伊集院光のレビュー一覧
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ネタバレこのシリーズ、まだまだ続いて欲しい笑
松尾芭蕉『おくのほそ道』
古池や蛙飛びこむ水のおと
夏草や兵どもが夢の跡
京にいても京なつかしやほととぎす
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
などなど。
解説ありきで読む方が面白そうだが、読んだ後に実際の足で旅路に足を運びたくなりそうだ。
ダニエル・デフォー『ペストの記憶』
同著者のロビンソン・クルーソーは、名前は知っているが読んだことのない作品であり、いずれ読みたいと思っていたので、その際にはペストの記憶も読みたい。コロナ禍でも怪しい検査キットやサプリメントが売られていたが、ペストでも様々な謳い文句の薬が売られていた。
本書で伊集院氏は、戦時中は戦前の落語がいくつかなかったことにされ、戦後には戦時中の落語がなかったことにされる。不謹慎であったり、国威発揚的な内容もあるため。〜と引き合いに出しており、共感した。
コッローディ『ピノッキオの冒険』
以前、読んだことのある作品だった。
ディズニー映画とは異なり、人間くさいというか、現実の貧しさや主人公も気まぐれな人間らしい精神の人形であり、特にコオロギをさっさと殺してしまう場面は衝撃だった記憶がある。
新聞連載の作品なので、途中でピノキオは死んでしまった描写があったが、実は著者の借金分稼ぎ終え、もうこの話も書く必要がなくなったと思い〆ようとしたものの、読者からの要望で続いたという話や、ジェッペット自身が結構問題のありそうな人間であったり、クジラに呑み込まれるのは人形作りなんてやってられなくなった産業革命で会社に取り込まれ、貨物船もクジラに呑み込まれたため食料などに困ることはなく、むしろ以前の貧乏生活よりランクアップしているということで、自由はきかなくなったが食べ物に困らない(稼ぐことは出来る)という比喩である話など、面白かった。 -
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カフカ『変身』
元々好きな話だったが、もっと愛着が湧いた。
虫けらは自分であり、下手に妹が認めてしまったものだから、変わる機会を失ってしまった。
柳田国男『遠野物語』
いくつか引用を読んで面白かったが、やはり原文のままだと理解しにくく、解説付きのもので読んでみたくなった。ネットのまとめサイトのようだと表現していたが、そういわれると敷居の高さを感じず、より気軽に手を出せるように思う。
神谷美恵子『生きがいについて』
引用「人間が最も生きがいを感じるのは、自分のしたいと思うことと義務とが一致したときだ」
若松「〜生きがいは徹底的に質的なもの〜金銭や権力といった量的なものと関係し始めたら、それはもう、真の意味での生きがいではない。〜量的に比較しても何の意味もない。そして生きがいの発見とは、いつか行わなくてはならない人生の宿題でもある。」
伊集院「これに長い時間を割けないから生きがいとしては弱いな、みたいな考え方はおかしいわけですね」
上記の部分が特に印象的だった。
近年は“生きがい“という言葉の使い方がおかしく、押し付けがましくなっている。大学や企業が人間を人材と表現し、働くことが生きがい、そうゆう人間を増やそうと若者に押し付け、若者も求められる人材になろうと、枠にとらわれる。 -
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ネタバレ【名著と名著の著者たちのお話】
この本では、カフカの『変身』、柳田国男の『遠野物語』、そしてちょうど先日読んだ神谷美恵子さんの『生きがいについて』の3冊について紹介されていた。
NHKの『100分de名著』を昔よく見ていて、カフカの回も見ていたから、思い出した。
『変身』は、番組を見た後に一度読んでいて、『遠野物語』は読んだことなくて、ネット上の「まとめサイト」みたいな本と話されていて、少し親しみを感じられた。
『生きがいについて』は、著者自身の状況についても紹介されていて、知らなかったのでなんだか新たな視点で読んだ本について省みたりした。この本を書くのにも何十年もかかった、自叙伝みたいなものだと紹介されていた。そして、調査・観察の対象である患者さんとの関係にも意識的であったこと、それが自分との関係性でもあったことも興味深かった。
それ以外にも、焦らされる社会で「待つ」という能動的行動について話されていたり、そこでギアを調整することー価値体系をずらす、価値基準を新たにすることをコロナの経験に照らし合わせていたり。死者との関係ー死生観、生き残っている人が亡くなった人のいのちを「生み直す」という視点は印象深かった。
「生きがい」を自分で読んだ時に、自己実現や表現について書かれていたところで、自分について唯一無二のかたちで人に伝え、受け取られることって自分の存在意義を確かめるうえで大事だなーとあらためて思ったりしていたけれど、この本のなかでは、「表現」と「体現」の違いについて話されていた。
対談者の若松英輔さんいわく、
—「生きがい」は情報化できない。別な言い方をすれば、「表現」に向いていなくて、むしろ「体現されることが多い。
らしい。
—現代は「表現」が重んじられる時代です。極端にいえば、信じていないことでもうまく表現することは可能です。そしてそれが評価されたりもする。しかし「体現」は、それまでその人が生きてきたものが現れてくる。…ハウツーの世界にあるのは、「体現」から切り離された「表現」だけ…」
コミュニケーション能力、言語化能力が強かったり、得意だったりする人もいるし、それができないよりできるほうがいいなーと思ったり。
でもそれは、一方で、少し順番が逆な場合もあるのかな。
相手の欲していることをうまく伝える、それは職業上求められることかもしれないけれど、人生トータルにおいて一番優先すべきことはたぶん、自分の価値観に基づいて、それをどう実現していくか。そのために、私たちは人と関わり、助けたり、力になることを欲するのだと思ったり。
論理的で実践的なハウツー本よりも、フィクションだけど具体的に生きているような人間のストーリーが描かれる小説が読みたくなったりする。それぞれが違って、そんな人物の生き様に心を動かされる。これもなにかつながっている気がした。生き方を通して、どう自分を体現するのか、一人の人物像があって、これまでとこれからがあって、それで今何をするのか、を問いながらみんな生きているのかもしれない。 -
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伊集院さんは、スピーディーな笑いに知性あるワードセンスが隠されていていつも驚かされる。活字で読むとなおさら光って見える。伊集院だけに。(知性なし)
さてと、カフカという偉人については名前しか知らず、柳田國男は民俗学者で自分に火をつけた人。神谷恵美子さんは、、知らなかった。このひどい有様。
それでも面白く読めたのは、伊集院さんが絶妙な比喩やエピソードをあててくるおかげだろう。ひどい有様の私でも噛み砕き方がちょうど良い。セーフティネット。
「(100分de名著の話で)アナウンサーだとそういうことは言えない。ボクなら無知をさらけ出せるんですよ」
自分もそうありたい。未知との遭遇ならぬ、無知との遭遇とは上手すぎるもん。知りませんと言った後の、相手のリアクションを楽しむくらいには余裕をもちたいな。 -
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ネタバレ伊集院 『ピノッキオの冒険』を読んで、落語に近いなと感じたんです。
落語が描く江戸って、理屈の世の中じゃあない。現代に比べると、全然、デオドラント(脱臭)も整理整頓もされていない。憎み合っているのか仲がいいのかという境や、善人なのか悪人なのか境目がはっきりしない人たちが出てきます。たとえば、
「おい、くたばりぞこない、まだ生きてやがったか、しばらく鼻の頭見せねえから、ついにくたばったかと思ったよ、香典出すのが惜しいから、ボケたついでにしばらく死ぬのも忘れちまえ」
などと言う。こういう江戸っ子の温かみを含んだような口の悪さと、無知で間抜けな長屋の住人の与太郎が絡むと落語のリズムができあがるんですが、まさに、ピノッキオもかなり無知で間抜けで……。とにかく読んでいてとても心地いいんですよね。
ピノッキオ落語説、無理やり過ぎますかね?
和田 とても的確だと思います。『ピノッキオの冒険』は、物語を組み立てるうえで非常に大切なスピード感を一貫して保っている。
物語の速さやテンポを保つのって簡単じゃない。スピードを出しても読者がついてこられるようにしなければなれないし、物語の筋が脱線しないやり方で運んでいかなければいけない。それは相当技量がないとできません。
伊集院 そして落語的なのが、斜に構えたというかひねくれたというか、物語の書き出しです。これがとてもいい(笑)。
昔むかしあるところに……
「ひとりの王さまがいたんだ!」わたしたちの小さな読者たちはきっとすぐに言うに違いない。
「いいえ、みなさん、それはまちがいです。昔むかしあるところに、まるたんぼうが一本、あったのです」(和田忠彦訳、以下同)
「よくあるベタな童話なんて読みたくないでしょ」という作者のメッセージがいきなりきますよね。
ラジオの深夜放送も、こういうひねくれ方をリスナーと共有します。「テレビだったらこうくるけれども、そんな建前は飽き飽きでしょ」ってな感じで。
そういうことができるのは、自分に付き合ってくれる人がいると信じているからです。これに対して、普通の話に飽き飽きしている人たちが「わかってるねぇ、面白そうだな」って感じてくれると思うんです。
伊集院 和田先生は、主人公のピノッキオと作者のコッローディに重なるところがあるとおっしゃっていましたね。
それを聞いたうえで読んでいくと、コッローディは、物語を書くなかでピノッキオを育てながら、コッローディ自身も育っていったような感じがします。ピノッキオが改心しても改心しても、欲や好奇心を抑えられずにやらかしてしまう。破滅寸前のピノッキオを救済するときに、作者自身も救われたり、どうすればよいのか学んだり。
まるでピノッキオを書くことが作者のセルフカウンセリングになっているような印象を受けるんです。ピノッキオの物語が予測不可能で面白いのは、作者自身が不安定だからだと思います。
伊集院 児童書で書いてよいのはこれくらい、なんて思っている連中に「これでも喰らえ!」って爆弾を投げかけているようです。
僕が中学生くらいのとき、ビートたけしさんがテレビやラジオに現れて、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいなことを言い出したときも、やっぱり「これでも喰らえ!」と感じました。
世間が建前で埋めつくされるようになると、そういう人が現れて、人気をさらっていく。たけしさんもおそらく複雑な環境で生きてきているから、当たり前の建前がくそつまんないことがわかっているんですよね。
和田 実際われわれが生きている人生って、そんなわかりやすい道徳で割り切れるようなものでは到底ありませんよね。