冨永星のレビュー一覧
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ネタバレ量子論を論じた物理学者たちの思索を経由しつつ、量子力学という切り口から世界のすべてが相互作用によって成り立っている事を、形而上学としてではなく、あくまで科学哲学的な解釈として捉えようとしている本書。(垣根を越えようとしている?)
ただし、ここでいう"相互作用"というのは『華厳経』に由来する「一即一切・一切即一」に近い感覚です。「一つのものの中に全体が宿り、全体の中に一つが宿る」という華厳思想。すなわち世界を独立した実体の寄せ集めとしてではなく、すでに互いの中に互いが折り込まれているものとして見る事を指しています。
す〇ぢさんはこれを『サク〇ノ刻』だと仰いました。
(ヴィジュアルノベル)
本書を元に解釈すれば、「芸術」は個人の表現であると同時に、他者、過去、喪失、継承、さらには世界全体が、一つの形を通して映し現れるものである、と捉える事が出来ます。それは単なる自己表現ではなく、その人の生き様を通して世界そのものと接続するもの、という解釈です。
直哉や圭、他の登場人物達もまた、孤立した主体では無く、互いを映し合い、傷つけ合い、救い合いながら、世界という”網”の中で燃えています。芸術は、作者と世界と受け手が交差する、華厳的に言えば「珠玉」であり、一つの形の中に無数の関係が反射し、結晶したものとも言えます。
そして完成した「強き神」に奥行きはない。いや、全てを自足したものは強いのかもしれない。けれど、同時に閉じてもいる。だから本当に重要なのは、「弱き神」であること。まさに、”未完成の筆”であることです。
欠けていること、届き切らないこと。その未完成さこそが、他者を受け入れ、喪失を抱えつつも未来へ手を伸ばすための余白になる。完成したものはそこで終わる。しかし未完成なものは終わらない。閉じる事なく、別の生の中で反響し続ける。だからこそ、未完の筆は帝網に参加できる。
この所謂「帝網重々無尽」の感覚。「世界は独立した実体の集まりではなく、帝網のように相互に折り込まれた関係の網である」という世界像を、芸術と人物の生を通して描いた作品。それが『サク〇ノ刻』そのものであるという事。そう思えました。 -
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いやはや難しい本。量子力学から哲学的な話まで、時間について言及されており、普通に考えれば、一般の人では到底理解できないことを、ギリギリ読めるレベルに落とし込んでいる。私的には本当にギリギリの理解。エントロピーあたりで若干挫折しそうになった。AIに相談しながら、エントロピーとは?みたいに質問して理解しつつ、相対性理論で立ち止まったり、右往左往したけど、何とか読み切った。書評としては詳しく書けるような言葉を持ち合わせて無いし、理解もできていない。ただ、物理学、量子力学は面白い、次は何を読もうかなと思わせてくれた。式とかはちょっと敬遠したいけど、本に出てきた偉大な科学者の人生を辿ったりしたい。科学は哲学的な面もからもアプローチできることは作者の著作で物凄く感じた一面。
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面白かった。ほんとうに。「なぜ、過去を思い出すことはできても未来を思い出すことはできないのか。」
面白そうすぎる。けど全てを理解するのは難しかった。
私たちが感じる「過去から未来へ流れる時間」は、実は水が氷になったり、霧が集まって雲に見えたりするような、「マクロな視点でのみ現れる二次的な現象」であり、「時間が経過したから、ものが動いた」でなく、実際には「ものが動いた(変化した)という情報を見て、脳が時間を捏造している」という逆の視点であるということ。
「エントロピーが増大する」という変化は、私たちの宇宙において「秩序ある状態から、無秩序な状態へ向かう」という一方通行のルール。過去から未来を感じるのはこのエントロピーの変化があるからこそ。(なにかを育てるとかもそうなんかな)
もっと勉強したい。 -
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1章 所変われば時間も変わる
時間の流れは、山では早く 低地では遅い
低地では あらゆる事柄の進展がゆっくりになる
平地の方が地球の中心に近いから。
物体は 周囲の時間を減速させる。
巨大な質量の地球の周りでは 周りの速度は遅くなる。
ものが落ちるのは 時間の減速のせい
物体は時間がゆっくり経過する方に向けて動く
2章 時間には方向がない
過去と未来、原因と結果、記憶と期待、後悔と意図を分かつものは、基本法則のどこにも存在しない。
周囲に変化するものがまったくないのであれば、熱は、冷たいものから温かいものへ移れない。(クラウジウス:クラウジウスは 一方通行で不可逆な熱過程を測る量を考え出した。エントロピーと名付けた)
この法則が、過去と未来を区別できるただ1つの基本的物理法則。
他のどの法則でも、過去と未来は区別できない。
熱は分子の振動
じっとしている分子も他の分子の熱狂に巻き込まれ動き始める。ぶつかったり押されたり、熱くなる。
冷たいところから 熱い所へ熱が移ることはない
過去と未来が違うのは 私たちの視界が曖昧だから。
「特別」「秩序だっている」私たちがあらゆる細部に目配りすれば どの配置も特別である。
「特別」という概念は宇宙を近似的なぼんやりした見方で眺めたときにはじめて生まれるもの。
ボルツマンは 私たちが世界を曖昧な形で記述するからこそエントロピーが存在するということを示した。エントロピーが じつはたがいに異なっているのに私たちのぼやけた視界ではその違いが分からない配置数であることを証明した。
過去と未来は、ぼやけ(粗視化)と結びついている。
過去が「特別」な状況なのは 私たちの視野が曖昧だから
3章 現在の終わり
速度も時間の流れを遅らせる。
動いている人間はあまり歳を取らず 時の刻みが遅くなり 考える時間が少なくなり 持ち歩いている植物は発芽に時間がかかる。飛行機の時計は遅れる
「今」には何の意味もない
4光年先の星にいるお姉さんが 今何をしているのかを問うことは意味が無い
どの瞬間が今なのか
私たちの「現在」は宇宙全体には広がらない。
「現在」は 自分を囲む泡のようなもの
親子関係で確立されるタイプの順序を、「半順序」と数学者は呼ぶ
親子関係は ある順序(子孫の前、祖先の後)を確立するが、どんな2人をとっても順序が決まるわけではない
祖先からなる円錐型の過去があり 子孫で構成される未来がある。
宇宙の時間構造も円錐型。「時間的先行性」は円錐型の半順序。
宇宙の「現在」は存在しない
4章 時間と事物は切り離せない
「時間とはなんぞや」
アリストテレス⇒変化を計測した数。何も変化しなければ時間は存在しない。
時間は 事物の変化に対して己を位置づけるための方法、勘定と関連づけて自分の位置を定める手段 時間は 動きの痕跡
ニュートン⇒事物とは独立にそれ自身として流れる絶対時間が存在する
ライプニッツ⇒時間は出来事の順序でしかなく、自立的な実体としての時間は存在しない
「空間とは」
アリストテレス⇒空間は物体の順序でしかない。「場所」はそれを囲んでいるもののこと
何も無い空間は存在しない
ニュートン⇒ふたつの物体の間にも 空っぽな空間がある 様々な事物は「空間」の中に置かれていて その空間はたとえすべての事物が取り除かれて空っぽになっても存在し続ける。入れ物としての空間
アインシュタイン⇒時空は重力場、この場は物質がなくてもそれ自体として存在する。世界はキャンバスの上に描かれた絵ではなく キャンバスや層が重ねあわされたもの
場は絶対ではなく、一様でもなく 固定されてもいない。しなやかで伸びたり他のものとぶつかったり押したり引いたりする
5章:時間の最小単位
時間の本質について明らかになったこと⇒量子を考慮すると、一般相対性理論が残した一時的な足場が崩壊する
量子力学は、物理的な変数の粒状性、(ゆらぎや重ね合わせによる)不確定性、関係性(他との関係性に依存する事)の3つの基本的な発見をもたらした。
この世界は微細な粒で成り立っており、連続的ではない。量子(基本的な粒のこと)
電子がどこかに現れる瞬間と別のところに現れる瞬間の間には、電子の正確な位置は存在しない。確率の雲の中に散っているようなもので、位置の「重ね合わせ」状態にあると物理業界用語ではいう。
時空も同じで 揺らぐ。
ひとつの粒子が確率的に散って不確かになるように、過去と未来の違いもゆらぐ。
他の何かと相互作用する瞬間に限って 予測不能な形で不確かさが解消され定まる。
具体性は ある物理系との関係においてのみ生じる。
相互作用が起こると、持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。
第二部:時間のない世界
6章 この世界は 物ではなく出来事でできている
事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ
無数の出来事は 必ずしもきちんと順序づけられておらず、ごちゃごちゃと集まっているのだ
出来事は生じ変化していく。時間は変化を計測したもの
この世界における最良の語法は、不変性を表す語法「~である」ではなく、変化を表す語法「~になる」なのだ
この世界を出来事 過程の集まりと見ること
この世界は物ではなく、出来事の集まり
原子は、もっと小さな粒子で構成されている。
素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがわかっている
量子場は 相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがわかっている
物理世界が実体で構成されているとは思えない。
この世界は限りなく無秩序な量子事象のネットワーク
第8章 関係としての力学
世界を記述する時に 時間変数は使えない
共通の時間が無く 物事の進みやすい方向が特に存在しない世界の記述とは?
必要なのは、世界を実際に記述する変数、私たちが実際に感じ取り観察し最終的に測ることのできる量だ
(道の長さ体温 パンの重さ 空の色 星の数 竹のしなやかさ 喪失の痛み 時計の針の位置 など)
量や性質の観点から記述する。
互いに十分同期している変数が見つかったら、それらを上手く使って「いつ」について語ればいい。
( 例;次の満月の3日後 太陽が1番高いところにあるときに落ち合おう。時計の針が4:35を指した時に君に会いたい。)
「時間」という名前をつける必要はない。
科学をするにしても、これらの変数の間にどんな関係が存在しうるのかがわかればいい。
この世界の基礎的な理論は、このように構成されるべきなのだ。
量子重力の基本方程式は このようにして作られた。その式は時間変数を含むことなく、変動する量の間の有り得る関係を示すことで この世界を記述する。
この理論は、時間のなかで物事が展開する様子を記述するわけではない。
物事が互いに対してどう変化するか、この世界の事柄が互いの関係においてどのように生じるかを記述する。
「ループ量子重力理論の方程式」(筆者の研究分野)
場は、素粒子、光子、重力量子といった具合に粒のような形で現れる。
これら空間量子の相互のネットワークが この世界の空間を生み出しているというべきなのであろう。
相互作用こそがこの世界における出来事の発生であり、時間の最小限の基本形態なのだ。
時間は、方向があるわけでも一直線でもなく、アインシュタインが研究したなめらかで曲がった幾何学の中で生じるわけではない。
相互作用の力学は確率的だ。
ほかの何かが起きるとした時に、問題の何かが起こる確率は 原則としてこの理論の方程式で計算できる。
この世界で起きる全ての事柄の完璧な地図、完全なる幾何学を描くことは不可能だ。
この世界は互いに関連し合う視点の集まりのようなもので、「外側から見た世界」について語ることは無意味。なぜならこの世界には「外側」が存在しないから。
空間量子は空間的に「近い」という関係によって結び合わさり、ネット(網)になる。これをスピンネットワークと呼んでいる。「スピン」という言葉は 空間の量子を記述する数学から。
スピンネットワークの輪っかはループと呼ばれており、これが「ループ理論」という名の由来。
これらの網は離散的なジャンプによって互いに転換し合うが、この理論では「スピンの泡(フォーム)」という構造として記述する。
これらのジャンプが生じることで肌理(きめ)が現れ、その肌理が、より大きなスケールでものを見る私たちにはなめらかな時空構造のように見える。
この理論は、小さなスケールでは確率論的で離散的な揺らぐ「量子時空」を記述しており、そのレベルでは、狂騒的な量子の群れが現れたり消えたりしているにすぎない。
第三部 時間の源へ
※ 9.10章はまた読み直すこと
第9章 時とは無知なり
大理石のテーブルも、私たちが原子レベルに縮めば霧のように見えるはず。私たちはこの世界を大まかに切り分け、自分にとって意味のある概念の観点から捉えているが、それらの概念は、あるスケールで生じているのだ。
「高い」「低い」ということはどこから?
私たちを引っ張る地球に由来している。近くに大きな物体があるときに生じるものなのだ。
これらの例では、実際に存在するものが、より基礎的なレベルではそれらが存在しない世界から生じている。時間も同様に、時間の無い世界に「生じる」のである。
マクロな状態が定める時間
時間が決まるのは、単に像がぼやけているから。
ある相互作用によって粒子の「位置」が具体化すると、粒子の状態が変わる。
また、「速度」が具体化する場合も粒子の状態が変わる。
しかも、『「速度」が具体化してから「位置」が具体化した時の状態の変化』は『「位置」が具体化してから「速度」が具体化した時の状態の変化』と異なる。
「位置」と「速度」は交換出来ない。これを量子変数の「非可換性」という。
物理的な変数の確定は孤立した行為ではなく相互作用であって、相互作用の結果はその順序によって決まる。そして その順序が、時間的な順序の原始形態なのである。
コンヌは優美な数学として提示。「非可換性フォン・ノイマン環」という数学的な構造を定義。
物理的な変数の非可換性によって、暗黙のうちにある種の時間的な流れが定義されることを示した。
マクロな状態によって定められる時間と、量子の非可換性によって定められる時間は、同じ現象の別の側面なのだ。
量子の世界に固有の事物の不確定性は、ぼやけを生む。
そしてボルツマンのぼやけゆえに、この世界はたとえ測定可能なものを全て測定できたとしても、予測不能になる。
時間の核には「物理系がおびただしい数の粒子からなっている」という事実と、「量子的な不確定性」がある。時間の存在は ぼやけと深く結びついているのだ。
そしてこのようなぼやけが生じるのは、私たちがミクロな詳細を知らないから。「時間」は結局のところ、私たちがこの世界について無知であることの現れなのである。時とは無知なり。
私たちの現実の像がぼやけて不確定だからこそ、ある変数が決まる。
第10章 視点
過去と未来の違いはかつてこの世界のエントロピーが低かったという事実に起因しているらしい。
なぜ 過去はエントロピーが低かったのか。
エントロピーは 私たちが何を識別しないかによって変わってくる。それは私たちが区別できない配置の数によって決まるから。
まったく同じミクロな配置のエントロピーが、あるレベルのぼやけでは高くなり、別のレベルのぼやけでは低くなる。
速度のような相対的な量なのだ。
自分たちがどの変数と相互作用するか、つまり、私たちがこの世界のどの部分に属しているかによって変わってくる。
宇宙のエントロピーが最初は低く、そのため時間の矢が存在するのは、おそらく宇宙そのものの原因ではなく、私たちの方に原因があるのだろう。
私たちの宇宙との相互作用のあり方が特殊だったのだ。具体的なマクロの記述を決めるのは私たちである。
私たちは極めて特殊な部分集合を識別するようにできていて、そのせいで時間が方向づけられている。
なぜエントロピーが増えるのか。
シャッフルしたカードを用意し、最初の6枚を覚えておく。そしてシャッフルし それ以外のカードがその間に何枚入り込んだかを調べる。
最初はゼロ枚だったのが増えている。これがエントロピーの増大。
最初のカードの配置はランダムだった。前半部分のカードを記憶してその配置が特別だと宣言したのは私たちの方だ。
宇宙のエントロピーについても同じことが言えるのかもしれない。多分 宇宙は特別な配置にはなっていないのだ。
記述には視点がついてまわる。
この世界における私たちの経験が世界の内側からのものだということを忘れてはならない。
11章 特殊性から生じるもの
世界を動かしているのはエネルギー資源ではなく、低いエントロピーの資源。
地球のそばには低いエントロピーの豊かな源がある。その名は太陽。
生命はエントロピーを増大させるためのさまざまな過程のネットワーク。餌から低いエントロピーを得ている。 -
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「ループ量子重力理論」というとんでもなく難解な話題なのに、カルロ・ロヴェッリ氏の手にかかればこんなにも分かりやすくなるとは。
「時間は存在しない」と言われると「そんなわきゃない!」と否定したくなるが、昔(という概念もまやかしだが)の人々は天動説や地球平面説を信じ、アインシュタイン氏でさえ「神はサイコロを振らない」と量子的ふるまいに否定的態度を取った。ひょっとすると「(その頃にはそう呼ばないかもしれないが)昔の人って時間が存在すると思ってたらしいよ」となるかもしれない。
氏によると時空は重力場の「量子的重ね合わせ」であり、我々が「時間」と思っているものはエントロピーの低い状態を拙い脳が「(秩序だった)特殊(な過去)」と「ぼやけ(粗視化)」て認識しているからであると言う。つまり時間に前後関係はなく、電子とエントロピーの相対的関係性が存在するのみであるという。完全に理解できたわけではないが、なんとも知的好奇心を刺激される話ではないか。
また、詩文の引用を多用しており、アウグスティヌスの歌は「時間の認識」という一文も良い。 -
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生命化学系の大学生である私にとって、量子論との出会いは量子化学だった。本書を読んで量子論の始まりには行列力学と波動力学という二大巨頭があったことを知った。またシュレディンガーの波動方程式は量子の不連続性をなくしたいという思いが含まれていたようだ。式を追うだけでは把握しきれない科学者のドラマや気持ちを本書では描き切っている。
そして量子論を解釈するため、著者はナーガールジュナ(龍樹)に行きつく。龍樹によればいかなる視点も別の視点との関係性抜きでは存在しえないという。量子論の結果が古代の仏教哲学と呼応しているようにみえるところが面白い。
本もまた、他の本との繋がりが本質的であるといえるかもしれない。この本を読んでいるときも、かつて読んだ本や読んでいないが知っている本が頭の中を巡った。さらに本それ自体を完璧に読むことはできず、読み手の経験により読み方が異なるという立場から、本もまた絶対的なものでなく読み手との関係性により成り立っているといえる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレすごく読みやすくて面白かったー!といいつつ、量子論の本は何冊読んでも強固としてある「自我」や「主観」といったものを相対化しきれていないところもあり、科学者たちが持っている「ほんとうに、信じられない。こんなことを、信じろというのか?これじゃあまるで…現実が…存在しないみたいじゃないか」という恐怖感には直面していない。
序章の「深淵をのぞき込む」
…だが、これぞまさに科学なのだ。科学とは、世界を概念化する新たな方法を探ること。時には、過激なまでに新しいやり方で。それは、自分の考えに絶えず疑問を投げかける力であり、反抗的で批判的な世親による独創的な力ー自分自身の概念の基盤を変えることができ、この世界をまったくのゼロから設計し直せる力ーなのだ。たとえわたしたちが量子論のまありの奇妙さに戸惑ったとしても、この理論は現実を理解する新たな視点を開いてくれる。そこから見える現実は、空間に粒子があるという素朴な唯物論の描像より精妙だ。現実は、対象物ではなく関係からなっているのだ。…(p11)
序文で既にワクワクしてしまった。SF小説を開くようなワクワク。
第1部「奇妙に美しい内側を垣間見る」
第2部「極端な思いつきを集めた奇妙な動物画集」
・「重ね合わせ」ー有名な思考実験「シュレーディンガーの猫」(p62)。猫は、「起きている猫」と「寝ている猫」の「量子的重ね合わせ」の状態にあること…→「観察者」がいるということはどういうことなのか?人間がいるということではなく、世界の物理系全てが観察者たりえるのか
・観察者自身も観察される可能性があるということが重要である(p78)→人間も自然の一部であるという思考。多かれ少なかれ自然の中の生命には意識があるものもあり、その中でたまたまある「私」という存在のちっぽけさ、それは「無」であると考えること、まだ私には少しジャンプが必要だが、なんとなく分かるような気がする。
「みなさんにとっては現実、でもわたしにとっては現実でない事柄とは?」
…わたしたちが観察しているこの世界は、絶えず相互に作用しあっている。それは、濃密な相互作用の網なのだ。…わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。(p84-5)
・「事実は相対的である」…ある対象物にとって現実であるような事実が、常にほかの対象物にとっても現実であるとは限らない(p89)→これは「人によって真実は異なるよね」という話ではなく、事実自体が異なるというラディカルな結論なので、ぞわぞわしてしまった。そうしたら一体私が見ているものは、誰とも共有できず、私は孤独な存在なのだろうか?と
・こうして世界は粉々になり、さまざまな視点の戯れとなって、大局的な唯一の視点の存在は、許され無くなる。それはさまざまな視点の世界、さまざまな発現の世界であって、確たる属性を持った実態や、一意的な事実の世界ではない。属性は対象物のうちにあるのではなく、対象物の間にかかる橋なのだ。対象物は、ほかの対象物との関係においてのみその属性を有し、橋とは橋が出合う節(ノード)になっている。この世界はさまざまな視点のゲーム、互いが互いの反射としてしか存在しない鏡の戯れなのだ。この幻のような量子の世界が、わたしたちの世界なのである。(p96-7)
「現実を織りなす関係の網」
・二つの対象物の全体としての属性は、三つ目の対象物との関係においてのみ存在する。二つの対象物が相関しているという言いまわしは、三つ目の対象物に関する事柄を表しているのだ。相関は、相関する二つの対象物が、いずれも第三の対象物と相互作用するときに発現するのであって、第三の対象物はそれを確認することができる。…二つの対象物の相関はそれらの対象物の属性であって、およそ属性なるものの例に漏れず、さらなる第三の対象物との関係においてのみ存在する。
エンタングルメントは、二人で踊るダンスではなく、三人で踊るダンスなのである。(p105)
第3部「立ち現れる相手なくして、明瞭な記述はない」
・いかなる視点も別の視点と依存しあうときにのみ存在するのであって、究極の実在は金輪際存在しない、と。これはナーガールジュナの視点自体にいえることで、空でさえも本質を持たない。(p155)…わたしたちは、イメージのイメージでしかない。自分たちを含む現実は薄くもろいベールでしかなく、その向こうには…何もないのである(p158-9)
・何かを理解しようとするときに確かさを求めるのは、人間が犯す最大の過ちの一つだ、とわたしは思う。知の探究を育むのは確かさではなく、根源的な確かさの不在なのだ。…哲学的にも方法論的にも、知の冒険の碇をおろすことができるもっとも基本的な、あるいは最終的な定点は存在しない。
「自然にとっては、すでに解決済みの問いだ」
ロヴェッリお得意の直感に寄り添ってくれる有難い章笑。それでも心が存在しているということはどう説明できるのか?
・…けれどもこの言葉(意味)の守備範囲がここまで広がったのは、わたしたちの種の生物的文化的な歴史を経たからで、そもそもの始まりは、何か物理学に根ざしたものなのだ。その何かに、わたしたちのきわめて複雑な神経系や社会や言語野文化の明瞭な表現やつながりが付け加わってきたわけで、その何かは、妥当な相対情報なのだ。…意味や志向性は、至るところに存在する相関の特別な例でしかない。わたしたちの心的生活における意味の世界と物理世界はつながっている。ともに、関係なのだ。(p174-5)
・精神(心)の本質に関する見解は、一般に、三つしかないとされている。第一に、精神の現実と無生物の現実はまるで違うとする二元論。第二に、物質的な現実は精神のなかにしか存在しないとする観念論。そして最後に、精神的な現象はすべて物質の動きに還元できるとする素朴唯物論。…だがじつは、ほかにも選択肢はある。対象物の属性が別の対象物との相互作用によって生じるとすると、心的な現象と物理的な現象の隔たりはかなり小さくなる。物理的な変数も、心の哲学者たちのいう「クオリア」ー「赤が見える」といった基礎的な心的現象ーも、概ね複雑な自然現象と見なすことができるのだ。(p182)
・何かを感じる「わたし」が、心的過程の統合された総体でないとしたら、いったい何なのか。自分のことを考えるとき、わたしたちは確かに統一されていると感じる。だがその統一感は、自分の身体が統合されているということと、心的過程の意識と呼ばれている部分が一度に一つのことしか行わないというありようによって正当化されているにすぎない。この問題に登場する「わたし」は形而上学的過ちの残滓であって、過程と存在物とを取り違えるというよくある間違いの結果なのだ。…わたしたちは確かに、これが「わたし」だ、という独立した実体を直感している。だがそれをいえば、かつてわたしたちは嵐の後ろにはユピテルがいると直感していたわけで…。…精神の本質に興味を持つ人間にとって内観は最悪の研究手段であり、自分自身の思い込みを探しまわって、その思い込みに溺れることになる。(p184)
・わたしたちは関係を基盤とする視点に立つことで、主観/客観、物質/精神の二元論からも、実在/思考や脳/意識の二項対立を克服することはできないという主張からも、遠ざかる。自分たちの体内で展開する過程、さらにはその過程と外の世界との関係を解明することができたとしたら、その後に理解すべき何が残るのか。わたしたちの意識の現象学とは、まさに、ニューロンが運ぶ信号のなかに含まれる妥当な情報の鏡のゲームで、それらの過程に割り振られた名前以外の何ものでもないのだが…。(p187)
「でも、それはほんとうに可能なのか」ーシェイクスピアの『テンペスト』から始まる…
・…わたしたちがあたりを見渡すとき、じつは「観察」はしていない。では何をしているかというと、(誤解や偏見を含めて)自分たちが知っていることにもとづくこの世界の像を夢見ているのだ。そして無意識に、この世界とその像の間に不一致がないかどうかを精査し、必要ならその像を修正する。言い換えればわたしたちは、外界を再構成した像を見ているわけではなく、自分が予期し、把握した情報にもとづいて修正を施した像を見ているのだ。(p191-2)
・十九世紀フランスの哲学者イポリット・テーヌの言葉を借りれば、「知覚された外部とは、外部の事物と調和することが裏付けされた内側の夢なのだ。また「幻覚」を誤った知覚と呼ぶのではなく、知覚された外部を「確認された幻覚」と呼ぶべき」なのだ(p192)
原題及び英語タイトルが『ヘルゴラント島』というのがオシャレ…だけど日本語版はこれで良いと思います笑。
また、原注にない参考図書として挙げられているのは、朝永振一郎『量子力学I,II』、吉田伸夫『明快量子重力理論入門』、木田元『マッハとニーチェ』、中村元『龍樹』など…