金谷治のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
NHKの「100分で名著」が5月に「老子」を取り上げたので、併せて読むテキストをどれにしようかと思ったが、ここはやはり講談社学術文庫から中国思想の大御所である金谷治先生の著書を選んだ。100分で名著のテキスト・放送に併せて並行して読み進めることができた。
金谷治先生は冒頭で
「人間が人間らしく生きるというのは、ふつう力みかえって生きることである。われわれがいろいろの場合に『頑張ってね』と口ぐせのように言うのはそれを示している。」
と言っている。
これに対して老子は「無為無欲」になってその本質に立ち返ることが人間の幸せである。力みかえることをやめて自然態であれ。」と説いているのだと言う。
「老子」は上篇・下篇に分かれており、上篇は第一章が「道」で始まることによって「道経」とよばれ、下篇の「徳経」と対していることにより「老子道徳経」とも呼ばれる。
全体を通して言えるのは言葉にしてはっきりとは名指ししないものの、孔孟の儒家に対する激しい対抗意識が見て取れる。むしろ儒教をベースにしてそれに反論を加えるところから老荘思想が成熟していったのではないのだろうか。
今回100分で名著の放送とそのテキストとも併せて読むことができたので、あらゆる章を熟読できたようだ。以下に「100分で名著」のレビューを抜粋しておく。
--------------[以下抜粋]--------------
東アジアで最も多く読まれている中国の思想書といえば「論語」だそうだが、これに勝るとも劣らないのが道家の始祖といわれる「老子」だそうだ。「上善若水」「小国寡民」など現代の日本にもよく知られて残っている言葉がある。いわゆる負け組とか社会的弱者向けともいわれ、「心の処方箋」としてブームになっているという。この老子の説いた思想を「道(Tao)」と呼ぶ。では「道(Tao)」とは何か?
・天地や宇宙を生み出す根源
・万物造成のエネルギー
・自然(おのずからしかり)
と蜂屋氏は説明している。
「がんばらなくてもいい」「あるがままのあなたでいい」というようなメッセージが多く「癒しの書」といわれる反面、リーダーに対しては「権謀術数の書」という一面を持っているのも事実。孫武の兵法書「孫子」に共通する部分も多い。
「論語」は得意のときに読め
「老子」は失意のときに読め
といわれているそうだ。その意味ではやはりドロップアウトした人に向けて書かれているのだろう。
「無為自然」という言葉が出てくる。これは「自ずから然り」で「何ら作意をしないこと」という意味だ。ただ一切何もしないことではなく、作為的なことは何も行わないことだそうだ。それが老子のいう「無為自然」の理想のあり方なのだという。それが道(Tao)。
最終的には社会からはずれているからバカボンのパパ語で表現するとわかりやすいそうだ。
「バカをつらぬくのだ」
「赤ちゃんは最強なのだ」
「ヘリくだってえらくなるのだ」
「近道は間違う道なのだ」
「なるようになるのだ」
「まっすぐな人はぶれぶれなのだ」
これでいいのだ! -
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『老子』のテクストを紹介し、わかりやすい解説を付した入門書です。
本書は老子の入門書ですが、いちおう巻末にコンパクトな「解説」が置かれているものの、老子と呼ばれる人物の思想を体系的に整理して示すのではなく、『老子』のテクストを日本語訳、書きくだし文、原文で紹介し、さらに著者による注釈のかたちでの解説がおこなわれています。ただし注釈といっても専門的な内容ではなく、初学者にもしたしみやすい内容になっており、入門書としての役割を果たしています。
老子と比較したとき、荘子の思想は世俗を越えた宗教的な立場だということができると著者は解説しています。もちろん老子の思想も、儒教のような世俗の立場にたって説かれる道徳を越えた自然を志向する態度ははっきりと示されていますが、老子のことばは現実の社会との比較のなかでみずからの立場の優位が主張されることが多くなっています。「無為であれば万事がうまく運ぶ」とか「柔弱であれば強いものにも勝てる」といった老子のことばは、「世間的なずる賢さともみえる」と著者はいい、老子の立場の矛盾的な性格を指摘しています。 -
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『大学』『中庸』の本3冊目にして、ようやく全章収録の本に辿り着いた。さすが安心の岩波文庫。
『大学』部分では、全体解説と旧本の漢文・読み下し文、注釈と現代語訳、朱子『大学章句』の旧本と重複しない要素の記載がある。
『中庸』部分では、全体解説と漢文・読み下し文、注釈と現代語訳、朱子『中庸章句』序の訳註の記載がある。
全章載っているのがありがたい面を重々感じつつ、とはいえ解説・注釈が分かりやすいかというと個人的にはそうでもなかった。かといって全くわからないというほどでもない。
訳註の位置が章末ではなく、読み下し文と現代語訳の間にあるのが始め慣れなかったが、それで読む場所の迷子になりにくかったかも。