伊集院光のレビュー一覧
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自由律俳句。
某自由律俳句で有名な方の作品を読んで
「あ、これ合わんやつ」
って思って避けてたジャンル。
だけど、この本の自由律俳句たちはすごく素直に読めて、共感できるものもあったりして。
どれも、思わず口をついて出たような、ぼーっとしてる時に思わず浮かんだような、とっさに出ちゃった一言のような、そんな言葉で、それがすごく心と頭に入ってくる。
どうしよう、どれも分かる。どれも好き。
パーソナリティの方たちのごくごく普通の感覚も良い。
ちなみにタイトルの「次の角を曲がったら…」を読んで。私は「何かを言いそびれて話すタイミングをうかがっている」って感じではなく本当にそのまんま「次の角を曲がったら話そう」って思ってるだけのシーンが浮かぶ。
例えば、学校帰り。皆がバラバラと似たような方向へ歩くうちだんだん人数が減っていって、次の角を曲がるのは私とこの子だけ。何の話か分からないけど「あ、そうだ。次の角曲がって2人になったら、あのことを聞いてみよっかな」。
…みたいな。
これは長女と話しながら読んだら面白そうな本。
良い本を見つけられて嬉しい!
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Posted by ブクログ
ネタバレとても読みやすく、そして面白くて2日で読んじゃいました。「100分de」での伊集院さんが全く読んでないのにあんなに的確な質問できることにビックリ。むしろまっさらだからできる純粋な疑問なのかもしれないけど。私にはできない。
今回はちゃんと読んでから改めて名著対談ということでしたが、もちろん的確だし、目の付け所がさすがです。
松尾芭蕉の
むざんやな 兜の下の きりぎりす
は印象に残った。
ピノッキオで和田先生が
「意思を持ったあやつり人形であるピノッキオは、わたしたち人間を体現しているように思えてならない」という言葉が印象的でした。
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Posted by ブクログ
シリーズ前著もすごく面白かったので、今回もほくほくと読み始めた。『奥の細道』『ペストの記憶』『ピノッキオの冒険』が扱われている。まず選ばれた作品に対して、それが来るの?と思った。『ペストの記憶』はまあ、世相というものがあって、選ばれても納得。でも、後の二冊は?
『奥の細道』は、諄々と語りをつなぐようでいて、ここぞというところに短詩型で、ぐっとフォーカスして切り取った、心動いたものを提示する。それは、タレントとしての伊集院さんの達者な語りの中に、ここを聞かせたい!(あるいは効かせたい!)と思ったところを、ぐっとパッショネイトな『盛った』表現をするのと似ているのかもしれない。『あとがき』に、芭蕉の句碑の前で、故・円楽師匠のために号泣なさったとあるから、楽しい普段の語り口とは別に、伊集院さんの中にある、閑とした心境、深い静けさというか…情の熱さと賢明さの交差する部分にも響いたのだろう。
『ピノッキオの冒険』については、読まずにおとなになり、ディズニー映画も好きでなく来た私であるので、本当に何も知らず、この本で概要を知ったていたらくである。対照される『クオレ 愛の学校』も同様に読んでいない。こちらは、なんとなくタイトルが虫が好かなかった。子供時代から、ひねくれたガキンチョであったのだ。手元にあったのに、読まずにお友達にあげてしまった。
ただ、鮮明に覚えているのは、灰谷健次郎さんが、ご著書のエッセイ(『島へゆく』か『島で暮らす』のいずれかであったと思う。母の蔵書にあったものを読んだのだが、なんとも記憶が定かでない。)で、『クオレ』を、非常に差別的であり、貧しい悪行の少年とされる人物の、いかにも悪く性根の汚げな描写と、主人公の裕福で曇りない、方正な描写が対照的で、こどもに本当に心を寄せた文学ではない、という趣旨の批判をしていらしたこと。大変舌鋒鋭く、憤懣やるかたないという印象を、初読の時から強く持った。今回この『名著の話』でも、『クオレ』には、なかなか厳しい批評が加えられている。しかし、興味深いことに、指南役の和田忠彦氏は、『クオーレ』の岩波文庫版をも訳しておられるのだ。これは、すごく興味深い指摘ではないか。ふたつの作品の何が、どう違うのか。どこが評価されて両者読みつがれてきたのか。あなたは、知りたいとお思いには、ならないだろうか?
読書案内の本というのは、とにもかくにも、紹介した本を読む気にさせてなんぼである。高尚である必要もないし、小難しい必要もない。出会ったその本に寄って行って、ためつすがめつ、その率直な結果を、面白く伝えてくれることが一番の使命である。その意味でこのシリーズ、楽しくて楽しくてたまらない。そして出てきた本はことごとく、読みたくなるのだ。自分がえらそうにここで色々書いてるけど、名著を死ぬまでに何冊友だちにできるか。解っていない本がたんとあるのが、こんなに嬉しくなるなんて。いいのかしら。いや、いいのだ。最高のお楽しみが、まだまだ私を待っている。早く次のシリーズが出ないかなあ? -
Posted by ブクログ
「100分de名著」ホスト役の、伊集院光さんと、番組でそれぞれの回に解説者として出演しておられた専門家の事後対談集。取り上げているのは次の三作品。
フランツ・カフカ『変身』
柳田国男『遠野物語』
神谷美恵子『生きがいについて』
共通して見えてくるのは、行き場のない者、出来ることを奪われた者の、その先にある『生きることの問い直し』のように思う。この本については、まず、番組を配信で見直すか、題材になった本をよむのが良い。しかし、それも大変…ということなら、全く知らぬまま、読まぬままより、
「この有名な作品は、こういう内容だったのか。ふうん。」
という感じで、刺さったものだけでもお手に取られると良いと思う。実際私は、『変身』は再読。『遠野物語』は、今はピンとこなくて、『生きがいについて』は初読。明日、カフカと神谷美恵子を借りに行く。柳田を放っておいて良いわけではないが、興味が湧かないものは致し方ない。ただ、人間何がいつ刺さって読み時になるか分からないから、サラッとでも知っておくのが大事。何も知らず、敷居が高いままだと、興味を持つこともないまま過ぎる。読書案内って、成果を求めるんじゃなく、ぱらぱらっと自分の内側に花の種を撒くようなものだ。花じゃなく竹とか生えてきても、それでいい。芽が出なくとも、それはそれで意味があるのだ。
各回の解説担当者の方も、伊集院さんも、番組以上にご自身に作品を近づけて語ってらっしゃるので、自分が読んだ時には、全く違う解釈鑑賞がでてくるかもしれない。でも、良いと思っている。
カフカの主人公、グレゴール・ザムザがりんごを投げつけられる意味も、アダムのりんごのように性的なメタファーだと読む説も紹介されていたが、それでは収まりきらないという。私自身は、あれは、虫になったザムザに対する、人間界、一般社会からの追放を意味するのだと読んだ。りんごは知恵の実。知恵があるから人は人足りうる。その知恵を凶器にされて大怪我を負うのは、まるで「もうお前はこの世界の住人ではない」と、知恵を剥奪されているように見える。
実際は彼の内面は、人のままなのに。周囲にとって『虫に変容してしまった人』から『ただの虫』にされてしまった、決定的瞬間だ。りんごをぶつけられるまでは、ザムザは虫の姿をしていても、人間だった。人間でなく虫なら、知恵も思考もいらないもの。叩き潰していい。そんな無言の理屈が成り立った時、ザムザは一家から排除されてしまう。事実あれ以降彼は忘れられ、衰えてゆく。
一方、神谷美恵子の存在した場所。一身を捧げた場所もまた、そこに行く前と後で、人生の色合いを強制的に変えられてしまう場所だった。らい病患者の方々の療養所。神谷自身は患者ではなく、外からの来訪者だった。
旧来、正しい知識や有効な治療法が理解されず、苦しむ方の多かったらい病。その療養所にあって、患者の方々が、どうご自身のこころを守り、日々を生きたか。
どちらの作品も、『自ら望んだ人生の変化ではない』のに、それを自分で引き受けてゆかざるを得ない状態が描かれている。ザムザは、虫になっても仕事が気になる。どこまでもこころは人間だからだ。実在の闘病する方々は、言うに及ばない。失うことの多い中、こころは確かに社会に在るままだ。
私達が、この生きづらい日々を切り抜けていく時、その描かれた有り様から、何を感じ、すくい取ることができるだろう。原典を読んでみようと思い至ったのは、こんなことをぽつぽつと考えたからだ。コロナ禍にしても、重い病や生活苦にしても、気がつけば捻れてしまった心にしても、懸命に生きているのに、まるでりんごが虫の殻を破るように、不意に私達を押しつぶす時がある。そこで、そのままになるか、ゼロ、いやマイナスからでも、新しい思慮によって生き直せるか。
本を読んだからとて、飛んできたりんごが、どくわけではないが、ついた傷に自ら手を添え
「まだ、もうちょっと。」
と言えるのか。何かの価値観の変換がないと、ひとりで生き方のギアを変えるのは難しい。そこのところを変える伴走者、渇ける人の隣を流れる伏水には、どの本もなってくれそうだ。
それと、余談であるが、このご本の中に、故・井上洋治先生の事が述べられている。若松先生は、井上先生に師事しておられたとか。道理で若松先生のお話ぶり、書かれる言葉が懐かしく、慕わしいはずである。ずっと、
「どなたを思い出すのかしら?」
と思っていた。井上先生だった。18歳からはたちの、まだ心のやわらかな時に、キリスト教学や人間学のお授業を受けた。いつも、誰に対しても、声を荒らげたり、不快な顔をなさったことのない先生で、慈しみに満ちた笑顔で学生に接してくださっていた。出席票の裏をコメントペーパーにして提出するのだが、どんな意見を記しても、そのお声の温かさは変わることなく、誰にも真摯に向き合ってくださっていた。
その頃は、何も思わずご一緒させて頂いたが、この歳になって、自分が新たに病を得たり、家族の支えにならなければいけない時、ふと先生のお講義を思い出すことがある。あのように接しなくては、と。自分のことや、ちいさな家の中の出来事など、コップの水の乱れのようなものだけれど、考えるのだ。
『投げ出してはいけませんよ』
と、きっとおっしゃるだろうと、自分にもう一度力をつける。不肖の学生で、当時ご心配もたくさんきっとかけた気がする。井上先生お一方だけでなく、あの頃出会ってくださった先生方に、それぞれ勉強だけでなく、普段から学ばせて頂いていた。感謝しかない。こんなところで思い出深い方と再会させていただけるとは……。
生きているのも、いいものである。