二度もこういう役職を務めることはとても珍しいことでした。 フェルメールは、同じくデルフトで活躍したピーテル・デ・ホーホ( 1629 ~ 83)とともに、後に「デルフト派」と呼ばれるようになります。二人とも、洗練された画風の静寂な作品を描きました。他のオランダの都市に比べ、この時代のデルフトの美術品や工芸品はよりエレガントな傾向があるとされます。それは、デルフトの上品な顧客層だけでなく、オランダ総督を務めたオラニエ・ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客層の好みが作風に反映されていたからです。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「カタリーナはパン店の経営者に滞納した借金のカタとして、夫の作品 2点を担保に毎月 50ギルダーを 12年にわたって支払う取り決めをしましたが、それも果たせず、結局この作品 2点を引き渡しています。 頼りの母マーリアは、 1680年に 87歳で亡くなりました。マーリアは娘夫婦の債務から孫たちを守ろうとして、遺産を孫たちに直接遺したため、カタリナの過酷な生活を救うことはありませんでした。こうして、カタリーナは夫亡き後の 12年間、非常に貧しく過酷な日々を過ごし、 1687年に 56歳で亡くなりました。《真珠の耳飾りの少女》【 65】のモデルは妻カタリーナではないかとする説がありますが、定かではありません。極貧の中でフェルメールが亡くなったとき、手元に残された自作の 4点のうちの一つであったというのが、その論拠のようです。作品が描かれたときカタリーナは 33歳でしたが、絵の中の女性はもっと若く見えます。カタリーナの晩年の苦労を知る由もなく、絵の中の女性は永遠に若々しく輝いているのです。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「偉大な画家には、後世の人々によって紡ぎ出される伝説が付き物です。例えば《夜警》【 59】を境に、一気に人気が凋落したとされるレンブラントの話があります。また、フランソワ 1世の腕の中で息を引き取ったとされるレオナルド・ダ・ヴィンチしかり。そうした逸話のほうが、学術的な美術史のアプローチよりも人々を魅了するのでしょう。 フェルメールもまた、生前は誰からも理解されずに、死後 200年近くたって再発見された静かなる天才画家! とドラマチックに語られることがあります。 しかし、美術史と伝説は違います。フェルメールの作品は死後 20年以上たった 1696年の競売でも高額で取引されていて、当時でもかなり評価されていたことがわかります。 ただ、 18世紀に入ると、確かにフェルメールは美術史から忘れられていきます。それは、彼が遺した作品があまりにも少なかったことと、それらが個人コレクションだったために公開されなかったからです。当時のヨーロッパ社会は、まだ美術館の時代ではありませんでした。 また、芸術アカデミーの影響で、フェルメールのように筆触が目に見えるような画風ではなく、表面を滑らかに仕上げることをよしとする風潮がありました。彼のおもだった主題が格の高い歴史画ではなく風俗画であったことも、人々の記憶の彼方に追いやられてしまった原因になりました。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「 19世紀、フランス大革命以降のこの国では、ブルジョワジーの台頭とともに民主主義が発達していきました。それまでの旧体制時代と違い、ブルジョワジーが社会の中心になっていったのです。それは、ちょうど 17世紀のオランダ社会と同じでした。 絵画の世界でも、 17世紀オランダ絵画のような写実主義が進んでいきました。民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベ( 1819 ~ 77)や、農民の真摯に生きる姿を叙情的にとらえるジャン・フランソワ・ミレー( 1814 ~ 75)などが、 19世紀に現れます。彼らはフランスの画壇に根強くあったアカデミズムに反旗を翻したのです。 写実主義と日常の生活という、現代のスタンダードから見れば別に珍しくもないことが、この時代のフランス画壇においては非常に革新的なことでした。芸術アカデミーには、絵画は理想的に描くもの、そして絵画とは非日常的なものという考え方があったからでした。この新しい絵画の潮流は、写真の登場とも相まって印象派の誕生へとつながっていったのです。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「そうした時代背景の中で、写実主義を基本とした 17世紀のオランダ絵画がフランスで人気を得ます。美術コレクターや美術史家、同郷のオランダ人画家たちがフェルメールを評価するようになっていきました。そして、 1866年、ついにフェルメール復活の年が訪れました。フランスの著述家・批評家のテオフィル・トレ・ビュルガー( 1807 ~ 69)が、フランスの美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」にフェルメールに関する論文を掲載しました。この論文によって、彼はフェルメールを「再発見」した男となったのです。 これ以降、フェルメールに対する賞賛は、今にいたるまで絶えることがありません。美術史からも無視されることはなくなり、研究も進んでいきました。そして、現在では「 17世紀オランダ絵画の黄金時代」を代表する画家の一人となったのです。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著
「 私は、世界中でこれほど〝マニア〟が多い画家を他に知りません。日本でも頻繁にフェルメールの名前を冠した展覧会が開催され、そのたびに大盛況です。 フェルメールが描いた世界は、その卓越した技法によって、単なる風俗画の域を超えています。市民階級を描いているのに品格を感じさせる温かみのある筆触は、彼独特の持ち味です。そんなところに世界中の多くの人が魅了されるのでしょう。」
—『名画という迷宮 (PHP新書)』木村 泰司著