斉藤悦則のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
1700年代に書かれた内容を、普通に今の時代に日本語で
読めるということがとても奇跡的に幸せなことだと
思いました。また、やはり200~300年前から
読み継がれているという古典のパワーというものを
感じました。
18世紀以前のヨーロッパ、フランスでの宗教対立から
くる虐殺や殺戮、宗教のなのもとでの不寛容な事象が
多く発生していころの内容で。。。
宗教史をあまりわかっていない私にとっては、本来
理解しがたい内容や文章になっているはずのところを
新訳ということで、非常にわかりやすく理解しやすい
内容で書かれてあり感動ものです。
また200年以上も前のことなのに、今の世界や日本で
起こっている、テロや、虐殺、ヘイトスピーチや
国粋的な考え方、隣国や、意見の合わない人達を
ののしりあう人々。。。
全く変わっていない事柄について愕然とします。
また、その不寛容を相手のせいにするような言動も
恥ずかしく思います。
”あの世で幸せになるために、何が必要か。それは、
正しくあることである。
では、この世で、我々の貧しい本性でも望みうるかぎり
において幸せであるためには、何が必要か。それは、
寛容であることである。”(第21章) -
Posted by ブクログ
読みたかった。JSミルの自由論が新訳で読みやすく
なって、文庫本で読めるということが、少し衝撃的な
ことではないかと思います。
自由に関しての考察と、現代にも通用する論理とその
論理展開における思考の流れが読んでいて非常に
気持ちのいいものでした。
自由に対する社会政治的、哲学思想的、慣習的、道徳的
それぞれにおける切り口においてのある意味
考えつくされているバイブルのようなものであるような
きがします。
公私の区分の原理に結びついた思想と言論の自由によって、
世論=多数派の専制を抑止し、多様性を持った民主主義を
成熟させることの有用性を再認識させられる内容です。 -
Posted by ブクログ
普段、ニュースに現れるものは事故や事件、災害など人々におこる不幸である。
というよりも、そういうものこそがニュースになるという面がある。
起こりうる「災害」や「不幸」を、その理不尽さをどのようにとらえるべきなのか。「カンディード」はまさにその「不幸」を引き起こすもの、つまりはこの世界を創り出した「創造主」に対する抗議、皮肉である。この世界は全能の「神」である創造主が創りだしのだから、間違いなど無い、「全て最善」である。毎日報道され、存在する無数の「事件」や「事故」も最善なのだとしたら、「そんなことはない」と反発を覚えるのではないだろうか。私は最初にそう感じた。ヴォルテールが本書で言いたかったこともそういうことなのではないか。
本書の解説は最初にこれがテーマだと感じたものをより掘り下げてくれた。それは「最善説」の解説である。「この世の全ては最善である」という説は、この世にあるものは全てに何らかの存在の理由があり、その理由を辿っていくと究極的にはこの世界の創造の原因に辿り着かざるを得ないという説だ。これは強力な存在の肯定論だ。実際、あらゆる「事件」も「事故」も「災害」もその背景や動機を辿っていくという行為は日々行われているものだが、その究極の原因については考えないものだ。そんなことを言い出したらこの宇宙の誕生という話から全てを行わなければならないからだ。「最善説」は現在ある世界を肯定する。それも強力に。存在の善悪ではなく、ただそこにあるものをあるというだけで肯定する。それが本来の「最善説」である。
本来の「最善説」とは、因果関係の果てにあるものは何か?という話だ。その問題意識は今でも通じるものだ。学者は「真理」を探究して学問や研究を追求するからだ。しかし、もし本当に理由や原因がはっきりとわかったとして、それで「不幸」にあった人々はその理由や原因に納得するのだろうか。例えば、地震の原因が完全に解明されたとしても、その地震によって何かを失ってしまった人は本当に納得するのだろうか。その理由がこの自然に存在する何らかの法則であったとして、それによる被害を受けた人々は救われるのだろうか。この世の理不尽に引き起こされ、現実に起こる苦しみや不幸が何か別のものに変換されてしまうような憤りを感じるのではないのだろうか。「苦しみ」や「不幸」もそれぞれの人が抱えるその人らしさの一部である。ヴォルテールは本書に収録されている「リスボン大震災に寄せる詩」においてそうした一節を書いている。彼は生の苦しみもかけがえのないその人のものであり、それを抱えて一歩を踏み出している人達を讃えようとする。新聞にはニュースが載る、それはだいたい良くない出来事の事だ。その裏には多くの「不幸」がある。まさにこの小説で描かれる事だ。その「不幸」を乗り越えるために、現実をコントのように描写し、皮肉に乗り越えていく。短く素晴らしい本である。 -
Posted by ブクログ
[人>>>食の図]等比級数的に駆け上がっていく人口数に対して、どれだけ尽力しても等差級数的にしか食糧の量は増加しない故、人口は一定数にとどまざるを得ないということを明確に指摘した古典的作品。マルクスを始めとする社会主義者から徹底的に嫌われる一方で、今日に至るまで影響力を有している一冊です。著者は、その名にちなんで「マルサス主義」という言葉も生まれたトマス・ロバート・マルサス。訳者は、フランスの社会主義者であるプルードンの研究で知られる斉藤悦則。
名前とおおまかな内容は他の作品での引用中の言及などで知っていたのですが、改めてしっかりと内容を読んでみるとその説得力の強さに驚かされます。どうしてもその悲観的(もしくは現実的?)な見方に「そうですよね.......」とため息をつきたくなってしまうところ。本書が提示したディストピア的な世界観が読者を引きつけるのみならず、それに立ち向かう必要性がいつの世にもあるからこそ、古典足り得たのかもと感じました。
解説では、マルサスが生まれた時代や思想背景に加え、どのような影響を後世に与えたかが説明されているのですが、これがまた興味深い。フランス革命における理性への傾斜の挫折とそれに対する反動など、マルサスの考え方の後ろ側に理性vs.自然という枠組みが立ち上ってくる点にはなるほどと覚えざるを得ませんでした。
〜人類の歴史をじっくりと探求するなら、以上のことから、人類がかつて存在し、あるいはいま存在しているあらゆる国、あらゆる時代において、つぎの命題が成り立つことを認めないわけにはいくまい。すなわち、人口の増加は食糧によって必然的に制限される。食糧が増加すれば、人口は必ず増加する。そして、人口増加の大きな力を抑制し、じっさいの人口を食糧と同じレベルに保たせるのは、貧困と悪徳である。〜
とても短い訳者解説なんですが、とても面白い解説でした☆5つ -
Posted by ブクログ
マルサスの提示した有名な命題が、果たして今も有効であるか?ということについての議論が決着していないことは、その命題が提示した議題が現在進行形のそれである、と言える。
産業革命以降、マルサスの命題はかろうじて破られてきているが、いよいよ食糧問題が危機的になるにつれて、改めてこの命題が輝きを放ち始めることになる。それが果たして幸せなことなのかは、分からない。
この命題に対して明確な反論が出来ていないことに、我々は、もっと畏怖すべきではないのか?そう、これは未解決の問題なのだ。
この新訳は、その読みやすさから、新たな読者が増えることが期待できることを併せると、意義深い出版だと信じる。 -
Posted by ブクログ
都度に有名なヴォルテールの「寛容論」。
内容はタイトル通り《寛容》を説くものである。ヴォルテールが生きた時代の知識や教養が無いと読み辛い個所が多々あるが…
(注釈を読むだけでも結構苦労する)
ヴォルテールの言う《寛容》は主に宗教上の対立であり、キリスト教のみを正しいとし、その中でも派閥間での争いが多々あることに対する戒めであったのだと思う。
狂信的な信仰・不寛容が生む悲劇を憂い、信仰の異なる人々の間での和解なき闘争に心を痛めていたヴォルテールは、人が人を認め合う《寛容》な人間関係を深く望んだ。
だが、ヴォルテールの《寛容》は、世界には多様な意見を持つ人々が存在することを認め、互いの違いを排斥するのではなく、寛容の心を持って平和的に共存することの大切さにも及んでいるのだと感じます。
キリスト教以外を信じることを「悪」と考え、蛮族と決めた人々の神を殺してキリスト教徒化する。
それが一番正しいと思うような人達が、些細な理由で同じキリスト教徒を大量に殺戮し、それを正しい行為であると感じる。
『それが宗教というもの』と言えば、そうかも知れないが、あまりに悲しく、虚しい。
ヴォルテールの「寛容論」を一度でも読んでいれば、人類の宗教というものは多いに異なるものだったのでは無いか… -
Posted by ブクログ
原題 On Liberty 1859年発行
世界史の教科書ではベンサムの次の典型的な「功利主義者」(お父さんがベンサムの盟友らしい)だが、著作はまったく読んだことがなかったので読んでみた。
自分自身はリバタリアンだと思っているので、「元祖はこの人か」と感心する記述が満載だ。
異論反論を言う言論の自由の重要性を主張するにあたり、攻撃の対象となる言説が間違っている場合に異論反論が価値があるのは当然として、正しい場合であっても、異論に耐えるプロセスを経ることで質が上がるため、歓迎すべきである、という説明は説得的だ。
女性の権利に関しても、当時としては相当進歩的と思われる主張(男性と全く同じ権利を認めるべき)をしていて驚いた。(妻がハリエット・テイラーというフェミニスト)
自由に関する二つの公理
P229
さて、二つの公理とは、つぎのようなものである。
第一に、個人は、自分の行動が自分以外の誰の利害にも関係しないかぎり、社会にたいして責任を負わない。他のひとびとは自分たちにとって良いことだと思えば、彼にむかって忠告したり教え諭したり説得したり、さらには敬遠したりすることができる。彼の行動に嫌悪や非難を表明したくても、社会はこれ以外の方法を用いてはならない。
第二に、個人は、他のひとびとの利益を損なうような行動をとったならば、社会にたいして責任を負う。そして、社会を守るためには社会による制裁か、もしくは法による制裁が必要と社会が判断すれば、その人はどちらかの制裁を受けることになる。
P275
国家の価値とは、究極のところ、それを構成する一人一人の人間の価値にほかならない。だから、一人一人の人間が知的に成長することの利益を後回しにして、此細な業務における事務のスキルを、ほんの少し向上させること、あるいは、それなりに仕事をしているように見えることを優先する、そんな国家には未来がない。たとえ国民の幸福が目的だといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を萎縮させてしまう国家は、やがて思い知るだろう。小さな人間には、けっして大きなことなどできるはずがないということを。すべてを犠牲にして国家のメカニズムを完成させても、それは結局なんの役にも立つまい。そういう国家は、マシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものも失わせてしまうのである。 -
Posted by ブクログ
ライプニッツの最善説、カトリックに対する痛烈な皮肉だが、そうならざるを得ない苛烈な現実認識があり、その元となった「リスボン大震災に寄せる詩」も収録されている。
カンディードは、どんな無体な現実の体験をしても、哲学の眼鏡を通してしか認識することができないが、最後になってようやく、目の前の畑を耕すことの方が重要である、と言う事実に気づくことになる。
カンディードのあまりに過酷な経験に目を覆いたくなったり、キリスト教的な道徳や、救いの少ない結末に違和感を持つ読者もあるだろうが、それが、リスボンの大震災の経験に基づいている、と思うと日本人としては途端に親近感を覚えることも事実。