麻田雅文のレビュー一覧
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独ソ戦、バトル・オブ・ブリテン、ベトナム戦争、イラク戦争を題材に、勝者に共通する知略について解明した本。『失敗の本質』をはじめとする本質シリーズの最終巻である。分析が精緻で、勉強になった。役立つ記述が多かった。
「『失敗の本質』の最も主要なメッセージは「過去の成功体験への過剰適応」ということであった。日本陸海軍は戦略の本質を洞察せず、日露戦争で成功した戦い方に固執したために、大東亜戦争という異なる情況では失敗してしまった、ということになろう」p5
「ドイツ軍は70個の装甲師団を有し、各地で展開している。もはや歩兵師団といえども、多数の機械化部隊を持っていなければならない。ただドイツ軍の弱点は、補給地から前線まで、400キロ近く遠ざかっていることだ。これは機甲師団が先へ先へと行くからだ。補給地と前線の間を防衛するのは至難である。スターリンは、装甲部隊と兵站こそ、この戦争の鍵を握ると分析した」p19
「(スターリンの見通し)冬の間の戦場は、モスクワ、キエフ、レニングラードの戦線で、現在の地点から100キロも離れていない場所になるだろう。ドイツ軍が疲れ、攻勢に耐えられなくなったときが、ソ連軍には最も有利な時の1つだ」p20
「ソ連側に幸いしたのは、ドイツ空軍が、モスクワへ向かう鉄道や道路での輸送が活発なのを視認していたにもかかわらず、何の攻撃も加えなかったことだ。ソ連にはすでに予備兵力はない、と信じ切っているドイツ軍首脳部は、偵察飛行の報告を真剣に取り上げなかった。代わりにドイツ空軍は、モスクワ中心部と近郊の飛行場へ、爆撃を集中させる」p30
「飢えと寒さによる極限状態での戦いを強いられたのは、独ソ両軍とも同じだった」p37
「ドイツ軍は、対ソ戦の開始から1941年末までの半年間に、戦死者62万1308人、行方不明者3万5875人という、甚大な損害を出した。その合計は、東方に展開したドイツ軍の1/4を上回る。もちろんその損失は、同年末までに死者80万2191人、行方不明者233万5482人を出したといわれるソ連軍より、はるかに少ない。ソ連末期に公表されたこの数字も、少なすぎるという指摘すらある」p47
「スターリングラード攻防戦の主役を務めた両軍の戦力は、ほぼ互角だ。ドイツのB軍集団が30個師団、ソ連のスターリングラード方面軍は38個師団で、兵力は両軍ともおよそ100万人、戦車・突撃砲はドイツ軍の675に対し、ソ連軍は894だった。航空機はドイツ軍が1216機、ソ連軍が1400機である」p53
「ソ連兵士たちの正面には、ドイツ軍がいる。後ろには、逃亡を取り締まるソ連内務人民委員部の部隊がいる。双方から銃口を向けられたソ連軍将兵は、遮二無二戦うよりほかなかった。こうした監視は、ロシア革命後の内戦でも見られたもので、軍に対する共産党の不信感を物語っていた」p55
「チュイコフは、兵士たちを過酷な前線に叩き出す。ただ、自らも最前線で砲火に身をさらし、兵士たちと生死をともにしたので信頼された。戦時中に、彼はこう言っている。「ドイツの砲弾にいちいち首をすくめるくらいなら、頭をすっ飛ばされたほうがましだ。これが指揮官の心得だ。兵隊はそういうことをちゃんと見ている(ビーヴァー『赤軍記者グロースマン』)」また、こうも言っている。「ここでは、いかなる弱さも見せてはならない」「司令官は数千人の部下が死ぬのを見るが、そのことで動揺はしない。涙を見せていいのは、一人の時だけだ。最良の友がここで死んでも、巌のように立ち続けなければ(Hellbeck, Stalingrad)」p60
「ソ連は勝利した。推計によれば、この攻防戦でのドイツ軍の戦死、病死、餓死者は合わせて14万6000人である。ソ連軍は死者47万4871人、負傷者97万4734人と、さらに多くの犠牲者を出した」p72
「(米ソで勝敗を分けたもの)1つの答えは、補給である。ドイツ軍を食い止めるには至らなかったものの、ソ連軍は各地でドイツ軍に多大な出血を強いていた。ドイツ軍は損耗が積み重なり、得意の電撃戦を繰り出すごとに弱まっていった。戦争の帰趨は、個々の戦闘でどちらが兵士と武器をより多く投じられるかという、消耗戦に移行する。両軍の戦力差が縮まった結果、国内という地の利を生かして、補給で優位に立ったソ連軍が勝利を収めた。とくに、ソ連軍の補給で大きな役割を果たしたのが、鉄道だ。モスクワとウラル以東を結ぶ鉄道が無傷だったことが、補給を可能にした。大量輸送のインフラに支えられて、シベリアや中央アジアからの援軍や食料が、モスクワの最前線に供給され続けた。圧倒的に優位な敵にも限界があることを見越して、劣勢を耐え忍び、好機を逃さず、予備兵力を一気に投入する。こうした泥臭いソ連の作戦を、過小評価してはならない。そして、その予備兵力を用意したのがスターリンである」p80
「少数部隊が劣勢を補うのに、都市は戦場として都合がよい。市街戦では、兵力の差よりも地の利を生かしたほうが有利になるからだ。そうした意味で、スターリングラードの戦訓は現代にも生きている」p82
「ソ連軍に勝利を呼び込んだのは、戦時における戦術と戦略の劇的な「進化」である。具体的には、戦争の推移に合わせ、消耗戦と機動戦を柔軟に使い分けたことだ。一方、スターリングラードまでのドイツ軍は、電撃戦よりほかに戦う術を知らなかった。より戦場に適応したほうが勝ち残る適者生存の法則は、ここでも当てはまる。ただその教訓は、2600万人を超えるソ連国民の血であがなわれた」p83
「(フランスの戦闘機増援要請)チャーチルの言葉を借りれば、それは「われわれがフランスを苦悩のうちに見殺しにするか、それともわれわれの将来の生存に必要な最期の手段までもここで使い切ってしまうか」という苦しい選択であった」p112
「1940年9月初旬以来ドイツ空軍がセクター基地への攻撃を止め、ロンドンなど内陸部の大都市攻撃に重点を移してから、イギリス戦闘機軍団は徐々に戦力を回復していった。9月半ばまでには、ハリケーンとスピットファイアの生産がその損失を上回り始めた」p133
「9月7日から11月13日までロンドンはほぼ連夜、平均160機による爆撃を受けた。こうした夜間爆撃に対する戦闘にイギリス戦闘機軍団が完ぺきな勝利を収めたとはいいがたい。ひいき目にみても、それは引き分けであった。しかし、夜間爆撃の軍事的効果はそれほど大きくなく、これによってイギリスの戦意喪失をねらったドイツ側の目的は達成されなかった。夜間爆撃は、人々を恐怖に陥れたり、眠らせなかったり、またときには、多くの死傷者を出した。1940年末までにイギリスの民間人戦没者は、ブリッツによる犠牲者を含んで2万3000人に上り、重傷を負った者は3万2000人に達した。確かにその人的・物的被害を軽視することはできなかったが、軍事的に見る限り、その効果は重大ではなかった。人々はブリッツに少しづつ慣れ始め、やがてそれは日常生活の一部のようにさえなっていった。夜間爆撃によってもイギリス国民の士気は衰えなかったのである」p135
「大西洋の戦いにより、最終的に連合国は商船3500隻、艦船175隻を失い、軍人の戦死者3万6200人、商船乗組員死亡者3万6000人という犠牲者を出した。ドイツ側は潜水艦783隻を失い、戦死者は3万人であった。Uボートに関していえば、その乗組員の3/4が戦死した。こうした数字が物語るように、大西洋の戦いは長く続いただけでなく、厳しい戦闘の連続であった」p138
「1943年3月に大西洋の戦いで連合軍がUボートによって被った被害は、船舶82隻、47万6000トンであったが、同年5月にはそれが34隻、13万4000トンに減少した。より重要だったのは、連合軍が撃沈したUボートの数である。大西洋でドイツが失ったUボートは3月に12隻だったのに、5月には34隻となった。Uボートの建造数がまだ増加していたとはいえ、これはドイツにとって重大な損失であった。その後もUボートの損失は激増する。1943年の1年間だけで、大西洋で258隻のUボートが沈められた。うち141隻は沿岸航空軍団によるものとされているので、航空機の役割が大きかったことがわかる」p165
「戦略問題は、帝国参謀総長(陸軍)、海軍軍令部長、空軍参謀長からなる三軍幕僚長委員会が担当し、チャーチルは同委員会に、首相の個人代表としてヘイスティングス・イズメイ将軍を常時出席させていた。イズメイは、同委員会の事務局長も兼ねた。要するに、チャーチルはイズメイを介して三軍幕僚長委員会をリードし、陸海空三軍の事実上の最高指揮官となったのである。正式の会議の場以外でも、チャーチルは三軍幕僚長たちとほぼ毎日会い、休日には彼らをチェッカーズ(首相官邸の別邸)に呼びつけることもあった。チャーチルにより、イギリスの戦争指導体制はトップに強力な権力を集中させた。それは、デモクラシーのもとでの戦時「独裁」と呼ぶべき体制であり、しかも、この「独裁」者に対して、戦略問題について補佐するのは三軍幕僚長委員会であった。ただし、トップはシビリアンの首相であり、それによってシビリアン・コントロールが担保された」p173
「歴史についての理解と洞察が、戦局の見通し、敵の意図や行動、そして戦時指導者としてのあるべき言動などについて、チャーチルのセンスあるいは直観を磨いていたのだろう。彼は青少年期にE・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』とT・マコーレーの『イギリス史』を暗唱できるまで読んだという。また、すでに26歳のときには3つの戦争に従軍し、5冊の本を上梓(じょうし)していた。若年の頃から、体験と思索によって戦いの本質を見極めようとしていたのである」p177
「チャーチルは常に攻勢を重視した。「可能であれば、いつでも、どこでも攻撃せよ」「攻撃されていても、攻撃せよ」というのが彼の口癖でもあった。それゆえ軍人たちの慎重さを臆病、弱気、不決断と批判するきらいがあった。チャーチルは、消極的と見えるものを嫌った。大西洋でのUボートとの戦いにチャーチルが不満であったのは、こうした彼の気質に一因があった」p178
「イギリスの防空システムは、核兵器以前の時代で最も成功を収めた軍事的イノベーションの1つであると評された」p180
「自国の存続を図ると同時に、ドイツに対する抗戦の意志と能力を示すことによって、アメリカの全面的支援ないし参戦を勝ち取ることであった。そのためには、当面、敵の上陸作戦が困難になる時期まで、ドイツの攻撃を乗り切ることができればよかった。そしてイギリスは、バトル・オブ・ブリテンを持久消耗戦に持ち込んで、勝利を収めたのである」p184
「ホー・チ・ミンは、日本が敗北し、連合国軍がベトナムに上陸してくる前の「権力の真空」を逃さなかった」p193
「(アメリカの北ベトナム爆撃)「ローラーでは蟻は潰せない」」p224
「テト攻勢は軍事的に完敗した側が、意図せざるメディア作戦で政治的勝利を獲得した、歴史的に稀有な戦闘であった」p237
「ゲリラ戦の本質は、決して負けないが、決して勝てないという矛盾にある」p247
「ナポレオン戦争の本質を明らかにしたクラウゼヴィッツは『戦争論』の第6章「戦争の天才」のなかで「coup d'oeil(クー・ドゥイユ)」という文字通り「一瞥」を意味するフランス語が天才ナポレオンの秘密であり、それは「長い試みと熟考の末にのみ得ることのできるような、瞬時に真実を見抜く直観」だと論じた」p248
「(ダニエル・ボルガー)アメリカ軍の兵力はそもそも「短期決戦の通常戦」に向けて装備を整え、錬成してきたにもかかわらず、二度も「長期にわたる泥沼の対反乱戦」というアメリカ軍兵力に適していない戦争に引きずり込まれてしまったが、ボルガー自信を含む将軍たちは戦争の現実を直視せず、戦略的な誤りを正すことができず、戦略と戦術面の両面で貧弱なリーダーシップしか発揮できなかった」p344
「軍事組織では、適応と革新を峻別する。適応と革新を分けるのは、有事に軍事組織が両者を同時に行うことが困難だからである。よって、平時に未来の戦闘を想像し、実現するための新たな概念を創造して、それらの実行可能性を演習で評価し、人事を刷新し、実戦に適応することのできた軍事組織が勝利する」p374
「実践知リーダーの6つの能力:①善い目的を創る能力。②ありのままの現実を直観する能力。③場をタイムリーに創る能力。④直観した本質を物語化する能力。⑤物語を実現する政治力。⑥実践知を組織化する能力」p380
「いかなる環境変化にも能動的に対応する国家、組織であるためには、リアルタイムで「物語り」を紡ぎ、実践するしぶとさが求められるだろう」p408
「思い(暗黙知)を言葉(形式知)にし、言葉を実践(実践知)していくダイナミック・プロセスが、危機を打破する創造の世界の扉を開くのである」p411
「リーダーが選び取ったものは、組織の成員に理解されなければならない。理解されなければ、組織として実践できない。組織成員に理解させるためには、理解してもらうためには、選び取ったものを物語らなければならない。そして、物語るためにはプロット(事実となぜの筋書き)とスクリプト(台本、行動規範、ドクトリン?)が必須である。これが「知略」である」p413 -
Posted by ブクログ
[七年の逡巡]日本史の教科書でもちょこっとしか取り上げられないシベリア出兵。七年に及んだこの出兵の背景を分析するとともに,それが国際政治に与えた少なくない影響について考察した作品です。著者は,1980年生まれの新進気鋭の日中露関係史研究者である麻田雅文。
目の付け所だけですでに満点を叩き出したくなる一冊なんですが,その内容の濃密さ故に大絶賛を惜しみなく与えたくなる作品でした。読み進めるほどに「え,こんなことがあったのか」と驚かされる事実を次から次へと紹介してくれており,日本近代史に興味のある方はもちろん,国際政治に興味を持つ方にも強くオススメしたい一冊です。
〜開戦の決断は華やかで,勇ましい。その結果が戦勝であればまだしも,得ることもなく戦争を終わらせる責任を負うのは,その何倍も難しいことをシベリア出兵は教えている。〜
高評価続出の理由がよくわかりました☆5つ -
Posted by ブクログ
これは読んでよかった。
教科書で触れたシベリア出兵、正直なんでこんなことをしたんだろうと思っていた。第一次世界大戦が起こって、同盟の関係で大陸に行って、でも撤退したのが遅くて批判…てくらいしか触れてなくて、全然意味が分からない。
分からないのは、知らないから。この本を読んで、全部納得した。外交の怖さ、このころからもう、次の戦争、日中戦争や大東亜戦争の足音は聞こえていたのだ。
シベリア出兵が次の日中戦争の教訓になっていないという悲劇、という一文も絶句した。
前回読んだ本に「人類の歴史は教訓が生かされない」とあって、これが戦略のロジック…と思い絶句した。
となれば、またこの国は…なんて空を仰いでしまう。その時私たちは冷静に物を見ることができるのだろうか(できないだろうな) -
Posted by ブクログ
ロシア革命の混乱の中、第一次世界大戦の終結への諸外国と人々の思惑によってシベリアの地に出兵された、その7年間について分かりやすく書かれています。出兵に意味はなかったと言われていて日本も多くを失ったのですが、では誰が出兵させたのか、なぜ幕引きが出来なかったのか。一人の人間が単純に決めたことではない舞台裏を見るにつけ、あれ、と既視感を覚える場面も、読後感にも、あります。何かを始めることは簡単でも、それを収めることの難しさ。今でも共通して見られるのではないでしょうか。とりあえずやって見たらいい、ダメだったらやめたら良い。ということは会社で働いていると当たり前のように聞きますが、それはとても無責任な発言だと気づかされました。現代の会社で働いていると、それは金銭的な損失でしょうが、ひいてはシベリア出兵のように人命にまで発展する可能性があるということ。何よりも責任の所在が曖昧になってしまうということ。重く考えなければならないと思わされました。
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ロシア革命による混乱に乗じて各国が利権を得ようと介入したシベリア出兵。自分が生まれる前に他界した父方の祖父(富山)はこのシベリア出兵に従軍していた。朝鮮の光州でも商売やっていたので、大陸に何か思うところがあったのだろうか……。早稲田大学教授の本野英一先生のお祖父さん(本野一郎)登場(当然だが)。うちの祖父は単なる兵隊さんだが、こちらは時の外務大臣。ロシア通として知られ、シベリア出兵に積極的であった(ただし、1918年に57歳の若さで胃癌で亡くなった。寺内正毅も途中で死亡。原敬も死亡。山県有朋も死亡。加藤友三郎も死亡*。是清は生き残ったが、責任者が次々と死んだことも出兵が長引いた一因か。*加藤友三郎は1923年に死亡なので完全撤退までは生きられなかった)。
北サハリンからの撤兵も含めて7年間にもわたる海外での軍事行動で失われた将兵の数が3,333人(軍属のみの戦病死者)というのは意外に少ない気がした。もちろん、内戦で死んだロシア人の数(8万人という推計は過大かという著者の指摘)に比しての話だが。また尼港事件などでの民間人犠牲者は含まれていない。
ともかく他国の内戦に干渉するという、今も繰り返される軍事介入の典型。利害関係者が非常に多岐にわたるにもかかわらず、そして新書という限られたスペースにもかかわらず、大変わかりやすく書かれており、オススメ。当時の国内での動きもシベリア出兵というファクターを1枚噛ませると見えてくることも多々あり、勉強になった。
余談だが今年は大和和紀「ハイカラさんが通る」の劇場版アニメも公開されるとか。あれもシベリア出兵が時代背景……というか、まさにそれがなければわけわからない物語。今の若い人もこの本を読んで、「ハイカラさんが通る」を観に行かれることを強くオススメしたい(違)。 -
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「“用語”が何となく知られている他方で、内容が然程詳しく知られているでもない」というような史上の事案は多々在る。そういうモノに関して「手際よく説く」というのが、“新書”の「望ましい役目」だと思うが、本書はそういう役目を確り果たしてくれる一冊だ。
「シベリア出兵」だが…これは大正時代の第一次大戦の終わるような時期、色々と混迷した当時の世相等が語られる文脈で「さらり」と用語が登場する…そういうような、「軽い扱い」である印象を免れ得ない。が、実際には「7年間」もの長きに亘って、国外で軍事作戦が展開され、出て行った将兵や現地の人達の中に大きな犠牲が生じていた事案で、もっと注目されて然るべきなのであろう…
こういうようなことを踏まえて本書は登場したようだ。事態が発生したのが1918年ということで、間も無く“100年”ということにもなる…2014年頃、発生から“100年”ということで「第一次世界大戦」にスポットライトが当たった経過が在ったが、著者はそういう事柄も意識して本書に取組んだようだ。
価値ある一冊で、多くの方に薦めたい。 -
Posted by ブクログ
日露戦争の本だと思って手に取ったら、日ソ戦争の本だった。それぐらい自分にとって日ソ戦争は印象が薄くて、「ポツダム宣言を受けたあとに、約束を破ってソ連が攻めてきて、北方領土を取られた短い戦争」くらいの認識しかなかった。
でも、この本を読んで知ったのは、停戦したあとにこそ悲惨な戦闘が続いていたこと。民間人を乗せた船への攻撃、虐殺や性暴力。停戦という宣言に何の意味があったのかと考えてしまった。
読んだあとにNHKアーカイブスの映像も見た。樺太から帰ってきた人が家族に迎えられる場面を見て、活字で読んだ悲惨さがより身近に感じられた。
領土の話だけで見ていた日ソ戦争が、短い期間で多数の民間人が亡くなった戦争として、重く見るべきものに変わった。 -
Posted by ブクログ
1945年8月8日から9月上旬まで、日ソ中立条約を破棄してのソ連の侵攻により、満洲・朝鮮半島・南樺太・千島列島で行われた日ソ戦争について、新史料も駆使して、その全貌を描く。
これまで、戦争末期のどさくさに紛れ日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連が攻めてきて、シベリア抑留等につながったというくらいのイメージしか持っておらず、あまり知らなかった日ソ戦争について、その経緯や実態がよくわかった。例えば、ソ連の参戦についてはアメリカの要請が以前からあったこと、日本側ではソ連参戦を察知する部署もあったが希望的観測の下、大本営等は見て見ぬふりを続けていたこと、一部では日本軍も健闘していたこと、ソ連兵による民間人の虐殺や性暴力など戦争犯罪行為の跋扈、千島列島や北方領土をソ連が奪取する過程などである。
日ソ戦争は短期間の戦争ではあったが、北方領土問題や現在のウクライナ戦争でも見られるロシアの「戦争の文化」などにもつながる重要なものであったと認識し、現代においても教訓の多いものだと感じた。また、当時のソ連の様々な非道については、きちんと責任を追及していくべきだと思った。 -
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【感想要約】
戦争末期のソ連参戦の経緯・背景・影響を丁寧に解説。通説を踏まえつつソ連の意図や事前準備、米国の関与に新たな視点を示す。被害の大きさに比して知名度が低い点を問い、「日ソ戦争」の呼称に込めた問題意識と歴史を正しく知る必要性を訴える。
【内容】
先の大戦末期の日ソ戦争に焦点を当てた書籍。一ヶ月も経たずに終結したものの、ソ連兵150万人以上が既に軍事的、経済的に消耗しきった日本へ満州、樺太、千島列島といった多方面から一斉に攻撃を仕掛けたこの戦いは、ノモンハンを超える一大戦争だった。特筆すべき点は、第一に民間人への被害が停戦後も続き、各地で深刻な被害や不法行為が多発したこと。第二にシベリア抑留という強制連行が行われたこと。第三に他の連合国と異なりソ連は領土を奪取したこと。これらは「スターリンの呪縛」として現代日露関係の不信感の起点となっていると筆者は主張する。
日ソ中立条約締結時から双方互いを信用していなかったが、太平洋方面の戦況悪化に伴い無条件降伏を許容できない日本の軍民両首脳部はソ連の仲介に期待するようになり、ソ連に対して希望的楽観を抱きつつあった。一方で米英から参戦を請われるソ連は表向きには態度を決めかねないそぶりを見せつつ、独ソ戦終結前から着実に準備を進めていた。ソ連の日本に対する曖昧な態度は時間稼ぎに過ぎなかった。そして戦争の早期終結のため、アメリカは核兵器の早期実戦投入と並行してソ連の参戦を強く求め続けた。
ドイツ降伏から3か月後の8月9日からソ連は満州、樺太、千島列島に攻撃を仕掛けた。満州を守る関東軍は持久戦で対抗しようとしたが、東西全方面で豊富な人員と装備を用意の上縦深攻撃を仕掛けたソ連によって満州国はあっという間に崩壊した。樺太、千島方面でも多数の軍勢を揃えて侵攻したが、特に千島はソ連側の準備不足と日本軍の効果的な防衛の結果、占守島より先への武力侵攻を阻止したまま停戦に至った。樺太、千島方面は停戦と自衛の狭間で混乱した点も戦局、終戦の推移に大きな影響を与えた。
戦後の日本統治の方針を巡って米ソ間での綱引きがあった。北海道の北半分の統治を望むソ連に対してアメリカは日本の一体統治を譲らなかったが、米ソ間の取り交わしにおける千島列島の定義が曖昧だったことをきっかけに、戦後処理の構造的問題も重なったことで現在「北方領土」と呼ばれる島々のソ連(後にロシア)の占拠を許してしまった。戦後日本の復讐を恐れたスターリンは日本の民主化推進、日ソ友好同盟条約の締結による日本包囲網の構築、安全保障上の緩衝地帯としての樺太・千島列島の併合、そしてシベリア抑留を推し進めた。これらは日本のみならず周辺国に少なからぬ影響を与えた。
日ソ戦争におけるソ連の勝因は、物的・人的資源を十全に用意した上で関東軍の持久策に乗らずに奇襲的速攻を仕掛けられたこと、そして独ソ戦での失敗から学んで成熟したスターリンのリーダーシップ(本極東戦争では大枠を示し必要な資源と外交策を用意したのみで、実際の戦闘は現場に任せた)にあった。一方で日本の敗因は、対米戦で軍事力と経済が破綻していたことに尽きる。前線将兵の敢闘は特筆すべき点だが、それでも国家戦略の失敗は作戦、戦闘では覆せず短期間での敗北に繋がった。
【感想】
先の戦争末期のソ連参戦という、知っているようで詳細はあまり知られていない戦争に焦点を当ててその経緯や背景、影響を詳細に解説している。大きな流れや経緯では一般的な認識にズレはないものの、ソ連の意図や戦前からの準備、アメリカの関与等については新たな知見も多くあった。歴史的経緯を知る入門書としても、対日参戦のより深い背景を知る専門書としても、価値のある一冊だと感じた。
また被害の大きさに比して知名度が低い、という点を著者は問題視している。そもそも「ソ連の対日参戦」に確たる名称がない状況に対して、「日ソ戦争」という語を用いたことに筆者の想いが強く表れている。このような被害の歴史は歴史認識問題にもつながり扱いが難しいのも事実だが、とはいえ風化させて良いものでもなく、我々一般市民はまず正しく知り認識することが重要と考える。 -
Posted by ブクログ
協定破りや抑留・略奪への感情もあれどひとまず脇に置き、読後の「感想」を書く。
① ソ連による北海道占領構想の事実
東西ドイツや南北朝鮮のように戦後分断された国の例は知っていたのに、日本でも同じ構想があったとは考えたことがなかった。
たぶん「ロシア=遠い国」というイメージを無意識に持っていたせいだと思う。
よく考えれば、樺太や北方領土は北海道のすぐそばにあるのに。
もし北海道がソ連とアメリカで分割統治されていたら、たとえ後に返還が実現したとしても、日本という国の「かたち」のイメージは今とはまったく違っていたはずだ。
② 北方領土の地政学的重要性
国境近くの小さな島々が、世界的な緊張の“ど真ん中”に位置していることに、これまで軽い違和感を持っていた。
しかし、ソ連がアメリカや日本を仮想敵国としたとき、またアメリカが対ソ抑止を考えたとき――北方領土が極めて重要な意味を持っていたことを知った。
国際関係では、面積よりも「位置」が重要度を決めることがある。
そしてその結果、当事国だけでなく第三国・周辺国までもが思惑の渦に巻き込まれていく。
その構図がとても印象的で、いまの台湾情勢にも通じると思った。
第二次世界大戦に関する読み物は、加害をふまえた自省や被害への共感を基調にしているものが多い。
それ自体は大切な態度だが、ときに情緒が先行して、フラットな理解や学びを妨げることもあると思っている。
その意味で本書は、感情と距離を保ちながら事実を見つめる視点の置き方がほどよく、良書だと感じた -
Posted by ブクログ
本を読みながら、怒りと悲しみで泣きそうになったのは初めての体験だった。
そもそも「日ソ戦争」とは何なのか、学校で習った記憶があるだろうか。おそらく無いと思う。なぜならこの戦争は日本国において公的な名称がまだ存在しないからだ。「日ソ戦争」とは、研究者が便宜上呼んでいる名称だ。
日本にとっての第二次世界大戦は8/15をもって完全に終わった訳ではなく、その後もソ連との間で戦闘が行われ、兵士はもちろん多くの民間人が犠牲になり、危うく北海道の北半分までも失いかけたという事実はもっと知られるべきだと思う。本書を読んでから今のロシア・ウクライナ戦争を見ると、ロシア(旧ソ連)が戦後80年の歳月を経てもなお、全く成熟してないんだなぁという印象を持たざるを得ない。
本書のあとがきに書かれてある「日ソ戦争で流された血や涙はまだ乾いていない」という一文に、筆者の並々ならぬ決意と覚悟を感じた。 -
Posted by ブクログ
戦争は突き詰めて言えば、強者による弱者に対する強奪行為。この強奪行為を国家が行うため、非常に大規模かつ計画的となる。
日ソ戦のソ連は、国家の強奪行為を計画的に行う反面、兵卒の個人的な掠奪行為には軍規がゆるいため、多くの民間人が必要以上に殺されたり被害に遭わされた。
比較的最近の戦争であるため記録が残っているが、戦国時代の日本の国内の戦でも同じような悲劇が数多くあったのだろう。
世の古今東西を問わず、戦争では民間人など弱い者は強者に虐げられ、奪われる。
国家はいかにして政治力、外交力、経済力で生き抜くかを考えて欲しい。安易に戦争に走るような下策は取ってもらいたくないものだ。 -
Posted by ブクログ
日ソ戦争という言葉はあまり使うことがないが、ロシアではソ日戦争というらしい。日本の太平洋戦争というときにあまり意識することのない戦争だが、北方領土問題、満州と南樺太の残留移民問題、民間人の大きな人身被害などかなり大きな傷痕を残した戦いであったことを思い知らされた。米国ルーズベルト大統領は自国民の戦争被害を拡大したくないためにソ連の参戦を促し、スターリンがそれを弄ぶかのようにタイミングを見ての満州、朝鮮、樺太、千島での広範囲の進撃、日本がそれに振り回されていたのだ。それは8月15日の終戦記念日と私たちが呼んでいる日以降も続き、どのようにして終結するのか、読みながら不安になるほど。ソ連の北海道北半分の領有まで至らなかったことは僥倖だったように感じる。日ソ双方に多数の戦死者を生み、絶望的な形勢の戦いの中で、日本が極めて善戦していたらしきことには感心した。この北の戦争に関しては慰霊の日が無いことは大きな欠陥のように感じた。
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Posted by ブクログ
日本でもあまり知られていないシベリア出兵について解説を入れて、時系列に何があったかが記載されている。日本の中ににも出兵の機運や、領土的野心があったことは確かで、しかしさまざまな意見があるなかで強行的なものが採用されたということなのだろう。現代の日本からは信じられないが、沿海州に親日国家を作るという構想もあり、しかし、これが戦略的には通常なのだとも気づく。翻って、この動きが米国の警戒感を引き起こしたことも述べられている。今考えれば、この時、こうしていればと思いを巡らせてしまうが、その時々にはベストと思われる判断(もしくはそれに近い判断)だったのだろうと思う。知らなかったことを知ることができるという意味だけでも、本書は有意義と思う。