松井今朝子の本には、個人的に、ものすごく引き込まれる作品と「いや、これはどうか・・・?」と思う作品が混在している印象がある。
前回読んだ『壺中の回廊』は、1つの作品にすばらしいところと今ひとつに思われるところがあり、全体にバランスが悪いと感じた。背景となっている歌舞伎界の描写は傑出しているのに、ミステリとして整ったものには思えなかった。これならば、いっそ、歌舞伎座や役者について書いて欲しい、というのが正直な感想だった。
本書は、タイトルが示すように、著者が師と仰いだ武智鉄二という人物の評伝の体裁である。
小説家となる前に師事していたとなれば、歌舞伎やら役者やらの話も多かろう、おもしろそう、と読んでみた。
武智鉄二については何も知らなかったのだが、一世を風靡した演劇評論家であり、演出家であるという。狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎で注目されたとのことだが、見てみたいと思っても叶わないのは残念だ。
評伝として、本書が決定版と言えるのかどうか、武智氏の大きさが今ひとつ掴みきれず、何とも言えない。型にはまらぬ人物であることは窺えるが、本書自体は、どちらかと言えば、著者の半生記と言えそうな内容である。
導入は著者の生い立ちから始まる。
歌舞伎界にゆかりがあることは何となく知っていたが、筋金入りである。
実家は坂田藤十郎の親戚筋の老舗料亭。そこを独立した両親は祇園に店を構え、当人は祇園町で幼少時を送っている。南座に入り浸り、下足番に挨拶すれば顔パス状態でただで観劇できるほど。女形の歌右衛門の美しさに魅入られ、東京の歌舞伎座に通いたいがために東京の大学を志望する。
ときは学園紛争の頃。暇を持てあましがちな著者は歌舞伎のみならず、小劇場などさまざまな演劇に触れる。
大学に残る選択肢もあったが、学問として芝居と関わることに疑問を感じ、情報誌の仕事などを経て、松竹に入社する。そうした中で、破天荒な師、武智鉄二に出会う。
このあたりは、時代の空気や、芸能シーンなども生き生きと描かれ、非常に興味深い。観客のみならず、裏方としての仕事も経験した著者ならではの「目」が光る。
一体に、この人は冷静な観察眼を持ち、表現者としての「我」が強くない。名優をつぶさに見てきたせいか、幼少時にすでに、自らは名馬でなく、伯楽である、と悟ってしまっている。頭がよく、アクの強くない人なのだろうと思う。ご本人が仰るとおり、もしかしたら、演出や編集などの、どちらかといえば裏方の仕事が適している部分もあるのかもしれない。
けれども。
何か、この人の奥には情念の井戸のようなものがある、のではないか。その情念は自身のものではないかもしれない。これまでに触れ合ってきた膨大な量の浄瑠璃や歌舞伎やアングラ演劇を源流とするものかもしれない。出所はどこであれ、それが著者の内に秘められている、のではないか。
どこか、湿り気を帯びた「ぬらり」としたもの、けれどどこか笑いも含むような。
日本の風土の、その湿気の中で、死んだら肉は朽ちていくのだ。それはもうどうしようもない事実である。情念は、突き詰めればそんな諦念に通じるようにも思う。
直木賞受賞作の『吉原手引草』に、落語の「お直し」を脚色した挿話がある。私はその凄みにぞくりとしたのだ。ダメダメな男にダメダメな女。だらしのない2人に救いはない。でもそこに「しょうがねぇな」と生じる笑いがある。
本書でも何箇所か、ぞくりとさせられた。
この切れ味を秘める限り、この著者が、ふさわしい題材、ふさわしい調理法に出会ったとき、何かとてつもなくすごい作品が生まれるのではないか。
何だかそんな気にさせられた。
不思議な本、不思議な人である。