初めて性同一性障害を知ったのは有名な学園ドラマだ。
「性同一性障害ってなに?」
その質問に母が「身体は女の子だけど、心は男の子なんだよ」と言ったのを覚えている。
テレビを点ければLGBTのタレント、芸人が当たり前に映る。
そんな彼らが語る、周囲と自らの認識のズレと、幼心にこび
...続きを読むり付く悔恨を、彼らの親族が語る「当時は驚きましたが今は受け入れてます」というその言葉を見て、聴いて。
このご時世に私がLGBTを《理解したつもりでいた》のだということをまざまざと思い知らされた。
今尚、理解の深まらない問題を
《頭の固いやつらがいたもんだ》と
好きになった人が同性だっただけじゃないか。
心と体が違っただけだろう。
他人を思い遣れて、他人を愛せるんだから良いじゃないか。
先進的な考えをしてるのだと思っていた。
まさしく《理解したつもり》だった。
同じように悩む人達の指標になればとエンターテイメントで活躍する彼らの言う《肩の力を抜いただけ》の生き方は、悩み、踠き苦しんだ果てに掴むものなのだ。
生きていく上で踠き苦しむのはつきもので、
ただ、息がしやすいようにはできるのではないだろうか
まざまざと思い知らされた今、未来に何ができるだろう。
この小説は1999年〜2000年代の話で、ネットも普及してない。今よりずっと理解もない時代の話なのだけれど、
きっとこの先ずっと《理解したつもり》にはなれても完全に《理解》はできない。思い知らされたからこそ、
゛性別を理由に行動を決める必要はない。゛ということを
もっと、私達の世代がジェンダーノンコンフィングに生きて良いのだと示して行かなければと思った。