伊集院 『ピノッキオの冒険』を読んで、落語に近いなと感じたんです。
落語が描く江戸って、理屈の世の中じゃあない。現代に比べると、全然、デオドラント(脱臭)も整理整頓もされていない。憎み合っているのか仲がいいのかという境や、善人なのか悪人なのか境目がはっきりしない人たちが出てきます。たとえば、
「おい、くたばりぞこない、まだ生きてやがったか、しばらく鼻の頭見せねえから、ついにくたばったかと思ったよ、香典出すのが惜しいから、ボケたついでにしばらく死ぬのも忘れちまえ」
などと言う。こういう江戸っ子の温かみを含んだような口の悪さと、無知で間抜けな長屋の住人の与太郎が絡むと落語のリズムができあがるんですが、まさに、ピノッキオもかなり無知で間抜けで……。とにかく読んでいてとても心地いいんですよね。
ピノッキオ落語説、無理やり過ぎますかね?
和田 とても的確だと思います。『ピノッキオの冒険』は、物語を組み立てるうえで非常に大切なスピード感を一貫して保っている。
物語の速さやテンポを保つのって簡単じゃない。スピードを出しても読者がついてこられるようにしなければなれないし、物語の筋が脱線しないやり方で運んでいかなければいけない。それは相当技量がないとできません。
伊集院 そして落語的なのが、斜に構えたというかひねくれたというか、物語の書き出しです。これがとてもいい(笑)。
昔むかしあるところに……
「ひとりの王さまがいたんだ!」わたしたちの小さな読者たちはきっとすぐに言うに違いない。
「いいえ、みなさん、それはまちがいです。昔むかしあるところに、まるたんぼうが一本、あったのです」(和田忠彦訳、以下同)
「よくあるベタな童話なんて読みたくないでしょ」という作者のメッセージがいきなりきますよね。
ラジオの深夜放送も、こういうひねくれ方をリスナーと共有します。「テレビだったらこうくるけれども、そんな建前は飽き飽きでしょ」ってな感じで。
そういうことができるのは、自分に付き合ってくれる人がいると信じているからです。これに対して、普通の話に飽き飽きしている人たちが「わかってるねぇ、面白そうだな」って感じてくれると思うんです。
伊集院 和田先生は、主人公のピノッキオと作者のコッローディに重なるところがあるとおっしゃっていましたね。
それを聞いたうえで読んでいくと、コッローディは、物語を書くなかでピノッキオを育てながら、コッローディ自身も育っていったような感じがします。ピノッキオが改心しても改心しても、欲や好奇心を抑えられずにやらかしてしまう。破滅寸前のピノッキオを救済するときに、作者自身も救われたり、どうすればよいのか学んだり。
まるでピノッキオを書くことが作者のセルフカウンセリングになっているような印象を受けるんです。ピノッキオの物語が予測不可能で面白いのは、作者自身が不安定だからだと思います。
伊集院 児童書で書いてよいのはこれくらい、なんて思っている連中に「これでも喰らえ!」って爆弾を投げかけているようです。
僕が中学生くらいのとき、ビートたけしさんがテレビやラジオに現れて、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいなことを言い出したときも、やっぱり「これでも喰らえ!」と感じました。
世間が建前で埋めつくされるようになると、そういう人が現れて、人気をさらっていく。たけしさんもおそらく複雑な環境で生きてきているから、当たり前の建前がくそつまんないことがわかっているんですよね。
和田 実際われわれが生きている人生って、そんなわかりやすい道徳で割り切れるようなものでは到底ありませんよね。