灰谷健次郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
・たとえば、朝、養護学校にいく為に、スクールバスが迎えにくる場所まで歩く数百メートルの道のりを見るだけでいい。
かの女はたくさんの生き物を友達にしていることを知るだろう。
仕出し屋の猫に、朝のあいさつをする。残飯を食べ過ぎて体が酸性になった猫は機嫌が悪い。そんなとき、かの女は笹の葉を猫にやるということを知っている。
かの女は一休みする。
やはり木の葉に止まって一休みしているハチが、体内の余分の水分を口から出すのを見ることがある。
その小さな水玉は朝日を浴びて、このうえなく美しい。
かの女はそれを、ハチのシャボン玉吹きといっている。
マツバボタンにも、朝のあいさつをする。
「おはようさん」
といって、一本のオシベに触れる。すると、触れていない他のオシベまで、かの女の方に傾いてあいさつをする。そういう修正をかの女は知っている。
言語障害をともなっているかの女の「おはようさん」は、もちろん他の人には「おはようさん」とはきこえない。
しかし、ぼくはこの朝のあいさつの中に、生命の充実を感じる。言葉にならない言葉の中に優しさがこめられていることを知る。
たった数百メートル歩くあいだに、ずいぶんたくさんの生命を見つけ、そして、それと交感している。
そういう子どもに、ぼくたちは
「あんな子、生きとって何の楽しみがあるんや」
という言葉を投げつけることによって、自ら非人間となったのだ。
スピードというものをとりこんだぼくたちは、かわりに失ったものがいくつもある。
「あんな子、生きとって…」という言葉はそっくりそのまま、かの女からぼくたちに向かって投げ返されいる言葉なのだ。
ある日、ぼくは重大なことを知る。
かの女をプールに連れていったときのことである。
危険がいっぱいの子だからと辞退する親を説得して、ぼくはかの女をおぶって連れていったのだった。
水着に着替えさせ、水に入れると、かの女は嬉々として手足を動かすのである。
意外だった。
そういう子だから、水は恐がるものだとばかり思っていた。ぼくはいくぶん拍子抜けしたような気分にもなったけれど、かの女の喜びがぼくにも伝わって、ぼくは、胸が熱くなった。
プールの端から端へ、かの女の体を支えてぼくは進んだ。
顔に水がかかると、いっしゅん息をつめ、それから何かおいしいものでも食べたように、ぷああんと満足げに息を吐いた。
二十五メートル進んで、かの女はプールサイドに手をかける。かの女は振り向いて笑った。ほんとうに美しい笑顔が、ぼくの顔を見上げている。
信じられないことだった。
麻里ちゃんが笑った。麻里ちゃんが笑っている。
ぼくの胸に熱いものがこみあげる。
そのとき、あることに気がついて、ぼくはぎょっとする。
ぼくには今、かの女の笑顔が笑顔として見えている。しかし、かの女と何のつながりもない人は、かの女の笑顔が笑顔に見えないのだ。かつてのぼくがそうであったように―。 -
Posted by ブクログ
小学6年生から中学1年生にかけての倫太郎と、倫太郎を取り巻く人々の物語。
中学生になり、新しい枠組みの中で、新しいタイプの先生方と出会う倫太郎たち。
自分たちの枠組みから外れる子どもたちを許そうとはしない先生方。
その一方で、子どもたちのために豊かな引き出しを準備して下さっている先生方。
そして引き続き、ほどよい距離をもちながら、見守ってくれる大人たち。
批判に流されるでもなく、
力による解決に走るのでもなく、
地に足をつけて、恥ずかしくない生き方を選び取っていく倫太郎がかっこいいです。
中学校の先生たちのあまりの頼りなさにガッカリしますが、がっつり頼りになる先生が出てきちゃうと物語が成立しなくなっちゃうので、仕方ないのかな?と思うことにします。