三木清のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
三木清は先崎彰容氏の推薦ということで手に取ったが、大変良かった。
構成は、「習慣について」「怒について」など短い章に分かれている。
言われていることはヨーロッパの思想に似ているが、それを唐突に直感的に書いていて、背景と理由は説明してもらえないところが日本思想。
と思いつつ読み進めていたら、まさにその点を指して、
「確実なものの直観は…論理の証明を要しないのに反して、不確実なもの…こそ論理を必要とする」
とあっさり論じてくれた。
「感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである」というのも、その言い換えである。
社会と論理から思想を導くヨーロッパに対して、思想が個人に由来するという捉え方もある日本人の、わかりやすい自己説明だ。
この掴んだ実感をしっかり自分の言葉で表現できるようになりたいものである。
印象に残る章やフレーズ、言葉は、読む人やその時の心理状態によって変わるだろう。
自分は、特に最後の「個性について」の美しさに圧倒された。
ここだけ読むだけでも価値がある。
この章は附録であるらしく、「大学卒業の直前…私が公の機関にものを発表した最初である」と書かれていた。
若さの持つ瑞々しさが感じられたが、まさか大学生の文章だとは驚きだ。
やはり天才。
噂の持つネガティブな意味での力について、或いはテクノロジーの発達が世界を広くも狭くもしていることなど、戦前に書かれた本著に、今のネット社会や人工知能の発展などにも通じるような問題意識が見られたのも面白かった。
いつの時代もどんな偉大な思想家も、社会問題についてはその一つか二つ前の時代との比較になるので、どれほど科学が発達しても同じような問題意識は繰り返されるだろう。
それが歴史から学ぶ意義でもある。
最後に。
以前、成功か、幸福か、と問われた経験がある。
この本を読んで、要所はその問いでなく、その二つの分離と二項対立こそが問題なのだと教えられた。
しかし、もしその分離が社会や時代からくるものであるとしたならば、果たして個人の力や意識で乗り越えられるものなのか?
自分にとって、これはマキャヴェッリに次ぐ人生の問いだ。 -
Posted by ブクログ
【読もうと思った理由】
かなり時間は経ってしまったが、以前読んだ「行く先はいつも名著が教えてくれる」(秋満吉彦氏著)の中で、名著として紹介されていた書籍の中の一冊だ。(他の名著が気になる方は、上記書籍の感想欄に一覧を載せております)最終的には、秋満氏が名著として紹介していた12冊は、全て読みたく思っている。その中で三木清氏の本を今回選んだ理由が、もう一つある。
それは、今から約100年前の1927年、岩波書店から日本初の文庫本が出版されたんだそう。ドイツのレクラム文庫という文庫を参考にし、文庫本というスタイルを、日本で初めて発案したのが、著者の三木清氏らしい。当時、三木氏は法政大学で教鞭をとりつつ、岩波書店で編集顧問のような仕事をしていたとのこと。現在も岩波文庫の巻末には「読書子に寄す、岩波文庫発刊に際して」という文章が掲載されているが、その草稿を手掛けたのも三木清氏だそうだ。実際いま僕が、購入する本のほとんどは、文庫本だ。そう考えると、三木氏が日本の読書好きに果たした功績って、とてつもなく大きい。今まさに、文庫本を読めることに対する感謝を噛み締めながら、本書を読み始めた。
【三木清って、どんな人】
(1897-1945)
1897年兵庫県生まれ。一高在籍時に、西田幾多郎の『善の研究』に強い感銘を受け、京大で哲学を学ぶことを決心する。当時一高を出て京大に進むことは極めて異例であった。この後、戸坂潤や西谷啓治、梯明秀など多くの俊英がこのコースをたどることとなった。 1922年からドイツに留学。当初ハイデルベルク大学のリッケルトの下で学んでいたが、翌1923年マールブルク大学に移りハイデガーから強い影響を受ける。さらに1924年フランスに移住。ハイデガーから学んだ解釈学的手法を駆使して、パスカル『パンセ』についての論文をパリの下宿で書き、『思想』に投稿。この論文がもととなり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』が出版される(1926年)。
1927年、法政大学の哲学科の教授に赴任。この時期から三木は人間学を基礎とした独自のマルクス解釈を展開し始める。論文「人間学のマルクス的形態」などが収められた『唯物史観と現代の意識』を1928年に刊行。マルクス主義を哲学として理解するという三木の試みは日本近代思想史上画期的な出来事であり、当時の日本の思想界に大きな反響を呼んだ。しかし、1930年に日本共産党への資金援助の嫌疑で検挙・拘留され、法政大学での職を退くことを余儀なくされる。
出所後の三木は多方面にわたって精力的な活動を行なっていく。1932年には『歴史哲学』を刊行。未定稿に終わったが『哲学的人間学』が執筆され始めたものこの時期にあたる。また、哲学的論稿・著作を発表すると同時に批評家としても活躍。1931年の満州事変の勃発を契機として日本の時代状況が暗転していく中で、「不安の思想」を新しいヒューマニズムによって超克することを試み(「不安の思想とその超克」(1933年)など)、時局に対する評論活動を積極的に展開する。さらには、「岩波講座哲学」、「岩波新書」などの立ち上げに尽力するなど文化人としても活躍。1937年に日本が中国との全面戦争に突入したことを背景として、三木は近衛文麿の政策集団である「昭和研究会」に参加。そこで指導的な役割を果し、東亜共同体論を展開していくこととなる。
三木はアカデミズムの枠をこえて積極的に時代と関わっていきながらも、哲学研究に対する意欲は旺盛であり、晩年には多くの哲学的著作が発表されている。1939年、『構想力の論理 第一』を出版。その続編である論文「経験」は同年から1943年にわたって『思想』に掲載され、三木の死後『構想力の論理 第二』として1946年に出版されている。この未完の『構想力の論理』が三木の主著であると言ってよい。また、『哲学入門』を岩波新書の一冊として刊行(1940年)。これは、三木哲学への入門書であると同時に西田哲学への最良の入門書である。その他には、『人生論ノート』(1941年)や『哲学ノート』(1941年)・『続哲学ノート』(1942年)、『技術哲学』(1942年)などがある。
しかし、1945年6月12日、治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留される。戦争終結後の1945年9月26日、豊多摩拘置所で疥癬(カイセン)の悪化により獄死。享年48歳。この三木の非業の死をきっかけとしてGHQは治安維持法を撤廃したとされている。残された遺稿は『親鸞』であった。
【本書概要】
死について、幸福について、懐疑について、偽善について、個性について、など23テーマある。ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木清氏の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。その多方面にわたる文筆活動が、どのような主体から生まれたかを、率直な自己表現のなかにうかがわせるものとして、重要な意味を持つ。
【感想】
2022年時点で発行部数200万部を超えるベストセラーなので、気づきが多く、今後の人生において、ためになる言葉が非常に多い。だが一点注意点がある。
この本を執筆していた時代が、1930年代であり、国家総動員法が制定されていた時代。なので、個人が幸福を追求するといった言動は、人前では語れない重苦しい雰囲気が、世間に溢れていた時代だった。よって、普通に表現しても、検閲されて出版が難しいと感じた三木氏は、哲学用語を駆使して、敢えて難解な言葉で、このエッセイを執筆した。なので本のページ数だけでいうと、170ページ程のかなり薄い本だが、内容をしっかり理解して読もうとすると、かなり時間が掛かってしまった。
ただ、23項目のテーマごとに区切られているので、少し手が空いた時間に、少しづつ読み進めることができたところは、かなり有り難かった。以下、自分なりに感銘を受けた部分を記します。
(幸福について)(P20)
愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、反対に、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするという行動に至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは、幸福の何よりもよく示すところである。
哲学といえば、幸福や幸せの定義について書いてある本が、もしかすると最も多いのではないだろうか?そもそも哲学とは、形の見えない概念的な事象を、どう定義するかの学問だと、僕は現在思っている。そういう意味で言うと、幸福とか幸せになりたいと思っている人たちが、ほとんどではなかろうか。まさか敢えて、不幸になりたいなんて人は、極々少数派だと思う。今まで何冊か哲学書や思想書を読んできたが、「幸福とは力である」と言い切っている本は、僕は初めて出会った。なので、結構この言葉は僕にとって衝撃的な言葉である。
また、以下に書いた言葉が、僕が本書でもっとも腑に落ちた言葉だ。それは、「人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは、人格になるということである。」という言葉だ。実は、日々の目標ノートをつけているが、そこによく記している言葉がある。それは、「自分の人格レベルを上げることが、幸せになるもっとも近道だ」である。なので、三木氏の上記の言葉に触れた際、かなり嬉しかった。まるで自分の考えが間違っていなかったと、言ってくれた様に感じたからだ。
(習慣について)(p34)
「人生において或る意味では、習慣がすべてである。」と、習慣のテーマの冒頭で三木氏は言っている。まぁ、若干言い過ぎのところはあると思うが、僕も習慣は、めちゃくちゃ大事だと思っている。最近読んだ、伊坂幸太郎氏の「逆ソクラテス」の感想欄にも書いたが、嘘でも何でもなく「信頼と習慣」は、僕の座右の銘である。なので、日々つけている目標ノートにも、習慣に関しても記している。「良いと思ったことは、習慣化できるまで毎日やり続けよう」と。習慣化してしまえば、無意識レベルでもその行為を行えてしまうのが、最大の利点だと思っている。また三木氏は習慣について、別の視点から以下のようにも記している。
「習慣が技術であるように、すべての技術は習慣的になることによって、真に技術であることができる。どのような天才にも習慣によるものでなければ、何事も成就し得ない。」とある。そう、大事なことは、いかに重要なことを習慣化できるかが、今後の人生において凄く大切な事だと、改めて気づかせてくれた。
(怒りについて)
「ひとは軽蔑されたと感じたとき、最もよく怒る。だから自信のあるものは、あまり怒らない。(中略)ほんとうに自信のあるものは静かで、しかも威厳を具えている。それは完成した性格のことである。」
上記に書いてあることは、本当にごもっともであるし、すべて正論だと思う。だけど軽蔑された時に感情がまったく動じず、普段通りの平常心でいることは、現在の僕ではまだ無理である。恐らくだが軽蔑されることは、自分の存在価値を否定されることと、ほぼほぼ同意であると、現在認識している。なので、人間の本能として軽蔑された際に、脳内で大きなアラートが鳴り響くのだろう。「目の前の人間は、自分にとって危険人物である」と。そこを何とか改善したく、数年前、草薙龍瞬氏の「反応しない練習」を、それこそ何度も読んだが、自分が軽蔑されたときは、どうしても心が反応してしまう。まだまだ修行が足りないと、本書から再認識させてもらえた。
(健康について)
「何が自分の為になり、何が自分の害になるのかの自分自身の観察が、健康を保つ最上の物理学であるということには、物理学の規則を超えた智慧がある。私はここに、このベーコンの言葉を記すのを、禁ずることができない。」とあるが、ベーコンでいくらwebで検索しても、その名言は出てこなかった。出どころは不明だが、奥が深く自分的には胸に刺さった言葉だ。またその後に三木氏はこう記している。
「誰も他人の身代わりに健康になることができぬ、また誰も自分の身代わりに健康になることができぬ。健康は全く銘々のものである。そしてまさにその点において、平等のものである。私はそこに或る宗教的なものを感じる。すべての養生訓は、そこから出立しなければならぬ。」とある。まだ書いてあることの半分ぐらいしか腑に落ちていないが、本書に記載されている言葉の中で、今後自分の中で、理解したい言葉の一つになった。
【雑感】
次は、島崎藤村氏の「破戒」を読みます。この本は、ロシア人YouTuberの方が、オススメしていた本です。その方は、ロシアの有名どころの作家(ドストエフスキーやトルストイなど)は、全作読んでいるのは当然として、日本近代文学も、日本語でも読んでいるという。日本近代文学もかなりの作品数を読んだ中で、この「破戒」が最も感動したんだそう。そんなことを言われれば読みたくなるに決まっている。差別をテーマにした作品であることぐらいは知っていたので、今作を読む為に、網野善彦氏の「日本の歴史を読みなおす(全)」(ちくま学芸文庫)を読み直した。日本人ではないロシア人の方が、日本の差別問題をテーマにした本を読んで、感銘を受けたという。かなり期待して読みます! -
Posted by ブクログ
ネタバレ戦前から戦中期の哲学者・三木清による23章の哲学エッセー。
「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。」(「懐疑について」より)。やっぱり、人の基本部分って「ゆらぎ」であるということを言っていると思いました。僕もずっとそう考えています。どこかひとつの位置に安住するものではない。できるだけ物事をしっかり見つめ、捉えていたいのならば、そうなのです。
懐疑には節度が必要である、と三木清は言う。手順を踏まず、工程を飛ばした懐疑は節度がない、といえると思います。節度のない懐疑は、独断であり、宗教化に陥り、そして情念に基づいて働く、と著者は続ける。また「真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家はまったく論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。」とあります。こういう、ある種のつよさを持って世の中に懐疑をはさむ(意見する)のがベターなんでしょう。
次に「幸福について」のところで、「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。」とあります。こうやって逆転して見てみたがための見抜きは素晴らしいと思いました。そうかもしれないなぁ、なんて思いませんか。幸福は人格である、とゲーテを引いて三木清は断言しています。これは、他律性に縛られないことが生きやすさに大切だ、という僕の考えと重なっているものです。自律性という捉え方と、人格(肉体・精神・活動の総合)っていう捉え方ですから、僕の頭の中のイメージとしては符合するんです。
というように、自分の考えの証左を得られるようなところも少しあって、勇気が湧いてくるような読書にもなりました。
また、今日「非認知スキル」と言われているものを「習慣」という言葉で説明し、ベストセラー『サピエンス全史』の要諦である「虚構」についても、「人間の生活はフィクショナルなものである」として明らかにしていました。世代が変わるたびに忘れていくことだから、おんなじようなことを人間はくりかえしくりかえし、再度論じる人が出てくるということなのかなあ。伝承されるにしても人口に膾炙するにしても、情報量が多いし濃いからなのかもしれないです。
こういうのもありました。「自分が優越を示そうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示そうなどとはしないであろう」(p63-64) これは現在でいうマウンティングに通じる話。マウンティングは、いまや若者にとってメジャーな行為ですよね。それはたとえば僕らの世代が若者のときにそういった波に席巻されていたなら、やはりマウンティングは定着していたと思うモノ。若者ってのはたいてい自信のない存在だろうから、無理してでも優越を欲しがってマウンティングが始まるということになります。つまり、「マウンティング」≒「自信がないことの告白」。あと、「自慢」っていう優越がありますけれども、マウンティングほど他者を組み伏せようとする力は持っていないのだと思います。発散的というか放出的という感じで。まあ、ノーマルな自慢もあれば、マウンティング的自慢もありそうですが。そして、マウンティングがはびこると、ただの「自慢」やただの「事実」すら、受け取り手によって被マウンティング化されてしまいがち。そんなつもりはないのに、相手が「マウンティングされたぞ!」という表情なり反応なりするというアレ。そして、それがマウンティングではないことが理解されない。そういう人に出合うことはふつうにあるので、それゆえマウンティングの袋小路感があります。だから、これを回避するにはみんなが自信を持つことなのだから少しずつ実力をつけていくといいのになぁと思います。そして実力を褒め合えて認め合えるといいのになぁと。せっかくついた実力を種にマウンティングせずに。再度言いいますけど「マウンティング」≒「自信がないことの告白」です。「君をほめたいから、とにかく少しでも実力をつけてみて!」っていう脱マウンティングにつながるスタンスの拡散を希望しますねえ。マウンティングによってみんな要らないちょっとした怒りを自然に抱えあうのはどうかなぁ、ですから。
他、利己主義者は自意識が強くそして想像力がない、と定義されていたりなど、響いてきてこちらの思索を活発にしてくれるような言葉が多々ありました。以下にいくつか興味深かったものを引用します。
「感傷は、なにについて感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。」
「感傷は矛盾を知らない。人は愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みもひとつに解け合う。」
「あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会のみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。」
「『善く隠れる者は善く生きる』という言葉には、生活における深い智慧が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、却って自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的にであるということをしっかりと見抜いて生きることである。」
「生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。(中略)娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。(中略)生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければならぬ。」 -
Posted by ブクログ
薄い本なのに、読み進められないところがある。
そう思うと、あまりの言い分に首っ引きになってしまう項がある。
1つ1つのカテゴリー、例えば生や死、娯楽といった分野ごとに話をまとめてくれているので、どこからでも読むことができます。
なので、★5をつけていながら、ほとんど読み込めていないところもあります(きっと10年後にはそこに興味がいくかもしれません)
座右の書にあげたのは、かれの言い分が自分の価値観を壊してくれたからです。
特に娯楽に関する項目は、「娯楽は仕事の疲れを癒やしてくれるもの」「娯楽だけで生きていけるなら、こんなに素晴らしいことはない」と風潮していた20代、30代を笑い飛ばす。アカデミックな視点をくれました。
ミニマリストに通じる観念もあります。余分なものをもたない、余分に考えない。
シンプルに、日々口に糊する生活であっても幸せはある。
それを書面で教えてくれる、良書です。 -
Posted by ブクログ
高校の現代文の教科書で「旅について」で,三木清に出会ったと思う.高校生ながらにして,とても引きつけられる文章で,国語の授業として読むものというよりも,何度も読み返して反芻したくなるものだった.
最近,岸見一郎さんがこの三木清の人生論ノートを解説する本を出したりして,もう一度じっくりと読みたくなった.色々な出版社からも出ているけれど,角川ソフィア文庫から岸見一郎さんの解説で出版されたものがあったので,購入した.
解説を読むと,より深い理解が得られる.この人生論ノートがどのような時節に書かれたものなのか.そういったことも踏まえてもう一度読み直すと,凄く攻めていることがわかる.
哲学というものの扉を開く,良い読み物だと思う.何度も反芻して読み直したい. -
Posted by ブクログ
哲学エッセイ。ジャンル関係なく 今まで読んだ本のなかで トップ10に入る名著
角川ソフィア文庫 三木清 人生論ノート
それぞれのテーマについて 賛否両方を論じる構成。初読では読みにくいが、繰り返し読むと 著者のテーマの目付けが見えてくる。「パンセ」や「エセー」より面白い
生き方の参考にしたい名言
「幸福は人格である〜幸福はつねに外に現れる」
「時には人々の期待に反して行動する勇気をもたねばならぬ」
「善く隠れる者は善く生きる」
まるで映画のセリフのよう
「愛するもののために死んだゆえに彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼等は幸福であったゆえに愛するもののために死ぬる力を有したのである」
「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の間にあるのである」
まるで現代のネット監視社会を描写しているよう
「噂の根源は不安である」
「噂には誰も責任者というものがない」
解説本2冊。とても面白かった
#岸見一郎 #三木清 #人生論ノート を読む
「死」に平和と希望を見出し、「虚無」を人間の条件とし、「孤独」を超え、「懐疑」に思想の自由を見出し、人生をフィクションとする 凄い哲学
新たに見つけた名言
「善く隠れる者は善く生きる(世の中が虚栄的であることを見抜いて生きる)」
「成功主義者は容易にコントロールできる」は 思い浮かぶ人がいる
「断念することを真に知っている者のみが真に希望することができる」
何かを断念することで別の道に希望を見出す
「人生問題の解決の鍵は新しい基準を発見することにある」
「節約は教養である」最大の効果を上げるための最少の費用すら惜しむ利己主義者に節約はできない
「死について」
*死をそんなに恐ろしく思わなくなった
死は平和という実感
*死は観念である
死を経験することはできないので、観念として考えるほかない
*死は死別したものたちと再会できる希望である
*執着するものがあるから死ねる
執着する気持ちが生きる力になり、死ぬ力にもなる
「幸福について」
*成功と幸福は同じものではない
*成功主義者は容易にコントロールされる
*幸福は人格である
「虚栄について」
*虚栄心とは人間的なパッションである
自分をより以上のものに見せたい意味と自分をより高めたい意味
*人生はフィクションである
想像力が人間の生を作っていく
「人間の条件について」
*虚無は人間の条件である
生命とは虚無をかき集める力である〜それは虚無からの形成力である
人間の条件が虚無であるからこそ、人生は形成であることが導かれる
虚無から形成を行うのは、人間の想像力
「孤独について」
*無限の空間の永遠の沈黙
*孤独は山になく街にある
*孤独を超える
物を救うことによって自己を救うことになる
「希望について」
*希望は、欲望、目的、期待とも同じでない
失われる希望は希望ではない
*愛は希望と結びつく
愛は私と相手の間にある
間とは、人と人との関係を成り立たせる場のこと
*希望は失うことができない
人生問題の解決の鍵は新しい基準を発見することにある
*断念することを真に知っている者のみが真に希望することができる
断念することは形成
何かを断念することで別の道に希望を見出す
「懐疑について」知性の自由
*知性の自由は懐疑のうちにある
*懐疑は、精神のオートマティズムを破る
オートマティズム=精神の習慣性、機械的に結論を出してしまう傾向
*独断家は知性の敗北主義者である
独断=知性の自由を拒む
*懐疑は無限の探究にほかならない
真の懐疑家ソクラテス〜無知の知は探求の出発点
「習慣について」自由と束縛
*習慣はデカダンスに陥りやすい
習慣=私たちの生活秩序
デカダンス=精神を失って形骸化した様子
*習慣を自由になし得る者
*習慣は技術である
*習慣によって我々は束縛される
*習慣を破るものは流行である
流行=新しいものを学ぶこと
流行そのものがデカダンスになる場合、それは最も恐るべき
習慣を破るものは他の習慣である
「噂について」不安と噂
*噂には誰も責任者がいない
*あらゆる噂の根源は不安である
*噂は歴史に入る入口
噂が永続し神話に変わる
「利己主義について」
*純粋な利己主義は稀である
*我々の生活は期待の上に成り立っている
時には人々の期待に反して行動する勇気をもたねばならぬ
*利己主義という言葉は他人を攻撃するために使われる
集団のなかの個性を潰すためのレッテルとして使われる、という意味
「秩序について」心の秩序と深い智慧
*どのような外的秩序も心の秩序と合致しない限り、真の秩序ではない
*節約は教養である
最少の費用で最大の効果を上げることを前提として、最少の費用すら惜しむ利己主義者に節約はできない
*秩序の構想には価値体系が必要である
*無秩序が独裁政治の基盤になる
内面的なアナーキーこそ独裁政治の地盤
*人格も自由も秩序であることを理解すれば〜虚無主義には陥らない(現実はそうではないと三木は危機感を募らせている)
「仮説について」
*各人は一つの仮説を証明するために生まれている
自分のテーマを追求することが人生であることを意味
*常識は仮説的なところがない
常識は信仰である
「旅について」
*旅は日常からの脱出であり過程である
過程なのだから、到達点がどこかは関係ない
「偽善について」
*人間は生まれつき嘘つきである
*偽善のなかにある阿諛(媚びへつらい)が人を破滅させる
*世の中が虚栄的であることを見抜いて生きる
善く隠れる者は善く生きる
「懐疑について」知性の自由
*知性の自由は懐疑のうちにある
*懐疑は、精神のオートマティズムを破る
オートマティズム=精神の習慣性、機械的に結論を出してしまう傾向
*独断家は知性の敗北主義者である
独断=知性の自由を拒む
*懐疑は無限の探究にほかならない
真の懐疑家ソクラテス〜無知の知は探求の出発点
「習慣について」自由と束縛
*習慣はデカダンスに陥りやすい
習慣=私たちの生活秩序
デカダンス=精神を失って形骸化した様子
*習慣を自由になし得る者
*習慣は技術である
*習慣によって我々は束縛される
*習慣を破るものは流行である
流行=新しいものを学ぶこと
流行そのものがデカダンスになる場合、それは最も恐るべき
習慣を破るものは他の習慣である
「噂について」不安と噂
*噂には誰も責任者がいない
*あらゆる噂の根源は不安である
*噂は歴史に入る入口
噂が永続し神話に変わる
「利己主義について」
*純粋な利己主義は稀である
*我々の生活は期待の上に成り立っている
時には人々の期待に反して行動する勇気をもたねばならぬ
*利己主義という言葉は他人を攻撃するために使われる
集団のなかの個性を潰すためのレッテルとして使われる、という意味
「秩序について」心の秩序と深い智慧
*どのような外的秩序も心の秩序と合致しない限り、真の秩序ではない
*節約は教養である
最少の費用で最大の効果を上げることを前提として、最少の費用すら惜しむ利己主義者に節約はできない
*秩序の構想には価値体系が必要である
*無秩序が独裁政治の基盤になる
内面的なアナーキーこそ独裁政治の地盤
*人格も自由も秩序であることを理解すれば〜虚無主義には陥らない(現実はそうではないと三木は危機感を募らせている)
「仮説について」
*各人は一つの仮説を証明するために生まれている
自分のテーマを追求することが人生であることを意味
*常識は仮説的なところがない
常識は信仰である
「旅について」
*旅は日常からの脱出であり過程である
過程なのだから、到達点がどこかは関係ない
「偽善について」
*人間は生まれつき嘘つきである
*偽善のなかにある阿諛(媚びへつらい)が人を破滅させる
*世の中が虚栄的であることを見抜いて生きる
善く隠れる者は善く生きる
「希望について」
*希望は、欲望、目的、期待とも同じでない
失われる希望は希望ではない
*愛は希望と結びつく
愛は私と相手の間にある
間とは、人と人との関係を成り立たせる場のこと
*希望は失うことができない
人生問題の解決の鍵は新しい基準を発見することにある
*断念することを真に知っている者のみが真に希望することができる
断念することは形成
何かを断念することで別の道に希望を見出す
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Posted by ブクログ
170ページちょっとの薄い本。
だがしかし、内容が濃い。
私の場合は精神年齢が本に追いついていないせいか
内容を理解するのに時間がかかりました。
昭和二十九年発行。
当時の学生さんはすんなり本の内容を受け入れていたのかと思うと、昔の人々の成長スピードの速さに驚かされます。
この本が難しく感じる理由として、具体例がないことが挙げられます。
使っている単語が難しい(なじみのない言葉)上に、具体例がないので、文章から自分の経験に落とし込んで理解する必要がありました。
(辞書引きながら本読んだのは学生の時以来です)
正直、著者の言わんとしていることを全て理解できたかというと?です。1/3くらい理解できた感覚かなぁ。
この本で得た気づきは以下です。
”他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。”
幸福と成功は同じものであると、長年ごっちゃにして生きてきましたが、そうではない!のです。
幸福と成功は別物であり、別の性質を伴うものだと説いています。
長いこと、他人の成功を嫉んできましたが、幸福と成功を同じものとして考えていたからなのかもしれません。
(結構多いんじゃないかな~)
他人の成功を素直に喜べる人は、幸福と成功の違いを理解して腹落ち出来てる人なんじゃないかな、と感じました。
では、他人の成功を嫉妬せず、自分には自分の幸福があると自信を持つためには??
”自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個人的な人間ほど嫉妬的でない”
と、著者は説いています。
嫉妬からは何も生まれない。嫉妬するくらいなら行動しろって事ですね。
久しぶりに体力の使う本を読みました。
数年後読み返したら、今とは違った感じ方をするのかもしれません。