松岡正剛のレビュー一覧
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「自己を固定せず、あらゆる知や経験を編集し続けることで生きる」という一貫した思想を、松岡正剛の人生を通して具体化した記録であり、思考と学びの姿勢そのものを再定義させる内容だと感じた。
共通する核は、「固定しない」「断定しない」「横断する」「編集する」という姿勢に集約される。出身地や性別といった属性を剥ぎ取り、人間を一つの「生物」として捉える視点から出発している。これは自己同一性への疑問とも重なり、「自分とは何か」を決めつけない態度につながる。その結果、自然科学への関心や、世の仕組みから学び始める感覚が育まれ、科目や分野の枠に縛られない横断的な知の扱い方が形成されていく。
さらに彼は、「遅ればせ」という独特の時間感覚を肯定し、効率や即応性よりも熟成や遅延に価値を見出した。この姿勢は、膨大な時間を思考に投下できる環境づくりとも結びつき、結果として古びない思考の耐性を生んでいる。また、コンプレックスを否定せず「できない自己」として受け入れ、「できる他人」を尊重する態度は、他者との関係性そのものを編集対象とする発想に通じる。
彼の仕事において象徴的なのは、異色の組み合わせから新たな可能性を引き出す点である。科学・文化・精神・機械といった本来分断されがちな領域をあえて混ぜ合わせ、そこに誤解や未確定性すら残すことで、新しい意味や価値を生み出していく。このとき「編集」とは単なる整理ではなく、「関係を編み直す行為」として機能している。 -
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松岡正剛(セイゴオ)氏による読書論。
筑摩書房の編集担当者が聞き手となり、セイゴオ氏から話を聞きだす形式となっている。対話形式なので、読みやすい。
語られているのは以下のようなことである。
・幼少期からの本との出会い。セイゴオ氏はどのように本と付き合ってきたか。
・どのように本を読んでいるか。
・どうすれば本をたくさん読めるか。
読書論は多岐にわたるが、『多読術』というタイトルなので、多読に関することをひとつ抜き出しておく。
書物を「良書」と「悪書」に分けるのはやめた方がいいとし、言い方を変えて次のように述べている。
理解できるかどうかわからなくとも、どんどん読む。(中略) 自分にあう本を探すより、敵ながらあっぱれだと感じるために本を読んだっていい。むしろ、そういうことをススメたい。(p76)
「いい本」にめぐりあう打率は最高でも三割五分くらい、(中略) ふつうは二割五分くらい。その打率を上げるために「駄本」を捨てるようにするべきかと言うと、むしろ三振したり、見送ったものがあるという思いが重要になる。どんどん、空振りして、相手を褒めるつもりになった方がいいんです。(p172)
つまり多読術のキモは、当たりはずれなどを気にせずに、本をどんどん読めということに尽きるのだろう。
自分に合った読書法は、結局は自分で編み出すしかない。こういう本はそのヒントになる。たくさん本を読む人に、お勧めしたい本である。 -
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「読書をする人だけがたどり着ける場所」を読み終えたところ、タイムリーにRafmonさんが「多読術」を紹介してくれていました。少し前に近所の書店で松岡正剛さん追悼の帯を見た記憶が蘇り、駆け込み購入です。
どうやって本と付き合うのか、多くの本を読む方法に止まらず、最後はデジタルVS読書についても触れられています。
その中でも「読書することは編集すること」の章は全く新しい視点だった。書き手と読み手の双方向的な相互コミュニケーションの中で「意味の交換」を成立させている。一冊の本に出会って読書をするということは、大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」や「理解のコミュニティ」でそのような体験を再現し、再生し、また想像していくということ。
読書=著者が「書くモデル」を作ったところへ読者は自分の持ち合わせているエディティングモデルを投げ縄のように投げ入れて、そこに「読むモデル」を括って自分の方へ引き上げ、何かを発見していくこと。
自分に合った読書スタイルの章
読書というのは平均的なことをするわけでは無い。自分の読中感覚をできるだけ多様にイメージする。「感読」「耽読」(読み耽る)「惜読」「愛読」「敢読」(あえて進んで読む)「氾読」「食読」「録読」「味読」「雑読」「狭読」「乱読」「吟読」「攻読」「系読」「引読」「広読」「精読」「閑読」「蛮読」「散読」「粗読」「筋読」「熟読」「逆読」
読書の未来の章は少し難しくなってきましたが、肩肘はらずにカジュアルに気分に合わせて様々な本を読む事がやがて多読につながると信じてこれからも読書ライフを楽しみます。
そうそう、カラマーゾフの兄弟は読みこなせていない自信が確信に変わりました笑
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山・道・神・風・鳥・花・仏・時・夢・月の10のキー・ワードをとりあげ、それらの概念を中核にして著者の日本文化が語られている本です。
「編集工学」という立場を提唱する著者は、自然史ないし宇宙史を、情報の編集のプロセスとして理解する発想にもとづいて、日本文化においてどのようなしかたで情報の編集がなされてきたのかということを考察しています。
「あとがき」で著者は、多くの日本文化論が日本礼讃と日本批判の両極に分かれてしまうことへの危惧を語ります。そのうえで、「いちいち“お里”を調べあうだけでは社会文化の本質は見えてはきません」と述べて、「氏」ではなく「育ち」に注目することで、あらたな日本文化論の視座を打ち出すことができるのではないかという主張を提出します。
本書では、「花鳥風月」に代表される日本文化の中核的な概念を、日本に到来するさまざまな情報を編集する方法ととらえ返すことによって、こうした日本文化論の陥ってきた隘路を打ち破り、風通しのよい議論がなされるためのフィールドを切り開いているところに、本書の大きな特徴があるように思います。 -
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第1巻に引きつづいて、ユイスマンスからマンディアルグまで、近い時代の人物たちがとりあげられています。
遊ぶように学問をたのしんだ人物といえば、哲学者の田辺元に「遊びながら哲学をしている」と評された河野与一の名前が思い浮かびますが、著者のスタンスにも同様の雰囲気が感じられます。もっとも、河野が細部を掘り下げることで、そのうちに見いだされる思いもかけないほど深い思想へと沈潜していくような傾向があったのに対し、著者のばあいは、むろんサルヴァドール・ダリのピンカール髭にことさらに注目することもありますが、どちらかといえばさまざまな思想家たちのあいだに大胆な補助線を引くことで、縦横無尽に学問の領野を跳びまわっているような印象があります。
「解説」を執筆している高山宏が、本書における著者の試みを、人類学者の山口昌男やドイツ文学者の種村季弘らのさまざまな仕事との同時代性を指摘していますが、浅田彰や中沢新一らのいわゆる「ニュー・アカデミズム」に先立ち、その展開を準備した時代の雰囲気に触れることができたように感じました。 -
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1976年から77年にかけて、雑誌『遊』(工作舎)で連載された著者の記事をまとめた本です。古今東西の作家、芸術家、科学者、思想家など、合計142人がとりあげられ、著者自身が彼らに対してどのような観点から興味をいだいているのかということが語られています。
それぞれの人物に割りあてられている紙幅がかぎられているうえに、「場所」「重力」「速度」など、著者独自の意味を込めてつかわれるいくつかの概念がじゅうぶんに説明がなされることなく登場するために、議論の内容を把握することに困難をおぼえる箇所もけっしてすくなくありませんでした。ただ、「序」で著者は「われわれはあまりに一対一の関係を好みすぎている」といい、「物質」や「機械」への着目を手がかりとして、一対一の関係から抜け出す道をさぐっているということはできるかもしれません。
最初にとりあげられているのはピタゴラスですが、そこで著者は「鉛筆の削りかたが下手だった」というエピソードを語り、粗悪品のために鉛芯が軸木からすっぽりと抜けたときに、鉛芯に「あやうさ」「フラジリティ」を感じたと述べられています。このエピソードは、鉛筆を削ることそのものに熱中したという哲学者のフッサールとの対比を連想させ、そこからさらに「主語を「私」だけだとおもいこんでいるのは危険だ」、あるいは「言葉は言葉を笑うことはできない。耳は耳を聞けない」といった、その意味がじゅうぶんに理解できないまでも読者の思索を誘発するような魅力をもつ著者の議論と関係づけて考察することへとうながされます。 -
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数学 ~意識と意識外のものをつなぐ(津田)
デジタル化で周りとの関係性「場」が失われる。
原子の速さは光の速さ、人間は1秒1m程度。租視化し、時間を圧縮。
生命はエントロピーを食べている。「自己組織化」
物語る
太古の人類は文字を持たないためナラティブ情報に 歴史を遡れるのは文字の後
少しだけ間違える 新しい意味が生成される
構成要素 ストーリー、シーン、キャラクター、ナレーター、ワールドモデル
最終状態のための初期値の選び方 抽象的な拘束条件
文字
文字の初期は音読のみ 写本の転移力 音読はリニアな展開軸 黙読は映像的
脳
記憶 情報をためる 学習と編集 視/聴/臭/体性感覚情報の統合=物語編集
神経は筋肉と同じ 負担をかけると力を発揮する
ツイッター 脳に負担をかけない
宗教
スピリットとゴースト 組織で説明できないこと 宗教で
意識
in/form 形作る →information 情報
=A-B:整えられた情報を作るために引かれた部分Bが意識 -
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第1章は源氏物語。
・紫式部の家が盛んだった祖父の代、天皇親政の時代がモデルになっている。
・光源氏の本名は語られていない。
・「うた」と「もの」による物語。「もののけ」から「もののあわれ」につながる部分はよく判らない。
・罪と愛がもののあわれ=いろごのみを発動させるという論。
まあ、広大な屋敷の東西南北に4人の女性を同居させるなんて理解し難いよ。
第2章。
「とはずがたり」。前半の華麗な男性遍歴。後半は厳島、土佐、讃岐、鎌倉、浅草まで足を運ぶ歌と仏道の道。確かに源氏物語と女西行という人生。この女性の自分語りを古文で教えたら古典嫌いも減るのでは。
「連歌」。丸谷才一さんのエッセイにも連歌を巻いていたなあ。正直、理解は覚えつかない。
「其角」。芭蕉の弟子として名前しか知らなかった。
第3章。
漱石「草枕」。若い頃に読んで、判ったような判らないような感想を持った。
近代の数寄の遁世、韜晦趣味と語られる。
こうした境地は漢文が齎したものらしい。草枕の中に詩作を葛湯に例えている部分があるという。初めはさらさらにして手応えがないが、粘りが出てきて、仕舞いには葛が先方から箸に付着してくる。
漱石の漢文の本は読んだが、全然わかっていなかった。草枕を読み直そうかな。
「幸田露伴」。ヨーロッパを必要としなかった最後の日本人とセイゴオさんは評する。娘の文さんの「おとうと」では、息子を溺愛する無力な父親にしか見えないんだが。露伴も読んでいない。
島崎藤村「夜明け前」。明治維新の王政復古の宣言を信じ、裏切られた父親を描く。そういう物語であることは知っていた。藤村は姪との不倫をまんま私小説にしたと近年、批判されていたこともあり、手を出す気にならなかったのだが。
篠田一士曰く、20世紀の10代小説のひとつ。読みかどうかは判らないけれど、覚えておこう。