三浦裕子のレビュー一覧
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『少年があの犬を見かけて既に三日になる。巨人ダナマイもこの三日間ずっと、彼らを注視し続けている』―『第一章 初秋』
切れぎれの不連続に流れる時間。埋もれてしまった過去の日常の記憶。呼び起こされる郷愁。
故・天野健太郎翻訳による「歩道橋の魔術師」「自転車泥棒」以来、呉明益を読んで思うことはいつも同じ。翻訳された順番に読んでいるので「複眼人」が翻訳された時に少し驚いたけれど、台湾の自然と固有の民族、そして超人的な存在、というのもこの作家を特徴付ける要素だろう。
作家による解説というのは翻訳書では滅多お目にかからないけれど、本書では執筆の経緯や描かれた事実などについて著者自らの説明が巻末にある。その中にこのような言葉がある『もし読者から、これは環境小説なのか?と訊かれたら、私はこう答える。これは小説である』。作家がわざわざそんなことを言うのは、恐らく「複眼人」や「雨の島」で描かれた内容が、どちらかと言えば環境派と呼ばれる人々の共感を得やすい内容であったからではないかと推察するが、作家の理想とする世界がどうであれ作品としては、単純に環境破壊を凶弾するとか、自然に対する畏怖を持てとか、というメッセージがある訳ではないと自分は思う。ただし、そういう気持ちを持っている人々を丁寧に扱っている、ということは事実としてあるだろうけれど。本書で描かれる「原住民」とセメント工場建設を巡る話も、単純に捉えることはできないような描かれ方をしている。
そんなことを考えてしまうのは、生前、天野健太郎が先行する「眠りの航路」や「複眼人」ではなく「歩道橋の魔術師」を選んだのは何故なんだろうか、という思いがあるから。並べてみると、日台の複雑な関係が綾となって描かれている「眠りの航路」や超人的な存在が登場する「複眼人」に比べて、「歩道橋の魔術師」は台北の商場が舞台ではあるものの、誰でもすっと入って行き易い小説だなと思う。しかしその後に翻訳されたもの、そして本書を読んで改めて思うのは、呉明益という作家を特徴付ける自然との関りや超人的な存在、そして台湾の先住民族という要素は既に初期の段階からずっと存在していたのだなということ。翻訳された順番で「複眼人」や「雨の島」を読んだ時には作風が少し変わったなと思ってしまったものだけれど、それはこちらの勝手な印象だったという訳だ。
本書には複数の登場人物が主役級に登場するが、誰一人として起承転結のある物語を紡がない。多少もどかしさも感じるような関係性が描かれるのだけれど、『この小説で書いたのは本当にあった出来事だが(遠い歴史でもなければ、近い未来でもない)』と作家が明かすように、安直な物語に矮小化させることのできない事象が、実は描かれている。その切れぎれのエピソードの書かれていない繋がりをどう読むかは読者に委ねられているけれど、そのようなことに思い至るという行為こそ作家が期待していることなのかも知れない。その意味では、確かにこの本は小説ではあるけれど、倫理や他者に対する畏怖というようなものを考えさせられる哲学の書でもあるのかも知れない。 -
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とてもよかった。
堂々たる四十路のおっさんである手前、百合な部分はどうぞどうぞご自由にということで、繊細な恋愛の機微も、友情の萌芽も、そんなものなんですねと受け止めつつ、、、
五人全員が魅力的なキャラクターだったが、それぞれがしっかりと、学問に身を置いた経験があるからこそ滲む、知性のようなものが見え隠れしてて、ただのイマドキな若者たちではない芯のようなものを感じて眩しかった。(全員が学部生ではなく、大学院生、または大学院経験者ってのがいいですよね)
個人的に、後書きに出てきた雲林科技大に仕事で訪れたことがあり、四人の通う大学って、などと想像したりしつつ、楽しかった。
きっとこれから、ドラマになったり、漫画になったり色々する気がするな。
前作の『台湾漫遊…』も読みましたが、
台湾の歴史や文化(食文化多め!笑)、政治を取り込みながら、何かを全肯定も全否定もしない、しかしながら、物語の背後にある著者のメッセージのようなものは確実に読者に届く、独特のバランスの物語。台湾文学の面白さが凝縮されたような作家だなと思いました。(エラそうにすみません)これからの作品も、できればこの五人の続編も!もっともっと読みたい。 -
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“ある場所は、いったん人が踏み込んでしまったら、もう無傷ではいられない”
山に擬した伝説の巨人の身体に足を踏み入れた少年と少女は成長し、様々な人々と出会う。
丁寧に一人ひとりのストーリーを追いながら、台湾の先住民族に対する負の歴史へ、更に日本による占領統治時代へと物語は奥行きを増してゆく。
同時に、原住民であるタロコ族(トゥルク)の村が国策と企業の利権を伴う大規模な開発により押し潰されてゆく様が描かれる。
ここでも無慈悲で大きな力の前で揺れ動く一人ひとりの心情に寄り添い、掬いあげてゆく。
鋭く現実の社会問題に斬り込みながら、ウー・ミンイーはファンタジーと融合することを恐れない。それは決して敗北でも逃避でもない。
「物語」を紡ぐこと。創造することは、現実に対抗する力なのだという思いが伝わってくる。
ジェットコースターのように進むストーリーではない。一歩一歩と山道を歩むように展開する小説だ。少年少女の活劇を期待すると肩透かしだろう。だが、最後のページまで辿り着いたときに、僕は体の奥が震えた。読んでよかった。
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本書を読んで、辺野古で闘っている人々が自然と思い浮かぶ。そして、沖縄の歴史を都合よく書き換えようとする力についても。
正しく知ること。より深く想像すること。
過ぎたことだ、しょうがないじゃないかと呟くのを、少しでも踏み止まること。
そんなことを考える。
“最近思うんだが、人は本当に、自分が会ったこともない祖先がどこから来たかなんて、気にするもんだろうか?祖先がどこから来たか知らないのは、そんなに大変なことだろうか?
だけどこう考えるたび、こう言われたことを思い出す。「自分がどこから来たか知らないトゥルクは、その辺の猪と一緒だ」だから俺の今の考えは、もし俺たちが語らなければ、この後もう誰も、俺たちの物語を覚えている人がいなくなるだろう、ってことだ。”
“巨人に呑み込まれた者は山の一部となり、巨人に吐き出された者は山を理解する者となる”
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鉄道旅行、美食、百合をキーワードにした少女たちの物語。
日本の植民地化にある台湾を舞台に、日本人の女流作家千鶴子と台湾人の千鶴が関係を深めていきます。
台湾の美食、美しい景観はもちろんですが、二人の関係が最も美しいです。支配者、被支配者の関係であるのにもかかわらず、対等だと無神経な発言を繰り返す千鶴子と、柔らかな笑顔の下に頑固で冷ややかな心を隠す千鶴の対照が面白かったです。友達以上の関係性が特別で切なく思いました。
小説内小説では日本も台湾も変わらず封建的な社会で女性の権利が抑圧されていますが、小説内後書き(後世)では女性の社会進出が進んでいることが表現されていて印象的でした。 -
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これは1938年の台湾を舞台としている。
日清戦争で台湾が日本の植民地となって50年近くが経ち、前年に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まり、台湾住民に対する皇民化運動が強まりつつあった時代。
日本で作家として活動する青山千鶴子は自作が映画かもされ、大ヒット。その講演会ツアーと取材を兼ねて台湾を訪れる。青山千鶴子は自他共に認める果てしない大食漢。台湾の役所が用意した休む間もない講演会の連続と、台湾ならではの地の料理が食べたいのに、内地(日本)と変わらない料理が用意される事にうんざりし、たまたま知り合った日本語が堪能な本土人の女性千鶴を専属の通訳兼秘書として、台湾漫遊の生活を始める。
千鶴子はいつも何か美味しいものを、高級な料理ではなく、市井の人たちが食べている地の食べ物を求める。千鶴は台湾に生まれ育った地の利を活かして千鶴子に尽くす。千鶴は妾の家に生まれ、会ったこともない内地人との結婚が決まっている。千鶴子は皇民化運動や男尊女卑に批判的で、千鶴をそんな境遇から救い出したいと願い、千鶴の方も千鶴子を慕うが、そこにはいつも越えられない溝がある。千鶴の笑顔はその本心を隠す能面のように千鶴子には思えてくる。千鶴との間にある溝の理由はなになのか。
読んでいくと少し違和感を感じる。それは、架空の小説であるはずの本書が、実在の人物の紀行文であるかのように思えてくるからだ。
度々挿入される注釈が、この作品が青山千鶴子の書いた「台湾漫遊録」というタイトルである事を示していたりするからだ。
実はこの作品は青柳千鶴子が書き、日本で出版された「台湾漫遊録」を、戦後にその養女である女性が再出版、亡母の遺志に沿って台湾にいる千鶴に渡し、千鶴が中国語に翻訳したものをその娘が母の死後に自費出版したという設定なのだ。
なので、千鶴子の娘、千鶴、その娘がそれぞれあとがきを書いている。
もちろん日本で出すにあたって再度(というか実際には初めて)日本語に訳されている。
台湾で出版されたときには、実際にそういう経緯を経た作品であり、日本統治時代の日本人と台湾人の関係を示す史料だと誤解されてしまったほどに、日本統治時代の台湾の庶民の暮らしがリアルに描かれており、それこそが作者である楊双子の狙うところらしい。
ただその設定を真実と誤解してしまうほどに台湾の人たちにとってはこの作品がリアルに描かれているのであろう。そして、そこには日本統治時代に対する郷愁であったり、怒り、悲しみも生まれてくるからこそ読まれたのだろう。
ただ日本においてはどうか。
この作品が書かれている時代の台湾と日本の関係をどれだけ知っているというのか。
台湾に限らず、かつての日本による植民地政策に対して、必ずしも否定的でない意見が出ることがある。典型的なものは「いい事もした」、「その国の発展には役に立った」というものだ。
それがいかにエゴイスティックな考え方でしかないのかという答えもこの本には書かれている。
日本においては、郷愁ではなく、気づきの本として読まれてほしい。 -
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日本人女性小説家と、本島人の女性通訳が台湾で出会い惹かれていくお話
この本に描かれている台湾を
ただ「台湾っていいところだな」で消費してはいけない気がした
今では当たり前のように語られる
「台湾は親日」という言葉
そこには日本への好意もあるけれど
それを日本人の口から語るのはどこか傲慢さがある
日本と台湾の間に何があったのかを知るなら
台湾を訪れるとき自分が日本人であることに無自覚であってはいけないと思う
自意識過剰なのかもしれない
気にしすぎなのかもしれない
でもそれでもいい
人と人を繋ぐのは気遣いなのだから
文字を通して時を経た愛情が現代まで届いていることがどうしようもなく尊かった -
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ネタバレ
記憶を辿っている部分の方がどうしても引き込まれる。訳者あとがきにあるようにノスタルジー的な楽しみ方を期待してこの本を読み進めていた。夜の川沿いを歩くことはイーヤーのとって本当に怖くなかったのだろう、と感じた。それがどうしてからあまり分からない。阿煌は期待通りの活躍をしてくれて嬉しい。行動を起こすのが今だとチームを牽引したり、パンを買って戻ってきてくれたりするところなど彼の親分気質が如実に現れている。この2人のなかで僕はどのような役割を担っていたのだろうか、意見の調整をする場面はあるが特筆するような優れた利点が語られることはあまりなかったような気がする。書道に優れている、と言う客観的な指標を除いて。この物語は僕が、僕の記憶を振り返るものであるから彼の視点から彼の姿を見ることはできないのは当然であるが、イーヤーと阿煌から僕がどのように見えていたのか知りたかった。オランウータン事件がこのように幕を閉じるとは悲しい。彼女はきっと濁流に飲まれてしまったのだろう。36歳になった僕が辿り着いた動物園にもオランウータンの姿はなかったように思える。 -
Posted by ブクログ
日本統治時代(それも日中戦争がすでに始まってかなりひっ迫した状況)の台湾が舞台の歴史百合小説。歴史百合小説!?と思ったが、作者本人が自称しているのでむしろ堂々と掲記させてもらう。これはお腹の空く歴史百合小説である。
作品の舞台は前述の通り日本統治時代の台湾。結婚から逃げる小説家・青山千鶴子が出版社の勧めで台湾に一年ほど滞在することになり、その通訳を務めることになった女性・王千鶴と交流する様を食を題材にして描いていく。奔放ながら良心的で闊達、かつ何よりも「お腹に妖怪が住んでいる」大食らいの千鶴子と、冷静で本心を見せない、そして知識と教養の幅が広すぎて慄くほどの才媛である千鶴の二人のコントラストが鮮やか。二人の小気味よい会話と、(主に千鶴子の)気持ちいいぐらいの食べっぷりで台湾各地の食が食べつくされていくのを楽しむことができる。
ここまで書いた情報だけだとさぞや楽しいグルメ小説と思われるだろう。それは間違いではない。本作は間違いなく台湾美食紀行小説として一級品だし、綿密な資料に基づいた往時の台湾の風俗をがっつり楽しむことができる。
だが、本作が何よりも描いているのは「台湾の歴史そのもの」だ。「日本の植民地とされた」台湾が当時どういう状況にあったか、そして「植民地であった」というのはどういうことか。それをあまりにも残酷に、克明に、私たちの前に突きつけるのである。
正直なところ私は本作を読み始めた時主人公の千鶴子にイラついていた。余りにも無神経で無自覚に傲慢だからだ。『日本が台湾を征服している』ということの加害性、それがもたらした罪過にあまりにも無配慮で、読んでいて怒りを抑えられなくなったのである。
千鶴子は『良い人』だ。内地人への差別意識はなく、千鶴とは屈託なく「友達になりましょう」と語る。出自が特殊なため内地で差別にあった千鶴を守るため「私の連れに何か御用ですか」と堂々と立ち向かい、本島人だからと千鶴がまるで小間使いかの如き扱いを受けそうになったときは「私の正当な通訳者に対してどうして無礼な扱いをするんですか?」と真っ向から反発しその扱いを止めさせる。
観光客向けのいかにもな高級料理には眼もくれず、内地の人間は忌避しがちな現地の郷土料理も積極的に口にし、台湾各地に出向いてはその風土に目を向ける。
顔も知らぬ男の元に嫁ぐことが決まっている千鶴を慮り、「いつかあなたを守る盾になるから」と和服を贈り、自分にあまりにも尽くしてくれる千鶴に報いようと色々な配慮や便宜を行う。
千鶴子は善良だ。当時の内地人としてはかなり平等精神にあふれた人であろう。心根も真っすぐでてらいがない。明るい性格でありながらその実結構な苦労人でもあるが、それをわざとらしくひけらかすこともない。『良い人』と言っていいだろう。事実作中で千鶴もその明るさに惹かれ、徐々に心を開いていっている。
だけど、『だからこそ』むごい。彼女は悪意なしに「植民地である台湾」の立場を考えない言動をする。日本から植え付けられた桜ーー本来の台湾にはないはずの花を見て「美しい桜に罪はない」と恣意的に免罪し、爾来台湾では作られていなかったちくわの製造についての話を聞いて無邪気に「台湾は日本によって磨かれて玉となった」と語る。日本の南進政策を批判しそこに組することを良しとしない立場を取りながら、「不均衡な権力勾配の中で押し付けられ余儀なくされた変容を賛美する」のである。
台湾の人たちが一度でも故郷の景色が変わる事を望んだだろうか。近代化したいなどと言っただろうか。日本からの支配という歪な権力構造の中で、町並みは日本式に帰られ、本土の人間が第一を関する学校に通い、言語を強制され、伝統的な衣服を着るだけで顔を顰められ…。これらの変化はまだいいのかもしれない。そこには簒奪された悲しみをはっきりと誰でも感じ取ることができる。
だが征服者側があっさりと宣うのである。「日本の支配に寄り台湾は近代化した。前より『良くなった』」と。食料供給の増加、交通網の整備、インフラの発達……確かに「よかった」のだろう。一方的に押し付けられ、変化を余儀なくされ、アイデンティティを簒奪されたとしても、「恩恵を受けたのだから感謝しろ」というわけだ。『良くなった』からいいのか。『近代化』したから罪が消えるのか。ましてそれらを征服者の側が、何の悪意もなく口にするのか。余りにも傲慢ではないか。千鶴子の行動は、彼女自身が忌避する帝国の南進政策と同じだけの傲慢がにじみ出てしまっている。
ある種彼女が千鶴に贈った和服すらそうなのだ。「和服は千鶴を守る盾になる」というが、「どうして和服が権威と成りえるのか」という状況を考えるとあまりにもむごい。「征服者の権威」を身にまとうことで自己の身を守れるということだろう。虎の威を借る狐……ではないが、「征服者の権力におもねり庇護を得なければいけない被征服者」としての悲哀を身にまとうのと同じだ。お前は慈悲を乞い施しを受ける側の人間である、とする権力勾配に由来する歪な関係性が、善意の贈り物にすら含意されてしまっている。
イライラした、と言っておいてアレだが、私は千鶴子を責めることはできない。仮に私が当時の日本人だったとしてこの「征服者の無自覚な傲慢」に気づけるか?と言われたら無理だからだ。
現代日本に生きていて植民地という概念を知っており、その産み出した罪過を学ぶ教育の機会に恵まれたからこそ、俯瞰した視点で千鶴子を見た時のその行動の無神経さにようやく気付けたのである。ポストコロニアル思想なんて言葉すらない時代、何ならまだ「植民地=非道な行いである」という意識すらないだろう。
その状況でむしろ千鶴や美島の態度から自己の振る舞いを振り返し、自らの加害性に気づけた千鶴子は素晴らしく聡い。私だったら絶対に「台湾人は薄情」とかいうカスみたいな感想だけ持って帰って日本に帰ってると思うから。自分の悪い所を見つめてしっかり改められる人間がどれだけいるだろうか、と私はこの作品を読みながらしみじみと感じた。
この作品が現代日本に出版された意義を強く感じる。現在、一般的な日本人の台湾に対するイメージは何か。「美食」「親日」「南国」……まあ大体そんなところか。
特に「親日」の部分。「台湾は日本の植民地支配に思う所はあれど、日本の功績を正当に評価して親日でいてくれている。だから私も台湾が好き」的な言説はかなりの頻度で目にする。
だが、本当にその認識だけでいいのか。「植民地時代の日本の功績を正当に評価して」云々だの、植民地支配してた側が無邪気に宣っていていいものではない。
だいたい台湾の人たちの内心が本当にそれだけで済むのだろうか。中国からは統一の圧力を強く感じ、地理的にもそれ以外の諸国との協力関係を結びにくい中で、台湾の人たちは自国の独立を守るために必死で抗っている。小国の生存戦略としての国際協調や外交を選んでいる台湾の人たちの態度は、決して「日本の免罪」を意味するものではない。
「昔の帝国日本がやったことだから関係ない」じゃない。日本に住み日本の住人であることをアイデンティティとして掲げるのであれば、その日本の起こした罪も平等に向き合う義務があるだろう。かつて日本が台湾にしてしまった行いと向き合い、そして今後も彼らと親交を深めたいと思えばこそ、私たちはその歴史についても真正面から学ばなければならないと思う。
本作は「歴史百合小説」である。千鶴子と千鶴の関係性は尊い素晴らしい「百合」であった。彼女たちは時代と立場が違えばそれこそ添い遂げることができたかもしれない。だが、単なる愛だけでは埋められない差というものはある。というより、「どんなに愛や情を持っていたとしても、征服・被征服という関係性はそこに影響せざるを得ない」のである。どんな人間にも生まれがある。どんな人間にも故郷となる土地があり、その土地の歴史があり、背負うアイデンティティがある。絶対に埋められない分断や分かち合えない差というものは厳然として存在し、それ自体が悲劇の温床になることも事実だ。
だが、「それでも」あなたと関わりたい。「その上で」あなたと交流したい。大事なのはその姿勢ではないのか。「立場が違うから分かり合えない」で何もかも遮断するのではなく、「分かり合えない、乗り越えられない差を抱えて、その上で関係を築く」ことが重要なのではないか。作中の千鶴と千鶴子が添い遂げられずとも互いに抱いた愛情が真実であったように、超えられない谷を正しく見つめながらもどうか仲良くしたいと思うことこそが大事なのではないか。グローバル化が叫ばれ事実として世界中が繋がるようになった昨今で、立場も事情も宗教も何もかも違う人々が繋がっていくために必要なのは、「差を理解しながら交流する」この姿勢なのではないか、ということを強く感じた。
訳者あとがきにも書いているが「真の国際交流とは何か」…本作が書きたかったのはこれではないのか、と読み終わってから思う。勿論本作は往時台湾の姿を克明に写した小説であり、「日本統治時代とはなんだったのか」を台湾人自身が問い直すための作品であることは疑いはない。だが、本作はそれに加えて「差を抱えてそれでも関わる事」の意義を問い直すだけの力がある小説だと感じる。日本、台湾、その二国において読まれることに意味がある以上に、世界中どこにでも通じる普遍的なテーマを持った作品であると、私は本作に対して強く感じた。 -
Posted by ブクログ
一気に読んだ。胸が痛い。
千鶴子の、友人になりたいと願った相手を自分の至らなさのために傷つけてしまったというところに感情移入してしまって、洋子のあとがきのエピソードでずっと後悔していたし千鶴のことを気にかけていたとわかってすごく悲しくなってしまった。
千鶴子が千鶴と友人になりたいという気持ちは本気だったんだろうけど、植民地支配される側の意識や感情について無頓着すぎて眉を顰めてしまった。でも内地良家出身のお嬢さんが持つ感覚としてはこんなものだったのかもしれない。千鶴子が己のみで気づくのは難しいことだったのかも。
そもそもお嬢様な千鶴子は人の好意に甘えたり人を使うことに躊躇いがない。上の立場に立つことに慣れていて、そういうところも私から見るとモヤモヤした。もちろん何かをやってもらったら全力で感謝を表す人柄はただ厚かましいだけでない、素直な善性を感じられて千鶴や他の人も絆されたのだとわかる。
10年ほど前に台北市内を旅行した際、地下鉄のホームにて日本語で話しかけてくれた年配の台湾人女性がいた。不慣れそうな日本人旅行者の私に親しみを持って優しく声をかけてくださった。彼女のおかげで私は台湾は親日的で優しい人がいる良い所だと思ったし今日までその良いイメージは保たれている。でも今思うのは楽観的すぎる捉え方だったかもしれないということ。彼女が親切にしてくれて私に旅行を楽しんでと言ってくれたことは間違いない。しかしその背景にある歴史にもっと誠実な態度で向き合うべきタイミングだったのではないかと思い返している。今からでも遅くないと良いのだが。 -
Posted by ブクログ
何よりも出てくる台湾の食べ物が美味しそうで、それをダイエットとか関係なしに食べまくるのがうらやましく、そこに惹きつけられた。台湾行って食べたい。私の実力ではどれくらいのもの見つけて食べられるかわからないが。
百合小説というのは全く馴染みがないが、なんかドキドキしてくるように書かれているのでドキドキした。
そして何よりも植民地の人と宗主国の人との関係。友情は成り立つのか。恋愛は成り立つのか。上下の関係にならないでいることはやはり難しい。男女の恋愛なら、いくつかの小説が思い浮かぶし、それが同性同士でも同じとは思うものの、同性であるからこそ、上下であって欲しくない。これって同性同士を特別視してるってことになるのか。
葉山博子「南洋標本館」を少し思い出しながら読んだ。日本人の作家と台湾の作家が台湾の植民地時代を描くのは気持ち的に違うだろうと思う。どちらも30代くらいの作家が描いているというのがとてもいいなあと思う。
小説を読むとその時代にタイムスリップでき、登場人物と一緒に考え、感じることができる。特に日本人にとっては忘れてはいけない歴史だし、それなのに過去を知らなさすぎると思うので、小説を読んで知り、考えたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ掘り起こされた未出のこの台湾旅行記は、当時の日本の領地で出会った日本人と内地人の美しくも脆い記憶であり、未来への約束、そして時を超えて子から成し遂げられた友情の手紙である。
なんて言おうかと思ったら"あとがき"で設定は全て嘘だと。元からその設定を知っていたら⭐️4はつけていたと思いますが、ここまで読んで「嘘だよ!」と言われたら、自分の純粋な心を慰めるために反発してしまうこの行為は、心の弱さと懐の狭さからでしょうか、、?
一部ではこの歴史小説風フィクションで読者を騙すスタイルが、確立された新たなジャンルだとの声があるそうですが、ミステリーとは違うこの騙し方はあんまり気持ちが良くないと思ってしまった。
何れにせよ、台湾特に台中をメインに、当時の日本と台湾の情勢を美しくもギクシャクとした友情で描きながら、鉄道を通してローカルな食べ物を詳細に描くこの作品の細かさは素晴らしいと思います。相当なリサーチを必要としたと思います、拍手です。
このリサーチ量と旅の記録的な描き方はとことん事実と思わせてくれます(チクショー)。
結局ですが完全に騙されたわけですし、子を通して何度もの歴史の転換を経て出版された(フィクション)この旅行記の設定は、物語として良いものであったと思います。
ただ神聖な"あとがき"を汚された感は拭えません。笑
色んな方の意見を後で見てみようと思います。
追記
楊双子さん42歳らしいです。
出版時は30代、この若さだと作品設定の時代とは被っていない人生を送られているはずなので、一層このリサーチ力・量には脱帽です。やっぱりフィクションなの悔しいけど、凄いですわ。⭐️4に変えます!
また、"真のあとがき"にて言及されている主人公2人のモデルについてのお話も非常に面白いです。
諸々含めてこの1冊をまとめ上げたのは素晴らしい功績です。
楊双子さんはこの小説は台湾でいう女同志小説ではなく百合小説と発言しているそうです、この部分のニュアンスの違いや、中国台湾では女同志小説が進んでいると言うことも知れました。台湾文学はまだ日本にない部分で進んだ文学かもしれません。これからも読んでみようと思います。
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Posted by ブクログ
ジャケ読み。前からこのルドンみたいな表紙気になってたんですが、著者の描いた表紙と聞いて、二度びっくり。
読後感想は、複雑で多層的だなーという印象。ファンタジー要素も入っていて、多少寓話的にはなってるんですが、台湾現地住民のタロコ族や、国民党軍についてきて、そのまま台湾で暮らした老兵(映画「霧のごとく」の公道思い出しちゃった)が登場人物にいたり、台湾の複雑な社会状況をそのまま表しているかのようでした。
物語の大きな事件であるセメント工場の建設も、反対する人、受け入れる人、生活を優先する人とその反応は多種多様で、ここにも世の中の複雑さが表現されているような。
複数の登場人物を描きながら、複雑で混沌とした社会そのものを写し取ろうとしているように感じる話でした。