大村大次郎のレビュー一覧
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元国税調査官の方が経費について詳しく書かれた1冊。
経営者はもとよりサラリーマンも知っておいて損はないと感じた。
■旅行費用
①視察旅行
⇨視察地が事業に関連している。事業の一環である。
視察なのでレポートや視察記録の作成は必要。
②研修旅行
⇨社員の研修のための旅行で、事業に関連している。
名目は研修なので、研修内容、目的、レジュメ等の体裁を整えておく必要がある。
③慰安旅行
⇨いわゆる社員旅行。下記の要件を満たす必要がある。
・従業員の50%以上が参加
・4泊5日以内(海外旅行)
※家族分は経費計上不可
④個人旅行の補助
⇨社員のプライベート旅行に会社が補助金を出す。
会社が予約して支払った後で一部社員が負担する形。
■キャバクラ代を経費で落とす
①接待の場として利用
⇨キャバクラでの接待が会社にとって何らかの意義があるかどうか
②商品開発のために利用
⇨ファッション、遊び、食べ物など様々な情報収集ができる。
会社の業務の一環だという体裁が必要になるので、レポートや報告書は必須。
③研修のために利用
⇨接客技術の研修、話術の研修として利用する。
研修なのでレポートの提出ぐらいは必要。
■キャバ嬢への愛人手当を経費で落とす
①社員にする
⇨給料として払う。社員としての実態が必要なので、出社して何らかの仕事をしてもらう。
秘書として身の回りの世話をしてもらう。
非常勤役員にして役員報酬を支払う。
週に1回の会議に出席、報酬が妥当であれば問題になることもない。
②業務委託
⇨社内に身内がいる場合で社員にすることが難しい場合に活用。
パソコンでの書類作成やマーケティング調査で嗜好調査を依頼。
委託した業務の記録は必要。
業務に対して妥当な報酬を支払う。
③情報提供料を支払う
⇨下記の要件を満たす必要がある。
・あらかじめ契約によって定められている
・具体的な情報提供があったこと
・その情報に対して応分の金額であること
・金品を受けたものは、その金品は所得税の課税対象になること
具体的な情報という目的がなければならない。
「特定の情報提供をする契約」を結んで、その対価を支払えばいい。 -
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元国税調査官だけあって、現場でどう対応するか?
というのが、知識ではなく、様々なアイデアを提案して、
その中から 節税の方法を 指南する。
税金に関して、正面切って取り組んでいるおもしろい 本だ。
税金とられているけど、実際は 税金は無駄遣いが多いので、
できれば、税金をかしこく納める事が必要だと言う。
何故無駄遣いするのかと言えば、他人の金だからだ。
脱税が成功する 3つの要素は、
「不特定多数の客を相手にしていること」
「領収書がいらないこと」
「現金収入であること」
税金とは、あくまでも 申告で成り立つ。
そのために、修正申告もある。更正となれば、税務署の指示である。
しかし、税務署は 質問検査権をもち、黙秘権は使えない。
任意捜査、強制捜査ができるのである。
脱税の手口は
「収入除外」「経費の仮装」「在庫の除外」がある。
税法の盲点を突く、脱税方法は、
「調査回避」「無申告」「踏み倒し」にある。
究極の脱税は、会社を倒産させることである。
税目別脱税。
「相続税」;離婚の手法で、慰藉料を払う。
「贈与税」;お金でなく、モノをあたえる。
「源泉徴収税」;日当支払い。9928円以内。
「関税」;外国人パスポートの活用。
脱税しやすい業種
「パチンコ業」「医師・病院」「学校法人」
「風俗業」「宗教法人」「建設業」「大企業と総会屋」
「政治家」「家族企業」「高級官僚」「農家」
税金を正しく理解して、正しい脱税をしよう。
なるほど。 -
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この本の著者は元国税調査官の大村氏で、今までは金持ちの人たちの資産形成方法等を解説する本を私は読んできました。お金持ちの思考方法は、私のような一般人とは違うのだなと感じています。その彼による、現代世界史の解説版です。
今まで多くの本において現代史を読んできましたが、それと比較して特徴的なのは、出来事を「お金の流れ」の観点から解説してあることです。
お陰様で、なぜ二回の世界の世界大戦が起きたのか、それまで争っていた、ドイツとフランスが仲直りをして、EUの基礎をつくれたのか、覇権を失ったイギリスは、どういう方向に向かったのか。今、問題になっている、タックス・ヘイブンを作ったのは大英帝国であり、それが現在も力を握っていること、国際金融は、ニューヨークではなく、まだロンドンに握られていることも初めて知りました。目から鱗が落ちまくった、記念すべき本でした!
以下は気になったポイントです。
・イギリスは産業革命を成し遂げたから世界覇権を握ったのではなく、産業革命以前にスペイン無敵艦隊を破り、スペイン・ポルトガルの持っていた植民地を横取りし、その資本により産業革命がなされた(p14)
・ドレイクは海賊航海を成功させ、一航海でイギリスに60万ポンドをもたらし、エリザベス女王に半分渡した。当時の国家予算が20万ポンド、女王はこれにより債務をすべて返済して、残金を地中海貿易へ投資(p16)
・イギリスは海賊行為と並行して、国家の経済システム(税・銀行)の近代的合理的制度を整えた、1694年にイングランド銀行(中央銀行)をつくり、政府の国債を引受ける代わりに同額の銀行券=紙幣を発行する権利を持った(p17、18)
・イングランド銀行は資本金を民間から公募したことから、ライバルのフランスよりも低利(5-6%に対して3%)で資金調達ができたので、軍事力の強化につながった(p20)
・広大な植民地から原料を取り寄せ、近代化した工場で工業製品を大量生産、それを世界中に売りさばく、このビジネスモデルによりイギリスは繁栄して、19世紀には世界の超大国となった(p20)
・アメリカが、フランスからルイジアナ州を買収したときは、イギリスのベアリング銀行がアメリカ国債を引き受けている、ニューメキシコを購入した時も同様、アメリカ大陸鉄道の大半もイギリス投資、アメリカを始めとして、アジア・アフリカなど世界中に投資を行った(p26)
・イギリスは第一次世界大戦時、ドイツの潜水艦による海上封鎖で輸出入ができずにダメージを受けた(p28)
・大戦前は、イギリスはアメリカに対する圧倒的な債権国であったが、大戦後には逆転した。アメリカはイギリスに対して債権をびた一文負けなかった(p29)
・アメリカは、1803年の独立から20年後、フランスからルイジアナを購入、1819年にはスペインからフロリダ、原住民からは、オハイオ・インディアナ・イリノイを購入、1845年にはメキシコ領だったテキサスを併合、カリフォルニア・ニューメキシコ入手した(p31)
・第一次世界大戦では、戦闘機・戦車・潜水艦などの新兵器が投入された、これらを動かしていたのは石炭ではなく、石油(p34)
・アメリカ経済は大きく成長して、大量の金が入ってきたが、それを投資に回そうとせずにインフレ警戒のため、金の溜め込みを行った(1922.8以降に流入した金を連邦準備銀行の金準備に含めなくした)、これが世界大恐慌の要因の1つとなった。(p37)
・マーシャルプランは、1948-51年まで、102億ドル(90億ドルは贈与)の経済援助をした、年間予算の20%に相当する。この理由は、アメリカの輸出:160億ドルの半分が貿易黒字で相手は欧州国、彼らにはドルも金もなく、輸入が不可能な状態となっていた。輸入が止まればアメリカ経済もダメージ(失業問題)を受けるため(p45)
・第二次世界大戦は、ドイツがポーランドに侵攻したことが発端、ポーランドを守るために、英仏がドイツに宣戦布告した。このとき、ソ連もポーランドに侵攻し、ドイツ・ソ連で秘密条約を結び、ポーランド分割をしようとしていた。ソ連がフィンランドに侵攻したとき、国際連盟はソ連を除名したが、軍事的制裁は行わなかった。しかし英仏はソ連には宣戦布告しなかった、戦う余力がなかったから(p53)
・アメリカはソ連に対して、合計113億ドル分の武器をほぼ無償で提供、軍用機15000機、戦車7000輌、軍用自動車40万台、これを利用してソ連は東欧を占領しつつ、ドイツを自力で駆逐した(p55)
・第一次世界大戦後に、中東で採算にあう油田が発見された、1908イラン、1927イラク、1932バーレーン、1938サウジアラビア、クウェート(p71)
・1945.2ヤルタ会談直後に、ルーズベルトと、イブン・サウド国王の極秘会談があり、石油取引をドルで行う代わりに、アラブ王国が脅かされた場合、軍を出動させて守る確約をした(p72)
・ユダヤ人が最も多く住んでいるのはイスラエルでなくアメリカ、大航海時代にスペイン・ポルトガルはユダヤ人を追放したが、イギリスはしなかった、そのため世界中のユダヤ人がアメリカ大陸へ流れ込んだ。(p75)
・アメリカのユダヤ人団体がイスラエルに寄付金を送るときには税金はかからない、他国の場合へは税金がかかるが、これもユダヤ人のロビー団体が強い影響力を持っているから(p76)
・マーシャルプランの西ドイツへの額は少なかった、更には、連合国が占領している経費は西ドイツもちであった、西ドイツの占領経費と防衛費は、歳出の20-40%、GDPの5%超、しかし西ドイツの復興は日本の10年の半分で成し遂げた(p79、80)
・二度の世界大戦は、ドイツが「英仏米から叩かれた戦争」であった(p83)
・明治維新から第二次世界大戦前までの70年間で、日本の実質GNPは約6倍、実質賃金は3倍、実質鉱工業生産は30倍、農業生産は3倍、これは戦後の経済成長よりも凄い(p92)
・明治10年には封建制度的な規制はほぼ撤廃した、封建から近代への改革をたった10年足らずでやり遂げた(p92)
・職業選択の自由、交通の自由、居住の自由は、明治4年(1871)の戸籍法など、土地の売買の自由は明治5年の、地券渡方規則、により確立された、これは大変な改革であった(p94)
・自動織機とは、材料の糸が切れたときに自動的に補充する機能がついた機械のこと(p97)
・世界貿易における綿製品など繊維製品の割合は20%、この綿製品の貿易シェアはイギリスがダントツであったが、これを1928年にはイギリスの37%、1932年には92%となり、1933年には追い越した、それで日本製品を締め出すためブロック経済に踏み切った(p99、100)
・日本の鋼材の生産設備は、敗戦時も戦前の水準である約1100万トンの生産能力があった、いわれているほど産業へのダメージがなかった(p101)
・イランでは1953年にパーレビ国王が政権に返り咲き、イギリス独占であったが、アメリカに恩義を感じたパーレビ国王は、アメリカ企業:40、イギリス:40、残りをフランス、オランダに配分した(p105)
・サウジアラビアの石油を独占していた、アメリカ企業のアラムコ(エクソン、モービル、シェブロン、テキサコの合弁会社)は1949年にはサウジアラビア政府に払う鉱区利用料の3倍もの収益を上げていた、1950年には石油収益を1:1に分配するように変更した(p112)
・イランイラク戦争において、1982年に戦況がイランに傾くと、フセイン政権であるイラクに武器支援を始める。(p130)
・国民党政権の腐敗がひどく、国民党軍の多く(半分以上)が共産党軍に寝返った、そしてアメリカが国民党に支援した武器の8割以上が共産党に渡っていた(p138)
・日本と中国との戦後賠償は、台湾国民党政府との間でかわされた、日華平和条約で、中国側が賠償請求権を放棄することになっていた(p148)
・1991年12月、ソ連の中核となる、ロシア、白ロシア、ウクライナの3か国代表が秘密会談を行い、ソ連からの離脱を決定し、ソ連は崩壊した(p171)
・2000年11月、フセイン大統領は石油取引をドル建てからユーロ建て(フランス、ロシアの会社)に変更した、これがアメリカの尻尾を踏んだことになった(p197)
・バーボンウィスキーとは、アメリカが独立戦争時に、フランスの支援に感謝して、ブルボン王朝から取った名前(p209)
・ベルリンの壁ができたのは、1949-1960の間に、250万人もの東ドイツ国民(4分の1)が西ドイツへ亡命したから(p212)
・ドイツの屈辱は、東西分断、ベルリンの飛び地、ルール工業地帯の連合国管理(英、米、仏、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)があった、そんなときにフランスから持ち掛けられたのが、欧州共同体計画であった、これは、フランス・西ドイツ・イタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの6か国の鉄鋼業、石炭業を統合し、ルール工業地帯も共同管理しようとするもの(p213)
・AIIB(アジア・インフラ投資銀行)と同様の趣旨を持つ、アジア開発銀行は、出資比率が日本:15.7%で筆頭、アメリカが15.6%、なので日米は参加していない(p227)
・タックスヘイブンで一番被害を受けているのは、アメリカ政府、ケイマン諸島の半分はアメリカの関連企業(p237)
・イギリスでは植民地への投資を増やすために、植民地の企業の税金を安くしていた、なので植民地には多くのイギリス企業が移転してきたのが始まり(p242)
・イギリス領の島々であれば、自治領なのでイギリスの責任外をいう言い訳が可能、アメリカはマーシャル諸島で行い始めた(p243、245)
・ウォール街の金融取引量は世界一だが、大半は国内取引、アメリカの市場が大きいということ。しかしマネーゲームの総本山はロンドンシティ、イギリスの外為取扱量は、1日2.7兆ドルで、2位のアメリカは半分以下(p247)
2017年5月1日作成 -
Posted by ブクログ
日本は高額所得者に優しく、中間以下の所得者に厳しい。
これが率直な意見だ。
これはあとがきにも記載があった通り、中間層以下が税金に対して疎く、高額所得者は非常に機知に富んでいる上、政府に対しての影響力が大きいからだろう。
そんな中で、この本は「税金をいかに安くするか」を考える意味で非常に有意義なものだった。
保険を例にあげると、生命保険と国民年金保険を別個で加入すれば、それぞれに税控除が受けられるというのも、全く知らなかった。
医療費控除も含めて、勉強になった。
折しも来週から確定申告が始まる。
株関連で税務署に行くのだから、これを機にもっともっと勉強してやる! -
Posted by ブクログ
ネタバレ前作は事業者向けであったが今作は個人事業主やフリーランサー向けなので,毎年確定申告している僕には大変役立った。
なかなかこういう視点で節税を説明している本は少ないと思う。しかも元税務署員が書いたというのが面白い。
内容もわかりやすくて◎
盗難,自然災害,は(実費-5万円)が所得控除
住宅ローン減税は所得控除ではなく,税額控除
確定申告の原価参入の判断というのは本人の基準なので,明確な反対材料がない限り認められる。
母親の社会保険料を支払っていることにすれば,所得控除となる
生命保険,個人保険年金,介護医療保険はそれぞれ8万円まで所得控除(MAXで12万円の還付が可能)
地震保険料は5万円を上限に全額が控除対象
税務署のいうことをうのみにしてはいけない。
確定申告は納税者が自ら申告するものであり,仕事とプライベートで発生した原価については,按分が必要であり,原則的には,根拠さえあれば,申告の通りに了承される。よほど常識から外れていない限りは税務署は文句をつけることはできない。
10万円以下であれば,その年に全額損金とできる。それ以上の場合には減価償却となる。 -
Posted by ブクログ
国税調査官を歴任された大村氏による本で、最近ネットで見つけたのですがコロナ前の2019年に発刊された本です。タイトルを見ただけて買ってしまいました。
日本の土地の所有制度が、政治形態(中央集権制、封建制)によって大きく変化してきたことがよくわかりました。なぜ江戸幕府が他の幕府(鎌倉、室町)と比べて長く続いたのかも解説されていました。明治維新の時に行われた一連の改革のうちで「地租改正」は革命的なものであったのですね。
以下は気になったポイントです。
・日本史上 土地の知的所有を認めなかった政権というのは、大化の改新後の大和政権だけである(p16)
・ 日本が支配していた朝鮮半島の 任那地域は、 今の韓国の半分ぐらいを占めていた国葬地帯であった、 新羅の支配下に取り込まれたこともあったが、 新羅 から 兆候を受けることを条件に 日本が新羅に 下賜した という形になっており 日本の影響力は維持していた、 また 百済も日本に調光しており 古代 日本は、百済・ 新羅を半ば 臣従させていた(p19)
・大家の改新後は田を与えられ、収穫の3%程度の税を払えばそれ以外の収穫は自分のものになった。 これは以前の豪族の搾取に比べればはるかに楽であったので生活は安定し 労働力も増した(p35)
・唐と新羅の連合軍が、日本と同盟を組んでいた 百済に進撃した、 百済は崩壊し 百済の残党たちは日本に救済 要請をした、そこで 日本・ 百済の連合軍と、唐・新羅の連合軍が白村江において激突した (p37) この戦いに敗れたので 朝鮮半島から鉄鉱石の輸入ができなくなり、 奈良時代の後期から砂鉄のみが用いられるようになった(p39)
・ 荘園は奈良時代後半から平安時代に急速に増殖し、朝廷政権の崩壊の一因となってしまう。荘園の始まりは朝廷の財源不足であった。 朝廷としては、民が自発的に新しい 田を開拓 するように仕向けるため、 723年に三世一身の法を出した。735-737年には天然痘だ大流行し、当時の2割以上の100万人が死亡した、この打開策として時の聖武天皇は神仏に求めた。日本中に、国分寺・国分尼寺を作り、743年には東大寺の大仏造立を決定した。その財源として考え出されたのが「墾田永年私財法」であった(p43)
・ 戸籍の作成が曖昧になっていく 9世紀中頃から、 国司の権限が非常に大きくなった、 明確な 戸籍がないので 徴税額などが 国試の判断で決められるようになっていった(p54) 10世紀になると 班田はほぼ 行われなくなり、律令で決められた 徴兵が難しくなってきた、 徴兵のやり方も 国司に任されるようになった、そのため 国司は その地域の豪族などを手なずけて 兵力として確保するようになった (p59)
・平清盛の頃、日宋貿易が盛んで、当時の 敦賀港は、 博多 に次ぐ日宋貿易の拠点であった、 そして 清盛は 博多よりもはるかに京都に近い「兵庫」に貿易拠点となる 大和田泊(神戸港)を整備した(p65)
・旧来の国家 システムでは群を動員したり 戦争を指揮するのは 朝廷であり、勲功も 朝廷が行うものであった、源頼朝はこのルールを変えて、自分が武士団を管理統括し、朝廷は武士団のことには口が出せないようにした、武家を朝廷から切り離すことで朝廷の影響力を排除した、朝廷の持っていた「徴税権・軍事権・警察権・守護地頭を置く権利など」を獲得した(p68)
・源頼朝は 各武家が朝廷と直接接触することを禁じていた、武家が朝廷に取り込まれてしまえば 武士団による新政権という思想が根本から崩れてしまうしからだ。 この大事な大前提を弟の義経が崩してしまったのである(p70)
・鎌倉幕府の財源は、 直轄管理している土地から得られる 税と、貿易による完全などに過ぎなかった。 鎌倉幕府には2つの種類の領地があった、1つは「 関東御 分国」と呼ばれるもので、 御家人などを 国司に任命し、国衙( 地方役所)を通じてその地域を統治するというものである。 駿河・ 武蔵・ 相模・ 越後が対象で、 時期によっては、 遠江・ 伊豆も入った。 もう一つは「 関東御領」 と呼ばれるもので 鎌倉幕府の直轄地である、 1184年に源頼朝は朝廷から 平氏一族の旧領500箇所を与えられた。鎌倉幕府というのは 関東を中心とした数カ国を統治していたに過ぎず、 日本全体は 各地域の豪族が統治していた(p73)
・応仁の乱 当時の静止の不安定さの要因は、室町幕府の直轄領の少なさと 財政力の弱さにあった、武家政権である鎌倉幕府の直轄領は少なかったが、 室町幕府は さらに少なかった、 大目に見積もっても200万石 程度であった(p78)
・ 日野富子が溜め込んだとされる 7万貫という 銭は 現代 貨幣価値にして40億円以上とされる、 これは個人としての貯蓄であれば確かに大きいが幕府の資産と見た場合全く大した金額ではない。 例えば 上杉謙信は、 柏崎・ 直江津の2つの港からの関税収入だけで年間4万貫あった(p85)
・紀伊の国(和歌山県)では、 水田面積の9割程度が寺社の領地だったとされる、大和の国(奈良県)では、 興福寺・ 東大寺・多武峰・高野山 ・金峯山領でない土地はないほどであった(p93)
・実は 織田信長は大胆な農地改革をし、 領民に対して「 大減税」を行っている。信長は周囲の勢力と戦いながら版図を急激に広げていった、 領民の支持を得られなければ スムーズな領土拡大ができない。 信長が天下統一 事業を急速に進められたのは、 自国の統治が他の大名に比べてうまくいっていたからに他ならない (p105)
・残された記録から見れば 織田信長は征夷大将軍ではなく、太政大臣(朝廷で政権を担当)になっていたのである(p111) 信長は「 中央政権が日本全国を統治する」という形に戻そうとしていた(116)
・ 徳川家康の直轄領は豊臣秀吉の 220万石 程度と異なり、 大坂の陣以降は400万石、 徳川家勢力 全体では800万石 あった (p149)
・明治時代になって 地租改正のために全国の農地が計測された、江戸時代の記録では日本全国の収穫量は3222万であったが、実は4684万石あったことがわかった(p177)
・戊辰戦争で勝った 明治政府は合計860万石の直轄地を持ったが財源は全く足りない、 中央集権 政権として 全国から 税を徴収したかったので、 廃藩置県をしようという動きが出てきた(p190)
2026年5月3日読破
2026年5月4日作成 -
Posted by ブクログ
大村氏が面白い本を一昨年に書いていたのを、ネットで最近見つけました、これで47冊目の彼の本を読みました、国税調査官をやっていた独特の視点で歴史を解説してくれています。この本を読むと、人間の本質は時代が過ぎても、それほど変わらないのだなと感じることができて、親しみが持てました。
現在の感覚では「脱税」は、良くないとされていますが、脱税をしたからこそ経済力を持つことができ、地方を、最終的には日本を統治することができたということも理解できました。大村氏には今後も、彼の独自の視点で歴史を解説して欲しいものです。
以下は気になったポイントです。
・日本史上、土地の知的所有を認めなかった政権というのは、事実上、 大化の改新後の大和政権だけである、 大和政権が土地の私的所有を認めなかったのは、 土地を国有化することで、 豪族などに分散していた国の財力を集中させようとしたから(p17) 軍事についても豪族の紙幣を寄せ集めるのではなく、 徴兵によって朝廷の直属軍を増強するのが大化の改新であった(p22)
・斎蔵・内蔵・大蔵とは、雄略天皇の時代に整備された蔵のこと、斎蔵は、天皇の祭具を保管した蔵、内蔵とは、官物を保管した蔵、大蔵とは、全国からの貢物(税)を収めた蔵のこと(p21)
・ 租庸調制度を簡単に説明すれば、 租は米、庸は労役、調は布や特産品を 税として集めるものである(p30)
・日本で 全国的な国土調査が行われたのは 有史以来3回しかない、秀吉の「太閤検地」、 明治 維新期の 地租改正、 そして 大化の改新である、 現在の日本の土地登記簿のほとんどで、 地租改正時に作られた公図が用いられている(p32)
・白村江の戦いの後、 大和朝廷は唐・新羅の連合軍による日本本土への進行に備えた。天智天皇は臨戦態勢を整えるために 667年に 交通の便の良い 近江大津に都を移した、人身の乱の後に都が 飛鳥に戻されるまで、 日本の首都は 近江大津であった(p43)
・天平 7年(735)から天平 9年にかけて起こった天然痘の大流行は日本社会に大きな打撃を与えた、当時の人口の2割以上に当たる 100万人以上が死亡した。天然痘の医学的な対策法はなかったので 神仏に頼るしかなかった、 天平13年 聖武天皇は日本中に国分寺・ 国分尼寺を作ることを命じた、天平15年 (743)今東大寺の造立を決定する、 その財源として考え出されたのが「 墾田永年私財法」である(p48)
・ 貴族や豪族が切り開いた 私有田に雇われる農民が増え、 班田(公の田) が放棄されるようになった、 班田には徴兵 や労役があったが、 私有田にはそれほど重い 役はなかったので、 私有田に移る農民が多かった、 つまり 農民たちは「 税を逃れるために 公田を放棄した」のである(p51)
・平安時代の末期になると「武」を 専門とする 公家や貴族が登場してきた、 その大きな要因は 班田収受 制度が壊れたことである、 9世紀中頃には戸籍が改定されなくなり 10世紀になると 班田収受 が ほ ぼ 行われなくなった (p69)
・ 平安時代の対外貿易では国家の買取専有権があった、 これは関市令 という法律に定められたもので「 外国から交易船が入ってきた場合、 朝廷から役人が派遣され、 まず 優先的に買い取りが行われる、 その残りを貴族や承認が買い取る」というものであった、 その権利は現代の「関税」 であった、 平安時代後半になると朝廷の監視が緩み 、めぼしいものを入力 貴族が先に買い取ることもあった、 いわば 関税の脱税をしていた (p73)
・平清盛は、武家たちを朝廷のシステムの中で支配しようとした、土地の支配権はあくまで朝廷や中央 貴族にあり、 各地の武家は朝廷や中央 貴族から土地の管理を委ねられているにすぎないという姿勢であった、 一方 源頼朝は、武家たちに土地の所有権や徴税権を認め、 朝廷や中央貴族たちとの支配から解放しようとした、だから 武家たちの指示を得ることに成功し 兵士をしのぐ 軍勢を率いることができた(p79)
・1185年 源頼朝は「平氏との戦いのために兵糧を確保したい」として、朝廷から、守護・ 地頭の設置と「 兵糧米の徴収権」を認められる、この権利は、実は財政上 非常に大きな意味を持つ。米というものは税として納められるものであったので、兵糧米を徴収する権利を持つとは、徴税権を持つのと同じことであった(p81)
・源頼朝は武家の褒賞や 処罰を 1手に行う権利を朝廷から獲得していた、この権利は鎌倉幕府の根本とも言える重要なものであった、この権利により国の軍事権を 頼朝が一手に握ることができた、 各武家は朝廷ではなく 頼朝に忠誠を立てる、 それが鎌倉幕府の権力の源泉であった、そのために 頼朝は 各武家が朝廷と直接接触することを禁じていた、 この重大な 大前提を弟の義経が崩してしまった、義経と朝廷の接近 が 義経 殺害の最大の理由であった(p84)
・平安時代末期の土地は、荘園と公領がまだらに入り乱れている状態であった、荘園が拡大したとはいえまだ 公領もかなり 残っていた、現在の知事のような職である「 国司」や 県庁のような役所である「国衙」も存在していた 、治安が乱れていたので 治安を守るという役割で各国に「守護」が置かれた、鎌倉幕府から派遣されたものであり いわゆる 御家人である、守護は 各国の治安を守るだけでなく、土地を検断する権利や、兵糧を徴収する権利も持っていた。 一方 地頭は 、荘園に派遣された幕府の御家人のことである 、今まで 荘園を勝手に私有していた 脱税者たちに対して土地を管理する権利を正式に与えた、地頭は荘官に代わって、荘園の管理者となった (p87)
・鎌倉幕府はそれまでの政権(朝廷)を倒して新しい政権を作ったわけではない、 朝廷の1機関に過ぎなかった「幕府」が、なし崩し的に政治を担うことになった、 そもそも 幕府というのは「 臨時司令部」という意味である(p88)
・鎌倉幕府は日本全国の徴税権・行政権 までは持っておらず、 各地の武家が 徴税や行政を行い、 幕府が持っているのは 監督や仲裁をする権利だけであった。 鎌倉幕府の財源は 直轄管理している土地から得られる税と、貿易による関税などに過ぎなかった (p89)
・鎌倉幕府には2種類の領地があった、1つは「 関東御分国」と呼ばれるもので、 御家人を国司に任命し、国衙を通じてその地域を統治するもので、 律令時代から続いていた制度を変形したもので、 建前の上では朝廷の土地を幕府が管理するということである、駿河・武蔵・相模・越後が常に「 関東御分国」になっており、時期によっては、遠江・伊豆・陸奥も入った、もう一つの領地は「関東 御領」と 呼ばれるもので 、鎌倉幕府の直轄地である、 幕府 所有の荘園である、 源頼朝は朝廷から 平氏一族の旧領500箇所を与えられた、鎌倉幕府というのは、 関東を中心とした数カ国から十数カ国を統治していたに過ぎず、 日本全体は 各地域の豪族などが統治していた (p90)
・応仁の乱が起きた原因を税務的な視点で見れば、 室町幕府の財政力が弱すぎたから、ということにある、室町幕府は鎌倉幕府の崩壊後、 後醍醐天皇の親政に対する反対勢力として発足したものである、南北朝時代という時期があったので、 足利 政権内部で揉め事が起きると 反対勢力になったものはすぐに下野して、南朝に加担した、 足利 政権は政権の存立基盤を安定させるために 将軍家の直轄領を削って 家臣を引き付けようとした、 その結果 足利家自体の直轄領は非常に少なくなった(p92)
・寺社がなぜ広い土地を持っていたかというと、その理由は脱税である、古代から寺社は、租庸調が免除されていたので、寺社に寄進をして税を逃れる者が続出した(p98)
・信長は「比叡山に対して、朝倉・浅井 のどちらかに加担するのが 仏教徒として不都合ならば 中立を守るだけでも良い、 そうすれば 以前の比叡山の領地を返還する」と 証文まで出していた、にもかかわらず 比叡山は朝倉軍に加担したので、 信長は激怒し、 翌年 朝倉 君との戦いが一段落すると比叡山を焼き討ちにした、信長は比叡山が朝倉に加担する前から比叡山の荘園を没収していた 最初から比叡山に対して厳しい姿勢で臨んでいた、だからこそ 比叡山は信長に反発したのである(p101)
・信長は大胆な農地改革を行い 領民に対して「 大減税」を行っている、寺社の迫害をそうだが、 信長の施策には「税を逃れているもの、 税を勝手に取っているものを弾圧し、なるべく 領民の税負担を軽くする」という指針が貫かれている (p105)
・当時、酒は 比叡山、 織物は祇園社、麹は北野社、油は 南禅寺などが大きなシェアを持っていた 、幕府は1419年、麹の自家製造を禁じて、全ての麹は、北野社から 購入することを義務付けた、1444年、比叡山の訴えにより ようやく この独占状態は 解除 解除された、北野社は、元は比叡山の末寺である、比叡山は関所を設けて高額の通行税をとっていた、信長は寺社たちの既得権益を打破するために「楽市楽座」「関所の撤廃」を行った(p115)
・武田信玄は信長に対して大きく 出遅れていた、不安要素の一つとして、農地が貧弱である、2つ目として、 武田 領が「陸の孤島」であった、陸路を通らなければならないので、 周辺の大名と敵対すれば、 物資の流通がストップしてしまう、 この2つのハンディを抱えていたため 経済成長できなかった(p117)
・大名にとって年貢というものは基本的に 直轄領からしか得ることができない、 家臣たちの事業 値の年貢は家臣のものである、 武田信虎が始めた「 棟別銭」は、 領内 全てに 課税した、 しかも これまで年貢が免除されていた 寺や神社にまで要求した (p120)
・人数の多さで押し切ることができる 野戦ならともかく、 鉄砲・火薬など多くの兵器を必要とする 攻城戦の場合は 装備の不足が如実に結果に現れた、 これが武田信玄の野田城の攻略に1ヶ月もかかった理由であり、 ひいては 信玄が京都まで 進軍できなかった最大の理由である(p132)
・明治時代になって 地租改正のために全国の農地を計測した、江戸時代の記録では日本全国の収穫量は3222万石となっていたが、実は4684万石 もあったことが分かった、 実際の石高は名目の1.5倍 あった、 つまり 隠し田が相当あった (p144)
・幕府は武士の贖罪を帳消し(享保・寛政・天保)を行うたびに、 札差(金貸業者)に対して 特別融資を行うなどして金融不安が起きないようにした (p148)
・幕府が過酷な税を課していなかった理由の一つに、 貨幣鋳造益がある、 江戸幕府は貨幣の鋳造を独占していた諸藩は貨幣の鋳造ができなかった、幕府の許可を得れば 藩領だけで通用する地域通貨は 発行することができた(p151)
・ 地租改正で定められた新たな税率は 土地代の3%であった、 この3%というのは 収穫前の平均 代価の34%程度に設定されていた、 これは江戸時代の年貢と同等か 若干 低い 程度の負担率であった(p167)
・地租改正によって 全国の税率は一律となった、日本のほとんどの農民にとっては負担減であったが、 幕府領の農民にとっては負担増となった、明治維新直後に起きた農民一揆のほとんどは 旧幕府領であった(p168)
・あまり知られていないが 戦前の日本は超高度成長を遂げていた、明治維新から第二次大戦 までの70年間で、 日本の実質 GNP は6倍に増加、 実質賃金は3倍、 実質鉱工業生産は 30倍、 実質 農業生産は3倍になっている、 他の国と比較しても大成長と言える(p170)
・明治43年(1910)からは、 賃貸価格を基準にして地租の価格を決める方法が取られるようになった、地租は戦後、地方税に以上されて「固定資産税」という名称になっている (p171)
・戦前の日本は、酒税・ 砂糖税などの間接税や、官業収入(主にタバコ)が 税収の柱であった、所得税などの直接税は戦争が始まる前まではあまり多くなかった(p182)
・戦後 財閥家が持っている財閥グループの株は、強制的に社会に吐き出された、 強制的に株式市場で売却させた、供出させて売却という形をとった、 ただ 売却しても代金は財閥家には入らなかった、財産税によってほとんどが 徴収された(p201)
2026年2月24日読破
2026年2月26日作成