マーク・トウェインのレビュー一覧
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ネタバレ文庫と書きながら、本当は新書版。
無夜は「ハックルベリィ・フィンの冒険」を先に読んでました。トムの冒険はそれよりちょっとだけ前です。
残酷描写あり。学校は今なら体罰騒動になりそうな教育を施している。
こうして読むとポーリーおばさんって、とっても良い人だなあ(しみじみ)トムに何度騙されても、ちょこっとご機嫌を取ってもらうと、またころりと騙される。疑うことを知らないらしい。かわいそうに。
それにしても、トムの紹介欄に『うそを憎み』とあるのだが、彼が作品中についている嘘の多さは……。
内容。いたずらっ子のトムは友達のハックと夜中に墓場にいき、そこで殺人事件を目撃する。係わり合いになるのを恐れた二人はそれを秘密にしておこうとするが、無実の人間がその犯人にされそうになってしまい、トムは法廷で証言する。真犯人は逃亡してしまい、トムもハックも夜な夜な悪夢に苛まれる。
だが、そのプレッシャーにも慣れ、二人は宝捜しごっこを思い立つ。有名な幽霊屋敷に出向いて、そこにいた真犯人を見つけてしまう。ひと財産の金貨と一緒に……。
殺人犯だからって餓死させるのはどうかと思うのだが。二週間、洞窟に閉じ込められ、死亡。……嫌な感じに残酷。子供向けにしては悪人の死に方が生々しい。 -
Posted by ブクログ
こうやって、絶望しか残してくれない作品が好きだ。何くそ!って皆で生きることについて考えるから。千絵はサタンの言っていること全て知っていたし、頷ける。未来が見えないからというより、未来に対する想像力が欠けているために幸運と不運の区別がつかなくなっている時がよくある。
こうやって俯瞰して達観しても、痛みは消えないんだよ。見方を変えなくてはきっと永劫人や社会に絶望し嘲笑するしかないだろう。もし幻に過ぎないのなら、いいじゃない!果しない想像力をパンプス箱の中に閉まって鍵をかけて、千絵は素晴らしい幻の中で生きていきたいと思うよ。
人間は少数の者に支配されていて、多数の者に支配されることは決してないっていうくだりには鳥肌が立った!千絵にとっては、完全に思索を深め心を強くする本。
皆にはどうかな、現代人にとてもウケる本だと思うよ。 -
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奴隷制が残るアメリカ南部を舞台にして、暴力的な父親から逃れるハックと逃亡奴隷ジムの冒険。
大学で読まされたアメリカ文学はあるが、自主的に最初から最後まで読んだアメリカ文学としては初めて(翻訳だけど)。始めは、翻訳の変ななまりが気になったが、数章読めば全然気にならなくなった。よく1人でこんなことするよなー、というくらいハックは勇気のある子だと思ったり、ハックの二枚舌に感心したり、ある意味で素直な子だなーと思ったりして、面白かった。ジムはよく迷信を口にするが、当時の奴隷はこんな感じだったのだろうか、と思った。冒険そのものも面白いが、当時の南部の様子が描かれている部分も、歴史紀行をしている感じで、テレビを見るよりも自由に想像できて楽しい。たぶんこれが小説の良いところなのだと思う。当時の南部の様子は一言でいえば「血生臭い」という印象だった。週に一度は死体を見そうなイメージ。
(続きは下巻のレビューへ) -
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Adventures of Huckleberry Finn(1885年、米)。
どこまでも陽気で陰影のない「トム・ソーヤーの冒険」に比べると、こちらは結構ビターな印象。黒人奴隷の人権問題が絡んできたり、大人の犯罪や紛争に巻き込まれたり…。トムの冒険はファンタジーだが、ハックの冒険は命懸けのサバイバル。一歩間違えば、皮肉めいた重い話になってしまいかねない内容だ。
しかし、児童文学として耐え得る軽やかさは、かろうじて失われていない。その理由は、ハックの逞しさ、ジムの善良さ、人種を超えた彼等の友情、そして何より、雄大なミシシッピ川の美しい描写のためだろう。ハック達が自由を求めてミシシッピを下る過程は、自由を求めて新天地へ降り立ったアメリカ人にとって象徴的であり、心の原風景なのではないだろうか。ヘミングウェイが本書を「アメリカ文学の源泉」と称したらしいが、さもあらんと頷ける。
個人的には、ジムを救出する穴を掘る場面での、トムとハックの掛け合いがツボ。ロマンティストで意固地なトムと、リアリストで合理的なハック。その対比が面白くて、何度読んでも笑ってしまう。 -
Posted by ブクログ
1876年に刊行されてから読み続けられている『トム・ソーヤ―の冒険』。子ども向けとはいえ、大人が読んでもとてもおもしろい作品でした。
『トム・ソーヤ―の冒険』を読んでいると、大人と子どもの間には数多の誤解が立ち並んでいることがわかる。大人は子どもを、子どもは大人を、思い込みで決めつけているところがあり、それらはこの時代だけではなく現代にも通じる普遍性がある。きっと、多くの人たちがこの作品を楽しむことで、大人と子どもの間で相互理解や和解が生まれるでしょう。ただ人間の業というべきか、そういった理解や和解をさらに利己的に使う者もでてきますから。せっかく理解してくれるようになったのに、今度はその理解を使って相手(子どもは大人を、大人は子どもを)欺く材料にしてしまうものだったりする。しかし、どうして大人は自分だって子どもだったくせに、子どものことがわからなくなるのだろう。思春期っていう強烈な体験をするからだろうか。
いろいろな出来事が起こって、悪ガキのトム・ソーヤーたちがおもしろいことやハラハラさせることをどんどんやっていくので、読み手である僕はこの作品の中へあっという間に巻き込まれていった。トム・ソーヤーはいたってシンプルに、自分が生きやすく幸せに、金持ちになることを第一に生きている。そこには社会のルールなんてまだ眼中にはありません。でも、教会に通ったりさせられているし、学校でも勉強をしていて、社会から逸脱しきっているわけではない。逸脱しきっているのはハックルベリィ・フィンのほうです。そして、彼らは唯一無二の仲間。このハックルベリィ・フィンのしゃべる言葉がおもしろい。彼の考え方、感じ方、生き方がそのまま出てくる言葉で、生活の規則正しさに囚われている一般の人からすると、目の覚めるような叡智のようにも感じられるところがある。人間性っていったいなんだろう? と考えさせられる人もいらっしゃると思います。
あと、ツッコミどころもあります。洞窟はほんとうに真っ暗だろうに、ろうそくも尽きてからよく歩き回ってるなあ、だとか。
では、「ここは!」と気になったところを引用しながら。
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「伯母さん、悪かったよ――考えてなかったんだ」
「お前はなんにも考えてないんだよ。いつだってなんにも、自分勝手なことしか考えてないんだよ。夜中にジャクソン島からわざわざここまで来て他人が苦しんでいるのを笑ってやろうってことは考えるし、夢がどうこうと嘘ついてあたしを騙くらかそうってことも考えるけど、他人を不憫に思うとか、他人の悲しみを和らげてやろうなんてことはこれっぽっちも考えないんだ」
「伯母さん、ひどい真似したってこと、いまは分かるよ。でもそんなつもりはなかったんだ。ほんとだよ。それにあの晩は、伯母さんたちを笑いにきたんじゃないんだよ」
(p223)
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→トム・ソーヤーと仲間たち三人が家出をして、村で大騒ぎになっているときにトムはこっそり家に戻って隠れながら家族の様子を盗み見ていたときのことを振り返っての会話です。伯母さんはトムを誤解しているのだけど、それはこれまで何度もトムに裏切られてきたから。でも、トムも少しずつ成長していくものだし、人としての感傷もちゃんとあるので、人でなしみたいな行為ばかりするわけではありません。そこはまあしょうがないのだけど、それがお互いの理解の妨げになっていて、信頼関係が築かれなくなるのですが、この引用のあとの部分でその誤解が溶けるという物語としてのカタルシスがあります。さきほど書いた、「大人と子どもの間には数多の誤解が立ち並んでいることがわかる」というのは、こういったところなどに感じられたことでした。
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こうして二人はまた動きだした――あてもなく――まったく当てずっぽうに――とにかくできるのは動き回ること、動きつづけることだった。少しのあいだ、希望が蘇ったように思えた。それを支える根拠はなかったけれど、希望とはそういうものだ。人が歳をとり、挫折に慣れっこになってしまってその弾力が潰えてしまわぬかぎり、希望はいずれまた息を吹きかえす。(p339)
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→トムとガールフレンドのベッキーが洞窟の内部に取り残され迷子なってしまうシーンから。停滞すると絶望にやられてしまうんです。これはメタファーとして読んでも意味がある箇所でしょう。
この引用に通じるのですが、トム・ソーヤーの冒険に出てくる悪役、インジャン・ジョーが洞窟に閉じ込められた最期のとき、なにか仕事をすることで(ナイフで出入口の扉の下枠を削っていた)心を保っていた様子がわかるのだけれど、辛いときでもなにか仕事をしてエネルギーが切れたり壊れたりすることを防ぐというのはありますよね。
大変な環境に居ながらも仕事をして、傍目から「よくがんばるな」と感心されもする人は、なにも仕事熱心であるとは限らない。自分を保つためにやっている。反対に、仕事をよく頑張っているのだから、本人は自分の境遇が大変だは言うけれども実際はそうでもないのだろう、と周囲に思われるケースもあると思いますが、それは誤解であって、無理をしてでも仕事をして自分を保っていたりする。
こういうのは僕でもある。僕の場合、不安定な家庭環境で仕事と思って原稿を書く。原稿を書くというのは大文字での言い方で、そのなかには読書をして知識をつけたり技術を見知ったり考えかたを養ったりなどがあるのだけど、傍からは「読書は仕事じゃないね」と一蹴され遊んでる扱いを受けたりする。
でもこれは自分を保つための仕事としての意味合いがあるわけで、そういった意味では仕事なのでした。だから、そんなの仕事じゃないねと誰かに否定されてもこっちの気持ちとしてはピントのずれたことを言われたなと感じるところがあり、それでも続けていくことになるのです。それは心を保つため。
ということで、なんだかんだと子ども向きと思われた『トム・ソーヤ―の冒険』でも気づきや学びがいろいろと得られるのでした。アメリカの研究者でも子どもの頃に一度読んだらもう読まない類いの名作だと言われているそうです。かたや、『ハックルベリィ・フィンの冒険』のほうは何度も読むそう。それでもトムには生活の中での小さな核のような見抜きが書かれてる。普遍的なものが描かれています。 -
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自分のは昭和54年18版の角川文庫、斎藤正二訳。古い。紙が変色している。
「トム・ソーヤの冒険」を最初に読んだのは子どものころ、少年少女向けのものだったと思う。後半にわくわくした記憶があるようなないような… 初めてきちんとした翻訳版を読んだ。
殺人現場を見てしまったり、宝物(大金)を見つけたりと事件は起こるものの、全体的には当時の少年たちを丁寧に描いた話と感じた。そのせいで読んでいて眠くなることも多かった。
とは言え、少年たち、というよりガラクタやゴミみたいなモノに夢中になったり、妙な虚栄心があったりするアホなガキどもをよく描けていた。忘れていたけど自分も同じアホなガキだったと思い出した。マーク・トウェインは自分の子供時代の気持ちを忘れてなかったのだろうか。
ところで、著者前書きに記された年は1876年。日本は明治時代に入ったところ。その当時、日本には少年少女を主軸にした文学なかったのでは? アメリカ文学は進んでいたのか。 -
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「ジエィムズ」を読むために、まずは「ハックベリーフィンの冒険」を読まねば!
で、どうせ読むなら柴田元幸さんの新訳を読むことに。
やっぱりこういう冒険譚は子どもの頃に読むものなのかな。なかなかに苦痛な旅だった…。進まない。
嘘つきハックが、さまざまな偽名を使いながら、ジムと共に逃亡するのだが、もう子どもの感性がないからなのか、それとも時代的な感覚のズレなのか、私には共感し難いハックの行動原理笑
特に最後、トム・ソーヤが出てきてからの展開。
すぐに解放できるのに、それでは簡単すぎて面白くないとと、困難をわざわざ演出する「子どもの遊び」に命懸けで付き合わされるジム。
これ、なかなか笑って読むことはできない。
えっと、ここは、マーク・トウェインの示唆に富む現代批判と読めばよいのか?
「ジェイムズ」が生まれる理由はここにあるのだろうなと思う。白人の子どもの冒険もどきに付き合わねばならなかったジムの心境を是非とも知りたいから。
あー、ようやく読める! -
Posted by ブクログ
第1刷発行が1952年で、1988年の文庫の改版の際に誤りや表現も改めることができたと石井桃子さんが訳者あとがきに書いている。そもそも73年前の翻訳なのだから、現代の読者にはかなり読みにくい。そこがやはり残念だった。
トム・ソーヤーは想像していたよりも正直で、愛情深い少年だった。いたずらをして誰かをいじめたりはしない。退屈を憎み冒険を求めて、自由に街を駆けまわっているのに、歴史や英雄伝説などにも造詣が深い。読書好きとは思えないキャラクターなのだが…。
感情豊かでお調子者で、浮浪児ハックに対しては兄のように愛情深く導くけど、憧れているのは山賊になることだったりする。この後の「ハックルベリー・フィンの冒険」が楽しみだ。