斉藤悦則のレビュー一覧

  • カンディード

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    哲学コントと呼ばれる分野の本。
    訳文がうまいからだと思うが、テンポがよく、18世紀に書かれた本とは思えない。混沌として何が善だか悪だかわからない今の時代を描いているようだ。
    人間の悪や自然の災害で悲惨な目に遭っても、それでも「すべては善である」という考えへの批判。

    その言葉を信じるカンディードがひどすぎるほどの残虐な様々な悪に遭遇しても、なおも最善説を信じる滑稽さを通じて、その批判を表している。
    巻末のリスボン大震災に寄せる詩ではさらにストレートに批判が伝わる。

    災害が多い中で醸成されていった日本の宗教的な考え方。
    宗教的な考え方が先にあって大災害で哲学的な論争が生まれる西洋。
    立ち位置の違い、哲学が生まれる背景の違いも感じられる。

    最後にカンディードがたどりついた言葉が、今の自分への答えのようにも感じられた

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    2026年07月11日
  • 自由論

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    個人的な事柄であれば社会からの干渉やしがらみに囚われる必要はない。むしろもっと自由に考えて、独自の,尖った,変な人でいる方が断然良い。
    そう背中を押してくれるような内容だった。
    自由の制限、画一化の弊害についても色々な事例を通じて知る事ができた。昨今のSNSの問題にも大いに通ずるものがあると思う。

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    2026年05月26日
  • 自由論

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    人間は経験と議論によって、自分の誤りを改めることができる。

    真理に近づくためには、各々が信じる正しさを議論し合わねばならない。変わった性格、変わった考え方があってよい、むしろ、そうあるべきだ。

    このあたりが最も刺さりました。

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    2026年01月13日
  • 自由論

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    自由を最大限保証することの効用とそれでも自由を制限せざるを得ない場合について具体的な事例をあげつつ考えていく。人や社会は、他人の自由を思わず知らず不当に制限してしまいがちなもので、その事例が「あるある」的に、シニカルかつユーモラスに、それでいて大真面目に描かれていく。名文・名言と言いたくなるようなフレーズに満ちており、読んでいて気持ちがいい。

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    2025年06月20日
  • 自由論

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    ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806年5月20日 - 1873年5月8日)は,功利主義を代表するイギリスの哲学者である。ミルの『自由論』は,功利主義の原則を社会と国家に適用したものであり,国家の権力が個人の自由を妨げることが正当化されるのは,他者に実害を与える場合に限定されるべきで,それ以外の個人的行為は必ず保障されるべきだと論じた。また,参政権の拡大をもたらしていた民主主義の政治制度について,大衆による多数派の専制をもたらす危険性があることを警戒していた。

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    2025年03月25日
  • 人口論

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    18世紀末、フランス革命の数年後に書かれたらしい。そのままでは確かに状況が合わない部分もあるが、基礎がシンプルに理解できるので、今でも頼れる。西洋の西洋文明批判にも読める。

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    2024年09月23日
  • カンディード

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    津村の読み直し世界文学の1冊である。啓蒙主義のボルテールであるが、思想を示したものというよりも、哲学者の冒険を描くことで、教会の権威を借りたデタラメを描いたものである。カトリック、プロテスタント、イスラムについてその聖職者のでたらめな姿を描いている。

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    2023年05月10日
  • カンディード

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    18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールの哲学的小説。波乱万丈の冒険譚を通じて「最善説」に疑問を投げかける。

    何やら哲学がテーマになっているというのでどんな小難しい話が出てくるのかと思ったら、冒頭からたたみかけるような災難・悲劇・試練のオンパレードで引き込まれた。息もつかせぬスピード感で波乱万丈の大冒険を繰り広げる主人公。彼はただ運命に翻弄されているだけにみえて、その胸には常に「恩師の教え『すべては最善である』は本当か?」という命題がつきまとっている。この「最善説」という考え方は、本書に反発したルソーのように色々な解釈ができ、多くの人を議論に巻き込んでしまう魔力のようなものがあるように思える。この物語の中でも主人公を中心に議論がたえない。悪や不幸を目の前にして、すべて神の創った最善といえるのか。それでは希望とは……。こちらも考え込んでしまうことしきりである。

    若者カンディードの冒険譚というメインラインだけでエンタメとして十分面白い。その上で議題の哲学的テーマについて、同時収録の「リスボン大震災に寄せる詩」と合わせ、一通りの思索をめぐらせる機会となった。あらゆる苦難・辛酸を味わった主人公が最後にたどり着く結論が感慨深い。最後の一行……人間にはこれしかないよなぁ、と。

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    2022年06月27日
  • 自由論

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    アマプラで無料やったんで読んだ。

    社会はなぜ、人々に自由を与えた方が良いのか、について、色々場合分けしながら主張している。
    自分の主張に対して自分で反論し、その反論にさらに自分で反論することによって説得力を出していた。

    今では当たり前の自由主義だが、それもおそらくこの本が書かれる少し前ぐらいから、徐々に民衆に信じられてきた一つの宗教なんだなーと感じて面白かった。

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    2021年11月29日
  • カンディード

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    面白かった。純粋で真面目で師匠の説く最善説をひたすら信奉するカンディード。苦難の旅で信じるものが揺らいでゆき、第二十三章では「この世界はいったい何なんだ」と悩むカンディード。第二十九章礼を尽くしてきた身分の高い恋人の兄を面と向かってとうとう「バカ殿」呼ばわりするカンディード(ここは笑いました)。人間について生きることについて現代でも解決できない同じことを、ずっと昔から人は悩み苦しんできたらしい。「リスボン大震災に寄せる詩」は素晴らしかった。よくも自分はカンディードとこれを読まずに今まで人生に悩んでこられたなと思う。詳しい解説がまた素晴らしく、目を開かされた思い。
    パングロス先生を私は滑稽とは思わない。その生き方も尊重されるべきで、彼がカンディードの支えとなり読者の思考を深める。
    解説でライプニッツ、ルソー等の本も紹介されている。本をめくりかえしながら、人生ってなんなのかを問うわたしの旅への出発はここからだなと気づく。

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    2021年10月22日
  • 自由論

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    自由論 J・S・ミル

    自由論の金字塔であり、新型コロナにおける自粛“要請”を取り巻く環境で、今一度見直されるべき名著。
    自由論の主張は、P29にある。
    「人間が個人としてであれ集団としてであれ、他の人間の行動の自由に干渉することが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるである。文明社会ではあ、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、他のひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる」
    本書では、この原理について、様々な領域で、考えられる反論に対して、その原理の重要性を述べる形で論の展開が進む。そして、この自由ということについては、ある種の大衆社会への警鐘でもある。自由を阻害する、行動の自由に干渉するということにおいて、国家などによる暴力的な抑制と同等に、世間による干渉も同じレベルで制限されるべきと考えられている。トクヴィルの著作についても言及しながら、世論による自由の制限についても、その暴力性を指摘しているのである。ここに、アリストクラシー的な世界からデモクラシーに転換する時代の真っただ中において、天才であるミルが多数者の圧政に対してのアンチテーゼを展開した書ともいえるであろう。
    徹底的に自分で考えにぬき、そして、想定できる反論に対して、一つずつ丁寧に抗弁するミルの筆致や文章のスタイルもまた好感を持つことができた。
    全体として、自由が制限されるべきではないということの論拠は、個人的にはリスクヘッジと真理への渇望であるように思えた。ミルは、真理というものを考えたとき、その時代の多数者が必ずしも真理であるとは考えない。悠久の歴史の中で、その時代に信じられていることは、後世から見れば誤っていたということが多々あることを指摘し、真理への到達のためには、自由な意見の発揚と、徹底的な議論の必要性を説く。少数派の意見を抑圧することは、もし仮にその意見が正しかった場合の社会全体の損失の大きさを考えた場合に、理屈が通らないことを主張する。多様性はリスクヘッジのために必要なのである。よく例として挙げられる働きアリの例があるが。アリの集団では、いくらかの働かないアリがおり、隊列にも参加しない。しかし、そのアリは、いざ自分たちの群れの巣がなくなったときに真っ先に新しい巣を見つけ出してくる。働かないアリを無理やり働かせていると、巣がなくなったときに文字通り全滅してしまうが、それを防ぐためにリスクヘッジとして異なる行動様式を取らせているともかんがえられる。
    ミルの論拠もこれに少し似ている。どんな人間に対しても、そして、その人間がいくら現代的な視点で見て、常識とは異なる生き方をしていたとしても、その人が他人に迷惑をかけない限り、その行動を批判することは許されない。彼/彼女を批判し、行動を抑え込むことは、道徳的な観点というよりも、その社会にとって不利益であるからである。彼/彼女らが、実は現代の常識では考えもつかない真理に近づいているかもしれない。そうしたときに、彼/彼女の意見を抑圧することは、未来に対して不誠実ともいえる行動であり、社会という寿命の長い生き物が生き延びるためには、あってはならない行動なのであろう。
    これは現代に対しても非常に示唆がある。多様性は、短期的には統率を取ることに対して、障壁となる。しかしながら、長い時間軸で考えたときに、多様性はその組織のレジリエンスを向上させるのである。同質性の高い組織は、その時は一枚岩で強いが、長い時間の中では淘汰されてしまう。そして、その多様性を担保するのが自由に関するこの原理なのである。
    一方で、ミルは社会に対する不利益を決して許さない。例えば、P44で「正邪はともかく、暴君殺しは殺人の範疇ではなく、内乱の範疇にあるものである」と述べている。暴君は社会に対して不利益をもたらす個人である。そして、その個人を殺すことは、殺人ではなく、社会による反発であるということである。この文章を読んで、カントロヴィッチの『王の二つの身体』を想起した。近世において、反逆罪の罪人に対して、身体の限界を超えた残虐な処罰がなされたことについて、王の身体に二元性を指摘して、説明がなされていたと記憶しているが、反逆罪は、王の生物的な身体ではなく、政治的な身体への攻撃であり、その報告であるがゆえに、生物的な次元での刑罰(人が死んだら終わり)ではなく、政治的なレベルでの象徴的な刑罰を行っていたというものである。カントロヴィッチの論を引くと、暴君を殺すことは、政治的な身体への攻撃である。仮に君主が暴君であり、社会という巨大な生命体に対しての反逆を働いた場合、それに対して報復することは、身体的な次元での殺人ではなく、政治的な次元での内乱になるということなのだろう。
    ミルはやはり、社会というもの、ルソーの言う一般意志のようなもの絶対性や歴史的な責任を念頭に置いているように思える。長いスパンで時間軸を持ち、人間社会という次元での便益を徹底的に追求した思想家の爪痕が、本書には刻まれているのであった。

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    2021年04月19日
  • カンディード

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    個々の不幸が全体の幸せを作り出す
    盲目的に信じるということの大切さ。
    結果には必ず原因がある。結果は今を見ればわかるが原因は考えないと分からない。
    全ては神によって決められている。全ては最善なのだ。最後には自分の心臓まで食べられてしまうのに人間は自分を飲み込む大蛇を愛おしそうに抱えている。
    働く事は私たちを退屈、堕落、貧乏の3つの不幸から遠ざけてくれる。働こう。休むために生まれてきたわけではない。
    素直に良さを引き受けよう。あまり批判を考えすぎない。
    自分の身の回りの幸せに目を向けよう。

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    2020年12月18日
  • 寛容論

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    「考えの違う人に対して、怒ることなく、寛容でいる」。当たり前といえば当たり前だけども、私にとっても、この本が書かれた当時のフランスの人たちにとっても、実践は難しかったらしい。

    まず、本を読んで驚いたのはキリスト教の教派間で殺人や迫害が公然と行われてきた歴史があったこと。そして、その理由がまさに教派が違うからというものであったこと。本書の書かれた時代のフランスでは、カトリックがプロテスタントやユグノーといった少数派の教派を迫害していたらしい。そうした歴史を述べながら、「それに対して、筆者がそれを戒め、寛容という人徳を持つことを勧めるという流れで構成されていました。

    雑にまとめると、最初の言葉のような要約になりそうですが、今までの人生を振り返ると、当たり前のように思える正しさ(言われなくとも意識できそうな)しかないのに、どこまで実践できてきたか非常に怪しい。私自身、「自分が信じるものを、相手に強要する」という態度(カトリックが少数派教派に接したように)を取った場面がいくつもある。常識とか、当たり前とか、そういった教派に属して人を非難した覚えがある。相手と自分が同質であることを期待して、それが裏切られると強要するーそんなことが自身の内や周囲や、それを包括する集団の中でも繰り返されてきたと感じる。

    それが拡大すると、考えの違う集団に対して「考えが違うという」理由だけで攻撃できてしまうことが、本書の『カラス事件』や争いにつながることを追体験しました。

    「われわれ人間はほんのわずかな文章のために、互いに相手を抹殺してきたのである(p63)」という言葉にあった通り、互いに考えが違ってもそのこと自体を騒ぎたてるのではなく、「人間たちは、みんな、たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう(p197)」という態度で相手を尊重できる人になりたい。

    「考えの違う人を受け入れられない。では、どうするか?」という葛藤は、当時のフランスの社会に限らない、どの時代の人生の中でも現れると思います。その時、時代を超えて対立を戒めてくれる、一つの答えを先々の人へ提示してくれる素晴らしい本だと感じました。

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    2020年11月15日
  • 自由論

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    ここ最近も「あいちトリエンナーレ」の問題や、川崎のヘイト・スピーチ規制条例をめぐる問題などで、何かと話題に上る「表現の自由」。中学校のときに公民の教科書で教わるが、改めてちゃんと学んでみようと思い、そのことについて触れた重要な古典である本作を手に取ってみた。読んでみると飜訳の妙もあるのか全体的に予想していたよりもわかりやすく、とても勉強になった。ただ、内容については同意できない部分もある。本作が発表されてからだけでも2世紀以上が経過し、現在われわれは自由権というものが当たり前のように定着している世の中に住んでおり、たとえば「公共の福祉」などを理由に、自由が制限される場合についても十分に理解している。ただ、本作が執筆された当時はまだ議論が不十分なせいか、どうも内容に理想論的、原理主義的な部分が散見される。そりゃたしかに自由権は極力制限されないことがベストなのだろうが、本作の内容を現代で忠実に実践したら、おそらく社会はたちまち混乱に陥ってしまうだろう。また、もうひとつの同意できない部分として、これも時代柄仕方がないことなのだろうが、どうもキリスト教を絶対視するような価値観が眼につく。自由をめぐる議論のスタートとして、キリスト教も仏教もイスラーム教も、そのほかのマイナーな宗教もすべて同一線上にあるというところを大前提にしないといけないので、その部分にかんしては明確に間違っていると言っておきたい。とはいえ、現代社会におけるあらゆる自由は本書を含む偉大な先達の議論がもとになっており、この感想を書けることじたいも表現の自由のおかげといえる。そういう意味でも、全人類にとって必読の書であると言っても過言ではないだろう。

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    2019年12月17日
  • 寛容論

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    1763年ヴォルテールによって著された『寛容論』

    ある一家に起こった事件に対して憤慨し、
    その要因である宗教団体の「不寛容」な振る舞いに対して、ローマや聖書などの歴史から引用し、「寛容」でないことを弾劾した書。

    そこに日本の事柄も出てくる。
    日本人は全人類のうちでもっとも寛容な国民であると。

    そこにイエズス会の宣教師がやってきて信仰を広めるのだが、
    「島原の乱」として有名なキリスト教徒のあの大静粛は、実はこのイエズス会が自分たち以外の宗教を認めたがらないことが原因だとヴォルテールは言う。
    つまり不寛容だと。

    同様に同じロジックによって、
    ローマを題材などにして、
    寛容によってではなく、不寛容によっていずれも地上を殺戮の場と化したと説く。


    ローマはイエスを殺したではないかという反論は、
    それは実は国家ローマではなく、イエスに対して憤怒したユダヤ教の最高法院が死刑を言い渡す権利がなかったので、あれこれローマ人の地方総監のまえで理由を並べて告訴したのだ。

    ローマの不寛容ではなく、ここではユダヤ人の不寛容がことの発端であった。

    ここで、ヴォルテールは死刑を執行する側でななく、イエス・キリストに習いたいのであれば、人のために命を捨てる側になりなさいと言う。

    今回の事件を起こしたキリスト教徒プロテスタント側の不寛容に対して、プロテスタントが信ずるイエスの「寛容」を前面に打ち出して、非難している。


    カエサルやローマの代名詞でもある
    「寛容」ということについて
    考察を深める一冊。


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    2019年02月20日
  • カンディード

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    こんなにも笑える古典は初めてだ。
    たっぷりといたずらな皮肉が効いている。

    不幸の域値を越えて爆笑となる。
    だが中盤、あまりにも悲惨なので笑えなくなってくる。

    だが、終盤はもはやめちゃくちゃで哲学コントと言われるのもよくわかる。


    だが、ヴォルテールは至って本気でこれを書いているのだろう。

    本書を通じて一貫してあるテーマは、
    「人が生きるということは、善なのかそれとも悪なのか?」
    という人や人生の本質への問い。


    実は、ヴォルテールはルソーから批判の手紙を受け取っていた。
    「君の考えには人間の原始状態への考察への配慮が足らないよ」と。

    この『ガンディード』は、そのルソーへの暗黙の返答だったのだ。
    それを踏まえて読むとさらに面白い。

    ルソーとヴォルテールの議論を、この『ガンディード』という物語を通して垣間見ているようだ。


    結論として、
    ヴォルテールは議論している暇があったら働こう。なぜなら、退屈、堕落、貧困というのは不幸の元凶であり、働くことはそれらを退けることになるのだから、と。


    この働くということを重んじる思想は、
    聖書からの引用でもあるように、
    庶民は働かなければ(主に農業)生きていくことができない時代を反映しているものであり、
    それをそのまま現代に置き換えることは出来ないと思うが、
    それだけではないより深遠なメッセージがそこにあることを感じる。


    働かなければ生きていけない時代から
    働かなくても生きていける時代の今。

    働かざるもの食うべからず、から
    働かなくても食っていいの現代。

    人はパンのために生きてはいない。
    だが、パンなしでは生きられない。
    そして、ただ何もせず無為に過ごす(働かないというのをその意味で使うならば)ことは出来ないのだ。

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    2019年02月20日
  • 人口論

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    1789年にイギリスで刊行されたマルサスが著した古典『人口論』
    人間の人口と食糧の関係性を法則として明確に提示した書物だ。


    「人口は等比級数的に増え、食糧は等差級数的に増える」とマルサスは論ずる。

    つまり人口はかけ算で増え、食糧は足し算的にしか増えないということ。


    その前提にあるのは、
    1つは、食糧は人間の生存にとって不可欠であること。
    2つ目は、男女間の性欲は必然であり、ほぼ現状のまま将来も存続すること。

    そして
    こう結論づける。

    人口の増加は食糧によって必然的に制限される。
    食糧が増加すれば、人口は必ず増加する。
    そして、人口増加の大きな力を抑制し、実際の人口を食糧と同じレベルに保たせるのは、貧困と悪徳である、と。


    この貧困と悪徳では、
    貧困の方が抑制力があると説く。

    悪徳で人口増加を抑制するというのはどういうことか。
    戦争、疫病、そして大飢饉だ。

    つまり人口と食糧のバランスが崩れると、必ず貧困、また悪徳によって人口調整の力が働き、人口増加を抑制するということだ。

    現在にあっては、
    この人口はかけ算で食糧は足し算というのは必ずしもそうだとは言えないし、
    しかも食糧の生産量は土地に制限され、人口が増加し続けることへの問題はすぐにでも勃発するような言い方をしているが、ここに関しても疑問である。

    すぐにでも食糧不足による危機が訪れると書かれてから、すでに200年以上たち食糧不足の地域ももちろんあるにはあるが、今や飢餓で死ぬのが100万人。食べ過ぎが原因で死ぬのがその3倍の300万人であるからして、食糧がないことに困る以上に、あり過ぎて困るという始末だ。


    カール・マルクスによって散々けなされたこのマルサスの『人口論』だが、結局は共産主義というのは幻想であったのだということが、歴史を見れば明白なのであって、マルサスのこの『人口論』というのは、上述したような不正確なこともあるが、それでも今も尚、本質を突いた鋭い洞察として感じるところは多々あり、それが今もこの古典を読む価値なのだろうと思う。

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    2019年02月08日
  • 哲学書簡

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    物事の本質を見抜く目を養うのに格好の書。

    1734年にヴォルテールが著したこの『哲学書簡』は、すぐさま発禁にされた。

    あらゆることに批判的な眼をもつことで、物事の本質を突き、自分の頭で考えることの大切さが表わされた書だ。

    時流ではなく本質的な観点から、自国フランスに関係する愚行も批判している。

    パスカルの「パンセ」に対する批判も素晴らしい。
    権威を鵜呑みにせず、かといって素晴らしいことは素晴らしいと認めつつ、極めて理路整然と合理的に批判を行う点だ。

    例えば、
    パスカルは言う。
    人は知性が豊かになるほど、世の中で個性的な人間をますますたくさん見つけるようになる、
    と。

    だがヴォルテールは言う。
    本当に個性的な人間はごくわずかしかいない。
    ほとんど全ての人間が、慣習と教育の影響を受けて、おとなしくふるまい、物事を考え、ものを感じる。知性をそなえて、新しい道を歩む人間ほど、この世に稀なものはない、
    と。



    だが、そもそも
    知性を磨く人間がどれほどいるのか。

    読書する人間は少ない。
    読書する人間のほとんどは小説を読む。
    対して哲学などの古典を読む人間はさらに少ない。
    物を考えることを好み自らの知性に磨きをかけることに情熱をもった人間は少ないように見える。

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    2018年12月03日
  • カンディード

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    「最善説」についての是非。世界は最善にできているのか、できるいるとしたら、不幸な人はなぜいるのか。個人のせいなの?悪いことをしたから。全体としての善。主人公カンディードが遭遇する様々な出来ことを通し、隣人と対話しながら、考えていく物語。頭でごちゃごちゃ理論を考えるでなく、目の前にある畑を耕そうというラストシーンがプラグマティックな印象を受けた。ドイツの観念論、フランスの構造主義、イギリスの経験論、アメリカの分析哲学、プラグマティズム。これらのもとになっているような、なっていないような。啓蒙の時代の17、18世紀であり、近代合理主義というか科学発展の時代の始まりに書かれた本で、現代のように、高度に専門分化する前のところ。とても面白く読めた。再読しよう。今度は岩波で読んでみようかな。

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    2018年01月13日
  • 自由論

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    こんなに読みやすい哲学書は初めて!というくらい読みやすかったし、ミルの時代は尖った意見だったかもしれないか、今の時代に求められてることも書かれており、必読だと。

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    2016年12月08日