あらすじ
カトリックとプロテスタントの対立がつづくなか、実子殺しの容疑で父親が逮捕・処刑された「カラス事件」。狂信と差別意識の絡んだこの冤罪事件にたいし、ヴォルテールは被告の名誉回復のために奔走する。理性への信頼から寛容であることの意義、美徳を説いた最も現代的な歴史的名著。ヘイトスピーチ、ヘイトクライム、テロなどの暴力行為が世界各地で頻発し、罪なき人たちが諸悪の犠牲となっている21世紀の今こそ読まれるべき古典
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
「考えの違う人に対して、怒ることなく、寛容でいる」。当たり前といえば当たり前だけども、私にとっても、この本が書かれた当時のフランスの人たちにとっても、実践は難しかったらしい。
まず、本を読んで驚いたのはキリスト教の教派間で殺人や迫害が公然と行われてきた歴史があったこと。そして、その理由がまさに教派が違うからというものであったこと。本書の書かれた時代のフランスでは、カトリックがプロテスタントやユグノーといった少数派の教派を迫害していたらしい。そうした歴史を述べながら、「それに対して、筆者がそれを戒め、寛容という人徳を持つことを勧めるという流れで構成されていました。
雑にまとめると、最初の言葉のような要約になりそうですが、今までの人生を振り返ると、当たり前のように思える正しさ(言われなくとも意識できそうな)しかないのに、どこまで実践できてきたか非常に怪しい。私自身、「自分が信じるものを、相手に強要する」という態度(カトリックが少数派教派に接したように)を取った場面がいくつもある。常識とか、当たり前とか、そういった教派に属して人を非難した覚えがある。相手と自分が同質であることを期待して、それが裏切られると強要するーそんなことが自身の内や周囲や、それを包括する集団の中でも繰り返されてきたと感じる。
それが拡大すると、考えの違う集団に対して「考えが違うという」理由だけで攻撃できてしまうことが、本書の『カラス事件』や争いにつながることを追体験しました。
「われわれ人間はほんのわずかな文章のために、互いに相手を抹殺してきたのである(p63)」という言葉にあった通り、互いに考えが違ってもそのこと自体を騒ぎたてるのではなく、「人間たちは、みんな、たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう(p197)」という態度で相手を尊重できる人になりたい。
「考えの違う人を受け入れられない。では、どうするか?」という葛藤は、当時のフランスの社会に限らない、どの時代の人生の中でも現れると思います。その時、時代を超えて対立を戒めてくれる、一つの答えを先々の人へ提示してくれる素晴らしい本だと感じました。
Posted by ブクログ
1763年ヴォルテールによって著された『寛容論』
ある一家に起こった事件に対して憤慨し、
その要因である宗教団体の「不寛容」な振る舞いに対して、ローマや聖書などの歴史から引用し、「寛容」でないことを弾劾した書。
そこに日本の事柄も出てくる。
日本人は全人類のうちでもっとも寛容な国民であると。
そこにイエズス会の宣教師がやってきて信仰を広めるのだが、
「島原の乱」として有名なキリスト教徒のあの大静粛は、実はこのイエズス会が自分たち以外の宗教を認めたがらないことが原因だとヴォルテールは言う。
つまり不寛容だと。
同様に同じロジックによって、
ローマを題材などにして、
寛容によってではなく、不寛容によっていずれも地上を殺戮の場と化したと説く。
ローマはイエスを殺したではないかという反論は、
それは実は国家ローマではなく、イエスに対して憤怒したユダヤ教の最高法院が死刑を言い渡す権利がなかったので、あれこれローマ人の地方総監のまえで理由を並べて告訴したのだ。
ローマの不寛容ではなく、ここではユダヤ人の不寛容がことの発端であった。
ここで、ヴォルテールは死刑を執行する側でななく、イエス・キリストに習いたいのであれば、人のために命を捨てる側になりなさいと言う。
今回の事件を起こしたキリスト教徒プロテスタント側の不寛容に対して、プロテスタントが信ずるイエスの「寛容」を前面に打ち出して、非難している。
カエサルやローマの代名詞でもある
「寛容」ということについて
考察を深める一冊。
Posted by ブクログ
1700年代に書かれた内容を、普通に今の時代に日本語で
読めるということがとても奇跡的に幸せなことだと
思いました。また、やはり200~300年前から
読み継がれているという古典のパワーというものを
感じました。
18世紀以前のヨーロッパ、フランスでの宗教対立から
くる虐殺や殺戮、宗教のなのもとでの不寛容な事象が
多く発生していころの内容で。。。
宗教史をあまりわかっていない私にとっては、本来
理解しがたい内容や文章になっているはずのところを
新訳ということで、非常にわかりやすく理解しやすい
内容で書かれてあり感動ものです。
また200年以上も前のことなのに、今の世界や日本で
起こっている、テロや、虐殺、ヘイトスピーチや
国粋的な考え方、隣国や、意見の合わない人達を
ののしりあう人々。。。
全く変わっていない事柄について愕然とします。
また、その不寛容を相手のせいにするような言動も
恥ずかしく思います。
”あの世で幸せになるために、何が必要か。それは、
正しくあることである。
では、この世で、我々の貧しい本性でも望みうるかぎり
において幸せであるためには、何が必要か。それは、
寛容であることである。”(第21章)
Posted by ブクログ
私は、イライラしている人が得意ではない。騒音も苦手だ。乱暴な議論の進め方や、思考停止した同調圧力にも耐えられない。我ながら不寛容だな、と思うことは少なくない。だが、本書が扱うのは、こうした個人レベルの「不寛容さ」を反省させるような話ではない。射程はもっと深く、そして残酷だ。
人類史における最大級の転換点の一つは、「異教徒は、いつ、どのようにして“許される存在”になったのか」という問いではないか。異教の神を拝む民を殲滅せよと記された宗教は存在する。キリスト教においても、ユダヤ人に「キリスト殺害の責任」を負わせる反ユダヤ主義的解釈が、事実上否定されたのは1965年の第二バチカン公会議『ノストラ・アエターテ』と、驚くほど最近の出来事だ。この種の「制度化された不寛容」は、観念にとどまらず、直接的に戦争と虐殺を生み出してきた。寛容とは単なる美徳ではなく、平和の前提条件であるはずだ。今、我々は本当に他者や他国に対して寛容だと言えるのだろうか。
本書で紹介されるジャン・カラス事件は、その問いを鋭く突きつける。カトリックの息子が自殺した後、プロテスタントである父ジャン・カラスは、誤解と偏見の中で拷問を受け、無実のまま処刑される。一家は完全に破滅し、名誉を剥奪され、社会から切り離された。彼が殺された理由はただ一つ「異教徒だったから」である。
しかも、この事件が起きた町は、かつて四千人のユグノー(カルヴァン派プロテスタント)が虐殺され、その出来事を市民が毎年祝賀祭として記念してきた土地だった。1762年はその二百周年にあたり、町全体が宗教的熱狂に包まれていた。狂気は突発的なものではなく再生産され、正義の名の下に温存されてきた。その空気の中で、一家は処刑台へと押し上げられた。
本書には、さらに目を背けたくなるような宗教的暴力の記録が続く。アイルランドで起きたカトリックとプロテスタントの相互虐殺、旧約聖書に記される異民族殲滅の命令、人身供犠をめぐる解釈の数々。そこに描かれるのは、特定の宗教の野蛮さではない。「神」「正義」「真理」という語が、人間の残虐性に免罪符を与えてきたという普遍的な構造である。
残虐な歴史が綴られる本でありながら、本書の核心ではない。問いは「私たちは、どこから不寛容を不寛容だと認識できるようになったのか」。個人の好き嫌いや気分の問題ではない。社会が、宗教が、国家が、他者を殺してはならない理由をようやく言語化できるようになった。いや、殺して良いとした理由を封印できるようになったというべきか。その遅すぎた転換点を、本書が照らし出してくれる。
Posted by ブクログ
都度に有名なヴォルテールの「寛容論」。
内容はタイトル通り《寛容》を説くものである。ヴォルテールが生きた時代の知識や教養が無いと読み辛い個所が多々あるが…
(注釈を読むだけでも結構苦労する)
ヴォルテールの言う《寛容》は主に宗教上の対立であり、キリスト教のみを正しいとし、その中でも派閥間での争いが多々あることに対する戒めであったのだと思う。
狂信的な信仰・不寛容が生む悲劇を憂い、信仰の異なる人々の間での和解なき闘争に心を痛めていたヴォルテールは、人が人を認め合う《寛容》な人間関係を深く望んだ。
だが、ヴォルテールの《寛容》は、世界には多様な意見を持つ人々が存在することを認め、互いの違いを排斥するのではなく、寛容の心を持って平和的に共存することの大切さにも及んでいるのだと感じます。
キリスト教以外を信じることを「悪」と考え、蛮族と決めた人々の神を殺してキリスト教徒化する。
それが一番正しいと思うような人達が、些細な理由で同じキリスト教徒を大量に殺戮し、それを正しい行為であると感じる。
『それが宗教というもの』と言えば、そうかも知れないが、あまりに悲しく、虚しい。
ヴォルテールの「寛容論」を一度でも読んでいれば、人類の宗教というものは多いに異なるものだったのでは無いか…
Posted by ブクログ
18世紀(1763年)の本。
主にキリスト教の宗派間の血みどろの闘争を諌め、寛容を説く内容。
発端は、ジャン・カラス事件における大誤審。最終的には冤罪と認定され、名誉回復されるのだが、死刑執行後ではほぼ意味がない。
ヴォルテールは延々と狂信の悪例をこれでもかと挙げていく。その一方で、イエス・キリストへの敬愛は揺るがない。
八百万の神の国に住むものとしては、この世に一神教が無ければ、人類はもっと幸せに暮らせているだろうと思ってしまう。イエス・キリストに救われた人もまた無数にいるだろうけれど。
「賢者ナータン」と同じくらい、一神教の信徒に読んで欲しい。