佐々田雅子のレビュー一覧

  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    1970年代、デトロイト。リスボン家五人姉妹の末っ子セシリアが、パーティー中に二階の窓から飛び降りて死んだ。町の人びとの好奇と憐憫の目に晒され、のこされた一家は少しずつ壊れていく。遂に五人姉妹の全員が死にゆくまでを執拗に見つめていた〈ぼくら〉は、中年になり青春の思い出として彼女たちを語りだす。回顧録を模して書かれた、歪んだ青春小説。


    とにかく〈ぼくら〉の語り口と行動原理がキッツい!最初から最後まで「キッツ……いやキッッッツいわ……」と思いながら読み終えたのに、解説の巽孝之が語り手のヤバさに一切触れていなかったのでびっくりしてしまった。だが、「〈ぼくら〉の目を通して見たリスボン家事件の顛末」だということこそ、本作の肝じゃないのか。自殺した少女たちの心理に迫ることが目的の小説ではなく、ストーキングの加害者心理を描いた秀逸な小説として私は読んだ。
    〈ぼくら〉の仲間は異常である。リスボン家に招き入れられるや否や姉妹の部屋を覗き見、トイレを物色し使用済み生理ナプキンを持ち帰ろうとするヤツ。下水道からリズボン家の地下室に潜入し、奇しくも風呂場で1回目の自殺を図ったセシリアの発見者になったヤツ。〈ぼくら〉はいつも双眼鏡で、あるいはこっそり窓の下に潜んでリスボン家を覗き込んでいる。終盤にはなんと、もっと幼い頃からリズボン家を監視するための秘密基地を木の上に作っていたと明かされる。〈ぼくら〉と一人称複数を名乗るのもセシリアの日記に基づくのだが、その日記をはじめとして姉妹にまつわるあらゆるものを蒐集し、「資料」と称して見せびらかそうとする。
    五人姉妹を執拗に見つめていた〈ぼくら〉だが、当然姉妹からも見返されていたとのちにわかる。それでもなお自分たちの窃視症を棚に上げて駆け落ちの相手に選ばれたのかと勘違いする救いようのない能天気さ。彼らに対する姉妹たちの復讐は強烈だ。そして復讐の相手は〈ぼくら〉だけにとどまらないだろう。関係者のインタビューから片鱗が見ているにもかかわらず〈ぼくら〉が直視しようとしないところにこそ事の本質がある。
    姉妹たちの死亡報告書を書いたホーニッカー医師は、さらりと「家族に対するいじめ」という言葉を使っている。これはセシリアの自殺のあと、野次馬たちに囲まれた日々を指しているとも考えられるが、リスボン一家がこの町に移住してきた新参者だったことを考慮するとまた異なる角度の景色が見えてくる。越してきたのは11年前、既に末のセシリアも生まれ、五人の女の子がいる家は目立ったろう。しかも父親は地元の学校の新任教師として子どもたちとその親の噂の的だったはずだ。幼い〈ぼくら〉が基地を作ってまでリスボン家を覗こうとした好奇心はそこに端を発すると思われる。
    〈ぼくら〉の町デトロイトが移住者にどう接するかは、黒人やヨーロッパからの移民の扱いを通して間接的に描写している。こういう情報の出し方がとても上手い。ある意味では、リスボン夫妻はわざわざ越してきて11年かけて町に全てを奪われ、デトロイトに棄てられたのだとも言える。かつてラックスの恋人だったトリップの落ちぶれた中年の姿からしても、これはホワイト・トラッシュ的なものの考え方が醸造されていく町の空気感を書き写した小説なのだと思う。
    とにかく、自分たちに責任の一端があるなどとは微塵も思わず、けれども姉妹の心理を"分析"する資格はあると考えている人間の視点を貫いて書かれている。姉妹の一挙手一投足を凝視していたことの免罪符のように自分たちがまだ童貞だったこと、そして自分たちの思いを姉妹が"わかろうとしなかった"ことを強調して怒りだす〈ぼくら〉は、今で言えば完全にインセルの仲間ということになるだろう。公民権運動後のデトロイトという舞台設定を最大限に活かしながら、現代でも変わらぬ搾取構造の強烈な痛みが体に突き刺さる、完成度の高い作品だった。

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    2021年12月12日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    末娘セシリアの自殺から始まる5人姉妹の集団自殺が描かれている。預言的と書かれてあるがそこに現実批判(吟味)による倫理を読み解かなければならない。
    集団自殺だからといってタブーにすることは当然意味がない。ただ未来に向かって現実を批判する時この集団自殺を突き放して見る視点があればいいのだろうと思いました。そういう視点を得ることがこの本の良さだろうと思います。坂口安吾で言えば故郷(ふるさと)かなって、没落していく雰囲気は一瞬フォークナーっぽく感じたけど、男の子の視点というところが自己批判の甘さがあると思う。そういう設定だから別にかまわないけど。お互いに循環論証になっていて止揚できないというか批判できない部分があると思います。そこが世界文学になれるかどうかの瀬戸際のような気がします。

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    2020年09月25日
  • ニックス

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    2段組700頁越えにビビるが読み始めると意外と軽快。主人公は一発屋のさえない小説家。政治家への投石で捕まった母親の暴露本を書くため彼女の過去を調査をするうちに、意外な展開になっていく。読んでいるときは「こいつロクでもねえな」っていう人ばっかり出てくるのに、最終的にはなぜだか誰も憎くないこの不思議。人は色々な面を持ち合わせていてどれも本当の自分。同じ出来事にも色々な側面があって、どこから見るか、どこを切り取るかで全然違う。そんな基本的だけど忘れがちなことが、丁寧にあぶり出されていく。著者のブラックユーモアも好き。主人公と編集者とのやりとり笑った。

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    2019年05月31日
  • ニックス

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    私小説というわけでもないのに、作家が主人公の小説というのがけっこう多い気がする。やはり、自分のことを書くのが作家の基本なんだろうか。読者の方は、別に作家志望とかでもないだろうに、やっぱり作家が主人公の小説が好きなんだろうか。よくわからないが、小説が書けなくて、ゲームばっかりやっている大学助教授の話である。ネット環境がいいからと研究室のコンピュータで参戦するというのはどんなものだろうか。

    サミュエル・アンダーソンは大学助教授。一時期、作家を目指したが、短篇を一作完成して以来何も書いていない。今では講義の合間にネットゲームにのめり込んでいる。担当は英文学で、ハムレットを教えている。クレーマーらしき女学生にレポートの盗用を注意したところ、逆切れされて上司から叱責される破目に陥る。さらに、次作を書く契約で出版社から大金を受け取っていながら、原稿を送っていない件で訴えられかけている。

    進退窮まったところに電話がかかる。何年も前に父と自分を置いて家を出て行ったきりの母が、大統領候補者に暴行し、大騒動になっていた。電話は弁護士からで裁判所に意見書を書いてくれという。捨てられた憾みこそあれ、母を助ける義理など毛頭ないサミュエルは、今や候補者の名にちなんで「パッカー・アタッカー」という異名を持つ母の暴露本を書くことで、件の出版社との契約を果たそうと思いつく。

    取材のために再会を果たした母は過去について話そうとしない。弱ったサミュエルは、シカゴに住むゲーム仲間のポウンジを頼る。ポウンジは写真を手がかりに、当時の母の友人を探り当てる。アリスというその女性は、母の裁判を担当する判事の名前を聞くと、母を連れて即刻国を出るように警告する。どうやら相手は相当ヤバいやつらしい。アリスは、当時警官だったブラウン判事との経緯について話し始めるのだった。

    すべてが謎につつまれている。まず、たとえ短篇にせよ、次代を担う作家の一人と目される小説の書けたサミュエルが、何故それ以来ただの一本も小説を書くことができないのか。また、母はなぜ突然,夫と子を捨てて家を出て行ったのか。或いは、母はなぜ、その日偶々公園にやってきた大統領候補に砂利をぶつけることができたのか。 

    サミュエルは取材を通し、母親であるフェイ、そしてフェイの父でノルウェーからアメリカに来たフランクの過去をたどる。表題の「ニックス」とは、祖父の話に出てくるノルウェーの水の霊で、一人遊びをする子どものところに馬の姿をして現れる。子どもが馬に夢中になり、やがてその背に乗って遊ぶようになると、馬は子どもを乗せて走り出し、崖から宙空に飛び出して落ちる。子どもは岩に打ちつけられるか水底に沈む。

    祖父によればその教訓は「うますぎる話は信じるな」というものだが、フェイは「君がいちばん好きな者が、いつか君をいちばん傷つけるのよ」と、息子に話して聞かせる。これが、この小説において繰り返し現れては変奏される主題である。愛するものが自分を窮地に追い込むことになる。それは、祖父から母を通じて孫に至る、ノルウェーからついて来た幽霊の呪いなのか。ノルウェーで祖父にいったい何が起きたのか。

    探索の第一歩は、サミュエルの少年時代。ビショップとベサニーという双子の兄妹と知り合ったサミュエルは、裕福な階級に属する二人に惹かれる。兄のビショップは反抗的な少年で、教師やいじめっこには容赦をしないが、いじめられっ子には優しい少年だった。妹のベサニーはヴァイオリンの練習に余念のない美しい少女だった。サミュエルは一目で恋に落ちる。サミュエルの処女作は二人との交友を描いたものだった。

    だが、ある出来事をきっかけにビショップは町を去り、後に軍に入って戦死する。後年、成長したサミュエルは、当時反抗的な少年たちに体罰をふるっていた校長が、なぜビショップの尻を打たなかったのか、という理由に思い至る。同時にビショップが見せた奇妙な行動の意味も。友の許しを得ずに、それを書いたことをサミュエルは苦にしていた。

    一九六八年。母には別の物語があった。奨学金を得たフェイはシカゴの大学に進学しようとするも、父はそれを許さなかった。フェイは家を出て寮に入る。反戦運動真っ盛りのシカゴは勉強どころの騒ぎではなかった。隣部屋のアリスと出会い、運動の渦中に飛び込む。そこでカリスマ的な扇動者であるセバスチャンに一目惚れする。それがすべての過ちのはじまりだった。逮捕されたフェイは二度とシカゴにもどらないという約束で釈放されたのだった。

    幼い性の目覚めとプラトニックな近親相姦関係。美しい兄妹との間で疑似的な三角関係に巻き込まれるサミュエル。フェイが巻き込まれる六十年代特有の反戦運動の高まりも見過ごせない。何しろアレン・ギンズバーグ本人がフェイとセバスチャンをめあわせるのだ。ビートニクやヒッピーといったムーヴメントがヴェトナム戦争に揺れるアメリカでピークに達し、やがて崩れてゆくその波頭の軌跡を、映画的なカット・バックの手法を多用し、シカゴの長い一夜を熱く描き出す。

    児童性的虐待、反戦運動、同性愛、ナチスの侵攻、といった多様な話題を多くのエピソードにからめ、最後に一族の問題に収斂させていく。これが長編デビュー作とも思えぬ手捌きである。ただ、多くの人物の視点で語られる物語に一貫性を求めるのは難しく、一族のストーリー以外は語られっぱなしで収集しきれていない。そのためか、どこか離れた位置から人々の騒ぎを眺めているような冷めた印象を持った。サミュエルのヰタ・セクスアリスを描いた部分が清冽だっただけに、惜しい気がする。短篇をもとに長編を書く難しさが出たようだ。自分を素材にしなくなったとき、どんなものを書くのか期待したい。

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    2019年04月08日
  • ニックス

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    枝葉が肥大してともすると冗漫になっていくところはキング御大のようでもあるけれど、時代も組み込み、1人1人の個人史もしっかり描かれ、全体としては物語のうねりも作り出せていていると思う。

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    2019年03月09日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    ネタバレ

    昔購読していたファッション誌のモデルさんがおすすめしていたのを見て以来、ずっと読みたかった作品。姉妹の部屋に吊り下げられた十二宮のモビール、ブラジャーの引っ掛けられた十字架といった印象的なモチーフが次々登場し、読んでいるこちらも段々と幻惑されられていく。最初の自殺の日から放置されたままのパーティー会場で、ピニャータのように吊り下がった死体を発見するシーンは鳥肌。ぜひ映画でその映像映えを堪能したいところ。70年代アメリカのティーンエイジャーの鬱屈した生活の中で、ひたすら死に引き寄せられる姉妹と彼女らに性欲を抱きつつ助け出したいと望む「ぼくら」の対比が美しい。

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    2019年02月01日
  • 地中の記憶

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    ネタバレ

    この世界に入り込むまでちょっと時間がかかった。女が結ばれる相手で人生が決まる時代。ジュナはそれを拒んだのだろうか。男だって女を選び違えると、とんだ目にあうけど。処刑された者が地上に出てこないように、うつ伏せに埋めるって、ゾッとする慣習。死者の名誉の回復は?デイルの死に責任ある者は罰を受けたのか?

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    2018年11月22日
  • 地中の記憶

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     1936年テキサスにおけるアメリカ最後の絞首刑。実際に起きたその題材をもとに、作者は全く別の絞首刑を中心とする南部ミステリーを作り上げる。南部と言えば、ジョー・R・ランズデール、ジョン・グリシャムなどの印象が強いが、このローリー・ロイはまさにテキサスの農地に根付いた家族たちの物語を、土地に纏わる土俗的で濃密な時間や空気を書き綴る独特な筆力の持ち主である。

     ミステリとしては、衝撃度や明らかな犯罪や犯人といったわかりやすさをむしろ放棄し、物語ることの中で、敵対する隣家との緊張した空気、その中で犠牲となった少年、そして絞首刑に晒されることになる青年の真実、といったミステリ要素を次第に浮き彫りにさせてゆく。

     語り手は1952年のアニー、と1936年のサラ。アニーはサラの娘である。またアニーはジュナという霊感の強い叔母を持ち、アニー自身も霊感の強さを感じて生きる少女である。舞台となる彼らの農場はラベンダー畑。抒情性に満ちたテキサスの田舎町を舞台に、二つの時代に起こった事件は途方もなく乖離して見えるのだが、二人の娘の二つの時代の物語を通して、そこに起こる二つの家族の間に起こってきた歴史や愛憎が見えてくる。

     光に満ちたラベンダー畑と、夜の闇に包まれた隣家の謎とが、古い公開絞首刑の祭りのようなクライマックスとともに次第に別の様相を見せてくる展開と、なによりもその語り口が見事な秀作である。

     アメリカ探偵倶楽部最優秀長編賞受賞作品。翻訳年度の遅い某出版社とは比較にならぬスピードで読ませてくれる早川書房の辣腕も正直大したものである。

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    2018年01月26日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    雲霞に似た昆虫、蛇蜻蛉が湖から湧き上がって町を埋め尽くす初夏に自殺した
    リズボン家の五人姉妹について、後年、大人になった「ぼく」たちが回想し、
    それぞれが知るエピソードを繋ぎ合わせて彼女らの死の謎に迫ろうとする。

    舞台は明示されていないが、作者の故郷ミシガン州の町で、
    彼が思春期の真っ只中にいた1970年代半ば頃の設定と思われる。

    金銭トラブルや痴情の縺れによる殺人はどんな場所でも起こり得るが、
    犯人が語る動機が他人には釈然としない、不条理かつ凄惨な事件は
    ゴミゴミした場所より整然とした小ぎれいなベッドタウンで発生しやすい
    ……と述べたのは誰だったろうか。
    この小説の中では他者への暴力は描かれないが、そんな、
    岡崎京子「GIRL OF THE YEAR」(角川書店『チワワちゃん』収録)の
    主人公のモノローグで

    > そこにはショートケーキのようなウソくさい家がラブリーに建ち並んでいる

    と称されたような郊外の住宅地で、
    十代にして人生に行き詰まりを感じた少女たちが自殺していく暗澹たる物語。

    「ぼく」らは彼女らを救いたいと思い、不器用ながら手を差し伸べようとしたが、
    彼女らはそれを恐らく理解しつつ、
    「ぼく」らの手を握り返すことなく旅立ってしまった。
    「ぼく」らも彼女らと同年代の、まだ子供で、
    彼女らの苦悩を受け止めきれないことを承知していたからだろう。
    少年たちでもなく、きれいごとや理想論しか言わない大人でもなく、
    彼女らと同じ「生きづらさ」を感じながら抜け道を見つけて生き延びた、
    若干知恵をつけた少し年上の「おにいさん」「おねえさん」が近くにいて
    支えてくれていたら、こんな悲惨な事態にならずに済んだかもしれない。

    「死」以外に脱出口が見出せないほど現状が辛いなら、
    死なずにその場から逃げ出すのがベストな選択だと思うが、
    少女たちには逃亡を図ることもできなかった。
    痛ましい。

    ところで、長い時間が経って、すっかりおじさんになった「ぼく」らだが、
    思い出の中の、
    性衝動をどうにか抑えて日々を過ごしていた青臭かった時代の行動は
    なかなか気持ちが悪い(笑)。
    リズボン姉妹が使っていたバスソープの銘柄を知るや、
    同じものを買ってきて香りを確かめた(p.66)だとか、
    女の立場で言わせてもらうと「豆腐の角に頭をぶつけて××!」
    といったところ。
    五人姉妹それぞれに独立した美点を認めて好きだと思っている、というより、
    彼女らを一塊の「女(になろうとする生き物)」なるオブジェと捉えている風で、
    「十三歳の女の子だった」ことがある身として生理的に許し難い。
    現実には、こうした男子のバカさ加減と女子の頑なさが、
    ある時点で互いに軟化し、折り合って、自然な恋愛感情として発酵していくのだが。

    原題は The Virgin Suiside で、ソフィア・コッポラによって映画化された。
    機会があったら観てみたい。
    しかし、この邦題は長いが見事。

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    2017年09月26日
  • ホワイト・ジャズ

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    暗黒のLA四部作の完結編、最終作。
    なのですが、、僕はこの作品から読んでしまって一応、作品は独立して読めるものになっているものの話の筋を理解するのは、なかなか大変だったです。

    でもスピード感のある、モダンジャズのように繰り出される文体がカッコよくって、物語の筋は読めない部分も正直ありましたが、カッコいいなって感じでしたね。

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    2016年11月25日
  • 背信の都(上)

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    (上下巻を併せての評である)
    1941年12月6日。いうまでもなく日米開戦前夜のアメリカ、ロサンジェルス。日系二世の市警鑑識官アシダは、自作の写真撮影装置を取り付けたばかりのドラッグストアで強盗事件に遭遇する。現場で捜査能力の高さを見込まれたアシダはその後に起きた日本人家族四人のハラキリ事件現場にも立ち会い、捜査に深く関わっていくようになる。その直後日本海軍による真珠湾奇襲攻撃が起き、アシダの立場は極端に悪くなる。米人からは卑怯なジャップ、日系人からは親米の裏切り者という烙印を押されてしまったのだ。市警からジャップを放り出せと吼える市長。アシダは次期本部長の座を狙うパーカー警部に取り入ることで当面の危機を回避する。

    ビル・パーカーは市警改革の旗を振る切れ者だが、深刻なアルコール依存症に苦しんでいた。原因は過去の女性問題にあるらしく、妻がありながら街で金髪長身の赤毛女を見かけると振り向かずにはいられない。駆け出し時代、上司に賄賂の入った鞄運びをさせられた過去があるパーカーは署内にはびこる悪を一掃したいと考えている。規律に煩く、手を汚すことを嫌う性格は、上司や部下からは煙たがられ、"偽善者ビル”と呼ばれている。

    同じアイルランド系ながらパーカーとはウマが合わないダドリー・スミス巡査部長は、ウィンク一つで人を味方につけ、必要があれば汚い仕事も平気でやる。チャイナタウンを仕切るボスの一人とは義兄弟の契りを交わし、店の地下にある阿片窟の常連で、仕事中はベンゼドリン(覚醒剤)を常用する。ハリウッドの大物にも顔が利き、政界入りする前のJ・F・ケネディには女優を斡旋し、人気女優ベティ・デイヴィスの恋人でもある。アイルランド独立戦争時に殺された父と兄の復讐のために十六歳で英国人を殺した過去を持ち、躊躇なく人を殺す悪徳警官であるのに、犯罪捜査においては優れた捜査手腕を発揮し、アシダの好敵手となるなど一筋縄では行かない人物。

    この二人の狭間に立って翻弄されるのがアシダだ。本来なら捜査の第一線に立つことのない鑑識官でありながら、パーカーやダドリーに重用されるのをいいことに秘かに現場に侵入し、証拠品を奪うなど、アシダもかなり警察官として逸脱している。時節柄日本人に対する悪感情は常軌を逸しており、成績を挙げなければ母や兄ともども強制収容所入りになることは見えているからだ。米人からはトマトを投げられ、邦人からは唾を吐かれ、バーでは無視される、市警に唯一人残る日本人アシダの苦衷を察するに余りある。

    男たちに混じって一人気を吐くのが元ボクサーの巡査リーの愛人ケイ・レイク。優れた才能や相手を魅了する容姿をもちながら、主義や信条と無縁で、どん底の人生を歩いてきた。その才能を見込んだパーカーは、リーの犯罪の暴露をネタに、ケイに“アカの女王”と呼ばれるクレアに近づき、共産主義シンパの仲間に潜入せよと脅す。戦後を見据えているパーカーは、ケイを共産主義シンパ内のモグラに育てるつもりだった。パーカーに反撥を感じながら惹かれあうものも感じるケイは、自らすすんでその任務に就く。

    能力と資質は買いながら、あるいはそれ故に日本人を敵視するアメリカ。日本人嫌いの中国人と中国人嫌いの日本人。ヒトラーのナチズムに喝采をおくる反ユダヤやファシストのアメリカ人。太平洋戦争が勃発した時代の緊張した空気感がビンビン伝わってくる。そんな中、第五列(スパイ)を恐れ、日本人を強制収容する計画が進んでいた。空いた住宅や広大な農地を転用して濡れ手に粟の金儲けを考える男たち。イデオロギーやレイシズムを利用して資産運用を図る巨悪を暴こうとする者。計画を知り、儲け話に加わろうと考える者。犯罪のプロたちの闘いの火蓋が切って落とされる。

    大風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなったきらいがなきにしもあらず。あまりに大勢の登場人物に、誰が誰だったか巻頭に付された「主な登場人物」を参照しようとするのだが、それだけで4ページもある。名前だけ出てくる人物が重要な役割を果たしていても、あまりピンとこない。警察小説とはいっても、ミステリの一種。ちゃんと謎解きや、お定まりのどんでん返しが用意されている。何度も太字で挿入される「藤色のセーターを着た男とは誰だ?」が、それだ。分刻みの時系列で起きる同時多発事件を記述するために、作家は極端な手段をとる。まるでシナリオのような、身も蓋もないブツ切れの記述。話者の心の中で話される会話、いわゆる心内語は太字で現し、地の文に混入させる。読者は自分の頭で考える余裕を持たされず、あれよあれよという間に一気に大団円に放り込まれる仕掛けだ。

    「巻末の登場人物名鑑」を見て驚いた。事件に関係する多くの著名人が実在の人物とされているではないか。主たる登場人物であるビル・パーカーがその人。アルコール依存症に悩み、前夫人を殴打、傷害の事実に加え、汚職への関与まで書かれている。それだけではない。ラフマニノフやバーンスタインのような音楽家はいいが、映画俳優に至っては、ほとんどホモかレズビアンで、女優は実名で中絶経験を暴かれている。ハリウッドに対するオブセッションがあるのかもしれない。

    ケネディ一家の醜聞については、公然の事実とされているから、今さら書いても暴いたことにはならないのだろうが、ジャックのご乱行など、娘である駐日大使が目にしたら、いい気分ではいられまい。同じ警察小説でも、日本の場合、首相などの仮名は当然、今話題の『64』など、事件の舞台となる県名まで「D県」だ。映画に出てくる外国名も架空の国になっているのが普通だ。何かと差しさわりがあることを考えてのことかもしれないが、この種の忖度自体が諸外国と比べ異様に感じる。報道の自由度の低下が話題になっているが、表現の自由自体がもともと低いということではないか。

    切腹という儀式についての半可通な認識や、歌舞伎の面などという珍妙なものが披瀝されるのが片腹痛いが、エルロイほどの作家にして日本文化理解がこの程度なのだな、とあらためて思い知らされた。連日、素晴らしい日本を煽り立てるテレビに処方する丁度いい解毒剤となった。ただ、作家の日本人に対する姿勢はあくまでも公平で、アシダに向ける視線も正等かつ共感のこもったものである。あの時勢の中で、日本人に対する不当な扱いに対して抗議するFBI特別捜査官ウォード・リテルの存在はアメリカの良心を代表している。

    これだけでも立派な長篇小説だが、この作品、映画にもなった『LAコンフィデンシャル』を含む《暗黒のLA四部作》の前の時代を描いた《新・暗黒のLA四部作》の第一作だという。この実在の人物と虚構の人物が絶妙に交錯する濃密な世界がまだ続く、ということがうれしくなる。と同時に、未読の《暗黒のLA四部作》を読まねば、という気が起きてくる。この壮大なクロニクルの入口をくぐったからには、最後まで行くしかないか。

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    2016年07月09日
  • そして山々はこだました(下)

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    兄妹の別離で始まった物語の終末は、考えてみれば当たり前とも思えるが、兄妹の再会であった。

    だがそれは、妹と同じ名を持つ娘を(実質的に)介してのものだ。

    この娘を配したことに作者のさまざまな計算が見て取れるのだが、確かにそれは効果を上げていて、この作品に深い余韻を与えている。

    北上次郎の解説で紹介されている「君のためなら千回でも」(「カイト・ランナー」)、「千の輝く太陽」も是非読みたいと思う。

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    2015年04月07日
  • そして山々はこだました(上)

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    この作者の本を読むのは初めてで、始めはアフガニスタンの貧しい親子の話が淡々と進むのかと思ったが、その親子を軸として関係する人々のストーリーが語り手、文体、時代、場所を変えながら深掘りされていく。

    アフガニスタンの辿ってきた歴史を考えれば、そのような小説が「淡々と」したもので終わるはずはなかった。

    下巻の終わりに、この話はどこに辿りついているのか。

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    2015年04月06日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    バージンスーサイズとしてコッポラの映画を見たのが先だった。
    素晴らしく幻想的でガーリーでその自殺さえもフリルにある刺繍のひとつであるかのように描かれていて、小説はどうだったんだろうかと。

    コッポラは女性で、この小説を書いたのジェフリーは男性だった。
    アプローチとしてもそのようになっていた。
    つまるところ、これには近くとも深い断絶があり
    そのひとつが女の子と男の子のあいだにあるものだった。

    ただそれに仮託されたのが社会の断絶でもあったので
    コッポラとジェフリーが対岸から書いてもいまだ同じ作品であった。

    自殺と対極にあるのはカトリックなんだが、これはやや日本人としては捉え損なうかもしれない。
    ただ、心性として僕らも一神教的な世界に近づいているとすればこの世界における自殺と同じようにそのおぞましい求心力を感じることだろう。ただそれ自体としては潔癖であるにもかかわらず。

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    2013年10月29日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    リズボン家の5人の姉妹が自ら命をたつ1年間の物語です。20年後に、彼女らの友人のひとりが過去を振り返っていく筋立てになっています。少女たちの死を扱っていながらも不思議と深刻さが希薄で、絵画的かつ寓話的な作品です。

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    2013年04月06日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    バージンスーサイドの原作ぽいあなと思いつつ読み終わり、後書きでやっぱりと思いました。映画だとなんで自殺したか分からなかったけど、小説の方が自殺に至る経緯が分かりやすい。

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    2012年09月02日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    ネタバレ

    つかみどころがない。雰囲気とか煙みたいなものだけが漂ってる。
    「生活」を感じさせない女の子たちがただ、淡々と死んでく。
    触れんし、呼び戻すこともできんし、最初から会話できてたのかも怪しい。
    自分らには見えんものを見て、聞こえんものが聞こえてる人らに「生活」を求められん。相手してもらえない。せいぜい、終わってから気付く。
    原題は「The Virgine Suicides」やのに、ヴァージンじゃない子がでてくるけど、それが大したことではない。

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    2012年02月16日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    面白いとか面白くないとかいう感想がでてこないから読むのが大変だったけれど、
    タイトル通りの出来事を、「ぼくら」の主観と周囲の人が語ったことで淡々と描かれている、
    こういう小説が存在する、書けるのはすごいと思った。

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    2026年09月17日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    リズボン家の十代5姉妹の短い生涯の悲しい切ない物語。70年代のアメリカは恐ろしく病んでいる。
    『セシリアはこの世に順応できなかったために、あの世から呼ばれたために自殺したのだ、とぼくらは知った。いったんは放っておかれた姉たちも、あの世からセシリアが呼ぶ声を聞いたのだ、と』

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    2026年02月26日
  • ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

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    ネタバレ

    読むのは2度目だけれど映画は未鑑賞。
    両親、特に母親からの抑圧がとてもあるのに加えて、姉妹を外から眺めて賞賛する「僕ら」にも失望してたんじゃないかと思いました。セシリアの未遂の時点ならもしかすると留められたかもしれないのになぁ。
    男子側の視点過ぎました。この年齢の男子だったことがないのでちょっとわからない。。姉妹のこと何でも知ろうとするけど、直接向き合ってた人はあまり居ない。僕らのうちの誰も、姉妹を本気でこの環境から連れ出そうとする気概がない。ミセズ・リスボンの妨害なんてなんのそのでは…と思うけど、この時代の保守的な街では仕方ないかとも思いました。学生だし親の言う事は聞いとかないと。。
    映画はソフィア・コッポラ監督で女性目線での制作だから原作より寄り添えるかも…と、ますます観たくなりました。

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    2022年11月26日