長谷川櫂のレビュー一覧
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俳句の「写生」という事に関して批判的な著者が「写生」の総元締めというべき「子規」に対しての評論という事で興味を持ち、手にした次第です。
やはりそれなりの論陣を張っている著者は、子規を評価しつつ、「今では写生とは目の前にあるものを詠むことであると考えられていますが、子規にとっては必ずしもそればかりではなかったという事です。目に見えないもの、心の中で想像したこと、子規がここで使っている言葉でいえば『まぼろし』もまた写生の対象だったことが、暑気払いの十二句からわかる・・・(略)・・・幻でさえもありありと目に見えるように詠むことが大事なのだと子規はいいたかったのです。写生とは『目に見えるものを詠む』ことではなく、目に見えないものも『目に見えるように詠む』ことなのです」と巧みに論理展開している。
写生という観点だけでなく、明治という時代に子規がなそうとしていたこと、言葉の近代化つまり「言文一致」という試みや、室町から江戸にかけての12万句を分類していった「俳句分類」の大事業についても興味深く読むことが出来た。
また、子規と漱石の友情に関しても、思わず目頭が熱くなるようなエピソードも盛り込まれており、子規が晩年に口述筆記をした簡潔な口語体が、その後漱石に引き継がれ「考えていることをそのまま写せる文体」へと育ってゆくという下りは、特に面白かった。 -
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正岡子規の人間と作品について、著者が比較的自由に語っている本です。
著者は、夏目漱石の「子規の画」という文章がずっと気になってきたと述べています。この文章は、漱石がもっていた一枚の子規の絵について書かれたもので、その絵に彼は「愚直者の旨さ」を見いだすとともに、「子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であつた」にもかかわらず、こうした魅力をもつ絵をえがいたことへの感興を述べています。しかし著者はこうした漱石の子規評に対して、「私には画ばかりでなく子規の人間も文学も拙の極みのように思える」と主張します。本書がえがいているのは、こうした著者の目から見られた子規のすがたです。
また著者は「あとがき」で、子規を近代俳句の革新者としてのみ評価することの一面性を指摘し、むしろ江戸俳諧からの伝統を継承していることに目を向けて、「革新とは断絶ではなく、斬新な継承なのだ」と述べています。こうした著者のスタンスは、「子規の食卓」と題された本書後半の章において、具体的に提示されています。ここで著者は、「鮓」や「柿」など食にかかわる13のテーマについて、子規の俳句を紹介していますが、併せて子規以前の俳諧や、子規以後の俳句も参照することで、俳諧および俳句の伝統のなかで子規がはたした役割をいっそう明確に示そうと試みています。 -
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『決定版一億人の俳句入門』(講談社現代新書)、『一億人の季語入門』(角川俳句ライブラリー)の続編です。
本書は二部構成となっており、第一部の「切れの基本」では、俳句において「切れ」がもたらす効果について解説をおこなうとともに、実作のさいに留意するべきことがらがていねいに論じられています。第二部の「名句の切れ」はさまざまな実例をとりあげた鑑賞の手引きです。とはいっても、ここでもじっさいに俳句を詠むことを志す読者が、「切れ」のつかいかたを学ぶことをねらいとしているといってよいでしょう。著者は、「俳句は数ある詩歌の中でも極めて実践的な文芸です。人の俳句を読むだけでなく、自分で詠んでこそおもしろい。同じように切れもまた自分で使ってこそ意義がある」と主張しています。
とはいえ、本書は優れた俳句をつくるためのテクニックを紹介している本ではありません。著者は、初心者に対して俳句の指導をおこなうさいに、「五・七・五の定型になっていること」「季語を一つ入れること」「切れがあること」といった基本的な約束ごとを教えることに終始していることへの不満を述べており、これらの約束ごとがいったいどのような理由にもとづくのかという問題に立ち入って考察をおこなっています。本書ではとくに「切れ」をめぐって、実作者の立場からそれがもたらす効果についての検討がなされており、俳句に興味をいだく多くの読者にとっておもしろく読むことのできる内容になっています。 -
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春夏秋冬と新年の代表的な季語と、それらを用いた代表句を紹介している本です。
著者は、前著である『決定版一億人の俳句入門』(講談社現代新書)で、「切れ」と季語を俳句を構成する二つの重要な柱としてとりあげていました。本書は、その柱のひとつである季語に焦点をあて、よりいっそうていねいな解説がなされています。
季語を用いるさいには、その本意を意識することがたいせつであるといった具体的なアドヴァイスは、とくに俳句の実作をめざす読者にとって有益なのではないかと思います。また、著者が俳人であることのメリットとして、じっさいの句例と適切でない例としてあらためられた句例の双方を提示し比較することで、本書の説明がより具体的に読者につたえられる点にあるように思います。こうした試みが可能なのも、著者自身が日々の句作において推敲をくり返しおこなってきたことに基づく自信に支えられてのことなのではないかと感じました。 -
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古典新訳コレクション
小林一茶
著:長谷川 櫂
河出文庫 は 31-1
新しい一茶とあり、知った句がないのに戸惑う(解説には、一部ありました)
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
やれ打つな蠅が手をすり足をする
やせ蛙負けるな一茶是にあり
一茶は野蛮人であるとの言から始まる
近代俳句は、一茶に始まるという言があり、一茶が一つの俳諧の分岐点なのだなあという発見はありました。
江戸時代の著名な俳人は、3名、芭蕉、蕪村、そして、一茶とあります。
芭蕉、蕪村と、一茶を分けたのは、古典的教養、俳句とはそれまで、古典を知らなければ、読むことも詠むこともできなかった。
信濃の寒村に生まれ、十五で江戸に奉公にでた一茶は、庶民の一人であり、中年まで、古典に触れることはなかった
一茶は、庶民の一人として、江戸後期の俳壇に立ったのである
内容は自分にはちょっと難しいと感じました。一茶だけでなく、芭蕉などの句があって、一茶一人に焦点があたっておらず、とまどった感があります。
あとから、並べ方も時系列になっている時がつきました
芭蕉の辞世の句がありましたが、一茶は辞世の句を残していないようなのです。
俳句好きの方々はよく知っていることがらなのでしょうが、初心者には、わかりにくいものです。なぜ、芭蕉の句がのっているのかも。
のっていた、句集 これも生前には出版されなかったものが多いと聞く
こちらの方の解説もあればよかった
寛政三年紀行
西国紀行
しぐれ会 1795
たびしうゐ 1795
題葉集 1800
享和句帖 1803
をのが光
文化5・6年句日記
父の終焉日記
物見塚記
我春集 1811
文化句帖 1804
志多良 1813
三韓人 1814
嘉永版一茶発句集 1815
七番日記 1813
版本題叢 1820
発句題叢 1820
おらが春 1819
発句類題集 1820
八番日記 1820
寛政句帖
文政句帖 1825
文政十年句帖写 1827
遺稿 1827
ISBN:9784309420752
出版社:河出書房新社
判型:文庫
ページ数:208ページ
定価:800円(本体)
2024年01月20日初版発行 -
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タイトルにあるように「俳句と人間」についての説明的な文章かと思いきや。
筆者の皮膚癌という実際の出来事が、俳句への眼差しに影響するという点では、エッセイのようだし。
そこから、生きること、死ぬこと、地獄について取り上げて考えていくという点では、哲学のよう。
時間軸も、コロナ禍の現代から、子規や漱石の近代入り口、芭蕉の近世、和歌として中世を自由に駆け巡っていく。
時代に伴う、人に伴うヴィジョンが俳句にはある。
でも、そうしたヴィジョンを知らなくても、なぜか自分と共鳴する、そんな句もまたある。
制限された言葉が、自由を呼び起こす。
私は、言葉を好きに使っているようで、狭苦しい世界しか象れていないのかもしれない。 -
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ネタバレ本書は、岩波書店の月刊誌「図書」に2年間にわたり連載されたエッセイ「隣は何をする人ぞ」を新書に纏めたものである。
著者との縁は、これまでに「俳句的生活」「古池に蛙は飛びこんだか」「子規の宇宙」「海の細道」などの本と共に、カルチャーセンタで2012年12月~2016年9月の約4年弱にわたり著者の「『奥の細道』をよむ」の講座を受講するなどした。
本題に戻る。
人間は必ず死ぬ定めであるのは自明の理だが、若い時は命の歓びに目がくらんで、目の前の「死ぬ」という鉄則が見えない。しかし「あるとき」人間は自分の命もやがて終わることに気づく。著者は2018年に皮膚癌が見つかり、その「あるとき」を意識しだした。さらに翌年からコロナウイルスの猛威によって、この「あるとき」は誰にとっても日常のものとなってしまった。
本書は、著者が直近2年間のその時々に感じたことを、小説、和歌、俳句を縦糸にして、生と死、天国と地獄、民主主義の挫折、時代精神の変遷から身辺雑事まで多岐にわたっている。死が身近に感じられるような環境の中で生まれたエッセイは、これまでと違い背景に怒りや、また死に対して真摯に向き合う姿勢が感じられた。
このような多岐にわたるエッセイなので纏めることは難しく、面白かったテーマを以下に抜粋してみました。
《時代の空気について》
「子規が生きた明治は国家主義の時代だった。天皇から庶民にいたるまで誰もが国家建設の役に立つ人間『有為の人』になることを求められた。国家という理想が日本列島の空に2つ目の太陽のように輝いていた。これが子規が生きた明治の空気だった。『国のために生きる』という明治の国家主義が、やがて『国のために死ぬ』という昭和の国粋主義に変質してゆくのだが、これはまたあとの話である・・・略・・・国家主義という明治の空気。これがわからなければ、子規の俳句も文章もわからないだろう・・・略・・・晩年、短歌の革新に乗り出した子規は和歌の聖典とされてきた『古今和歌集』をこき下ろし『万葉集』を賛美する・・・略・・・じつはこれにも裏がある。明治政府は新時代の天皇親政のモデルをヨーロッパの王国だけでなく、日本の過去の政治形態にも求めた。やっと探し出したのが奈良時代の聖武天皇時代の政府だった。子規は明治政府の大方針と足並みを揃えるように平安時代の『古今和歌集』をけなし、奈良時代の『万葉集』をほめたたえたのだ。子規にとってそれが文学の世界で新国家建設の役にたつ『有為の人』となることだった」
《人間の本性と文学について》
「高校生や大学生に文学の話をするとき、いつも困るのは彼らが人間の本性についてあまりにも無頓着なことである。『本当はみんないい人』『誰でも仲良しになれる』とどうも本気で思っているところがある・・・略・・・この手のおめでたさは文学にとって致命的である。なぜなら『みんないい人』なら文学はいらない。
そこで文学の話をするときは、人間の話をすることからはじめることにしている・・・略・・・その第一が人間は欲望の動物であること。その欲望の最たるものがお金と性・・・略・・・その欲望に翻弄され、互いに争い、その言い訳に終始する人間、その滑稽な姿を描くのが文学ということになるだろう。人間の根源にあって人間を突き動かす二つの欲望、お金と性こそが文学の永遠のテーマなのだ。この文学の基本的な性格がぴたりと当てはまるのが夏目漱石の『こころ』なのである。この小説はまさにお金と性に弄ばれる人間の滑稽な姿を描いている」
《恋と愛について(大和言葉と漢字)》
「(過去の和歌を見ると)男も女もあれほど恋の達人であり猛者であったのに、一方、愛となると日本人ほど疎い人々も少ない。友愛・博愛・人類愛・家族愛・夫婦愛でさえどこかかしこまってやけによそよそしい。日本には愛が存在しなかった。それがわかるのは『こい』は訓なのに『アイ』は音だからである。つまり『こい』という言葉は漢字が伝わる前から大和言葉としてあったが、『アイ』は漢字の愛として中国からはじめて伝わった・・・略・・・愛ということばがなかったということは愛という言葉で表す愛という実体もまたなかったいうことである。古代のこの欠落が長く尾を引いて日本人はいまだに愛の意味がよくわからないのではないか」
他に気になった点が一つ。
《「司馬史観」について》
著者は「司馬史観」には盲点があるという。司馬遼太郎は日露戦争に日本が勝ってしまったがため、それまでひたむきだった日本人が奢れる日本人に変わってしまったという日本人突然変異説に与せざるをえなくなるという。
これは明らかにおかしいと思う。司馬遼太郎は小説家で、歴史家ではない。そもそも「司馬史観」というのは、司馬遼太郎が言っている言葉ではなく、周囲の人間が言っている言葉である。
常々司馬は、小説の中のことが歴史的事実として受け取られている現象に対して、「私は歴史家ではなく小説家である」と苦笑いしている。その一例として「竜馬がゆく」はわざわざ坂本龍馬の「龍」の字を「竜」に変えて、主人公に自由な行動を取らせることが出来た。
前述の「日本人突然変異説」についても、司馬のエッセイや対談をよく読めば、そんな薄っぺらなことを言っていないことが、よく分かるはずである。