木村榮一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ボルヘス好きなのだが、うーんこれは面白……みを感じづらかったな。
というのも、パズラー式に情報の提供と解明が行われるわけでもなく、依頼人がダラダラと喋りまくり、パロディが推理、というよりは「説明」していく。
申し訳ない、ほとんど流し読みになってしまった。
「簡潔なご説明をお願いできますか」
「はい、一切の隠喩を差し挟むことなく直截な表現を試みてまいりますが、私のごとき描写の才に欠けた者の見聞きしたことで本当にお眼鏡にかなうものでしょうか、ところでウェルギリウスの同伴者でもあったかの才に長けた作者の言葉を借りれば」云々、
みたいなお喋りキーワードが時々出ていて、そこを探すのが面白かった。
解説に、ボルヘスの惹かれたプロットは三つに分けられる、〈(1)推理小説仕立ての作品。(2)ナイフ使い、ならず者を主人公にした作品。(3)聖なるもの、超越的なものをテーマにした作品〉とあった。
私含め少なからぬ読者は(3)を求めるのだが、実は(2)を通じて〈ヨーロッパ的な古代、中世の英雄叙事詩が欠けているアルゼンチンに英雄叙事詩、あるいは英雄物語をよみがえらせようとしたひとつの試み〉なのだと。
なるほどな……これって中上健次が初期に「世界はいつまでもギリシャ悲劇を演じ続けている」と書いた上、延々中本の一統を描いたことにも通じるんじゃないかしらん。
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[目次]
◇H・ブストス=ドメック
◇序文
※身に覚えのない殺人の罪で投獄され、服役中の元理髪店主イシドロ・パロディが、面会人が持ち込む数々の難事件を対話と純粋な推理のみで解き明かしていく。
■世界を支える十二宮
黄道十二宮を用いたイスラム教の加入儀礼の最中に宗派の導師が殺され、容疑をかけられた新聞記者。
■ゴリアドキンの夜
急行列車内で起きたロシア皇女のダイヤをめぐる犯罪に巻き込まれた舞台俳優。
■雄牛の神
パンパの大草原を望むテラスで雄牛の行進を眺めつつ刺殺された農場主。
■サンジャコモの先見
勲章受勲者の一人息子と婚約した娘はなぜ毒殺されたのか。
■タデオ・リマルドの犠牲
下町の安ホテルに集う人々に新来の田舎者がもたらした波紋とその結末。
■タイ・アンの長期にわたる探索
雲南奥地の至聖所から盗まれた宝石を追ってブエノスアイレスへやって来た中国人魔術師の探索行。
◇訳者解説 木村榮一 -
Posted by ブクログ
大作家2人の共作、しかもミステリーということでワクワクしながら読んだのですが、割と難解で読むのに時間がかかってしまいました。
身に覚えのない殺人の罪で服役中のドン・イシドロ・パロディのもとに様々な依頼人がやってきて話をし、彼が独房から出ることなく事件を解決していく連作短編集。
とにかく相談者たちがみんな饒舌。大袈裟な話し方をしたり、見栄を張ったり、脱線しまくったりで、肝心の事件の全貌が分かりづらいのです。各短編は事件編と解決編に分かれているものの、事件を解決するのを楽しむというよりかは彼らのお喋りをどれだけ楽しめるか(耐えられるか)、みたいな感じの作品でした。
収録されいる中では電車の話とホテルの話が好きでした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ待ちに待っていた本。
手に入れた瞬間、うわー装丁素敵だな、と。
ざっくり言うと、
・あるシチュエーションに落ち込んだ人物を描写するシニカルでブラックなユーモアに満ちたコント。
・いまや失われた人や時代への愛惜。
の2種類。
私が求めていたのはもちろん後者。
だがほどよく前者もありバラエティ豊かで、決して詩的小説だけではないという作家の多面性を感じることのできる、いい一冊。
あと、当事者以外の息子娘世代が、上の世代を思うという形式も、短編らしい一ひねりでいいスパイス。
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◇読者へ
◇Ⅰ『僻遠の地にて』1995の短篇集 7篇
■冷蔵庫の中の七面鳥の死体 ……シニカルの極致。
■自滅的なドライバー ……★前者、だがどこかフリオ・コルタサルっぽさもある。
■腐敗することのない小説 ……既読。「黄色い雨」文庫版では「不滅の小説」。
■夜間犯罪に対する刑の加重情状 ……世にも奇妙な物語っぽいか。
■遮断機のない踏切 ……「黄色い雨」文庫版で既読。
■父親 ……ちょっとジュヴナイルの書き出しっぽい。
■木の葉一枚動かんな ……★そうそうこれこれ。失われたものへの愛惜だか沈滞だかを、息子視点から。
◇Ⅱ『いくら熱い思いを込めても無駄骨だよ』2011の短篇集 13篇
■ジュキッチのペナルティー・キック ……シチュエーション・コント。
■マリオおじさんの数々の旅 ……★一見村上春樹にありそうな。しかしヴィットリオ・デ・シーカ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演「ひまわり」への言及が抜群にイメージを喚起する。
■世界を止めようとした男の物語 ……浮浪者に過去ありき。
■姿のない友人 ……浦沢直樹「マスターキートン」とか弘兼憲史「黄昏流星群」にありそうな!
■いなくなったドライバー ……★あっ。これ他人事じゃない。
■行方不明者 ……→「狼たちの月」へ。
■依頼された短篇 ……太宰治がやっつけで書きそうな話だな。
■尼僧たちのライラック ……★尼僧ではないが勝手に映画「汚れなき悪戯」を連想。あの映画の数十年後とか。
■ラ・クエルナの鐘 ……→「狼たちの月」へ。
■暗闇の中の音楽 ★→「無声映画のシーン」へ。また炭鉱事故という点で、→森崎和江「まっくら」へ。そして死を悼む音楽。
■夜の医者 ……→「狼たちの月」へ。
■プリモウト村には誰ひとり戻ってこない ……★→「黄色い雨」へ。
■明日という日(寓話) ……1ページの掌編。
◇Ⅲ『水の価値』2016の短篇集 より、1篇のみ
■水の価値 ……★これは自分の祖父の現状を思って切ない。そして小道具に視点が合う短篇として抜群。
◇訳者あとがき 木村榮一 -
Posted by ブクログ
ボルヘスの講演集、1978年ベルグラーノ大学にて。
□ 「書物」
情報とは、何か或る即物的な目的に従属しその目的に奉仕することだけが求められる手段としての知識でしかない。しかし書物は、単に情報を伝達する媒体なのではなく、それ自体として独立した意義をもつ存在なのだということ。単なる媒体以上である本の存在理由、それは本の「物質」性、その「物質」としての存在感、の内に在る何かではないか。以下は、「物質」としての本の魅力を表現した最も詩的で美しい文句であると思う。
「私は今でも目が見えるようなふりをして、本を買い込み、家じゅうを本で埋め尽くしています。先だっても、一九六六年版のブロックハウスの百科事典を贈り物にいただきました。家の中にその百科事典のあることがはっきり感じとれ、私は一種の至福感にひたっていました。今の私にはそのゴシック文字は読めません。地図や図版も見ることはできないのです。それでも、書物は間違いなくそこにあり、私は書物が放つ親しみの込もった重力のようなものを感じていました」
私は本を読むのが好きで、本を読み終わるのはもっと好きだが(そこから私が本の中に自由に吸収されて、こうした文章を書いている)、一番好きなのはそうして読み終わった本を本棚にしまうときだ。「物質」としての本を収集し・分類し・排列する、それは自分の内なる世界を外化するということ。しかし、書物によって積み上げられたその世界は、作者だとか読者だとかいう個体化された存在を超え出てヨリ大きな何かに人を接続していく、そんな予感をボルヘスは何度も書いているように思う。
「バーナード・ショーはある時、聖書は聖霊によって書かれたと言われますが、あなたは信じますかと訊かれて、《再読に耐える本はすべて聖霊によって書かれたのだ》と答えました。これはつまり、一冊の本は作者の意図をはるかに超えたものになるということにほかなりません」
「人は二度同じ川に降りていかない、とヘラクレイトスは言いました(・・・)。誰も二度同じ川に降りていかないとは、流れゆく川の水はつねに変化しているということです。しかし、それにもまして恐ろしいのは、われわれが流れゆく川に劣らず移ろいやすい存在だということです。われわれが書物を読むと、もはや以前に読んだ本と違っていますし、語の意味も違うものになっています。しかも、書物には過去も詰め込まれているのです」
「古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなものです」
世界や人間と同じく、書物も生成流転する(「書物はひもとくたびに変化する」「書物は読者によって豊かなものにされてきた」)。
□ 「探偵小説」
新しい文学ジャンルの発明は、新しい型の読者の発明を同時に意味するということ。知的遊戯としての読書行為の誕生。純粋に知的な快楽のために本を読む読者の誕生。
次の一文は、現代的で些か”難解”な小説を読んでいるさなかにふとミステリを読みたくなる感覚を、よく説明してくれている。
「探偵小説擁護のために何が言えるでしょう? ひとつ、疑いもなく明白な事実があります。つまり、現代の文学は混沌へ向かっているということです。詩は韻文よりも容易な(本当はむずかしいのですが)自由詩へと舵を切り、小説は登場人物やプロットを喪失し、一切は漠然としたものに変わりつつあります。混沌とした現代にあって、慎ましやかではあるが、古典的な美徳を今も保ち続けているもの、それが探偵小説なのです。起承転結のない探偵小説など考えられません。・・・。・・・、現在いささか軽視されている探偵小説は、無秩序の支配する現代にあって秩序をもたらしています」
□ 「時間」
無限が無時間的に一括的に存在する事態としての実無限と、無限が時間的に継起的に生成していく自体としての可能的無限。その構造の差異。
物理的な時間・空間は、実数によって量化されているが、それらが本当に実数の集合によって1対1対応が可能であるとする根拠はあるのか。例えば時刻 t=0 から t=1 までの間にある時刻は、それを全て埋め尽くす濃度として実数の濃度が一致するのか。有理数のみで足りるということはないのか、実数だけでは足りないということはないのか。実数の連続性という性質が、物理学が時間・空間という概念に要請するものとして、過不足がないと言える根拠は何か。