呉明益のレビュー一覧
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ネタバレ巨大迷路のような中華市場、屋上には鮮やかなネオン塔が光り、幾つもの棟を結ぶ歩道橋には魔術師が立っている…。昭和レトロならぬ台湾レトロを感じさせてくれる短編集。短編とは言え同時期に中華市場に住む子ども達の話という共通点があり、同じ登場人物が出てきたりでまるで一冊の中編小説を読んでいるよう。魔術師が気まぐれに見せる魔法は子ども達の心に残り続け、成長した後も時に生きる希望となり、時に死の原因となる。
台湾本国でドラマ化してるんですね、これ。セットで中華市場を完全再現したらしく、すごく観たいんですがローカライズもないし日本で観るのは無理そうで残念。予告編だけでも本書とあわせて観ると雰囲気が味わえていいかと思う。 -
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雨が降らなくなってしまったために、餌となる虫を食べられなくなってしまった知り合いの鳥「胖胖」のために語った、とされる六つの物語が入った長編小説。
人とうまくコミュニケーションを取れないミミズ研究者と鳥類行動学者。恋人を失ったツリークライマーと、無差別殺人で妻を失った弁護士。絶滅したクロマグロを探す男と、囚われた虎を解放しようとした青年。それぞれの物語では、対になる似た傷を負った人たちの傷が癒されるまでが語られる。
プロローグでは、雨が多かった島に、雨が降らなくなってしまったことで、畑が死にかけていることが語られる。そのため、この物語において雨は、命を救う恵みの雨として描かれる。
「雲は高度二千メートルに」では、妻を失った弁護士が、妻の書きかけた小説の続きを自ら書くことを決意する。「それは雲の上の雨で、雨の上の雨、往時が化した雨だった」という小説の終わりは、どことなく未来へと繋がる明るさを持っていて、好きだった。
一番印象的だったのは「アイスシールドの森」だった。ツリークライマーだった恋人が、木から転落したことで植物人間になってしまったことに負い目を感じる主人公は、高所恐怖症でありながら、自分も恋人と同じツリークライマーとなる。植物人間となってしまった恋人を、再び木の上に吊り上げ、一緒に過ごすラストが、とても印象的だった。
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ネタバレぼくの父は、兄の高校の合格発表の時、ぼくを小児科に連れて行った時と自転車を無くし、最後は幸福印の自転車と共に失踪した。古い自転車を集め、部品を集めて修理するぼくは、失踪した父の自転車と再会する。その持ち主にたどり着くまでの人々の歴史、その人々と自転車との歴史は、チョウを工芸品にして生きる人々と、ビルマやマレーシアでの太平洋戦争でジャングルの中を彷徨う人々と、戦争に巻き込まれるゾウや動物たちと動物を愛する人々と、話がつながっていく。
話が広がりすぎて、誰が誰と繋がっているのか追うのが大変だったので、人物関係を整理しながら読み直したい。ものすごく広がった物語が関連しあって収束していく、物語の回収の仕方がすごい。
キーワードは「時間」だと思う。古い自転車を塗り直し新しいものに変えてしまうのは、その自転車の時間の継承を断ち切るものだ、とナツさんは言う。廃品やゴミのようなものを回収する古道具のコレクターのアブーも、はるか昔にバスアが埋めた自転車を抱き込んで大樹となったガジュマルも、時間の積み重ねを大事にしている。ガジュマルのまわりには人の魂が寄ってくると沖縄で聞いた気がするが、一つのものに込められた人の魂、歴史、思いを、掬い上げる小説、と言う気がした。「哀悼さえ許されぬ時代」に。ゆっくり読み返したい。 -
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台湾作家による幻想文学。
作者はガルシア=マルケスが好きなようで本の最初に言葉が引用されている。
この短編集は、実際に台湾にあった「中華商場」という商業施設にに住む人々の人生の喜怒哀楽が書き記されている。商場には八つの棟があり、歩道橋で繋がっていた。歩道橋にはマジックを見せていた「歩道橋の魔術師」がいた。
ここに出てくる登場人物たちの現実はなかなか厳しい。死んだり事故にあったりする人も多い。そんな現実にふと摩訶不思議が顕れる。あまりにもさりげないので不思議とも感じないような不思議。もうなくなった商場に、もう会わなくなった人々。
色々なものが人生を通り過ぎたが、今は自分は歩いている、厳しいような寂しいような印象がする。
『歩道橋の魔術師』
商場には八つの棟があり、歩道橋で繋がっていた。
ぼくは子供の頃に歩道橋で商売をしていた。ぼくの斜め前で商売していたのが「魔術師」だ。
人の心を読み、無いところからものを取り出し、あるものを消してしまう。
でも一番素晴らしかったのは、黒い紙を切り取った小人が命を吹き込まれて踊りだすことだった!
『九十九階』
子供のころトムとマークは親友だった。ある時マークが消えた。
数ヶ月後、消えたときと同じようにいきなり戻ってきたマークはトムにだけ秘密を教える。
…これはなんとも目に浮かぶような幻術的な。
<世界はこんなに美しい。でもあのころのふたりはそれを知らなかった。世界はこんなに悲しい。でもあのころの二人はそれを知らなかった。P32>
『石獅子は覚えている』
お宮の石獅子の口に手を入れた従兄弟のいたずら小僧は死んでしまった。
ではぼくはなぜ生きているのだろう?石獅子はぼくの夢に訪ねてきたというのに。
『ギラギラと照りつける道にゾウがいた』
アルバイトのきぐるみのゾウを着ていると、知っている人が次々現れるんだ。
ぼくの顔はゾウだから相手にはわからない。でもぼくにはわかるんだ。
『ギター弾きの恋』
ぼくは子供の頃に、近所のお姉さんと、そのボーイフレンドの間を取り持っていたんだ。
ぼくもお姉さんに憧れていたから跡をつけるのは自分の興味でもあったけどね。
二人は死んだ。商場のみんな見てきたような噂を流すんだ。
『金魚』
人との関わりを避けていたが、娼婦の百合のことはなんだか気に入った。
彼女のところに通っていたら、商場のころに付き合いのあったテレサと再会した。
テレサ。大人びて虐められていたテレサ。急に姿を消したテレサ。
<ぼくのくだらない、いい加減な人生の中で、やっと一つ残すものを見つけた、たとえ氷のように溶けてしまっても、それはきっと水となって、どこかに残り続けるだろう。P138>
『鳥を飼う』
鳥を飼いたかったの。お母さんに内緒でこっそり買った小鳥はネズミにかじられてしまったし、そのあと飼った小鳥たちも猫やネズミにやられてしまった。
私は泣いて泣いて泣いて。そんな時に歩道橋の魔術師のマジックを見たの。時を止めて、戻して、先に進めるマジックを。
『唐さんの仕立て屋』
兄貴の店の屋根裏に猫が住み着いたらしい。兄貴には懐いているが、同じ声の僕には姿を見せない。
僕は兄貴に聞いた。仕立て屋の唐さんの家に住み着いていた猫の事を覚えている?
『光は流れる水のように』
この題名はガルシア=マルケスの短編「光は水のよう」からとったのでしょうか。
ここで書かれた幻想は、この短編集の不思議のなかでもひときわ印象的で美しく刹那的です。
『レインツリーの魔術師』
ラオスに出張に行ったときに、紙の黒い小人を操る男を見た。君は魔術師かい?
ぼくは子供の頃に商場にいた魔術師のことを思い出す。昔の友達にあって彼のことを聞いた。
もう商場は解体されて無くなった。死んだり出ていったりした人たちもたくさんいる。しかし彼らの昔語りの中にはあの頃自分が過ごした商場があった。
そしてぼくにも魔術師の思い出があるんだ。 -
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歩道橋といっても日本で普通に見る、あのただの立体横断歩道とは異なる。
台湾の台北市・中華路には1961年から92年代まで「中華商場」という大型商業施設があった。それは鉄筋コンクリート三階建の建物が南北に台北駅の手前から愛国西路まで1キロにわたって立ち並び、それぞれの棟に〈忠〉〈孝〉〈仁〉〈愛〉〈信〉〈義〉〈和〉〈平〉という名前がついていた。商場は中華路の車道の真ん中に建てられていたため、中華商場の建物を南北に結び、同時に車道と鉄道を東西に跨ぐ歩道橋が中華商場各棟の二階で直結し、幅も広く、沢山の露店商で賑わったらしい。
これは短編集であるが、それぞれの話の主人公たちは皆、子供のころ商場で育ち(みな商場のお店の子供)、大人になって回顧するという設定だ。そして記憶の中の共通項が、歩道橋の露店でマジックを行っていた“魔術師”だ。
商場の住人達は商場の中に店兼住居を構え、そこの子供たちの行動範囲は殆ど商場の中ばかり。各店(家)にトイレはなく、汚い共同トイレを使用している。外で親に秘密の行動したいときは「う○こ行ってくる」と言って家を出る。
占いやさんとか筆耕やさんとか本を雑に積み上げただけの古本屋さんとか、古切手やさんとか味は絶品だけどいつも店の親父が丼鉢に親指を突っ込んで品を差し出す牛麺やさんとか…清潔ではないが古き良き活気に満ちた台湾の「商場」が描かれている。
反面、物悲しさに溢れている。主人公の商場の子供達の家庭はだいたい不幸なのだ。初めは商売が上手くいっていたのに、お父さんが飲んだくれになって、そのお父さんを探しに行ったお兄さんが電車に轢かれ、そのショックでお母さんまで早死してしまったり、母親が父親にDVを受けるのを見てられなくて、家出してしまったり、何かの事情で両親が居なくて親戚の家で遠慮しながら暮らしていたり…。商売が振るわないから、子供に歩道橋で露店を出させる親もいる。
魔術師は歩道橋の屋上に寝泊まりしていて、普段はキットさえあれば誰でも真似出来るような安っぽいマジックを披露しているのだけれど、たまにゾワッとするような“魔術”を行う。ある時、母親にDVばかりする父親に耐えかねて家を出た少年に言う。「女子トイレの一番奥の個室の壁に描かれているボタンを押してごらん。」そのとおりにすると、トイレの個室がエレベーターに変わって、あるはずのない99階にたどりつき、それから3ヶ月くらい、その少年は透明人間になった。家族の店の前に立っていても全く気づかれず、家族は血眼になって彼を探し続けていた。結局、家族の所に戻ってきたのだが、その“魔術”はその後の彼の悲しい運命を予言していたのだと、40歳を過ぎた同窓会の後で分かる。
何なのだろう。この、行ったことも見たこともないのに(もしかしたら映画か何かで見たことぐらいあるかもだけど)、懐かしい感じ。確かに主人公たちと私は、ドンピシャで同じ世代なのだけれど、当時の台湾と日本では大分違う。
魔術師は言った。
「世界にはずっと誰にも知られないままのことだってあるんだ。人の目で見たものが絶対とは限らない。」
「ときに、死ぬまで覚えていることは、目で見たことじゃないからだ。」
目で見てなくても、私は中華商場を“覚えている”のかもしれない。
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20世紀末に取り壊された台北の巨大商業施設・中華商場。その棟と棟をつなぐ歩道橋には、不思議な黒い小人を見せる魔術師がいた。かつて商場で育った子どもたちは、そこで過ごした日々のなかに確かにあった魔法の瞬間を語り始める。記憶と物語の距離をめぐる連作短篇集。
すっきりした語り口で完成度の高い作品。『自転車泥棒』の煩雑な文体とも、『雨の島』の静謐さとも異なる。芥川賞ノミニーのような空気感があるので、現代日本の文芸作品に親しんでいる人はこの小説から呉作品に入るのが読みやすそう。
中華商場という空間が象徴する子ども時代とその喪失。主題を整理すると左のようになるが、ジュブナイルのノスタルジーを甘く描いているわけではない。人の死の影が全篇を覆い、その筆致はひんやりとしている。登場人物のひとりが印象的な死を迎える「九十九階」は、えっこの小説で人死にがでるの?と驚いたが、その後も失踪や事故、火事などが相次ぐ。語り手たちはその先触れのように魔術師と出会い、彼が見せた魔法を思いだして心がざわめく。解説の東山彰良が言う通り、魔術師が操るのは因果ではなくて世界の位相を少しだけずらしてみせることだったのだろう。
商店を営む人たちの生活の場でもあった商場のガヤガヤした往年の姿を知れるのも楽しい。なにしろ約1kmに渡って千軒以上の商店が連なる3階建てのモールだっていうんだからすごい。マークのお母さんが「小さい頃のおねしょの匂いを覚えている」と言い、商場のトイレを嗅いで行方不明の息子を探し回った、なんていうことがさらっと書いてあり、暴走した母性って感じでとても頭に残った(笑)。大陸からの移住者である仕立て屋の唐さんと猫のエピソードは『自転車泥棒』のラオゾウと小鳥のヤツガシラの結びつきにも似て、切なくも美しい。
呉明益は、今は失われた中華商場という場所そのものを記憶装置に変えた。歩道橋の魔術師は記憶という幻影のなかで過去と現在をつないでいる。「レインツリーの魔術師」の語り手がカンボジアで黒い小人の種明かしを追求せずにやめてしまうのは、単に幻滅するのが怖いわけではないだろう。記憶にかけられた魔法を現在において確かめることにもはや意味などないと、作家になった大人の「ぼく」はわかっているのだ。 -
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ネタバレ台湾の作家、超名作『自転車泥棒』の著者である、呉明益の長編第一作。
呉の小説の特徴は、父親の不在・確執、戦争の記憶、動物への愛情、無機物に対する執着的描き方にあると感じる。『自転車泥棒』におけるオランウータンと人の繋がり、戦時における象の扱いなど、読むのがしんどくなるほど切ない。この小説でも亀についての記述が秀逸である。
主人公であるフリーライターの「ぼく」が睡眠の異常に陥り、それが解決するまでの物語だが、章毎に主格がころころ変わる。父とおぼしき少年、観音菩薩(読んでいて?となる)、石ころという名の亀・・・。
主人公は、父が台湾人少年工として従軍して渡った日本へ行き、睡眠の専門医の診察も受ける。
その医師から、戦時中に少年、青春期を送った者の多くに睡眠の障害が見られることが語られる。戦時中に少年だった者の中には、父が世話になった「平岡君」もいる。
戦争に関する記述が多く、重い。我々が生きていくのに大事な、必要な重さだ。
あとがきで著者は『父に捧げる』、『一世代前の人々に捧げる』といった言葉を書き加えたいと思ったが、自分には資格がない、何よりも世界は依然として存在し続けていくのだ、と書いている。
戦争から生き残った遺伝子を持った者の責任は僕にもある。 -
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近未来の台湾。ミミズ研究に没頭する女、鳥の生態を手話で表そうとする男、恋人がフィールドワーク中の事故で植物状態になった女、亡き妻が書き残した小説を読んでウンピョウに取り憑かれた男など、マジョリティの世界から逸れざるをえなかった人たちが、オブセッションに駆られて山や海にのめりこんでいく。未来のフィールドワークのありようを描いた連作短篇集。
今年は英米以外の海外文学を積極的に読もうと意気込んで手に取った本作が早速の当たり!著者はもともと蝶に関するネイチャーライティングで名を知られ、その後フィクションを発表するようになったという経歴の持ち主。そこから期待される〈自然と文明〉というテーマと、随想と虚構のあわいに揺れる文章のスタイルがドンピシャで好みだった。本人の手による台湾固有種の博物画も各話の扉に挿し込まれ、ユーディット・シャランスキー『失われたいくつかの物の目録』にコンセプトは近い。
だが、シャランスキーの本が幻想怪奇小説の作風で過去を向いているのに対し、本作はSF的な想像力を働かせて未来を語る。繰り返しでてくるコンピュータウイルス〈クラウドの裂け目〉をはじめとして、トラウマを抱えた人の記憶を別の物語に置き換えて癒すカプセル型の装置だとか、安全対策バッチリだけど傍目には本物そっくりに見えるクライミング用人工林など、世界をひっくり返すような大きいガジェットではないものの近未来の暮らしに根付いたテクノロジーのあり方が描かれている。
マグロが絶滅危惧種になった世界でクロマグロを探す旅に出る「とこしえに受胎する女性」は、日本人には耳の痛い話もありつつ、五十嵐大介漫画のノベライズかと思うような雄大な航海のさなかに突如〈アンドロイドクロマグロ〉という不穏な存在が現れ、海と人類の未来を思って呆然とするしかないラストが印象的だ。
また「人はいかにして言語を学ぶか」は、手話のことばが生まれでる瞬間を描く。鳥の鳴き声や生態から、既存の("聞こえる人たち"の)ことばに拠らない新たな呼び名を考案し、ある鳥の種類を示すものとして「水草が渓流で緩やかに揺れている」という手話が誕生する。この物語は手話が詩のことばになる瞬間のこと、そしてことばは元々すべて詩だったのだということを教えてくれる。詩は人の心を表現するためのテクノロジーなのだ。
そして、親が遺したものと向き合う、というのも本作のテーマの一つだと思う。〈クラウドの裂け目〉によって通底するのは親と子の物語。だが、各話の主人公たちは作中時間で誰も子をなしていない。生殖について考えることが精神的苦痛になる人だろうと思う人もいる。彼ら/彼女らの姿は希少になってしまった生き物たちと重ね合わされてもいるんだろうか。アンドロイドクロマグロのように、外見はそっくりでも中身は全く異なるシステムによって殖えていくようになるのだろうか。最後に置かれた「サシバ、ベンガル虎および七人の少年少女」は収録されたなかで唯一過去を向いたノスタルジックな作品だが、後味は苦い。
読み味はまったく異なるのだが、人との関わりではなく自然との交わりに取り憑かれていく人びとを描いた点で古川日出男『ロックンロール七部作』に近しいものを感じた。他にも管啓次郎のエッセイや、ネイチャーライターであるロバート・マクファーレンの『アンダーランド』で学んだ〈ソラノスタルジア〉という概念のこと、人の記憶とテクノロジーの関係を描いたジョン・クロウリーの短篇「雪」も思いだした。
ただ、上に挙げたどの作品よりも本作はわざとらしさがなく穏やかで、近未来のテクノロジーも主人公たちの生活に自然に馴染んでいる。まるでこの小説自体が〈クラウドの裂け目〉を通って近未来から現在へ送られてきた手記であるかのように。その静けさが心落ち着くようでもあり、慌てたところでもう取り返しはつかないと言われているようでもある。 -
Posted by ブクログ
中華商場というのは1961年から約30年ほどのあいだ台湾の台北市にあった商業施設。と言っても今のモールとは異なり、3階建てのビルが8棟連なり、2キロほどの長さになり、そこに店舗とその店を営業する家族の居住空間があったというから、商店街のようなものに近いのかもしれない。
各棟の2階には連絡するための広い歩道橋があり、そこにも露天商が並んでいたそうだ。
この短編集はその商場に住んでいた人たちが、少年時代にそこで起きたことを回想して語る物語。そして、棟を繋ぐ歩道橋でマジックをして見せていた魔術師が各話で語り手になんらかの転機をもたらす。
少年時代の記憶にはえてして記憶違いや、夢と記憶が混ざりあって、どこまでが記憶でどこまでが夢や空想なのか判然としないものがないだろうか。ここで語られる話はまさにその記憶と夢が混ざり合った、しかし、当人にとっては、確実な記憶として、その後を変えた記憶として心に残っているものとして語られる。
ノスタルジーとまとめてしまうのは容易いが、ノスタルジーというのは往々にして溶けやすい砂糖のようなもので、水に混ぜればするりと溶け消えて、飲み下す時には甘みが心地よいが、飲み下してしまうと何も残らない。
しかし、ここで語られる物語には何か口の中に、喉の奥に残って、いったいこれは何なんだろうと考えに耽ってしまうような感覚が残る。