加来耕三のレビュー一覧
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会社の会議は長い。それでいて本来の目的であった活発なディスカッションの後に結論を導き出すというプロセスも結果も得られない事が多い。そこで自分たちで会議を活性化するにはどうしたら良いかプロジェクトを立ち上げたが、目的に賛同して参加してくれたメンバーは私含めたったの4人。100人近い部員がいるのだが。だが気づいた事がある。明確に会議を改善したいという目的意識の下に集まったメンバーだから、その会議たるやお互いに考えや意見をぶつけ合い必ず成果結果を出しているという事実はある(自分たちがやると言った手前、喋らないわけにいかないのだが)。毎年会議の問題点を整理して課題化し対策を打って発表している。残念ながら効果は数値化できていないが、自分たちは納得している。
日本人は会議好きと言われるが、過去の歴史には転換点となった重要な会議が沢山あった。古くは大和朝廷の時代から明治維新の近代日本に至るまで、歴史の流れを大きく変える議論や決断がなされてきた。会議の参加者はそれぞれに役割がありファシリテーターの実力次第で主催者の意図に沿った形(思惑)で終わる場合もあれば、力の強い参加者の意見に引きずられ意図せぬ結果に終わる事もある。何らか意図がある場合には必要なのは根回しだ。根回しが充分に行われた会議は開催前から勝ったようなものだ。古くからその重要性に気付いたものは時に会議により覇者になる。会議は如何に準備できているかが勝負だ。加えて優秀なファシリテーターは場の空気感を読み上手くアイデアや意見を引き出してくる。
前述した様なただ長いだけのダラダラ会議になるのは何故か。言い出しっぺになるのを恐れているか、会議に参加したくないかのいずれかが多いと思われる。前者は戦国時代のようにどちらの味方に付くかによって自国の滅亡に繋がるような重大な会議ではよくあった事だろう。後者は現代の会議でもよく見られる内職をしてるようなものだ。こう言った人に対しては、会議に呼んで合意形成したはずなのに、あたかも(実際に)聞いてなかったかのように簡単に事後の反対勢力に回ったりする。これも巧妙なファシリテーターなら例え相手がウェブ会議の画面非表示状態でも果敢に話を振っていく。そうする事で全員参加の緊張感を醸し出し考えさせるのだ。だがそもそもは事前にしっかりと役割定義を決めた上で参加人数を絞る方がより活発な議論になる。決も早い。注意点としては、特に何らかの意図がある場合に自分たちに不利な考えを持つ人間を始めから外す事は絶対にしてはいけない。決を必要とする会議では当然なのだが案外意図的に呼ばない会議は多い。
歴史においてもそのような会議の後には必ずいざこざが発生するし、現代ビジネスでも問題を引き起こす1つの要因となる。
適切な参加者、優秀なファシリテーター、空気感にも影響する会議のルール、そして事前の根回し、決定事項の早急・確実な実践、これらが揃った会議ができる組織は強い。
と、会議の話ばかりに終始したが、そういった内容を歴史上の会議を例に出し、何が良くて何が悪かったかを説明していく。少しわかりづらいのは歴史をよく知っている人間なら容易に頭に入ってくるが、歴史に疎い人にとってはやや背景や人間関係が入ってこないため難しい面もある。
本書を読んで学校でも職場でも役立つシーンは多いので、是非自分たちの会議でそのように出来るようテクニックを磨くと思って身に付けると良い。 -
Posted by ブクログ
戦国最強の武将は誰か。
筆者は、一度も負けたことのない武将、立花宗茂だと主張する。
関ケ原の西軍につき敗軍の将とされ領地を取り上げられるも、二十年後に再び自らの土地に戻ってきたのは立花宗茂しかいなかった。
それは、東国の本多忠勝と並び立つ西国一の将として評された実力にあった。
懸待一如。
引くと同時に攻め、寡兵よく大軍を破る。
戦国時代の九州は3つの軍勢に分かれていた。
豊前の大友、薩摩の島津、肥前の龍造寺。
その中で、大友の家臣として従った三代目が立花宗茂だった。
島津の猛攻を籠城戦でもって耐え抜き、
朝鮮出兵の先陣と後詰めを担い、
そして関ヶ原では西軍につき大津城では局地的勝利を収めている。
最強とはなにか。
それが負けないことだとするならば、戦国時代に一度も負けなかった武将は立花宗茂ただ一人。
筑後柳河にこだわった武将の生涯を追う。 -
Posted by ブクログ
時代が変わっても、人間関係というものは大事ですね。どんな組織も人間が運営しているのですからね。武力だけで決まっていたと思ってしまう戦国時代も、人間関係はとても大事だったようです。それらを私に馴染みのある武将にまつわる話で解説してくれています。改めて「気配り」の大事さを痛感した本でした。
以下は気になったポイントです。
・付加価値をあげるところに新しいビジネスチャンスは必ず出現する、これは人口が減少しても変わることがない、歴史はそのことを雄弁に物語っているが、多くの人はこの真相を歴史に学ぼうとしない(p6)
・家康は、自分の後継者を謀殺した人間(酒井忠次)を、完成した組織のナンバー2にした、これが家康の凄みである(p30)
・藤堂家は、関ヶ原の戦い後、三成の指摘(鉄砲隊に足軽だけでなく地位の高い者も組み入れる)を受けて、鉄砲隊に士分格の人間を入れて練度を上げた。相手を尊重しながら自分をしっかり持つ生き方は、現代でも参考になる(p42、44)
・いじめられた人間は、いじめがどれだけ悪いことかを身に染みて理解している、後に平清盛は出世して太政大臣になっても部下を気遣った(p51)
・竹中半兵衛は、殺したと偽って松寿丸(信長の命令に逆らって)を自領にかくまった、その松寿丸は成長して、名将・黒田長政となる(p56)
・火付盗賊方は、警察というより軍隊をイメージするほうが実態にふさわしい、その証左に「先手組」がこの役目についていた。先手組は、先鋒隊を担っていた集団である。(p66)
・生きものを大切にせよ、と命じた将軍綱吉の言葉を拡大解釈し、忖度して周囲が徐々に大事にしてしまったのが、生類憐みの令である(p79)
・忠臣蔵の四十七士に対して、「忠君の思いは見事である、しかし勝手に私闘を行った罪は万死に値する」この裁きなら、幕府の面目も保てるし世論も納得する。なおかつ将軍綱吉も説得できた(p83)
・日本の歴史上において、徳川家康・西郷隆盛・大山巌は、部下に仕事を任せるのが上手かった、失敗は自分の上司が被って、成功を部下に分け与えるリーダーにこそ部下はついていく(p85、86)
・旅順港閉塞作戦では、機雷で虎の子の軍艦の3分の1を失った、謝罪に訪れた艦長二人に対して、東郷平八郎の言葉「紅茶が冷める、さあ飲みたまえ」それのみ。二人は涙を流して、次の戦いでの命がけの雪辱を誓った(p90)
・判断が正しい、誤りだというよりも、相手の気持ちを汲んだうえでの判断ができたかどうかが大事、それを知るには自らも修羅場をくぐり生還せねばならない(p95)
・幕末時代は、会津藩主松平容保と、伊勢桑名藩主松平定敬(たかあき)がスクラムを組み(一会桑)で、薩摩・長州・伊予宇和島・越前福井を抑えていた(p98)
・戦国時代の蒲生氏郷は、最強の武将である、越後の上杉景勝、奥州の伊達政宗、関東の徳川家康という三強者を押さえるための要の土地、会津若松を秀吉から任された(p114)
・藤堂高虎は、畑違いの部門に異動させられても、算盤を学び、槍働きに加えて、鉄砲、兵站の知識・技能を身につけ、趣味としては築城術にも興味を持った、加藤清正との違いは本人が知っていたか(p121,122)
・人望のある人、1)カリスマ性があり人望が高い、武田信玄・上杉謙信・織田信長、2)言っていることが正論、公的についていかざるを得ない人、丹羽長秀、自分の利益よりも組織全体を考える(p125,133)
・小早川秀秋も前田利家も裏切ったが、なぜ現在の評価が異なったのか、それは裏切られた勝家が利家に恨み言を口にしなかったから(p135)
・竹中半兵衛は、利害で結びついた関係は永遠につづくわけがないと知っていた、人間関係は時を経れば必ず変化する(p179)
・浅野内匠頭の勅使饗応役とは、配膳や掛け軸の指示をしたりする役ではなく、単にその費用を負担する係であった。細かい段取りにはそれぞれの担当者がいた(p194)
・浅野家の大名火消し(夜の市中で徒党を組める)は有名であったので怪しまれずに吉良邸まで進めた、多くの行程は船で進んだ、決行当日は雪は降っていない、地面は固まった雪と冷気で滑りやすくなっていた(p200)
・リーダーが見せるべきは、責任は自分が取る、と腹をくくって取り組む姿勢である。人は才能や性格よりも、自分の仕事が「やりやすい人」についていく(p222)
・秀吉と勝家の違い、秀吉は「ワシを助けてくれたら、あの領地をやろう、地位も上がるぞ」と具体的に、夢を見させてくれた。これが二人の勝敗を決した(p233)
2019年8月11日作成