あらすじ
父子二代の記憶へ漕ぎ出す
鮮烈な長篇デビュー作
台湾を代表する作家であり、世界的に注目を集める作家・呉明益の長篇デビュー作の待望の邦訳。のちに『自転車泥棒』や『歩道橋の魔術師』にもつながる原初の物語である。
台北で暮らすフリーライターの「ぼく」は、数十年に一度と言われる竹の開花を見るために陽明山に登るが、その日から睡眠のリズムに異常が起きていることに気づく。睡眠の異常に悩む「ぼく」の意識は、やがて太平洋戦争末期に神奈川県の高座海軍工廠に少年工として十三歳で渡り、日本軍の戦闘機製造に従事した父・三郎の人生を追憶していく。戦後の三郎は、海軍工廠で働いた影響から難聴を患いながらも、台北に建設された中華商場で修理工として寡黙に生活を送っていた。中華商場での思い出やそこでの父の姿を振り返りながら「ぼく」は睡眠の異常の原因を探るために日本へ行くことを決意し、沈黙の下に埋もれた三郎の過去を掘り起こしていく。三郎が暮らした海軍工廠の宿舎には、勤労動員された平岡君(三島由紀夫)もいて、三郎たちにギリシア神話や自作の物語を話して聞かせるなど兄のように慕われていたが、やがて彼らは玉音放送を聴くことになるのだった――。
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呉明益の最初の長編小説。解説にも書いてあるが、『歩道橋の魔術師』で描かれる中華商場、『自転車泥棒』で描かれる台湾の過去、『雨の島』『複眼人』などに出てくる超自然的な視点等々、その後の呉明益作品のエッセンスがこれ一つの中にほぼほぼ全て含まれているように読める。本当に面白い。
が、しかし、全く分からんというのが率直な感想である。
大筋だけをざっくり捉えるなら、語り手の「ぼく」に突然現れた規則的な睡眠という睡眠障害が治るまでの物語、という説明で合っていると思う。基本線をそう考えるなら、問題は、どうして「ぼく」は睡眠障害になってしまったのか? どうしてその睡眠障害は、8時間の睡眠が3時間ずつ後ろにずれていくという規則性を持っているのか? そして、なぜ突如としてその障害は治るのか? といったところだと思う。
キーワードが「夢」と「父の過去」であることは、間違いがない。「ぼく」の父は、第二次対戦中に台湾から神奈川県へと渡り、高座海軍工廠で少年工として働いたという過去があった。その経験は、ただの過去の記憶としてではなく、母語だったはずの台湾語を話すことができなかったり、騒音の中で働き続けたことによる聴覚異常として、その体に刻みつけられることになる。そして父は、戦後、口を閉ざし、失踪する。
「ぼく」は、睡眠障害とそこで見る夢をきっかけに、父の記憶を追憶することになる。そうして、その追憶と現実の自分が重なりあったとき、睡眠障害は消える(p209〜213)。
ここには、戦後八十年以上が経とうとして、第二次大戦を経験した人がいなくなり、文字通りの意味で過去の出来事になろうとしている現代で、過去の記憶をどう継承していくのかということに対する、何かヒントがあるような気がする。気がするが、それが何のかが分からない。最後の母の言葉をどう受け止めたらよいのか。
あん人たちは、どこに行ってしもたんじゃろかの?(p323)
カタカナで本来の発音のルビが振られていることから、この言葉は、台湾語で発音された言葉だ。なぜ? 分からない。
「ぼく」とその父三郎と母。加えて、三郎が飼っていた亀の「石ころ」、観世音、米軍の戦闘機パイロット、東京のラジオ放送。普通では考えられないような語り手を交えながら、父の経験した「本当の戦争(p207)」が語られる。なぜ、それは、「眠り」という形でしか語られることができなかったのか。悔しいことに、何の解釈も思い浮かばない。
答えが出るまで、繰り返し読み返したい。
Posted by ブクログ
台北で暮らすフリーライターの「ぼく」は、数十年に一度と言われる竹の開花を見るために陽明山に登るが、その日から睡眠のリズムに異常が起きていることに気づく。睡眠の異常に悩む「ぼく」の意識は、やがて太平洋戦争末期に神奈川県の高座海軍工廠に少年工として十三歳で渡り、日本軍の戦闘機製造に従事した父・三郎の人生を追憶していく。戦後の三郎は、海軍工廠で働いた影響から難聴を患いながらも、台北に建設された中華商場で修理工として寡黙に生活を送っていた。中華商場での思い出やそこでの父の姿を振り返りながら「ぼく」は睡眠の異常の原因を探るために日本へ行くことを決意し、沈黙の下に埋もれた三郎の過去を掘り起こしていく。三郎が暮らした海軍工廠の宿舎には、勤労動員された平岡君(三島由紀夫)もいて、三郎たちにギリシア神話や自作の物語を話して聞かせるなど兄のように慕われていたが、やがて彼らは玉音放送を聴くことになるのだった――。
戦時末期に高座海軍工廠で働いたことがある元台湾人少年工の父親と、その息子の物語。息子は、失踪した父の行方を気にしながらメディアの仕事をしていたが、突如として睡眠障害に襲われるようになる。彼が眠りの中で目にしていたのは、戦時下から続く父の記憶をたどる夢だった。
高座海軍工廠といえば、と考えていたら案の定若き三島由紀夫が出てきた(平岡君)。この作品での「平岡君」は、台湾人少年工にも隔てなく接するよき先輩、よい先生のような存在だったと描かれる。
植民地台湾における戦争の緒記憶、支配者としての日本人に対するまなざし、日本語を学び日本に渡った父=三郎たち世代の「その後」など、一冊の本の中に、台湾人男性の近現代史が万華鏡のようなスタイルで語られていく。松井石根が南京に仏像に送り、その「返礼」として、南京から仏像が送られてきたのだという。覚王山日泰寺というところにあるらしい。
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『なぜなら、記者の同情が嘘っぱちだなんてことは誰でも知っていたからだ。それに比べて、作家という存在はいわゆる作品の「深さ」を表現するために、物語を盗んだ後に憐みからかあるいは対象への理解からか、二粒ほど涙を流すふりをしなければならなかった。たとえその物語の主人公が、自分の両親であったとしてもだ』―『第二章 夜は最もいい時間だ。眠りに落ちるのが困難なとき、それはお前の耳にちょうど死者たちの叫び声が届いてしまったからだ。J・M・クッツェー「夷狄を待ちながら」』
ああここに「複眼人」に、ここには「自転車泥棒」に、そしてもちろん物語全般を通して「歩道橋の魔術師」に展開していく筈の物語の種が既にある。この夢と現(うつつ)を、そして時代を行き来する複数の視点の錯綜する物語からは、後に語られる物語の芯となるイメージが作家の中にしっかりと存在していることが、翻訳の順番が逆になっているからこそよく解る。そして、台湾という土地とそれらが時代の空気と時間のもたらす変化によって、分かち難く結びついているのだということも。
主人公の(と書きかけて躊躇するのだが)父親「三郎」と「平岡」の出会いが、そして三郎の記憶を追体験する「ぼく」の「三島」への想いが、台湾と日本の関係を象徴的に描いているように読んでしまうのは少し強引だろうけれど、否定も肯定も出来ない関係性が至る所に現れるのが呉明益の描く世界の特徴であるように思う。それは時に親と子の関係であり、恋人同士の関係であったりもするけれど、そこに過ぎてしまった時間の経過がもたらす郷愁に似た想いが加わり、関係性を幾重にも深くする。時にそれは機械に対して感じてしまう人間性のように一方的な想いに過ぎないようにも思えもするけれど、手元に残された遺物には確かに相互に通じ合っていた意思の痕跡が存在しているようにも思える。そんな心の落ち着きどころのなさ、曖昧な面持ちの人々を描くのが、呉明益はとても上手い。この作家に惹かれる理由はそこにある。
『菩薩は現世の人々の祈りを大切にしていたが、それを叶えてやることはできず、ただ人々の願いを集めて祈ってやることしかできなかった。なぜなら、人々の願いは互いに対立し、矛盾することが多く、他人を傷つける可能性があったからだ。だからこそ、同時に二人の人間、二つの家族、二つの民族、二つの国家の願いを、一方を傷つけることなく叶えることは難しかった』―『第三章 夜よ、安らかに眠れ。この静かに眠る者たちのなかに、明日目覚めぬ者がいるであろう。フェルディナント・ホドラー《夜》の額縁の銘文』
想像し得ないように思われる菩薩の視点を敢えて描くのに対して、「平岡」の半生は決して彼の視点から語られることがないというのが、台湾から描くとても真摯なあの戦争の在りようであると思ってしまうのはうがちすぎか。それでも台湾が経験したような価値観の揺さぶりを日本も経験していることの象徴としてここに「平岡」を登場させているのだとしたら、この作家の立ち位置の柔和さのようなものがよく現れているとも読める。環境問題に対してであれ、回顧主義に対してであれ、あるいは対日、対中関係に対してであれ、様々な想いを抱く人々がいることをこの作家は常に意識しているように感じる。そこまで意識がいくと、クッツェーの小説の題名にある「夷狄」という言葉の意味が重いしこりのようなものに変わってくる。人は常に他人にとってバーバリアンなのかも知れない、と。
それにしても、台湾語を讃岐弁のような方言に移し替えるというのは、判り易いようでいて二重に読みの意識が喚起されるね。方言の持つニュアンスのようなものが原作にあるということと、それをそのまま日本語の方言で受け取ってしまっていいのか、ということと。天野さんだったらどんな風に訳したのかなあ、と少しだけ立ち止まって天を仰ぎたいような気にもなる。もちろん、天野健太郎氏亡き後もこうしてこの作家の翻訳が読めるのは本当に幸いなことなのだけれど。
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中華文学、好き。。。厳密にはこれは台湾の作家だけども。WWII、カメと仏像、睡眠障害と夢、三島と平岡くん。ゆるやかに三島をディスってるところも楽しい。うんわたしもかねがね三島の晩年のあの振る舞いは過剰に解釈されていると思ってるよ。日本と似ているようで全然違う国、中国(これは台湾だけど)カメがありえないくらいかわいそうで(このあたりも日本の発想には絶対ない)この作中で死ぬ場面が出てきませんように、と願って読んだ。
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太平洋戦争中に日本にいた父とジャーナリストの息子、父と平岡(三島のアレゴリー)の交流、戦後台湾の混乱と発展などなど。自転車泥棒や歩道橋の魔術師の前駆みたいな小説。翻訳者の天野健太郎が若くして亡くなってしまったのは惜しかった。
「歩道橋の魔術師」が一番良かったかな。
Posted by ブクログ
台湾の作家、超名作『自転車泥棒』の著者である、呉明益の長編第一作。
呉の小説の特徴は、父親の不在・確執、戦争の記憶、動物への愛情、無機物に対する執着的描き方にあると感じる。『自転車泥棒』におけるオランウータンと人の繋がり、戦時における象の扱いなど、読むのがしんどくなるほど切ない。この小説でも亀についての記述が秀逸である。
主人公であるフリーライターの「ぼく」が睡眠の異常に陥り、それが解決するまでの物語だが、章毎に主格がころころ変わる。父とおぼしき少年、観音菩薩(読んでいて?となる)、石ころという名の亀・・・。
主人公は、父が台湾人少年工として従軍して渡った日本へ行き、睡眠の専門医の診察も受ける。
その医師から、戦時中に少年、青春期を送った者の多くに睡眠の障害が見られることが語られる。戦時中に少年だった者の中には、父が世話になった「平岡君」もいる。
戦争に関する記述が多く、重い。我々が生きていくのに大事な、必要な重さだ。
あとがきで著者は『父に捧げる』、『一世代前の人々に捧げる』といった言葉を書き加えたいと思ったが、自分には資格がない、何よりも世界は依然として存在し続けていくのだ、と書いている。
戦争から生き残った遺伝子を持った者の責任は僕にもある。
Posted by ブクログ
主人公の睡眠障害を発端に、台湾少年工として日本に渡った父のこれまでの足跡が綴られる。
最初は恋人との会話などから、村上春樹的だなと感じたものの、ファンタジー要素もあり、史実に基づくものもあり、最後まで読ませてくれる作品だった。