村上陽一郎のレビュー一覧
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村上陽一郎氏の歯に絹着せぬ物言いが好きだ。
『あらためて教養とは』は語り下ろしであった。本書は書き下ろしである。文章の端々からも氏の教養が滲み出ている。例えば、「雅味」(がみ/雅な味わい)という言葉を私は知らなかった。
氏の広範な知識を老害と捉える読者もいるだろう。よく分からないことを長々と語られたら嫌気がさすのも当然だ。しかし、若者にさえ大人が媚びる今の時代に、読者に媚びずに持論を展開する物書きも珍しい。その意味で本書は村上氏の持論に触れたい人だけが読めば良いだろう。
自分の至らなさを誰からも指摘してもらえない年齢になってしまった。もはや自分で自分を教養するしかあるまい。
ちなみに、村上氏は原稿をPCで書いていることが分かった。論文を書くことを生業にした学者だから当然ではあるが、そのためいささかペンが走っているところがあるように思った。 -
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日本の死生観の歴史、「遠い親戚症候群」、安楽死の法制化、医療リソース、新生児医療、やまゆり園事件、著者自身の体験などさまざまなことを取り上げ、死や生について書かれている。
国内外のさまざまな安楽死に関連する事件や事柄が取り上げられている。幅広い話題が拾われており、死をめぐる社会全体の今までの流れをわかりやすく捉えられそうだと思った。
技術が進歩し、分かることや出来ることが増えるたびに本人の決断が求められることとなる。一度決めたら変わらないということではないし、常に予想外はつきまとうと思うが、自分はどう生きてどう死にたいのか、家族はどう思っているのかをタブー視せず、向き合うことが大切だと思った。
引用部分になるが「死は関係のなかで成立し、関係のなかでしか成立しない事柄なのだから、人は死を権利として所有も処分もできない」小松美彦『「自己決定権」という罠』という視点も印象に残った。
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ネタバレ村上陽一郎さん編ということで思わず手に取った本。
各界で活躍する人々がそれぞれの立場で、コロナ禍とコロナ後の世界をどうとらえていらっしゃるのか、が書かれている。
やはり、村上陽一郎さんの部分が印象的に残った。
「covid19から学べること」と題して、いろんな角度から巨視的に社会で起こっていることを論じている。うまく表現できないが、スケールが大きいなぁと感じる。
以下、私なりに理解したこと。
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非常時という先が不透明で、確たる対策、選択肢もない現状で、唯一、人との接触を断つことがcovid19にとり得る我々の対策である。
しかしがながら、人との接触を断つことを徹底的に実行するには、現代社会はあまりにも移動が自由になっている。強制的な制限をしようにも私権の制限という問題も生じる。グルーバル社会構造上、人との接触を断つことは非常に困難なことになっている。
加えて、経済構造上の困難も生じている。個人の行動を制限することで、働くことができず生活ができない人々も生まれてくる。歴史を振り返ると、戦争のような非常時には国家の支援は期待できないはずなのに、国家、社会が個人が被る不利を補償せよ、との考え方も生じてきている。
科学合理的に考えれば、社会免疫が広まった方がメリットがある一方、ミクロな視点に立てば、その間、個人が犠牲になるという現実に向き合わなければならない。
社会防衛か、個人防衛か、という永遠に解けない問題があり、社会免疫が整備されるのを待つ前に、どれだけの個人防衛に力を注げるかという点が、今回の最も重要な問題。
では、将来への展望が開けず、お先真っ暗なのだろうか。「covid19から学べること」はないのか。決してそうではない。
コロナ禍を機に、生き得る実感を再認識できる。我々の生きる超高齢化社会とは、換言すれば相当数が死と隣り合わせで生きている社会であり、コロナが蔓延する中で、毎日を生きることの実感を再認識することも必要ではないか。
ニュートンを例にとるとペスト流行で故郷で蟄居している際に物理学研究の基礎を完成したという故事がある。俗にいう「創造的休暇」というものだが、社会が未曽有の危機に立たされた時に次の時代をリードする新しい目が生まれる前向きな事例で、閉塞状況によって圧伏されているエネルギーが、新しい価値の追求に向かって爆発するという事態は、歴史の中に決して少なくない。
新しいテクノロジーなど、これまであまり利用意欲のなかった高齢者がコロナを機に、一気に利用促進されたり、これまで政府が進めてきたものとは別の、新しい働き方改革も進むかもしれない。
非常事態時には、あの時、こうすべきでなかったなど、事後評価が付きまとうが、非常時だからこそベストの選択しではなく、ベターでよいという「寛容」をこの機に社会が持つことができれば、不幸中の幸いとなる。 -
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各界の第一人者が、コロナウィルスについて書いた論考をまとめたもの。
書名は「コロナ後の世界を生きる」であるが、パンデミックの比較的初期に書かれたものが多いため、むしろ、その時点での事実の整理や状況の分析を書いたものも多い。だからといってつまらないというわけではなく、考えさせられる、あるいは、面白い論考も多い。
個人的には、多和田葉子さんのものが好きだった。
多和田葉子
■新型コロナウィルス感染が広がり始めてから毎日入ってくる新しいニュースを追うだけで必死で、いつの間にか遠い未来を考えることができなくなっている。これは危険な精神状態だと思う。ニュースは現代を毎日薄切りにして投げつけてくるだけで、歴史的つながりが見えてこない。
■トランプ政権と中国の対立が深まっているとしても、それはコロナのせいではない。目に見えないウィルスが、世界の状況を見えやすくしてくれたのかもしれない。だから、パンデミックによって世界が変わってしまったというよりも、パンデミックのおかげで把握しやすくなった今の世界をわたしたちがこれからどうしたいのか、ということではないかと思う。
■コロナウィルスは少なくとも地球環境にいい影響を与えたということになる。また今回のパンデミックは、環境を重視する政策をとると、経済的にどのくらいのマイナスが出るのか、それは一般市民がひどい打撃を受けるほどひどいものなのか、それとも社会が背負っていける程度のものなのかを憶測ではなく、「実験結果」として残せるチャンスでもある。 -
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コロナ後の世界が不安でたまらない。世界的な知識人の本も刊行されているが、私の住んでいる日本の未来について考えたくて本書を紐解いた。
まとまりのない、日本らしい雑多な文書集である。24名もの人たちが、5月末ぐらいの情勢を鑑みて感想を述べている。
意外だったのは、あまり悲観的な意見がなかったことである。私は、権力に国民を制限する力を与えたのだから、これをきっかけにそれを大きくすることはあっても元に戻すことはないのではないか?と思っていた。しかし、私はひとつのことを忘れていた。私たちは、「感染症を収束させるために一時的に自ら主体的に制限を受けた」のである。その過程は公開されていた。この目的と期間を逸脱するような政府は、おそらく日本だけではなく、世界でも直ぐに淘汰されるだろう。
しかし、細かいところにはまだまだ不安もある。そして希望もある。以下、参考になったところの私的メモ。冒頭に名前と専門領域も載せる。
・高山義浩(医師)コロナの基本再生産数は1.4-2.5と試算されていて、日本人口の29-60%が免疫を獲得すれば収束にいたり、麻疹の92-94%と比べれば少ない。しかし感染力は強くないからじっくり進み僻地まで感染が進むのは数十年かかるかも。ワクチンが開発されても、死亡率の低い若者の接種率は低くなる。副反応リスクがあればなおさら。
・村上陽一郎(科学思想史)ポピュラー・センティメント(世論)を煽るデマゴーグは気になる。今度の厄災を好機に転じてウェブ上の真偽を見分ける術を人々が学ぶことができれば、と思う。
・ヤマザキマリ(漫画家)ドイツのメルケル首相のテレビ演説が称賛を受け、欧州各国の演説がすごいのは、ローマ時代からの伝統。国民は演説能力で権力者に民衆を纏める力があることを知るからだ。そのための教育が欧州ではなされてきた。日本にはない。イタリア人は、マスクをするのは病気への敗北と屈服を象徴するものと考える。だからマスクをすると偏見を受ける可能性がある。ウイルスを敵とみなしたり戦争に例えるのは旧約聖書に根付く人間至上主義的な欧州であり、融通念仏絵巻の門番に説得され、退散する物分かりの良い疫病の日本は、感染症の惨事は忘れてしまう。
・ロバート・キャンベル(日本近世・近代文学)「民度」は、1870年以降の和製単語。差別的な文脈で使われる。強さを強調するつもりが、かえって「向こう」にいる人々の不信を買い、損失を招きかねない。
・山口香(柔道家)IOC会長と安倍首相との会談でオリンピック延期が決まった時に、JOC会長の山下氏はいなかった。ホントに開催を決める時には、スポーツ界も議論に加わるべきだ。アスリートファーストと言いながら、実態はそうではない。猛暑時にしか開催できないのは何故か、決勝の時間帯が朝に設定されているのは何故か、マネーファーストだという本質に気が付きながら続けていく価値があるのか?各競技は、五輪でなければならない価値を自ら説明できなければならない。
・出口治明(人類史)全世界が直面している課題は3つ。(1)ステイホームは真っ当な政策(2)その政策が可能になるのは医療従事者、流通、食料生産者、交通・運輸の人たちか外で働いているから。彼らに感謝と支援を。(3)そして、ほとんどの人が収入減になり1番ダメージがあるのは、パートなどの社会的弱者。所得の再配分をどのように短期間で設計・実施できるか、各国で競っている。過去三度のパンデミック(ペスト・コロンブスの米大陸進出・スペイン風邪)は全てグロバリゼーションを加速し、国際協調を生み出してきた。
・杉田敦(政治学)日本の政策は、国境封鎖は遅れた。「クラスター」隔離導入。聞き込みという警察捜査的手法。緊急事態宣言。PCR検査の絞り込みは、医療崩壊回避が目的で、その後余裕ができても拡大への転換は時間を要した。外部専門家を導入しなかったのが政策の硬直化につながる。
・藻谷浩介(地域エコノミスト)筆者は「コロナで日本は変わらない」と考える。自粛が通用したのは「人より先に罹患して余計な口出しをされたくない」から。行動変容よりも、手を洗う、マスクする、室内を清潔にする、他人に触れない、近い距離での会話は慎むという昔ながらの湿気が強い島国ならではの所作が最も効果的だった。日本の今までの大変革(江戸・明治時代の始まりや戦後)は、実は伝統回帰だった。「自作農中心の村落共同体」「対外緊張回避・絶対権力者忌避」だから変わるとすれば「伝統回帰」の方向へ。通商を重視した周辺諸国との妥協と融和、女性のリーダーシップへの信頼、小さくて弱い中央政府、多極分散型国土構造、空論よりも実学重視へ。分散型経済は、今までも進んでいたが東京集中というイメージを取り払えればもっと進む。東京は、これからもリスクの高くコストの高い場所になり続ける。若者の自覚が必要だ -
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科学者の自由主義。研究を進めることだけが彼らに課された課題。
大学出身のインテリ技術者が社会の中に送り出され科学と技術の接近が加速。次第に一体化してそこに社会的価値が生じるとともに反社会的価値も生じた。一般の倫理的価値と行動規範を持ち込むべきでない?没価値的、価値中立的。
医師集団。ヒポクラテス。
致死量は誰に頼まれても投与しない。医師の立場を利用して異性と関係を結ばない。患者や家族について治療の機会を通じて知ったことは決して人に漏らさない。
苦しんでいる人のためにその才能をつかう。救いの手、助けの手を差し伸べる。そこには神の召命という意味がある。ここが医師、法曹、聖職者に異なるところ。
お金がなくても支払う「ふり」は一般の人々の敬意の証。名誉承認のしるし。
18世紀以降はヨーロッパではこれを放棄。現状では身分の高さ、金銭目的が多数。その意味で古い構造が残っているのは聖職者のみ。
本来は倫理観なるものは一人一人が心の中で自由に考えるべきであると思う。しかし、昨今多様化した価値観のためかどうもこの接触点においてコンフリクトが起こっていることが多く、それが職業倫理規定やコンプライアンス問題などとして表出するのだと思う。
ヨーロッパの発達過程では知的職業(聖職者、医師、弁護士)といわれるものは神からその役割を受託し、「困った人を滅私の精神で助けるべきもの」という倫理観が横たわっていたらしい。(医師の例に関して言えば「ヒポクラテスの誓い」など)そしてそういった背景と引き換えに社会的地位や高い報酬が与えられたというシンプルな構図だ。他のものがそうであるように初めは結構シンプルなものなのである。しかし18世紀の聖俗革命を経たヨーロッパでは社会慣習としての「神への誓約」の形式を残している場合であっても、そういった価値からは離れていることが多いし、医師や法曹家も社会的地位や収入を目的としてその職業を選ぶ人がかなりの割合になった。ここで一つ言えることは社会が複雑性を増してくると人は手段を目的とした行動をとりがちである。それは社会の全てを把握しきれるほど単純なものではなくなったためにそうせざるを得ないという部分もある。
しかし19世紀以降に出現した科学者という職業集団には初めからこの神との関わりがない。ここにおける彼らの価値観は自由主義的であり、目的は「研究をすること」、そして研究費にスポンサーが絡んでいる場合にはそのスポンサーに対する間接的責任が生じている、ということだ。しかしこれは形式上のものであることが多く、事実上は巨額の研究費をかけて研究しても責任追及されない。それは研究自体に「賭け」の要素が強いからであると思う。(アメリカのガン研究、日本の核融合研究など)というわけでポイントとしては科学者には初めから医師・法曹家とは違った行動体系をもっているということだ。
ニュートンぐらいまでの時代は(彼は科学者ではなく、哲学者「愛知者」にカテゴライズされる)キリスト教を前提とした自然探究が目標とされた。ガリレオ・ニュートンの知的活動が「科学」へと変化する過程では少なくともキリスト教的枠組みから知的営為が解放される必要があった。
大学とは何か?
本来は「知を愛する人」が行く場所であって、卒業したからと言って就職に関係ないばかりでなく、キャリア作りにほとんど意味がないものだった。それが19世紀後半から様々な仕事に就くためのライセンスを得る場所に変わり始めた。ーー旧来の知識人(医師、弁護士など)から仲間とは認めてもらえなかった。というわけでマイノリティのおきまりの行動パターン「マイノリティ同士で団結する」を発動する。(GDNA・ドイツ自然探究者医師連合、その後イギリスに飛び火BAAS、アメリカはAAAS)
19世紀半ば以降からは科学はどんどん個別化。(数学会、物理学会、.....)ここにおいて学会の会員とそうでない人間に大きな差が生まれた。会員になるために旧来の単なる「知を愛する」哲学者、アマチュアではなく「専門家」である必要が生まれた。1859年のダーウィンの『種の起源』以降は研究成果を書物の形ではなく、論文の形で世に問わなければいけなくなった。ジャーナルは「プライオリティ」確保(他人に先じて何かを発見する)という西欧的文化の名残。コペルニクスやコロンブスは自分の業績が最初ではないと明言していたものも、発表順序によってプライオリティが決まる。Something New-ism.
技術の状況?
日本においてはヨーロッパと違って技術と科学の線引きが明確。
それでここで一つの問題が生じる。キリスト教的世界観の倫理観(いわゆる教養主義)はとても人間的に素晴らしいといわれるものであると思うのだが、そこには強固に横たわる階級思想があるということだ。これがまさに社会を硬直化させて、「倫理なき」人々が「倫理なき」人々でい続けなければいけない原因であったりもする。恐ろしいことには実際その「階級と倫理観が密接に関わっている」という言説が信じられている場所では実際そういうことになっているということである。(ヨーロッパ、関西圏の保守的な場所はこれ) -
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冒頭で1999年「世界科学会議」で宣言された「科学と科学的知識の使用」について、以下の主旨が紹介されている。
1知識の進歩のための科学
2平和実現のための科学
3持続的発展のための科学
4社会のための、そして社会の中の科学
本書の後半では、特に4つ目の科学が中心の話題となっている。梅棹・湯川の『人間にとって科学とはなにか』では、1つ目の科学を中心に対する考察といえる。4この二人が対談してから約30年間を経て、これら4つの類型が整理されたことになる。
社会の中の科学を取り巻く課題は、多くそれとても深い。万人のコンセンサスを得ることは極めて難しいと予想される。それでもES細胞、脳死臓器移植問題、生殖医療といった分野の周辺の生命倫理上の課題と向き合わなければならない。わたしたちが。
個人的には、社会と科学の一つの接点として、「市民参加型技術評価」の可能性を注視していきたい。現状の政策等へのパブリックコメントの手法が成熟することを期待している。そのためには、筆者のいう「科学技術リテラシー」を身につけた人材育成が必要で、16年間の学校教育で「教養教育」を実施することが肝要となる。衆禺にならないような科学教育だ。
オマケ
先日見た映画『はやぶさ 遥かなる帰還』を見ても感じたが、日本特有の科学技術の発達のかたちとしては、まず「技術」とそれを支える「工学」が大切にされていたことが特徴とされているそうだ。他の近代国家の理学先行型とはだいぶ趣がことなることがよくわかった。 -
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ネタバレ人間にとっての「科学とは何か」という命題を問い直した本。
戦後、科学者をお茶の水博士のような「白衣の聖職者」という具合に人間社会の発展という崇高な理念だけを掲げている人々と見なす風潮があった。しかし著者は、科学は人間的な営みだと主張する。
スピノザが「神すなわち自然」、ガリレオが「自然は神が書かれた書物」と表現したように、神が作った自然=世界を説明するツールとして科学が発展した。コペルニクスの地動説も、ニュートンの万有引力の法則も元々はキリスト教の信仰から出発したものだった。厳密に言うと、近代科学はキリスト教の他、古代ギリシアやアラビアの自然学(代数、幾何学、錬金術)の影響を受けているが。
科学の世界においてはデータの集積が重要である。データというのはギリシア語の”dare(与える)”が語源であり、「与えられたもの」を意味する。
集積されたデータから理論を導き、理論から事実(fact)を作り出す行為は人為的である。そしてfactとfictionは語源("造り出す"の意)が同じというのにも驚き。
たまには、こういう科学もいいな、と思った。 -
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序章 科学的なもの、人間的なもの
1 科学についての常識的な考え方
1.帰納
2.常識的科学観の特性
2 新しい科学観のあらまし
1.文化史的観点から
2.認識論的観点から
科学理論の本というよりも、哲学の本のような気がした。
第一章で相対性理論やマルクシズムと小難しい展開でしたが、
第二章でのひっくり返し方は見事にやられてしまいました。
このひっくり返し方は、「食い逃げされてもバイトは雇うな」と『食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い』のような感じで面白かったです。第一章で後でひっくり返すと何度もおっしゃっておられましたが。
科学も所詮は人のなせる業なのですね。