長谷川櫂のレビュー一覧
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俳句の「写生」という事に関して批判的な著者が「写生」の総元締めというべき「子規」に対しての評論という事で興味を持ち、手にした次第です。
やはりそれなりの論陣を張っている著者は、子規を評価しつつ、「今では写生とは目の前にあるものを詠むことであると考えられていますが、子規にとっては必ずしもそればかりではなかったという事です。目に見えないもの、心の中で想像したこと、子規がここで使っている言葉でいえば『まぼろし』もまた写生の対象だったことが、暑気払いの十二句からわかる・・・(略)・・・幻でさえもありありと目に見えるように詠むことが大事なのだと子規はいいたかったのです。写生とは『目に見えるものを詠む』 -
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正岡子規や寺田寅彦の影響で、俳句を始めてみたいなーなんて思っていたところ発見。新書ということもあり気軽に手に取った。
最初の一冊として、なかなかによかったと思う。「五七五」「切れ」「季語」などの俳句の約束事について、「なぜその決まりが存在するのか?」という観点から掘り下げて説明してくれるのは初心者にとって大変ありがたい。名句とされる作品を実際に鑑賞しながら話が進められるので、観念的になりがちな論の中でも著者の意図が伝わってきやすいのがよかった。一文字違うだけで名句が駄句になるなど、例を上げて説明されると全くそのとおりだと腑に落ちた。このような確かな実感をもって俳句を鑑賞できたのは初めてかもし -
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『決定版一億人の俳句入門』(講談社現代新書)、『一億人の季語入門』(角川俳句ライブラリー)の続編です。
本書は二部構成となっており、第一部の「切れの基本」では、俳句において「切れ」がもたらす効果について解説をおこなうとともに、実作のさいに留意するべきことがらがていねいに論じられています。第二部の「名句の切れ」はさまざまな実例をとりあげた鑑賞の手引きです。とはいっても、ここでもじっさいに俳句を詠むことを志す読者が、「切れ」のつかいかたを学ぶことをねらいとしているといってよいでしょう。著者は、「俳句は数ある詩歌の中でも極めて実践的な文芸です。人の俳句を読むだけでなく、自分で詠んでこそおもしろい。 -
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春夏秋冬と新年の代表的な季語と、それらを用いた代表句を紹介している本です。
著者は、前著である『決定版一億人の俳句入門』(講談社現代新書)で、「切れ」と季語を俳句を構成する二つの重要な柱としてとりあげていました。本書は、その柱のひとつである季語に焦点をあて、よりいっそうていねいな解説がなされています。
季語を用いるさいには、その本意を意識することがたいせつであるといった具体的なアドヴァイスは、とくに俳句の実作をめざす読者にとって有益なのではないかと思います。また、著者が俳人であることのメリットとして、じっさいの句例と適切でない例としてあらためられた句例の双方を提示し比較することで、本書の説 -
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俳句においてとくに重要と目される「切れ」と季語を中心に解説がなされている入門書です。
本書ではまず、俳句がもつ韻文としてのリズムに着目し、音楽性をあじわうことが俳句の魅力のひとつであることが指摘されます。つづいて、俳句を「一物仕立て」と「取り合わせ」に分類し、そのなかで「切れ」が果たしている役割について多くの例を引きながら説明がなされています。著者は、「切れ」をたんなる省略や強調とみなすことはできないと述べて、時間的および心理的な「間」を生み出す効果があることに着目します。
季語については、伝統的な時間意識のなかではぐくまれてきたことばを用いるという点で、和歌における歌枕と同様の意義をもっ -
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古典新訳コレクション
小林一茶
著:長谷川 櫂
河出文庫 は 31-1
新しい一茶とあり、知った句がないのに戸惑う(解説には、一部ありました)
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
やれ打つな蠅が手をすり足をする
やせ蛙負けるな一茶是にあり
一茶は野蛮人であるとの言から始まる
近代俳句は、一茶に始まるという言があり、一茶が一つの俳諧の分岐点なのだなあという発見はありました。
江戸時代の著名な俳人は、3名、芭蕉、蕪村、そして、一茶とあります。
芭蕉、蕪村と、一茶を分けたのは、古典的教養、俳句とはそれまで、古典を知らなければ、読むことも詠むこともできなかった。
信濃の寒村に生まれ、 -
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ネタバレ本書は、岩波書店の月刊誌「図書」に2年間にわたり連載されたエッセイ「隣は何をする人ぞ」を新書に纏めたものである。
著者との縁は、これまでに「俳句的生活」「古池に蛙は飛びこんだか」「子規の宇宙」「海の細道」などの本と共に、カルチャーセンタで2012年12月~2016年9月の約4年弱にわたり著者の「『奥の細道』をよむ」の講座を受講するなどした。
本題に戻る。
人間は必ず死ぬ定めであるのは自明の理だが、若い時は命の歓びに目がくらんで、目の前の「死ぬ」という鉄則が見えない。しかし「あるとき」人間は自分の命もやがて終わることに気づく。著者は2018年に皮膚癌が見つかり、その「あるとき」を意識しだした。