佐々田雅子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
冒頭に語られたお伽噺の中で、巨人から子供との別れの記憶を無くす水薬を手渡された主人公は悲しみに沈むのを避けられた。翻って、現実で妹と生き別れた兄は父から聞いたそのお伽噺にあった水薬を飲みたいと思いながらももちろん叶えられることはなく、哀しみは六十年近くの歳月に渡り彼を苛み続けた。
主要な登場人物が最後の場面で言うように、忘れることが贅沢であることもあり得るのかと痛切に感じ入り、また考えさせられた。
章ごとに主人公が異なり、本筋の一族の話とどこで関わるのか分かりかねる部分もある。また、関わっているのはわかるけれど、本筋にどのような影響を及ぼすのかがわからない部分もあり。
ただ、読み終えた後に不 -
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Posted by ブクログ
ネタバレヴァージンスーサイズを見てから読んだので、おおざっぱな話や登場人物はだいたい頭に入った状態で読みました。映画のほうは女の子たちのほうにクローズアップがされていましたが、こちらは語り手である男の子たちや、映画で拾いきれなかった細かい事柄がきちんと説明されていたので個人的には原作のほうが好きです。特にクライマックス~エピローグに至るまでは小説のほうが密で、いくつもの絶望(年月の経過、街の退廃など)が重なっていき少女たちの死が覆い隠されてしまう過程がわかります。あと、映画のタイトルが何故「ヴァージンスーサイズ」であるか、ということは原作のほうが分かりやすいです。
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Posted by ブクログ
ネタバレヘビトンボが飛ぶ季節に末娘のセシリアを筆頭に次々と自殺していくリスボン家の姉妹たち。
その時のことを当時少年だった「僕ら」の視点から振り返る。
彼女たちの自殺の原因は書かれてなく、読み手も「僕ら」と一緒になって推測するしかない。
リスボン家は躾に厳しく、学校外で他人と接する機会がないため姉妹たちは周りからミステリアスで憧れの存在だった。
しかし本当は彼女たちも普通の私たちと変わらない子たち。
最初は家が厳しすぎることで将来を悲観しての自殺かと思ったが、それ以上に根本的なことかもしれない。
この世界そのものが彼女たちと合わなかったのではないだろうか?
不思議な感じで始まり、不思議な感じで終わる -
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Posted by ブクログ
1970年代、デトロイト。リスボン家五人姉妹の末っ子セシリアが、パーティー中に二階の窓から飛び降りて死んだ。町の人びとの好奇と憐憫の目に晒され、のこされた一家は少しずつ壊れていく。遂に五人姉妹の全員が死にゆくまでを執拗に見つめていた〈ぼくら〉は、中年になり青春の思い出として彼女たちを語りだす。回顧録を模して書かれた、歪んだ青春小説。
とにかく〈ぼくら〉の語り口と行動原理がキッツい!最初から最後まで「キッツ……いやキッッッツいわ……」と思いながら読み終えたのに、解説の巽孝之が語り手のヤバさに一切触れていなかったのでびっくりしてしまった。だが、「〈ぼくら〉の目を通して見たリスボン家事件の顛末」