あなたは、自分が何者であるかと考えたことはないでしょうか?
人は父親の精子と母親の卵子が受精することによってこの世に生を受けます。あなたにも私にも生物学的には必ず父親と母親が存在します。これは万人にとって共通です。そんな父親と母親が誰であるか、それを証明するものが『戸籍謄本』です。中学生の時だったと思いますが、生まれて初めてそんな自分自身の戸籍謄本を見る機会がありました。そして、そこに書かれている父親と母親の名前を見て、確かにこの二人と自分は繋がりを持っているんだ、と胸を撫で下ろした瞬間を今も覚えています。誰だって自分が何者であるかには興味があると思います。特に思春期はその思いが強くもなるでしょう。
ここにそんな想いの中で『高校を卒業した年こっそり自分の戸籍謄本を取ってみた』とその想いを確かめるべく具体的な行動に移した一人の女性が主人公となる物語があります。『戸籍謄本』に目をやると『父親の欄は空白』という事実を目にすることになったその女性。母親が認知症になり、『戸籍謄本』に記載のないその真実を永遠に知ることができなくなると焦るその女性。そんな女性は自らの出自を知りたいとさらに具体的な行動に動き出します。
この作品はそんな女性が自らの出自を探し求める物語。北国の雰囲気感満載な描写を堪能できる物語。そしてそれは、そんな北国の離れた街に暮らしていた二つの家族の人生が、出自を探すそんな女性の行動をきっかけに絡み合っていく様を見る物語です。
『釧路から根室へと向かう列車に揺られてい』るのは、主人公の篠塚夏紀(しのづか なつき)。『五十五歳になる母の春江とふたり暮らし』という夏紀は、『高校を卒業した年こっそり自分の戸籍謄本を取って』みるも、『父親の欄は空白』でした。『本籍は元は東京都文京区白山』という母の春江は、『書道教室を運営しながら』『夏紀を育ててき』ました。そんな春江が『厳しく技術を伝えた』ものの『夏紀の腕は街の書道教師の域を出』ない状況。しかし、『それは承知の上で母の仕事を継いでいる』という今の夏紀。そんな夏紀は、春江に『自分の捜している物が何だったかを忘れ』る症状が見られるようになり、医師に相談すると『初期の認知症であろう』と言われてしまいます。そんな中、春江が『夜更けに起き出し』、『焦点の合わない眼差しで「行かなくちゃ」と言う日が』続きます。行き先を訊くと『ルイカミサキ』と言う春江ですが、翌日になると『自分の言ったことを忘れて』いる状況。一方で新聞に載った『涙香岬におよぶ流氷の末端を…』という歌を新聞に見つけた夏紀は『ルイカミサキが涙香岬ではないか』と考えます。根室の沢井徳一という作者の連絡先を新聞社から得た夏紀は徳一に会いに根室へと赴くことにしました。場面は変わり『まだ三十分近くあるじゃないか』と徳一に文句を言いつつ駅に着いたのは徳一の息子の沢井優作。父と同じく教師となり釧路の小学校に勤めていた優作ですが、『受け持っていた児童が自殺したところで、職場へ向かう力が尽き』、妻の風美を残し単身、父が一人暮らす実家へと戻りました。『遺書はなかったがいじめの存在は感じていた』というその原因。『葬儀の席で土下座を要求され』、『度重なる電話に』疲弊し切った優作。『しばらくこっちにいるから』という一言だけで『げっそりと瘦せた息子を何も言わずに迎え入れ』てくれた徳一。そんな今の優作と徳一の前に『初めまして、篠塚夏紀です』と待ち合わせをしていた女性が現れました。『実家から歩いて十分ほどの海岸線にある』喫茶店へと移動した三人は夏紀が知りたいという『涙香岬』のことを話します。かつて『街の規模に不釣り合いなほどの歓楽街や遊郭があった』という根室で『男に捨てられた悲しみや楼主のひどい仕打ちに』、『身を投げた女も多かった』という場所でもあるという『涙香岬』の話を聞いて驚く夏紀。そして、徳一は『実際にご覧になった方がよろしいでしょう』と夏紀を『涙香岬』へと案内します。『ここが涙香岬です』という目の前の岬を見る夏紀。そんな夏紀が自らの出生の秘密を追い求める先に、まさかの真実の扉が開かれていく物語が始まりました。
2008年に、デビュー作「氷平線」に続く小説として刊行されたこの作品。「氷平線」から今に続く桜木紫乃さんの一番の魅力は文字の上に北国の光景がふっと浮かび上がってくるような絶妙な情景描写に溢れているその筆致です。この「風葬」においてもそれは顕著でありこの作品の何よりもの魅力を作り出しています。
そんな作品の冒頭に置かれたのが〈序〉という章題のついた序章です。『五月だったら、と男は思った』と始まるその序章は北国の情景を『五月ならば鮮やかな千島桜の色に少しは心も和んだかもしれない… オホーツク海と太平洋に挟まれた半島の街は、日本でいちばん遅い春を待っていた』とこの作品の舞台となる道東を象徴するかのように彼の地で有名な『千島桜』の存在をさりげなく挟みつつ北国にゆっくり訪れる春の到来を描写していきます。しかし、その中に次のような違和感のある一文がさりげなく挟まれています。『国道沿いの道にはまだ緑が少なく、中心街ではスパイクタイヤの粉塵が景色に靄をかけている』。1980年代に粉塵による健康被害が深刻化した『スパイクタイヤ』の全盛期を思わせるかのようなこの表現は、流石に北国と言っても違和感があります。それはこの序章が過去を描いたものであることを暗示してもいます。『一年前、父親が拿捕され収容先のソ連で病死』、『昨年春に拿捕された青年が抑留を終えて帰国』と、一体これはいつの時代の話なのか?と思わせる物語の中に、時代を特定させる一文を見つけました。『東京急行・新玉川線(渋谷ー二子玉川園間)開通」という見出しの躍る紙面』という一文によってこれが1977年の物語であることが特定できます。そんな物語は不穏な空気感に満ち溢れています、主人公と思われる教師は『男』という名のない人物として表現される一方で、そんな主人公が『小学校からの申し送りでは、おそらく中学に通わせる気はなかろう』と登校してこない一人の女子学生の自宅へ家庭訪問します。『新しい任地でいきなり不登校の生徒を抱えるとは』と『運の悪さを呪』う教師の男。『拿捕事件』、『密漁、密輸、マフィア』といった闇の世界の存在が北国のどんよりとした雰囲気感の中に暗示されるこの序章は、読者を一気にこの物語世界に引き摺り込んでいきます。桜木さんの物語はどの作品も北国を強く感じさせる独特な雰囲気感を纏っていますが、この作品の序章は1970年代のソ連と国境を接する道東ならではの独特な雰囲気感を持って読者に強く迫ってくるものだと思いました。
そんな物語は、第一章以降時代を大きく変えます。そんな中に、時代を特定する表現を見つけました。『母が年の初めに街を襲った震度六強の地震から精神的に脆くなった』というその一文。この作品の舞台は道東ですが、そんな道東を襲った”釧路沖地震”が発生したのが1993年1月15日。そう、物語は一気に16年という年月が経過した先の物語が描かれていきます。主人公として登場するのは、篠塚夏紀、母の春江という釧路に暮らす母娘。夏紀は、自らの出生の秘密、父親が誰かを知りたいと願うも戸籍謄本の『父親の欄は空白』。母親に訊くことも躊躇したまま今に至っていますが、そんな母親に認知症の症状が現れ始めたことから焦りを感じます。『夏紀の不安とは、母の記憶が失われてゆくことではなく、自分の出生について知る者を失うということだった』という夏紀の心の内。そんな中、母親が無意識に口に出した『ルイカミサキ』という言葉をヒントに根室にある『涙香岬』を特定し根室の地へと訪れた夏紀。一方でそこで暮らすのがもう一人の主人公でもある沢井優作、父の徳一でした。いずれも元教師という経歴を持つ二人。そんな二人は共に教師時代に教え子を亡くすという過去を持ち心に深い傷を負っています。そんな二組の親子、それまで何の繋がりも持たなかったこの二組の親子が〈序〉に描かれた過去の時代に描かれた描写の元に結びついていく物語がダイナミックに描かれていきます。夏紀の父親は誰なのか?、真相を究明しようとする優作達を付け狙うのは誰か?そして、序章でミステリーのままに終わった『十一月、彩子は死んだ』というこの作品の起点とも言える事象の真実とは?と、幾つもの謎が物語後半になって次から次へと明らかになっていきます。さまざまに張り巡らせられてきた伏線がスピードをどんどん上げて回収されていく物語後半。極めてスッキリ感のあるその伏線回収の妙に魅了される一方で、『八月に入った。年に十日ほどしかない道東の夏』、『湿原は命の源という呼ばれ方とはうらはらに、遠目で見るとまるでサバンナのようだ』、そして『不意に白い影が窓の景色に飛び込んで来た… 線路から二十メートルほど向こうに舞い降りたのは丹頂鶴だ。優雅に羽を広げ一羽、湿原に降り立った鶴の気高い姿を目の奥に刻む』といったようにどこまでも北国の大自然を感じさせる素晴らしい描写の数々が続きます。また、人物の内面描写でも母・春江の認知症を思う夏紀は『穏やかに自分を失ってゆくことを母が本当に望んだとしたら、それは命の放棄ではなく記憶の放棄だろう。そこには残酷な別れがあった』と思う場面が描かれています。桜木さんはそんな夏紀にこんな言葉を語らせます。
『命と記憶、どちらが残ってもどちらを失ってもひとはかなしい』。
なんとも深い表現。認知症の人物が登場する小説は多々読んできましたが、この感覚の描写は凄い!と思いました。
桜木紫乃さんと言えば北国の雰囲気感溢れる表現の数々が何をおいても魅力の一つです。この作品ではそんな北国をかつて襲った1970年代のソ連による漁船拿捕といった道東ならではの事象が物語の起点に描かれていました。そして時代が下った後には桜木さんならではの北国の大自然が鮮やかに描写されていきます。そして、そんな背景の前に描かれたのは二つの家族を巻き込んで展開するミステリーな物語でした。後半に向かってスピードを上げて解き明かされていくミステリーの数々、一方で読者の心に深く刻みつけられていく薄暗い雰囲気感がどこまでも後を引く物語。
「風葬」というミステリアスな書名を冠したこの作品。これぞ”桜木紫乃ワールド!”を存分に堪能させてくれる傑作だと思いました。