あらすじ
聖なる六尺の病床で近代俳句の礎を築いた子規。「真の革新は、古典から生まれる」と説く著者が、子規の俳句革新の意義に迫り、「即時ということ」「拙の文学」「子規の食卓」等、新たな子規像に鋭く迫る。
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俳人の長谷川櫂が正岡子規について書いた文章をまとめたものである。特に、病床の子規が「悟りとは平気で生きること」と書き、悲惨な人生をも楽しんで生きようとしたこと、そのために身の周りの自然や人々を俳句や短歌で荘厳したとするところは、共感する。何よりも、巻末の長谷川櫂選の正岡子規句集二百八十六句がうれしい。「つきあたる迠一いきに燕哉」「我宿にはいりさう也昇る月」「蛍狩袋の中の闇夜かな」「大仏にはらわたのなき涼しさよ」「白魚や椀の中にも角田川」「紙雛や恋したさうな顔許り」「ずんずんと夏を流すや最上河」「六月を綺麗な風の吹くことよ」「我死なで君生きもせで秋の風「山茶花のここを書斎と定めたり」「雪残る頂一つ国境」
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宇宙はわれに在り
正岡子規『松羅玉液』
正岡子規を熱演する香川照之の姿を、一昨年から続いているNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で見るたびに、なんだかもうむずむずしてきて、今まで飽きるほど(けっして飽きたりしていません、単なる比喩です)読んだ正岡子規を、たまらなくまた読みたくなったりします。
一応、手元には例のコンパクトな「ちくま日本文学全集 正岡子規」を置いていて、いつでも読めるようにしてありますが。
作品を読むだけでなく、正岡子規の場合は、どうしてもその結核のための夭折が、出会った小学生の頃から気になっていて、特にスキーで足の骨を折って動けなかった時とか、高熱が出て身体中が痛くて生死の境をさまようほどの風邪で肺炎になりかけて一週間寝込んだ時とか、ナナハンで急カーブを曲がり損ねて川に転落して全身打撲で3週間入院した時などは、正岡子規の日常は、こんな痛さなんかよりも、こんな苦しさなんかよりも、もっと数十倍も激痛が走る病床だったはずで、その中で、もがき苦しんであの創作活動をしたのだと思うと、今さらながらその不屈の精神その偉大さに頭が下がると同時に、天が与えた彼の運命を嘆かずには、呪わずにはいられませんでした。
わずか34年11か月と2日の生の中で、しかも死の直前までの7年間は病臥に伏していて、いったい人はあれほどまでの燃焼するエネルギーをいかにして持ちうるのか。
正岡子規の人間的魅力は、俳句や短歌の実作者や革新者という側面を抜きにしても、とてつもないものだったことは想像に難くないと思われますが、違いますね、文学的創造によって自己実現したからこそ、活き活きと生きたということです。
そして、それを物心両面から支えたのが妹・正岡律。彼女の存在は、単に病人看護として誠心誠意尽くしたというだけでなく、肉親として愛し尊敬し、ことあるごとく、焦燥にかられた兄から学問がないとか、馬鹿だのちょんだのと罵倒されても、軽妙洒脱な受け答えで険悪な雰囲気にさせず、工夫を重ねて、繊細な神経のもとに兄の芸術活動が最適な状態で発揮できるように配慮したりという、正岡子規にはなくてはならない人なのでした。
『坂の上の雲』でこの役を、ものの見事に菅野美穂が抜群の天真爛漫さでスラーと演じているのですから、こたえられません。
ドラマを前後してドキュメンタリーで、実際に正岡律が看護のときに使ったというエプロンを紹介していましたが、何度洗濯しても落ちなくなってしまった血痕がまざまざと残っていて、それを見て私の心臓がキリリと痛んだくらい鮮明なものでした。
Posted by ブクログ
子規の文学、特に晩年の随筆と俳句を中心に解説し、子規の生きた世界を描いている。友人(夏目漱石)、弟子(虚子、碧梧桐)、蕪村、母妹、などとの交流・支援の中で生きる。35歳の若さを結核のカリエスという重い病で失うが、亡くなる前のひどい身体の状態で周囲の生きゆくものに関心を向け続け、口述で筆記し、生き抜いてゆく子規の生命力はすごいと思った。俳句や随筆だけでなく、生き様そのものが心に響く。「革新は古典から生まれる」「悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事」など、心に残る言葉も多い。
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俳句の「写生」という事に関して批判的な著者が「写生」の総元締めというべき「子規」に対しての評論という事で興味を持ち、手にした次第です。
やはりそれなりの論陣を張っている著者は、子規を評価しつつ、「今では写生とは目の前にあるものを詠むことであると考えられていますが、子規にとっては必ずしもそればかりではなかったという事です。目に見えないもの、心の中で想像したこと、子規がここで使っている言葉でいえば『まぼろし』もまた写生の対象だったことが、暑気払いの十二句からわかる・・・(略)・・・幻でさえもありありと目に見えるように詠むことが大事なのだと子規はいいたかったのです。写生とは『目に見えるものを詠む』ことではなく、目に見えないものも『目に見えるように詠む』ことなのです」と巧みに論理展開している。
写生という観点だけでなく、明治という時代に子規がなそうとしていたこと、言葉の近代化つまり「言文一致」という試みや、室町から江戸にかけての12万句を分類していった「俳句分類」の大事業についても興味深く読むことが出来た。
また、子規と漱石の友情に関しても、思わず目頭が熱くなるようなエピソードも盛り込まれており、子規が晩年に口述筆記をした簡潔な口語体が、その後漱石に引き継がれ「考えていることをそのまま写せる文体」へと育ってゆくという下りは、特に面白かった。